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社説:EU条約否決 帰属意識は国民国家か欧州か

 有権者の意思はどこの国でも投票箱を開けてみるまでわからない。だが、これほど国外で驚かれ、かつ深刻に受け止められた結果は珍しいだろう。

 アイルランドが国民投票で欧州連合(EU)の新基本条約「リスボン条約」の批准を否決した。条約の発効には加盟27カ国すべての批准が必要だ。人口430万人でEU総人口の1%に満たない小国が拒否権を発動したことになる。

 リスボン条約はEUの機構改革や新しい意思決定方法を定めた。発効しないと新規加盟や組織運営に大きな支障が出る。統合強化と拡大に向けて練り上げた設計図が白紙となりかねず、EUは危機に直面した。

 驚きが大きいのは、アイルランドがEUの一員として利益を得た国だと、ほかの加盟国にみられていたからだろう。各国は失望ばかりせず、統合の深化に疑念を抱く市民の声を自国にも共通する問題として分析し対処すべきだ。

 アイルランドは1973年、EUに加盟した時は最も貧しい国だった。EUから多額の補助金を受け取り、90年代から外資導入に力を入れた。民族の名をとり「ケルトの虎」と呼ばれ、経済成長のモデルと称賛される。1人あたり国民総所得は日本や米国を追い抜き4万5580ドル(06年)で世界6位の豊かさだ。19世紀、飢えたアイルランド人は米国に移住したが、21世紀のいま東欧から移民が職を求めて入ってくる。

 この成功体験があるからこそ、アイルランド人は誇りと自信を強め、今回、ナショナリズムの意思表示につながったのではないか。

 地元紙の世論調査では、条約反対の理由として最も多かったのは「アイルランドのアイデンティティーを守るため」だった。昨年の調査では「あなたはアイルランド人か、ヨーロッパ人か、両者の混合か」という質問に約6割が「アイルランド人」のみを選んだ。「欧州人」の意識は薄い。

 EUとは、各国が国家主権の一部を譲り渡してでも、共通の理念に基づく共同体を作り出そうとする試みだ。平和を確立し、グローバリズムの競争に勝ち残るため欧州が採用した戦略だ。私たちが「アジア共同体」を議論する時に欧州の経験は大きな刺激となる。

 だがEUは、言語や文化から政治制度まで各国の独自性をどこまで守り、一方で、欧州の統合と一体性をどこまで広げるか、というジレンマに悩んできた。挫折と再生の繰り返しでもあった。

 市民からみれば「私はだれか」の難問だ。自分が帰属するのは欧州なのか、個別の国民国家なのか、あるいはその両方なのか、が問われる。民主主義社会では、国の行方を決める壮大な実験を左右するのは指導者ではなく市民一人一人の意識だ。それを示した国民投票だったと考えたい。

毎日新聞 2008年6月15日 東京朝刊

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