はじまり
今日から気分をかえていこう。
すこしずつ
自分らしさをとりもどすために。 [
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あるがまま
大切なことを思い出した。
言葉や思考ではたどりつくことのできない、
ぶれることのない安心感。
なにかになりたい、とか
こうあるべきだ、とか
そういういろいろなことの前にある自分という存在のこと。
なによりもまずそれが一番最初なんだ。 [
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ものとして、、
ぼくが女の人を愛するのは、その人とぼくとの関係性においてではない。
ぼくは、その女の人というものそのものを愛でる。
それは美しい花や美しい陶器を愛することとほとんどかわらない。
美しいものは感動的なまでに美しく、
それ以外のものはそれ以外のものであるというだけだ。 [
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関係
多くの人から愛されている女性が
ぼくのような人間にたいして錯覚といえなくもない愛情を抱くのは、
ぼくが彼女たちを認めていないからだ。
彼女はぼくが彼女に対して愛情を抱くことを望む。
それは突然生じた人生における不均衡を解消しようとするからで
彼女にとってそれは自然以外のなにものでもない。
そして彼女たちはぼくに「愛情」をそそぐ。
「体」をあたえる。
「献身」をささげる。
ぼくはそれを大概はやはりどうとも思えないけど、
ときどき、ふとした拍子にそれに身を任せたくなる。
つまりそういうことだ。 [
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演技と自信
つまるところ自分か自分でないだれかを
生活の中では便宜的に使いわける。
楽しげな会話の裏側の苦笑いは確実にその笑い皺を顔面に刻み込む。
その先になにがあるわけではないけれど
当面の安心と当座の苦痛を引き換えに毎日繰り返されるゼロ・サムゲーム。
特に問題があるわけじゃないんだけどね。
でもさ、時折なにかを決めなきゃいけないときがあって
そんな時にどんな風に決めていいのかわからない。
だから限りなく受身で、ふわふわとした雲みたいに
流れ流され漂って行き着く場所まで行き着いて
いつの間にか天気が変わっちゃう、みたいな感じで
最近は物事を決めている気がする。
そこには漠然と「確かな何か」があるものだとという前提があるのだけれど、
そもそもそれの仮説、定説を疑うべきなのかもしれない。
論理と論理のすきまを埋める何かなんてなんてのは
推測と願望をとりちがえているだけのことなのかもしれない。
確信のないところに確信をもって判断をする。
そのときの仕草とか癖みたいなところが
もしかしたらその人のその人たる由縁なのかもしれないね。
あなたはそうするんだ?
わたしならこうする?
そのパラレルな意思の帰結は交差することなく、
でも離れることもなく螺旋を描くのかもしれない。
つかず、はなれず、あがり、またはさがる。
あやふやな状態を断定することができる人が力をもつんだろうな。
自信にはつまるところ根拠などない。
集められるデータは結局のところ過去の寄せ集めに過ぎなくて
「これから」について理解するきっかけはせいぜい期待値にすぎない。
なにを根拠に人間は「信じる」なんていう無責任をするんだろう?
それはもう現実を見ることをやめる態度ではないのか。
いや、現実を見たところでそれは時代遅れの、
矛盾した時制をもった「現在形」に過ぎない。
つまりそれは口にされた時点でいくばくかの意味をももたない観測事実にすぎなくなっている。
自信に根拠などない。
努力など自信の根拠になるはずがない。
それはあくまで人生という巨大な実験設備のなかで
人間という知的なラットに与えられた偽薬、うどんの粉が関の山なのだ。
自信とは一つの状態である。
それは根拠や論理によって得られるものではない。
それは感覚である。
悲しみや喜びとおなじように。 [
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冷静さと二面性
結局のところ、人間関係において真に理解されることな度はありあえない。
「私」というメディアから導かれれる断片から
再構成される「私」こそが流通する唯一の肖像なのだ。
ミロのヴィーナスが不巧の名作だといわれるのは
いうまでもなくその左腕を欠いているからである。
見られるたびに反転する体と左腕の関係。
それが意味するのは実態としての彫像ではなく
想念の世界の無限の対象である。
それと同じように不完全で情報が完全ではないものにたいして
人は神秘を感じるようにできている。
不完全で失っているからこそ獲得できる完全性という逆説。 [
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包丁
一人暮らしをはじめるにあたって逡巡していた包丁がようやく決定される運びとなった。
我ながら辟易するほどの丁寧さで様々な検討の結果、
京セラのセラミックにものになったのである。
よい包丁とはなにか?
単にいうと良く切れる包丁であることは誰しもが認めるところだと思う。
もちろん最初期の段階では高価でよい材料を使っている包丁ほど切れ味がよいのは間違いない。
しかし包丁の難点は毎日使う点であり、毎日磨耗するところにある。つまり日々の手入れ、砥ぎが必要なのである。
いくら高性能の材料を使っていても二週間もたてば当初の切れ味は失われる。
つまりこの砥ぎについての態度が包丁の発揮する切れ味という効果に直接的に影響する。
和包丁のは確かに切れ味がよいらしいが、それは料理人のように毎日精魂こめた砥ぎを行う場合に限られる。
一人暮らしをはじめたばかりで時間もない一介の素人がそこまでやるのは骨が折れる。
というわけで毎日の砥ぎが必要ないセラミック素材を使用した包丁が出番なのである。確かに切れ味が素材硬度と刃形状によるのであればセラミックは鉄よりもはるかに硬度が高く、形状の操作も容易であると考えられる。
最後にデザイン的な観点からいうと黒いハンドルに白い刃というのがいけ好かないところが深刻な問題だったが幸い最上位の強度が増強されたシリーズは刃が黒く、なかなかスタイルがよい。
さらに価格も手ごろであることからセラミック包丁の購入が決定された。
つまり合理的に考えて日々の切れ味を維持すること、
さらに差別化をはかるというデザイン性の問題、
それに加えて困難な手ごろな価格という三点をクリアしていたのだ。
今回の検討で明らかになった意思決定の態度について。
まずデータ収集が非効率的で、さらには集まったデータを整理するのがほぼ結論が見えてからであった。
今後このような決定を迅速に下すべく今回の問題点を検証する。
まずはネットによる情報収集が存外に非効率的であること。
これについては必要な情報への直接アクセスが難しく、二次的な情報が混入したリストを手作業で検討することからくるものである。改善案として現物が実際に集積しているところへ出向き、一度そこで構造化、質問事項を確認した後に、ネットによって第三者的意見を収集することにする。そのためにはまず目的の製品がどこに集積しているかを知ることが必要となるのは言うまでもない。
さらに抽象化し、意思決定のレベルにまで階層を挙げると、
プロセスは必要要件の確認と選択肢の収集のふたつの論理的段階に集約される。満たすべき要件と可能な選択肢が揃えば、リスクはヘッジされており決定は速やかに行われる。これまでのプロセスはこの二つのプロセスを同時にこなしていたという点で問題が必要以上に複雑化していた。
必要要件には個人の価値観が反映されるべきで、今回はやはりreasonableであるということだった。これは私の価値観の根幹をなしている指標であり、合理性rationalityとは意味が異なる。rationalであるとは情緒に左右されずに理性に従うという意味が込められている。rateから派生しそもそもは兵站の一日あたりの割り当て量のことを指していたことからもそれがわかる。それに対してreasonableは情緒を拝するものではなく単に根拠を要求する姿勢である。今回の選択も素材をセラミックに決定するまではrationalだといえるが、最終的に最上級のブラックを選択することは合理ではなく好みという根拠を添えている点でreasonableなのである。以上のように自分の価値観を明らかにするor確認することは賢明な意思決定にとって重要である。
つぎに選択肢の収集についてだが、選択肢が少ない一次段階から構造化を進めるほうが効率的な用である。抽象化を早い段階で行うことでそれ以後の情報取得と位置づけが迅速になる。ある程度網羅的な構造が完成したら次に差異を明確にして必要要件をフィードバックすることで選択肢は絞られるはず。 [
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reasonability
私の意思決定の判断基準の底流をなしているがのがreasonabilityである。選択には常に根拠を求める姿勢であり、それは概ね好もしいものであるが、スタティックな世界観を形成してしてしまう点で面白みに欠ける欠点がある。
学科に進学してからの堂々巡りはこれに起因していること。問題は自分の中にvisualityを根拠とする習慣がなかったことであり、その感性が後得的だったことにある。つまり他人の評価基準からの視線をもその判断基準に組み込んでしまったため、だれにも好かれようとする誰にも好かれない作品か、極度に抽象化された理念の結晶のような作品しかつくれなかったのである。そしてそのような楽しくない作業に長時間従事することは苦痛でしかない。 [
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朝
小説を読みながらいつのまにか眠ってしまったようで、ケータイのアラームがなって眼が覚めた。まだカーテンを買っていないせいで窓が明るい。が、最近は雨は降らないものの快晴という日はすくなく、今日も空は灰色だった。曇りの日は太陽光が水蒸気にあたって散乱するためむしろ晴れた日よりも明るいという。今朝のベランダはその例にもれずその妙な明るさがあった。こういう日は光が回りこむため影が希薄になる。だからいつにもまして物に、そして生活にすら存在感がないように感じた。
8時半からの退屈な講義になんとか間に合うように、食事をつくり歯を磨き着替えデータをパソコンからメモリーに移してドアの外に出る。 [
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忘却
一日が過ぎた。無為な一日が過ぎた。もうずっとハードディスクの中の音楽も変わらないし、毎日の生活も単調そのもので、そしてなにもない。いや、なにかしら求めているはずなのに結局やってきた何かを拒否するだけなのだ。 [
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