to*the*rhysm

being happy! (じぶんしだい)(R 男性) [プロフィール]



。。

2006年7月23日 TrackBack

同じ境遇に置かれても
そこからなにかを見出して向上していく人間と
足元をすくわれて沈んでいく人間がいる。 [コメントする]

2006年7月24日 TrackBack

道ですよ、建築は。
あとは素材。

ヘルツォークと安藤忠雄で俺の勝ち。笑

環境はまあそりゃある程度はね。
でもメインコンセプトにはならないね、 [コメントする]

システムと逸脱

2006年7月25日 TrackBack

人間のモチベーションが継続しないのは
システムそのものに逸脱性が内在されているからである。

ある環境に完全な適応を遂げ
その時点で完全に閉じることは
次なる環境に対しての抵抗力を持たないこと同義だ。

そこからの逸脱が保証されているからこそ
つぎなる変化にも対応できるのだ。

モチベーションについても同様で
これは変化し続ける環境とそれに対応するシステムという観点から言えば
当たり前のこと。

ただ意識が制御しなくてはいけないのは
環境がいまだほとんど変化していない段階での
システムの変化、モチベーションの低下である。
これは柔軟性を獲得するための代償なのだから
適宜是正しなくてはいけない。
初心に帰るのだ。 [コメントする]

言い訳

2006年7月26日 TrackBack

言い訳だけどさー
いま塩野七生を濫読してるのは
将来を予測するためですからね。

すべては現実的な関心からなされるのです。笑 [コメントする]

アメリカの孤独

2006年7月27日 TrackBack

ローマの物語を読んでいると
覇権国やその最高権力者のあり方について
いろいろと学ぶべきところが多い。

ローマといえば皇帝としか考えていなかったが
どうやら実態は自分の考えていた中国やペルシアの皇帝とは違い、
主権者から委託された統治権を行使する最高権力者であったようで、
その点で言えば大統領ともとれなくはなく、
違いといえば権力の委譲に血統を重視したことと、
任期が終身制であったことが主だる違いのようだと受け取った。

それよりもなによりも学んだのは
各国の統治方式には普遍的な方法論が存在するのではなく
その国の伝統や文化、おかれた経済的状況などが複合して
統治するに適切な体制こそが生き残るのが現実らしい。

たしかに日本も民主国家でありながら
天皇という王政国家であるし、それはイギリスも変わらない。
政教分離は日本では至極当然のこととして考えられるが
アメリカはその独立宣言のなかに神が登場する。
もちろんこれはピューリタンたちの奉じる神であって
ビシュヌやシヴァではないし、仏でもない。

長らく国家の必要性の存在を理解できなかったが
いまおぼろげながらいえるのは
国家というのは安全保障のために存在するということ。
安全保障が要求されるのは
それが経済的安定の前提であるからだと思う。
すくなくとも抗争状態は文字通り生産的な方向に
人的資源を投入することが難しいのは確かで
それが私的な営利を追究する企業体と
ことなる位相に位置するのは当然だろう。
また社会的インフラの整備も同じようなことが言える。

ローマが自らの戦線を確定したのは
自国の安全保障のためにすぎない。
イタリア半島を取り巻くようにして
属州や同盟国が配置されている。
そしてそれ以上の拡大は目指されていない。
そして戦線の内側の異民族から
税金や軍務の提供をうける代わりに
彼らに対する安全保障を提供し
さらにはインフラの整備を行うことで
経済的発展の基礎をつくり、
その方面での共存共栄路線を引く。
極めつけは人材登用でこれによって
人的資源を有効に活用するだけでなく
主体的な一体感が生じ、国家運営を潤滑にする。

ただ人間の性質上防衛戦線の軍務は華々しさや戦果に欠けるため
軍団兵の士気の維持が難しいだけでなく
広範に拡大した戦線の全面的な監視・迎撃体制を敷かねばらならない、
という意味で多大な負担だったようである。

この攻撃型から防御型に転じるに当たっての
政策負担の増加と判断の迅速化要求が
利害関係の対立解消がもっぱらであった元老院では
補いきれずに誕生したのが皇帝制であるらしい。
それまでは緊急事態である戦争のときだけ
挙党体制を組めばそれでよく、
当面の平和状態では国内問題の解決に当たればよかったのである。

おおまかに言えば防衛戦線の確立は
常時の有事体制の確立ということであり
それを担当する独裁官が恒久制度化されたといってもいい。
同時にローマ市民間の貴族階級と平民階級の政治的調整機関だった元老院が
騎士階級の参加に加えて、
ローマ市民の100倍を超える数の属州民の利害関係者まで
加わってはもはやある合意に達することは話し合いでは
不可能である、という事務処理力上の限界でもあった。
これらの疲労から皇帝制はローマで支持されるようになったのも
理解できることになる。

さて冒頭のタイトルのアメリカの孤独とは
ローマのように世界を二分できなくなった時代の
覇権国家の苦悩であるように思う。

なぜかアメリカは世界の警察であることを自認してやまない。
なぜアメリカは国際連合を支持しないのだろう。
そのほうが安全保障の負担は減るはずなのに。
もしかしたら国連は皇帝制擁立直前の元老院のように
意思決定機関としてはじめからずれているのかもしれない。
事実上のナンバー1であるアメリカなのに
国連では中国をふくめた5カ国にVETO(拒否権)が与えられている。
利害の相対立する旧共産圏であり発展途上である国にすら
VETOがあるのでは広範化した社会保障体制は無理なのかも知れない。
つまり利害関係の調整機関は部分的整合性をもたらすが
全体的一貫性を保証できない、と。
アメリカが単独主義的に行動するのは
国際連合における活動がアメリカと他の国との
権力関係に適合しないからといった見かたが適切なのだろう。

そういった意味でアメリカは孤独なのだ。
これがローマであるならば
物理的に隣接する領域の国家を服従ないし同盟に組み入れれば
安全保障が成立し、経済的にも安定した。
ところがいまの社会はすでにすべての国が相互作用の中にいる。
現体制の維持には地球規模での目配りが必要で
それはローマにたとえると戦線が自国の外側すべてに広がっているようなもの。
その意味でもアメリカは孤独なのだ。 [コメントする]

やべえ

2006年8月1日 TrackBack

まじやる気しない。
もうほんとどうにでもなってくれさい。
シュウカツ?
は?
だからなに?
so what you want?

もうべつになにももとめてないっすよ。 [コメントする]

なにが

2006年8月5日 TrackBack

大事かってえと

小手先のテクニックじゃなくて
どれだけ真剣に生きてるかってことだよ

自信をもてるのはそれだけしっかり考えてるから
それだけ シンプルなこと

どれだけ強い思いをもって
毎日の出来事に向かい合っていけるか [コメントする]

さぶろう

2006年8月6日 TrackBack

小池:以前、弊誌で取材させていただいたときに、どうしても歌手にとっては我慢しなければいけないときがあって、その人が本来すべきではない歌を歌っていると、結局はどこかで行き詰まってしまうと言われていました。そういうなかで自分がやるべきことを、道を見失わないでやっていくという。芸道のなかにはそのような意味があると解釈してよろしいでしょうか。

北島:あるところまでいきますと、どうしてもいろんなものに挑戦したくなる。だから、よくとれば挑戦なんです。しかし、悪くとっちゃうと、これは変な道へ踏み外していっている。だから、踏み外したままでいると、戻ってこれないところまでいってしまう。挑戦することはすごくいいと思います。だけど、そのなかで、自分の本線はこれなんだということを絶対に見失ってはいけない。

  自分を例にとりますと、「北島三郎」という歌手を絶えず気をつけながら見ていますね。もうひとつの目で見ながら、歌手としての「北島三郎」、商品としての「北島三郎」、本来のあるべきものが、欠けてきたときには修正はする。プロの世界はいっぱいプロがいるけども、プロの中のプロでいないとダメなんだというのを痛切に意識しています。

率直な思いとしては、音楽に国境はないことを実感します。音楽を通じて、何か人間対人間の大事なものがつながるんですよ。だからジャンルにこだわらず、こういう歌や文化の交流があれば戦争なんてなくなると思います、本当に。それは強く感じますね。 [コメントする]

高校生

2006年8月9日 TrackBack

10時間近く高校生と一緒にすごす中で
もうあの時代がずいぶん遠くなったことを思い知った。
それにしても自分と比べると彼ら彼女らは幼い。
もちろん六年という時間がそうさせているのはわかる。
しかしそれでも常に自分が考えてきた
同年代の他者とは及びもつかないところに彼らがいるように見える。
私がかつて距離をとることで観察し警戒していた17歳たちは
もしかしてとてもあどけない人たちだったのではないかと思う。
子どものもつある種の短絡さや残酷さ、
それが17歳ならでは機知によって巧妙に塗り込められた振る舞いは、
当の本人だって不可解な17歳である私にとって
理解できるものではなかったのだろう。
当時の、萎縮した自分が懐かしく、そして哀れに思える。

きっと私がいまここにたたされている状況も
それに近いものがあるのだと思う。
私には他者が見ているものを見ていない分、
他者が見ないものを見ている。
私はきっと彼らが数年後に至るであろう心理的状況に
自らを追いやっているのだ。
考えないこと、それはいま私がとるべき行動だろうか
所詮私は私でしかなく、私は考えることによって
私として存在してきた。

子どもの率直な反応や素直なそぶりが懐かしかった。
彼らは子どもだった。
感情が体の表面にでるその瞬間に大人は身構え、ねじれる。
素直に顔を赤らめ、語気を強め、とげのある言葉を投げる。
その無思慮の行動は、無思慮であるがゆえに
彼らそのものの本質に直結しており
私はその擦り切れていない自己がひどくまぶしく、
やわらかいもののように見えた。 [コメントする]

..

2006年8月9日 TrackBack

いま私は緩慢な生を生きている。
毎日が淡々とそして早く過ぎていくのは
これといってすることがないからだ。
かつて私を突き動かしていた好奇心は影を潜めてしまった。
いま私にあるのは漫然としたルーティーンワークだけである。

食べて、寝て、おきる。

人生は所詮はその繰り返しのなかに
ときおり訪れてる波乱がいかにして
収束するか、というものなのかもしれない。

しかし、あまりに退屈だ。 [コメントする]
272625242322212019181716151413121110987654321 ページ目|