5a621ce1.jpg 写真は、戦後アメリカの福音主義派プロテスタントに大きな影響を与えたテレビ伝道師、ビリー・グラハム。来日講演も何度か行った。現在、パーキンソン病の悪化に伴い、息子のフランクリン・グラハムが活動を継承している。原理主義的、保守主義的、大国主義的な姿勢が強く、傲慢な「キリスト」教世界観を持った人物。父親子でブッシュ政権とイラク戦争を熱烈に支持、父ビリーはイラク戦争を「聖なる戦い」と呼び、息子フランクリンはイスラム教を邪悪な宗教と呼んだことで知られる。

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 キリスト教世界では新旧両約聖書に淵源を持つ特殊な言い回しがあれこれとあるが、東方教会、西方教会で訳語、語法が違う上に意味、文脈も少しずれることがあったりといった特徴がある。この点、新興キリスト教の福音主義などに特に多く見られる非常に特殊な言い回し、表現、用語は一般社会にあまり知られていないが、例えば、以下のようなものがある。

 自我が砕かれた

 勝利する(あるいは勝利された)

 主の戦士

 信仰の戦い

 神の人 (*牧師のこと)
 
 他にも多数あり列挙しきれないが、これらの言葉はその言葉それ自体としておかしいものも含まれる場合が稀にあるだけでなく、彼らはこれらの言葉を特殊な意味で特殊な使い方をすることが多い。それゆえ、ある種のマインドコントロール(心理操作)、ブレインウォッシング(洗脳)に直結しやすい性質がある。私はこれらの言葉をルターに始まるルーテル教会やカルヴァンに始まる長老派教会、ローマに通じるカトリック教会、諸々の東方正教会などで聞いたことがほとんど、あるいは全くない。
 
 例えば、もし、教会の指導者である牧師が暴走、堕落、無法を始めた場合、その指導者に「神の人」として従うことを吹き込まれ、彼を諫めるということはあり得ないとされている教会ではどういうことになってしまおうか。信徒たちはあまねく「自我が砕かれ」ているべきであり、あれこれ牧師や教会の切り盛りについて口を挟んだり意見をするなど論外、とされていればトップに君臨する牧師としてはこれ以上やりやすいことはない。思い上がり人間を生みやすい土壌がある。

 京都の永田保(韓国名、金保)、浜松の榊山清志らはこうした独裁者の極限形態であったにせよ、実際、そういう「教会」が日本にも世界にも山のように存在している。東方教会やカトリックの司祭も事情はある程度同じものがありえようが、プロテスタント牧師は教会の仕組みの特徴から特に「お山の大将」タイプになってしまいやすい。牧師の暴走、怠惰、堕落を外側から抑制しにくい仕組みに絡まっていく特徴がある。ひとたび、独裁牧師が発生すると、これに外側から普通の民間人がブレーキをかけることは難しく、刑事事件になって強制捜査がはじまったり(金保の事件)、民事裁判で内実が明らかにされたり(榊山清志の事件)というように、法的なメスが入らないと力を削ぐことが困難である。

 教派や教団、民族、国籍が異なっても暴走の抑止力にならないどころか火に油を注ぐことさえある。実際、浜松の榊山を擁護してきた、あるいは今も擁護している名古屋の毛戸健二、遠州の吉井寛昌、大和の大川従道、コリアンのビャン・ジャーチェン、大御所の羽鳥明故本田光慈ら、普通の高校生でも理解できる適切な意思表示ができない「牧師」が今もぞろぞろしているのはいったい、どういうことなのだろうか。

 本当にみっともない人たち。彼らのやったことを実名で記載することは彼らを「裁く」ことではない。単に事実を指摘しているだけである。