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環境practiceidentitiy2007年2月1日 TrackBack私が私であることと、相手が相手であることは、 それがidentityを第一に優先する場合に 両立しえない でも関わり方は それだけではなくて ふたりでひとつ、 も選択肢として存在する そのとき 私は「私」ではないかもしれない 相手は「相手」ではないかもしれない 溶け合う磁場 そこにしかありえない出来事 一期一会 ふたりが関係するとき そこには配慮や気遣い、抑制があって成り立つ 人は人によって人であるのならば その最小限の単位であるふたりにおいて 人間関係の基礎的なattitudeがあるはず 調和? ハーモニー? そこにおけるpersonalityのありかた それは自我的唯我的なものではない [コメントする] 文化2007年2月1日 TrackBackすべての文化はメインとその周縁によって 位置づけられる。 こういうものの言い方が流通しないのは 自分の言葉がさすものが相手のそれと 一致せず、モデル=イメージが共有されないからだ [コメントする] 身体のヒミツ2007年2月2日 TrackBack痛みは脳が取捨選択したものであり数あるもののなかから意識にシグナルをおくるためのもの 痛みをかばうことで 刺激の入力を下げる 痛みを感じないということと 痛みの原因があるということは異なる 痛みとは 身体システムの不具合のうち その状況が悪い場合のシグナルであり 多くの痛みは黙殺される ただし脳によって処理はされているわけで 脳からの指令が筋肉によって再生されるときに 不具合となってあらわれる 運動神経が悪いというのは 無意識の調整によって 意図した行動が再現できないことをいう 脳の処理能力からすれば どのような運動も高度に解決できるはず それができないのは そういう防御システムをもつから 押して痛いところと痛くないところがある 押して痛いところは現在すでに痛みがあるが 情報がシャットダウンされているところである そこを刺激することによって 身体の調整作用にうったえかけるのが マッサージの極意だろう 体液の循環促進だけではない 脳や体癖による異常指令がこりだから それを気付かせる必要がある なぜこるのか それは身体に反する行動を 意識がするために それを実現すべく 脳による身体の調整がおこなわれ それが行き過ぎた結果である だからその調整シグナルを 取り除かねばならない [コメントする] |