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原初2006年8月9日 TrackBack原初は秘匿されるべきである。この世の真実は決して神秘などではなく ありふれた日常の延長が いつのまにか他の有象無象に埋もれて見えなくなったときに そこにはないか特別な感情、なにかが失われたという 危機的な喪失感が芽生える。 そのときはじめて私たち人間は 胸の鼓動をおぼえ、得たいの知れない感情に身を任せるのだ。 世界は極単純な事実から構成されている。 私たちがそれを解釈といったかたちで ゆがめてしまうのは 直截な事実ほど悲惨で、そしてリアリティのあるものはないからである。 意味のオブラートの包まれた現実でなければ 私たちはその剥き出しの運命に耐えることができない。 そうであるがために人は現実を直視せず 軽やかで甘い痛みがある幻想の世界に自身を封じ込めるのだ。 だから原初は隠されて見えなくなる。 限りなく分割された微小な時間の始原にたどり着くことはない。 本当は世界は断絶から始まる。 ある瞬間はそれまでの時間の流れから完全に切り離される。 そこにはじめて誕生が誕生し、始まりが始まる。 その断絶に理由はなく、そして単純なのだ。 その存在の薄さ、意味の希薄さに耐えられないのは 人間が何らかの意味を事物に与えなければ気がすまない 性質をもつから、という理由があるにすぎない。 しかし私たちがうまれたことに確定的な理由などなく 断絶がすべての根拠なのである。 ただしその後に繰り返される日常、 いわば生そのものは繰り返されるというその点において いつのまにか新たな始まりが生み出されることになる。 そしていつのまにか規定のものとなった繰り返しは こちらもいつのまにか最初は失われる運命にあり、 気付くと日常に同化しているのだ。 根拠よりも反復なのである。 事実は反復がおりなす空虚によって存立している。 [コメントする] 苦味2006年8月9日 TrackBack料理とは苦味をどのように体験するか、という機制である。根拠は明快だ。 人間の肉体にとって有益なものよりも 害悪となるものの方が多く、 害悪は大体において苦味として知覚される。 しかしながらあらためて広がる可能性は その苦味のうちにしかないのである。 だからこそ人間は 苦味のうちに美味を見出すのだ。 [コメントする] 甘味2006年8月10日 TrackBack苦味の対立項として捉えられる甘味、それが対極にあると考えらるのが 直接的に生命の維持に関わるからだろう。 甘さの中にある苦味というのが 私たちを魅了して止まないのは その相対する矛盾が口の中で炸裂するからである。 [コメントする] あの時2006年8月10日 TrackBack彼女はまだ大学に入ったばかりで僕もまだ大学に入って一年しかたっていない時だった。 高田馬場でひさしぶりに待ち合わせたふたりは 特にすることもなく、居酒屋へと向かった。 未成年であったものの当然のように酒を飲むようになっていた僕にとってそれはとても自然なことでためらいも違和感もなかったし、 そしてまだふたりの間にあったものを はっきりと認識することを避けていたために 普通の関係を演出するためにそうしたのだった。 ところが居酒屋で(たしか白木屋だった)彼女は 年齢を理由に入店を断られてしまう。 その後すぐに別の居酒屋にいき なんのことはなくふたりでビールを頼んで乾杯したのだが 乾杯のそのときになって彼女がみせた笑顔が いまでもはっきりと残っている。 あのとき彼女が笑ったのは 単にその場の状況が喜ばしいものであったというだけではなく 彼女がこれから踏み出そうとする未知の世界が すこしだけ彼女の側に近づいたことにその理由があったのだ。 まだ幼かった僕はそれを単純な微笑みだと 単純に理解していた。 それからしばらくして 僕は彼女が作ったストーリーの主人公から 降板させられてしまう。 [コメントする] そうめん2006年8月10日 TrackBack腹が減ったがなにもない。いやそうめんがあった、 でもめんつゆがない。 必要は発明の母。 こういうときの料理はうまく行っちゃうことが多い。 冷蔵庫に残ってたみずなとみょうがを使おう。 8階のおおばもとってきた。 すこし硬めに茹でたそうめんにを冷水にさらしてから みずなとみょうがとおおばをちらす。 そこにしょうゆ、ごまあぶら、こしょう、さんしょう、 カフェライムリーフを加える。 まあ不味いわけがない。 どうやって作るのかしらないけど そうめんには食塩がついていて 湯がく程度ならそれが適度に残ってかなりおいしい。 日本には茹で水に塩をいれる習慣がないっぽいけど ひょっとしてこのつなぎのせいなんじゃないかと思う。 また茹で上がりが2分とすごく早いのも そうめんの偉大なところだ。 細いのは冷たくして食べることを前提にしているからか。 (熱容量が下がる) また粉がついているのも 茹で汁に余計な小麦粉が流出しないための配慮ですばらしい。 [コメントする] 理論2006年8月10日 TrackBack今回のそうめんを理論的に補足する。まず第一は 「炭水化物と油」理論。 通常そうめんには油は使用されないが 今回はこの理論にならってごま油を採用。 オリーブオイルやサラダ油ではないのは 単純になかったからでもあるが、 味の基調が和なのでそれを踏襲した。 第二に 「薬味」理論。 メインを邪魔しない程度の量の薬味を入れること。 その概念をみずなまで拡張したこと。 通常薬味は香りと味について考えられているが 今回の場合はそれに加えて食感を加えることを考えたといっていい。 第三に 「粒子」理論。 これは薬味理論にも共通するところがあるが 素材をどのような配分でいれるかに加えて どのようなスケールで入れるか、という問題。 みずなはその存在感が歯応えにあるので ある程度の大きさは維持させる。 このときみょうがの長さとそろえたのは 情報を整理させ序列をはっきりさせるためか。 みょうがは歯応えもさることながら 香りに重きがおかれているので 偏在させるべくなるべく細かい千切りにする。 第四に 「破調」理論。 脳は常に新鮮さを求めている。 しかしそれは全く異なる新しいものではなく 既存を残しつつも新たな展開を見せるといった意味において。 今回はそれを 「つゆの代わりにしょうゆ」 「だしの代わりにごま油」 「スパイスに胡椒とカフェライムリーフ」 というかたちで実行している。 一番目はマイナーチェンジといっていい。 しょうゆを基調に据えることで全体感は損なわれない。 第二にはすこし創意が入るが だしの効用を塩味とうまみの相互作用にあると考えると 同じような役割を油がするだろうという考えのもとの代用。 第三がもっとも「破壊」的な工夫。 和食では使われない「スパイス」で全体の調子を変える。 ただし全体にさんしょうを加えることで それが全面にでないようにはコントロールしている。 [コメントする] 分析代々木公園2006年8月11日 TrackBack秋口のことだった。何度目かの別れ話で それでも気が動転していた。 なるべくかっこいいところを見せようとしていたけれど 今になって振り返ればそれが ほんとにむなしい努力に過ぎないことがわかる。 彼女の気持ちはそんなことでどうにかなるものではなかった。 いや当時だってそれぐらいはわかっていた。 もうそれは手の届くところにないことは 身にしみてわかっていた。 彼女の仕草や視線やそのほかすべてから もうその「熱」がどこかへいってしまったのが伺えた。 それでもなお固執しようとしていた。 正直なところそういう事態が起こるなんてことを 考えたことがなかったのだ。 それは自信とか過信とかそういったところよりももっと単純で、 それだけに根深いところから端を発したもので その分はっきりと終わりが顕在化した途端に 足をすくわれたような、裏切りにあったような 沈んでいくような気がしたのだった。 あそこで僕が訴えようとしたのは浅はかな暴力だった。 手放したくない、という気持ちがそのまま体に出ていた。 いやそれでこそだったと今は思う。 いまはもうそんな風に制御できないほど気持ちがあふれてくること自体が想像がつかない。 僕は僕自身がそうやって行動しないように 欲望や情熱を押さえつけてしまっている。 そうすればなにか手に入れられなくても大したことはない。 得られるものがすくない代わりに失うものも少ない。 [コメントする] きっかけ2006年8月11日 TrackBack講義が終わって教室を移動するさなかのことだったと思う。 たまたま持っていたヘッドフォンを クラスメイトの女の子の耳にあてがっているのを 階段の上から彼女が発見した。 見つかってしまったという感想よりも先に 彼女がそういったときに見せるであろう表情を そのまま彼女が自分の表面に再生していたみて なんだか急速に心が冷えていったのを覚えている。 あの時彼女は驚いたのではない。 しばらく伺っていたチャンスが目の前に出現したのを 逃すまいとしたわずかな一瞬の後に その「表情」をつくって見せたのだ。 その知覚されないはずの一瞬の表情をなぜか僕は見ている。 記憶がある。 僕は彼女がそこにいることを知らなかった。 そして気付くはずもない距離と角度。 にも関わらず僕の目は彼女が 後ずさりをしながらその表情をするのをみていた。 僕も彼女を発見していたのだ。 これから戦いが始まる。 宣戦の火蓋は切って落とされた。 僕がすることはあらん限りに知恵を絞って 現状を維持することだった。 それはもはやお互いの感情の問題というより 僕自身の所有欲の問題だったと思う。 彼女と一緒にいたことに理由なんてない。 彼女が僕に引かれ、そして僕も彼女に引かれた。 そうやって始まったふたりの関係は 確固たる理由よりも浅い因縁で結ばれていたがために 環境の変化に耐えるものではなかったのだ。 僕自身が求めるものも変化してしまったという理由もある。 大学に入って新しい仲間の関係に 彼女の席はなかったし、 かといって浪人時代の関係はもう維持できるものではなくなっていた。 僕は変わり続けていた。脱皮の最中だった。 日に日に変化していく自分と 自分を温存している彼女との間には すぐに溝ができていった。 状況に流されやすいのは男も女も同じだが 僕はそれに意識的だった分 ある程度客観的に周囲を見渡していた。 客観的。 しかしそれがなんだというのだろうか。 それは自分を主たるものとして生きる選択をするのではなく 単に傍観する立場を選んでるだけなのではないか。 僕が僕自身に課さねばならないのは 僕自身が僕自身の主人となることである。 僕は僕が考えるとおりの人間でありたい。 その人間は傍観するのではなく 主体的に生を行きながらなお客観を失わない人間だ。 今の僕は単に主体を持たないだけの 機械のような人間だ。 [コメントする] 機械2006年8月11日 TrackBack僕が機械のような生き方をはじめたのは16歳の夏休みが終わりに近づいたころだったと思う。 ただでさえなれない環境の変化になじめなった僕に 部活での重圧が重なった。 それまでろくに運動などしていなかったのだから 今思えば当たり前だが部活の運動量に体がついていかなかった。 精神の重圧に加えて肉体的な不調という波が符号した。 食べれなくなった。 自分でそれが過剰な思考のせいだと判断できたので いくつかの精神療法を調べたあと 適当な療法を実践することにし、 それから二週間ばかりで僕は回復する。 そのときの経験は 僕に僕の体は僕自身がコントロールすべき管理すべき 機械のようなものだという理解を芽生えさえた。 感情はその機械が時折たてる歯車のこすれあう音や 油の臭いのようなものだと考えた。 これ以降僕は僕が僕自身の身体の主であるという考えを持つようになる。 それはデカルトの思索する自分を始原においたのに等しい。 体は家畜だった。 僕という意識が主体的に望む状態を実現するべき 労務を果たすのが肉体の役割になった。 このやり方は効果的だった。 それは世間的に言えば意志の力の強さだと解釈されるものだが 僕に言わせればそれは間違いで 肉体を従わせる強権的な力こそが意志と呼ばれるものの正体だった。 今ならそれが間違っていたことが、 健全ではなかったことがはっきりと言える。 僕という存在は肉体と意識と一体のものであり不可分である。 [コメントする] |