報道の自由にとって悪影響が懸念された「期待権」の独り歩きは最高裁判決により防げたが、残された傷は深い。「編集の自律」を主張するのなら、NHKは政治からも自由でなければならない。
従軍慰安婦問題を扱ったNHK番組の改変をめぐる判決が最高裁で逆転した。取材対象だった市民団体の「番組内容に対する信頼と期待」を権利と認めた高裁判決は破棄された。
報道の自由や番組編集の自由に悪影響を及ぼしかねない高裁判決の定着はこれで避けられた。
「取材される側が番組内容について期待するのもやむを得ない特別事情があれば、期待は権利になる」という高裁判決は、何ものからも自由でなければならない報道を不当に拘束するものだった。
相手の期待通りにしなければならないとなれば、情報を自由に伝えることが難しくなる。
これに対し最高裁は、報道機関の編集の自律・編集権を最優先し期待権を否定した。報道により情報を入手する国民の「知る権利」に資する判断だ。
ただし、ジャーナリズムのあり方という点で課題が残った。
一つは取材相手に結果的に過大な期待を抱かせたことだ。原因が取材した側にあるのなら倫理的責任は生じる。番組の取材、制作過程を詳しく検証すべきだ。
さらに重大なのはNHK幹部の政治との関係である。完成していた番組の内容を現場の抵抗を押し切って強引に変えたのは、安倍晋三内閣官房副長官(当時)など政治家の発言に配慮したからであると高裁判決が認定し、最高裁も覆してはいない。
番組改変問題の本質はここだ。市民団体に対し訴訟で強く主張した「編集の自由」を、政治家の前では主張しなかったのである。
最高裁も編集権の重要性を言いながら、高裁判決が「編集権の乱用または逸脱」と戒めた政治家への弱腰には触れていない。「NHK同様、政治家に遠慮した」と勘ぐられてもしかたあるまい。
NHKは、予算案承認の権限を握る国会議員、特に与党議員に毅然(きぜん)たる姿勢をとってこなかった。加えて、古森重隆経営委員長は特定政治家のパーティーで挨拶(あいさつ)するなど、政治との間に緊張感を維持すべき報道機関の責任者としての自覚がまったくない。
「報道の自由」の裏表使い分けをやめなければNHKに対する国民の信頼は回復しないだろう。
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