前回の続き。
体に備わる「欲求」と心から生まれる「理性」
もし「体」と「心」がせめぎあっても、勝負がつかなかったら、人間はどうなってしまうのか?
朝、目覚ましが鳴ったときに、
「あー、もう起きなくちゃ。会社に行かなきゃ」と思う自分と「今日は休んじゃおうかな」
という自分がいるわけだ。
自分の内側で「体」と「心」が勝負を続けながらも決心がつかず、どちらにでもアクションできるように「とりあえずは」仕事に行く準備を始める。
そして家を出る。
「あー、駅まで急ごう」と思う自分と「天気も悪いし会社に行くのはやめよう」
と思う自分がいるわけだ。で、決心がつかず「とりあえずは」駅までは歩いてみる。
そして駅に着く。
「あー、電車に乗らなくちゃ」と思う自分と「満員電車なんか乗りたくないし、帰ろうかな」
と思う自分がいるわけだ。で、決心がつかず「とりあえずは」電車に乗ってみる。
以下同文、、、
実生活では、朝起きるといったようなことだけでなく
「本当は今日はハンバーグを食べたかったのになあ」とか
「僕はプロ野球の選手になっていたはずなのになあ」とか
「僕は頭が良いから、こんな人の下で働く運命じゃないはずなのになあ」とか、それはもう好き勝手なことを思ったりするわけだ。
「体」と「心」でわかりにくければ、「下半身」と「上半身」で考えても良いかもしれない。「欲望に正直な」下半身と、「現実に忠実な」上半身。
このようになると、人間は「体」と「心」が分離した状態となるわけで、当たり前ですがものすごくつらくて苦しい。頭が思っていることと、手足の動きがぜんぜん違うわけだから当然だ。
ただ、人間というのは相当に環境順応力の高い動物で、こういうアンバランスな状態をなんとか修正しようとする力がある。方法は2つ。
1.欲望に近づけるように、現実を修正する
2.現実に近づけるように、欲望を修正する
「1」はとてもステキなんだが、現実を変えていくのはとても難しくて困難な作業だ。おそらく世界の王になるしか方法はなく、絶対君主は絶対君主なりの悩みってものがある。
というわけでほとんどの人は「2」を選ぶ。
でもたまに、「1」も「2」もアクションできないでいる人が出てくる。その葛藤の渦の中で長い時間を過ごしたり、また現実という時間の針を進めるのが怖くなり社会から途絶する生活を過ごしてしまう人だ。
これは完全に「現実」と「欲望」、「心」と「体」が分離してしまっている。
朱子学では、「体と心が離れた状態を死」と定義づけていたように、これは精神的には既に「死んでしまっている」状態だ。
ここでタイトル。「自分の人生、こんなはずじゃなかった」
こう思ってしまうのは、きっと現実に合わせて欲望を修正できていないからだ。「なりたかった自分」になれなかったのはとても残念なことだけれども、だからといって本来持っている人間自体の価値が1%でも減ったんだろうか?
自分の過去から何かを学び取るのは大事なことだし、夢は持つべきだ。だが、自分のおかれている結果だけを見て「こんなはずでは」と悩むことに何の価値もないと思う。「死ぬ」くらいの苦しみを抱きながらも、「叶うことのない欲望」を自分自身の「あるべき姿」に設定し、他人や社会や、自分自身の運を呪うことは、問題の解決に1ミリだって近づきやしない。
・夢は夢
・現実は現実
・夢と現実の差をきちんと認識し、それを近づけ、「自分」というハードウェアの中でそれを一体のものとして固定化できるだけの度量をつけよう。
私なりに理解した朱子学は、こういったものだった。
でも、
『「現実に欲望を近づける」ってことは「夢をあきらめる」ってことだよね。学校の先生は「夢をあきらめるな」って教えてくれたし、会社の上司も「夢に向かって努力しろ」って言ったよ。そんなので本当にいいの?』
これは次のテーマで。
今日はここまで。
体に備わる「欲求」と心から生まれる「理性」
もし「体」と「心」がせめぎあっても、勝負がつかなかったら、人間はどうなってしまうのか?
朝、目覚ましが鳴ったときに、
「あー、もう起きなくちゃ。会社に行かなきゃ」と思う自分と「今日は休んじゃおうかな」
という自分がいるわけだ。
自分の内側で「体」と「心」が勝負を続けながらも決心がつかず、どちらにでもアクションできるように「とりあえずは」仕事に行く準備を始める。
そして家を出る。
「あー、駅まで急ごう」と思う自分と「天気も悪いし会社に行くのはやめよう」
と思う自分がいるわけだ。で、決心がつかず「とりあえずは」駅までは歩いてみる。
そして駅に着く。
「あー、電車に乗らなくちゃ」と思う自分と「満員電車なんか乗りたくないし、帰ろうかな」
と思う自分がいるわけだ。で、決心がつかず「とりあえずは」電車に乗ってみる。
以下同文、、、
実生活では、朝起きるといったようなことだけでなく
「本当は今日はハンバーグを食べたかったのになあ」とか
「僕はプロ野球の選手になっていたはずなのになあ」とか
「僕は頭が良いから、こんな人の下で働く運命じゃないはずなのになあ」とか、それはもう好き勝手なことを思ったりするわけだ。
「体」と「心」でわかりにくければ、「下半身」と「上半身」で考えても良いかもしれない。「欲望に正直な」下半身と、「現実に忠実な」上半身。
このようになると、人間は「体」と「心」が分離した状態となるわけで、当たり前ですがものすごくつらくて苦しい。頭が思っていることと、手足の動きがぜんぜん違うわけだから当然だ。
ただ、人間というのは相当に環境順応力の高い動物で、こういうアンバランスな状態をなんとか修正しようとする力がある。方法は2つ。
1.欲望に近づけるように、現実を修正する
2.現実に近づけるように、欲望を修正する
「1」はとてもステキなんだが、現実を変えていくのはとても難しくて困難な作業だ。おそらく世界の王になるしか方法はなく、絶対君主は絶対君主なりの悩みってものがある。
というわけでほとんどの人は「2」を選ぶ。
でもたまに、「1」も「2」もアクションできないでいる人が出てくる。その葛藤の渦の中で長い時間を過ごしたり、また現実という時間の針を進めるのが怖くなり社会から途絶する生活を過ごしてしまう人だ。
これは完全に「現実」と「欲望」、「心」と「体」が分離してしまっている。
朱子学では、「体と心が離れた状態を死」と定義づけていたように、これは精神的には既に「死んでしまっている」状態だ。
ここでタイトル。「自分の人生、こんなはずじゃなかった」
こう思ってしまうのは、きっと現実に合わせて欲望を修正できていないからだ。「なりたかった自分」になれなかったのはとても残念なことだけれども、だからといって本来持っている人間自体の価値が1%でも減ったんだろうか?
自分の過去から何かを学び取るのは大事なことだし、夢は持つべきだ。だが、自分のおかれている結果だけを見て「こんなはずでは」と悩むことに何の価値もないと思う。「死ぬ」くらいの苦しみを抱きながらも、「叶うことのない欲望」を自分自身の「あるべき姿」に設定し、他人や社会や、自分自身の運を呪うことは、問題の解決に1ミリだって近づきやしない。
・夢は夢
・現実は現実
・夢と現実の差をきちんと認識し、それを近づけ、「自分」というハードウェアの中でそれを一体のものとして固定化できるだけの度量をつけよう。
私なりに理解した朱子学は、こういったものだった。
でも、
『「現実に欲望を近づける」ってことは「夢をあきらめる」ってことだよね。学校の先生は「夢をあきらめるな」って教えてくれたし、会社の上司も「夢に向かって努力しろ」って言ったよ。そんなので本当にいいの?』
これは次のテーマで。
今日はここまで。