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これは昭和12年12月17日の南京入城の際のニュース 映像です。

 

 

 

南京陥落(朝日世界ニュース号外&特報)

 

 

 

 

難民収容所の映像

山田 朗/明治大学文学部教授 / 南京事件70年─南京事件の真実は/08/04/29(シネフロントより転載)

 

 

12・8映画人九条の会第2回交流集会/講演 2007年12月8日(土)東京・文京区民セン2A

 

 

 

 

南京事件70年─南京事件の真実は (3)

 

山田 朗=明治大学文学部教授

 

 

 もうちょっと見てみましょう。同じ第13師団で、この同じ事件を日記に残していた人が他にもいます。現場の下士官──兵隊を指揮する立場で、一番現場に近い人です。第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊の伍長であった近藤栄四郎という人の日記です。

 

現場の下士官/第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊伍長・近藤栄四郎出征日記

 

出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』325〜326頁所収。

 

 12月16日「午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為、相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので、勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る」。「徴発」というのは、お金を払って持ってきたという感じではないですね。買ったのなら、購入して帰ると書きます。でも「徴発」でも本当はお金を払わなければいけないんです。しかし当時の日本軍の感覚では、勝手に持ってくるというイメージです。「丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酊した」と書いてあります。おそらく随分たくさんお酒を持ってきたんですね。

 

 「夕方、二万の捕虜が火災を警戒に行った中隊の兵の交代に行く」。ちょっと文章が混乱していますが、「遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する」とありますので、この人は実際に行って、生き残りの人を銃剣で刺したんですね。

 

 「月は十四日、山の端にかかり、皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨(いたま)しさこの上なし。戦場ならざれば見るを得ざるところなり。九時半頃帰る。一生忘るる事の出来ざる光景であった」というんですから、戦場慣れしている下士官の近藤さんも、あまりの痛ましさに、さすがに心を痛めています。同じ光景に遭遇しても、こういうふうに心を痛めている人もいたわけです。この人は実際に「生き残りを銃剣にて刺殺す」とありますので、そういうことが行われていたまさにその現場にいたということです。

 

 では、もう一歩近くにいた人はいないかということで、次の日記を見てみます。これも同じ事件ですが、兵士の日記が残っています。

 

現場の兵士/第13師団山砲兵第19聯隊第III大隊・大隊段列上等兵・黒須忠信の陣中日記

 

出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』350〜351頁所収。

 

 第13師団山砲兵第19聯隊の第III大隊・大隊段列──大隊段列というのは輸送部隊のことです──上等兵であった黒須さんという人の当時の日記です。

 

 12月16日晴。「午后一時、我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて、幕府山方面に向かう」。もう戦闘は終わっていますので、これは警備のためなんでしょう。「二、三日前、捕虜にせし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以て射殺す」。機関銃で殺したとありますから、かなり具体的ですね。このときに、さっきの将校の日記によると、向こう側にいる日本兵に当たって、日本側にも死者が出ています。

 

 「その后、銃剣にて思う存分に突刺す。自分もこの時ばかりと、憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう」とあります。この人は、先ほどの伍長と違って、あまり痛ましいとは思っていません。このときとばかり思い切り突刺した、と書いてます。

 

 「山となって居る死人の上をあがって突き刺す気持は、鬼をもひしがん勇気が出て、力いっぱいに突き刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声。年寄りも居れば、子供を居る」。これは解釈がちょっと難しいところです。「年寄りと子供」と言っていますが、兵隊にしては年寄りで、兵隊にしては子供なのか、それとも本当に年寄りと子供なのか、どっちにも取れますが、「一人残らず殺す。刀を借りて、首をも切って見た。こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であった。××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た。皆無事、元気であった。帰りし時は午后八時となり、腕は相当つかれて居た」と書いてありますから、相当殺したんでしょうね。

 

 この人は先ほどの伍長と違って、あまり良心の呵責がなかったようで、大いにやったという、なにか随分興奮して書いています。この人はまさに現場で、最後に止めを刺したという、そういうことを語っています。これが虐殺の現場中の現場にいて、現場で事を行った人の日記です。

 

 以上の日記は、同じ13師団で、同じ事件について記したものですが、記した人の立場が違います。将校と下士官と兵隊の3段階で、命令する人、現場を監督する人、そして実際に手を下す人です。

 

 どの段階でもこういう日記が残っているということは、まったく否定の余地がないということです。詳細に見るとちょっとずつ数が違っていたりすることはありますが、数千人を一つの単位として、機関銃で殺害しているということは分かります。ですから、どう解釈しても、虐殺がなかったとはおよそ言えない。こんなにみんなが揃って幻を見ていることはあり得ないことです。しかも実際に手を下した人が証言しているわけですから。

 

 ところが、同じ現場を見た人でも、実際にその虐殺が起ったその場に居合わせなかった人は、同じ日本兵でも違った印象を持った場合があるんです。

 

事件直後に到着した兵士/第16師団輜重兵第16聯隊輜重兵特務兵・小原孝太郎の日記

 

出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。

 

 例えば、事件直後に到着した兵士の日記として、第16師団第16聯隊の輜重兵であった小原孝太郎という人の日記があります。この人は、虐殺事件のあった直後に、後方から輸送部隊としてやってきて、12月24日に南京に到着しています。

 

 この人は、先ほどの13師団の虐殺現場に近いところを通っているんですが、こういうことを日記に残しています。

 

 「さて、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。なんと砂の真砂でないかとまがう程の人間が、無数に往生しているのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はここで最後の幕をとじたに違いない。決定的のシーンだ。数え切れない屍体が往生している。敵はここまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って、致命的な打撃をうけたわけなのだ。わが南京陥落は、かくて成ったわけである」。

 

 この人は、ここで最後の決戦が行われて、多くの戦死者がここで横たわっているんだと受け止めています。しかし、たぶん現実は違います。組織的に殺害された人が、まだ流されないで山積みになっていたんです。

 

 こういうふうに、同じ日本兵で、同じ現場を見たという人でも、ちょっと時間的にズレがあると、印象が違うんです。このあと南京に到着したような人は、同じ日本軍であっても、あるいは同じ虐殺の現場をチラッと見ても、必ずしもそれがこんなに組織的に殺害されたものであると受け止めていない人も結構いるんです。このあたりが、記録のなかなか難しいところです。

 

虐殺は非常に組織的に行われていた

 

 ここで示したのは、16師団と13師団の2つの記録だけですが、当時の南京攻略戦には7個師団の部隊が参加していて、それぞれ担当場所を変えて攻略していますので、この16師団と13師団だけが特殊であったとも思えません。というのは、捕虜がどれくらい出たかということを報告している部隊は、ほとんどないからです。それは、大抵の部隊がこの16師団や13師団のように捕虜を現地で処理したということです。

 

 ただ、全部殺したわけではなく、最後に挙げた小原さんによると、捕虜になった中国兵をすぐさま苦力(クーリー)──荷物持ちの労働者として使っている部隊があったというふうに日記に残しています。ですから、捕虜にした人たちをみんな殺したというわけではなくて、中には部隊長の判断で荷物持ちに使ったという部隊もあったということです。

 

 そういう点でいうと日本軍のすべてというわけではないのですが、しかし彼らの日記を見る限りは、虐殺というのが組織的に行われていたということが分かります。それから非常に気になるのは、捕虜だと言われている人の中に相当年齢が違う人が含まれているということです。本当に捕虜なのか。捕虜だと言っているけれど、かなり一般市民が混じっている可能性もあるわけです。

 

 日本では20万人前後の戦闘員、捕虜、一般市民を殺害したのではないかというふうに言われる場合が多いのですが、そのなかで一番数が多いのは、やはり捕虜の殺害です。1ヶ所に集めて機関銃で撃つというようなことが組織的に行われていたということです。

 

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