環境ホルモンと「静寂の通路」


 環境ホルモンが話題になったのは、たぶん1996年に出版された「奪われし未来」あたりがきっかけだと思います。この本をぱらぱらと見たとき、私は小松左京氏の「静寂の通路」を思い出しました。それで「奪われし未来」はあまり目新しい内容でもない感じがして、結局立ち読みだけで済ませました。

 「静寂の通路」は、1970年と今から30年近くも前に書かれたもので、これが書かれた当時から2,30年後を舞台にしています。つまり、1970年頃からみた1990年代、今我々が生きているこの時代を描いたSF小説です。
 ここで描かれる世界では、電気自動車が走り、サラリーマンは今で言うノートパソコンのような端末機を持ち歩き、テレビ電話も当たり前のように使われています。ところがある時、先進諸国で出生率の急激な減少が起こります。その原因はどうやら、かつて人類が放出してきた様々な汚染物質が原因ではないか、というのです。
 この小説の中では、環境汚染対策が功を奏し、すでに十数年前から汚染物質は排出されていないはずでした。
 ところが、かつて排出された汚染物質が環境に残留し、循環し、濃縮されていたのです。そして1970年代には幼い子供だった世代が成人した1990年代、その影響が表面化したのではないか、というのです。
 そして日本の出生率は劇的に減少し、赤ん坊の声が聞こえなくなった、静まり返った産婦人科病棟……その異様さに主人公がショックを受けるシーンがこの小説のクライマックスで、「静寂の通路」という題名にもなっています。

 実は「静寂の通路」冒頭には、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が引用されています。
 1962年にカーソン氏が「沈黙の春」を記し、1974年には有吉佐和子氏が「複合汚染」を発表、そして小松左京氏がフィクションの形で問題を提起してから30年。
 現実に1990年代も終わり近くなった今日、電気自動車もテレビ電話もない代わりに、環境汚染もこの小説ほどは悪化していないのかも知れません。ですが、それはこの小説よりも現実がマシだったことを意味しているとは限りません。
 「静寂の通路」の中では、環境対策が功を奏しているにも関わらず、排出された汚染物質という過去のつけが、次の世代へ受け継がれてしまったのです。現実の世界では、現在の環境汚染ですらまだまだ対策が不十分ではありませんか。現実の1990年代に「静寂の通路」のようにならなかったのは、たまたま運が良かっただけかも知れません。あるいは「奪われし未来」の指摘のように影響はすでに出始めており、2000年代には「静寂の通路」が現実のものと化す可能性は否定できません。

 やっと今になって騒がれるようになった、汚染物質の生殖機能への影響……これを実に30年も前にフィクションという形で著したことに、あらためて驚嘆させられます。そしてそれと共に、これほど古くから指摘されているにも関わらず、未だに十分な対策がなされていないことに、唖然とせざるを得ません。
 いたずらに不安を煽ったりする気持ちは毛頭ありませんが、今一度誰もが真剣に考えなければならないことではないでしょうか。


 AF2という食品添加物をご存知でしょうか。1965年(昭和40年)に認可された防腐剤で、豆腐やハム・ソーセージなどに使用されました。
 ところが、1971年に東京医科歯科大で、危険とされる薬品と同じぐらいAF2が人間の染色体を切断することが確認され、国立遺伝学研究所でもAF2の変異原性(遺伝子に突然変異を起こす性質)を確認。1973年の日本環境変異原研究会で報告されると、消費者団体をはじめ使用禁止を求める運動が始まりました。
 それより前、食品問題の著作を続けていた郡司篤孝氏がすでに著作の中でAF2の危険性を指摘していたのですが、AF2を製造していた製薬企業は、阪大医学部の教授による無害データを根拠に、営業妨害であるとの告訴を行っていました。
 裁判の過程で、その阪大教授の無害論に実は誤りがあることが指摘され、さらにAF2によると思われる神経障害も確認、ついに1974年に全面禁止が決定されました。
 後に報道されたところでは、AF2の製造会社が阪大教授を買収していたという疑惑も浮上し、国会でも取り上げられたそうです。

 認可から禁止までの9年間に生産されたAF2は約100万トン、単純に計算すると一人平均1グラムは摂取したことになるそうです。
 一般に、化学物質によるガンなどの影響は、摂取してすぐに現れるのではなく、数年から数十年経って現れると言われます。「静寂の通路」でそうだったように。
 「現代用語の基礎知識 '86」の「AF2」の項は、このような言葉で締めくくられていました。

  「戦後日本最大の人体実験。結果は21世紀にでよう」

「静寂の通路」は決して単なるフィクションではないのです。