次のシーンは、昨今の政治の深部をかいま見せた象徴的な瞬間だったかもしれない。
9日午後6時前、東京・内幸町のプレスセンタービル10階ホール。出版記念を兼ねて、<カーティス米コロンビア大教授と「日本の政治」を語る会>が始まろうとしたときだ。
会場に先に着いていた発起人の一人、中曽根康弘元首相に、やはり発起人の小泉純一郎元首相が近づいた。周囲に緊張の空気が流れる。なにしろ、いろいろ因縁のあった二人だ。
小泉が腰をかがめ、右手を差し出して
「どうも……」
と握手を求めた。しかし、中曽根は手を出さない。握手を拒んだ。そこは瞬間芸にたけた小泉のこと、すかさず出した手をさっと上げて、あいさつのポーズをとり、しのいだ。
「ヒヤリとしましたね」
とあとで何人かがもらした。
ほんの1、2秒の出来事、気づかない人もたくさんいた。小泉が最初にスピーチし、中曽根は乾杯の音頭をとってすぐに退席、遅れてきた福田康夫首相も一席ぶった。
さて、このささいなようで見逃しにできない握手拒否事件はなぜ起きたのか。儀礼上も通常はありえない。だが、その瞬間、卒寿(90歳)を迎えたばかりの中曽根の脳裏を強烈によぎるものがあったのではなかろうか。以下は筆者の推測である--。
小泉政権5年半の間に、握手拒否につながると思われる二つの事件が起き、いずれも当コラムで書くことになった。
最初は小泉による長老追放の荒業である。2003年10月18日付は
<中曽根、宮沢は「日本の財産」>
の見出しで、中曽根と宮沢喜一元首相の両長老に対し、73歳の定年制をタテに引退を迫ろうとする動きに反対した。しかし、小泉は同月23日、二人に直接通告、中曽根は、
「断じて了承できない。一種の政治的テロだ。おい、敬老精神がないじゃないか」
と面(めん)罵(ば)したが、小泉は黙殺した。同25日付コラムは、
<情理を尽くしていない>
と異を唱えたものの、あとの祭りだった。小泉の、
「80歳でも、『まだまだ』と言う人がいる。困っちゃうんだな。これは頭が痛い」
という街頭演説の一部を紹介している。このとき、中曽根85歳、宮沢84歳、後期高齢者だ。
二つ目は、その2年後、05年11月19日付コラムは、
<最長老・中曽根の「怒り」>
と題している。当時、中曽根は自民党新憲法起草委員会の前文小委員長をつとめ、素案を練り上げるが、最終確定した草案では中曽根案が全文捨てられ、別ものに替わっていた。小泉の鶴のひと声だったという。
これには秘話があり、後藤田正晴元副総理が亡くなる(9月19日)少し前、中曽根に
「前文案には聖徳太子17条憲法の『和をもって貴しとなす』の精神をぜひとも入れてほしい。このままでは日本がおかしくなる」
と懇望、中曽根案には
<和を尊び……>
と織り込まれた。だが、<和>が小泉イズムに合わない。中曽根が、
「一回の相談もなく、ご聖断のごとき扱いをうけたことは誠に残念、失礼も甚だしい」
と怒りを爆発させた事件だった。
長老追放と<和>の否定は、小泉時代に作られた後期高齢者医療制度の非情と重なる。(敬称略)=毎週土曜日掲載
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岩見隆夫ホームページhttp://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
毎日新聞 2008年6月14日 東京朝刊
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