秋葉原になぜか巨大な外車「カマロ」のあの「ドッ、ドッ、ドッ」という低いエンジンの音が響く。誰かが「あ、きたな」とぼそっと言う。そのカマロからは小柄な「おじさん」が降りてくる。その人が「本多通商」の社長、本多弘男さんだ。
1989年のCOMDEX SPRING CHICAGO での本多弘男氏。記者も仕事で同行した。(撮影:三田典玄) 「おぅ、三田くん、うちの店が今度、The Sourceっていうアメリカのコンピューター同士で、電話を使って通信する仕組みの代理店になった。面白いぞ!」 独特のそのあたたかなダミ声で、そこにやってくるたくさんの技術者にそれを勧めていた。1980年代中ごろのことだ。後から考えれば、それが日本の「パソコン通信」の夜明けそのものだった。僕らはその「システム」を使えるスターターキットと、当時は10万円近くした音響カプラというモデムの代わりになるものを買って、8ビット処理のパソコンに接続。日本では最初のほうの「パソコン通信ユーザー」になった。 それから、20年とたたないうちに、インターネットが普及し始めた。日本にその流れを持ってきて、僕らを刺激したのは、本多さんだった。 「本多さんを助けよう!」と有志が立ち上がった その「ぷらっとホーム」の取締役会長で創業者である本多弘男氏が、6月6日、64歳でなくなった。 ぷらっとホームのマウスパッドを作っている会社のブースの前で。(撮影:三田典玄) その店、ぷらっとホームの前身である「本多通商」は、一度つぶれた。その直前、僕は浅草でせんべいをたくさん買って本多さんのところに陣中見舞いに行った。本多さんは、僕の肩に手をかけ言った。 「三田くんなぁ、実は店を閉じることにした……。ある企業から、入ってくる約束だったお金が入ってこなくてな。今まで本当に、ありがとう」 その顔は涙にぬれていた。 それから1年もたたないうちに「本多さんを助けよう!」と有志が立ち上がった。ホテルの部屋に数百人を集め、パーティーが行われた。そして、その後、「ぷらっとホーム」が立ち上がり、その後、IT投資ブームの波に乗り「東証マザーズ」に上場。 Linux、 FreeBSDなどのOSも、この時代に多く手がけられ、ぷらっとホームはLinuxを作ったLinus氏やRed Hatの社長を助けたりもしていた。僕らも新しいバージョンのOSが出るたびに、ぷらっとホームに通ったし、ときどきは本多さんたちと一緒に米国のコンピューター企業に行った。 本多弘男氏。同会場にて。(撮影:三田典玄) 本多さんについては、まだまだここに書ききれない、いろいろなことを思い出す。 日本のIT業界の最初を作った多くの人間を育てた本多さん。ご冥福をお祈りいたします。
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