クラスター爆弾がいきなり爆発し、子供が死ぬ。どう考えても「正しい」とはいえない惨事を知った時、人間の反応は三つに分かれる。
第一は、見て見ぬふりをする。「市民への暴力なしで軍事目的を達成できた」。03年5月1日、ブッシュ米大統領はイラク戦争の戦闘終結宣言で誇った。「きれいな戦争」を宣伝するあまり、市民の死傷はなかったことにしたいのだろうか。
古代ローマの政治家キケロの格言にも通じる。「戦時に法は沈黙する」。戦争で何が起ころうと、国家の命令と行為なら違法ではないし、戦争とは常にむごいものだ、というわけだ。
第二は、やむを得ないと正当化する。米軍が市民の犠牲を「コラテラル・ダメージ」(付随的被害)と言い換えるのはそのためだ。
03年4月25日、イラク戦争でのクラスター爆弾使用を聞かれたマイヤーズ米統合参謀本部議長(当時)は答えた。「軍事的必要がある場合だけ使う。付随的被害の可能性があるとわかっていて攻撃する場合もある」
ローマ時代から第二次大戦の原爆を経てどの戦争でも、勝利者は市民の無差別殺傷を「勝利のため」と正当化し続けた。
この二つは爆弾をまく者の論理だ。理不尽に殺された無名の者のそばに立てば第三の反応が現れる。「こんな兵器はなくせ」
20世紀は戦争の世紀だったが、同時に「戦争の違法化」が始まった時代でもある。国連は自衛権と安保理の承認以外の武力行使を禁じた。「住民の保護」が国際法に書き込まれた。戦闘の手段はもはや無制限ではない。
勝つためならどんな暴虐も許される、というゆがんだ論理を人は拒否するようになった。「やむを得ない犠牲」と国家に思い込まされていると知り、罪なき人の生命を守る人道の倫理が国境を超えて共有できたからだ。
大国に逆らってもしかたない。兵器の禁止なんてできっこない。すべての国が加わらないなら意味がない。あきらめと無関心の口実ならいくつでも数えられる。死者の視点に立つからこそ、私たちは冷笑主義を乗り越えた。「戦時にこそ法は叫ぶ、この子を殺すなと」
クラスター爆弾禁止条約は新しい戦争観の到達点であり、戦禍なき地球という大きな目標に向かう通過点だ。
毎日新聞 2008年6月14日 東京朝刊