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スポニチColumn
2007年01月24日 平山譲「スポーツ百景」自分じゃないかもしれないけれど(2)
イギリスに着いてからの竹中穣さんの行動には、なんの計画性もなかった。飛びこみでイングランドサッカー協会を訪ね、プレミアリーグ全チームの住所を入手。まずはディビジョン3のブライトンというチームの門をたたいた。
「リストを前に、さあ、どっからいくかな、という感じで(笑)。ディビジョン1は無理だろうし、遠い街にも行けないから、ロンドンからバスで2時間かけてブライトンというチームへ行きました。履歴書を出して、バックパッカーに泊まっていますから返事をくださいと。2週間待ちましたが、返事なんて来るわけがないですよね。ただ待っていても仕方ないので、朝は走ったり、夜はボールを蹴ったりして、毎日公園でトレーニングをしていました。子供たちをつかまえて、サッカーやろうぜ、なんてね」
その後、ポーツマスというチームにも自らを売りこんだが、やはり返事はなかった。イギリスのプロチームで外国人選手がサッカーをする場合、母国での代表経験が2年間で75%以上なければ労働許可がおりない。すなわちプロ経験すらない竹中さんの行動は徒労だったのだが、強い意志力はしかし、ときに幸運の女神をふりむかせる。
半年のあいだにFIFA公認の代理人と知りあい、リトアニアの1部リーグに所属するチーム、クライペダ・アトランティスを紹介された。チームでいちばんの高給取りが月給1000ドルというチームで、600ドルの契約を提示された。大学教授の月給が200ドルという国だけに、竹中さんは最初から評価されていた。
「かなり嬉しかったですよ。リトアニアが旧ソビエト連邦だったことも、リトアニア語もリタスという通貨も知らないまま、行きますと返事しました。だって、おカネを貰ってサッカーができるなんて、とても仕合(しあわ)せなことじゃないですか」
念願のプロになると、1年目は半年間で4得点してチームのシーズン3位に貢献。2年目と3年目はボランチに転向して3位と2位に。2年目にはルーマニアのラピトブカレストに敗れはしたものの、UEFAカップにも出場した。
「自己中心的な選手が多いリトアニアでは、楔になって周囲の選手を活かすという概念が希薄だったようで、日本人のよさが認められたんです。英語でさえ片言でしたが、サッカーをするぶんには困らなかったですし、孤独を感じるようなこともありませんでした。生活のことはさておき、プロとしてサッカーができたことを素直に喜んでいました」
3年後には日本へ帰国し、目標だったJリーガーとなった。横浜FCでは先発出場。アルビレックス新潟戦では満員の試合も経験した。
「子供と手をつないでの入場だったんですが、自分が見ようとしてきた夢の世界が眼の前にあると思った瞬間は、ほんとうに嬉しかったです。これは一生忘れられない思い出だなと胸がいっぱいになりました。これから試合だというのに感動なんてしている場合じゃないですよね、そんなだから前半の45分間で交代させられちゃいました(笑)」
好きこそものの上手なれ、とはいう。
しかし「好き」は無限でも、「上手」には限りがある。
いつのまにか、竹中さんは30歳を迎えた。2試合出場しただけで横浜FCを解雇され、平成16年からは自身が育った町田へ戻って子供たちを指導しつつ、選手としてもFC町田ゼルビアで関東リーグを戦っている。もう彼との契約を望むJリーグのチームはないかもしれない。キャリアの終りが近づくいま、目標は一つにしぼられている。
「しょうじき、スピードの衰えを感じてきています。でも、まだまだ悪足掻きをして、少しでも長く現役でいたい。僕のプレーを見にきたとおっしゃってくださる町田のファンのためにもね。自分はトップレベルの選手にはなれなかったし、これからも現状維持がせいぜいでしょう。だったら、愛着あるFC町田ゼルビアをJリーグに昇格させるために、すべてをかけてみようじゃないかって」
現在関東リーグにいるFC町田がJリーグのディビジョン2に昇格するには、優勝しつづけて最短で2年かかる。そのとき竹中さんは32歳になる。
「Jリーグというてっぺんにたどりつくまで、自分がチームの一員として一緒にいられるかどうかわかりません。たとえ昇格するのに貢献できたとしても、自分はそのレベルではプレーできない選手かもしれません。でも、僕は、それでいいと思っています。あの素晴らしい舞台に立てるのは、自分じゃないかもしれないけれど、僕にできることは、いまを精いっぱい生きることだけだから」
◇ ◇ ◇
FC町田の選手たちによるチビッコへの「課外授業」が始まった。
「いいかい、みんな」と竹中稔が手を挙げた。すると小学校低学年の生徒たちは、ぴたりとおしゃべりをやめた。
「まずは、ボールをコーチの足から奪う遊びをしてみようか」
子供たちの表情が、一瞬にして屈強なディフェンダーそのものになった。FC町田のエースストライカーがドリブルを始めると、数人の子供がいっせいに走りよった。それを竹中さんは巧みにかわし、なかなかボールを奪わせない。子供たちも、竹中さんも、裸足。どんなに追いかけても竹中さんはボールを足から離さず、しまいには子供たちが降参。竹中さんの体力も底を尽きて、芝生の上に大の字。そこへ子供たちがわっと群がり、次の遊びをせがむ。
「手が抜けないの、わかるでしょ。こうしていると楽しくて、充実してるなと感じるんです」
FC町田の財政はまだ十分とはいえず、竹中さんは2部屋しかないチームの事務所の一室を間借りして暮らしている。
「リトアニア時代、明日のご飯のために必死な選手たちをたくさん見てきました。心の底からサッカーが好きなら、必死になればいいだけのこと。頑張っていますと他人にいうのは好きではありません。人生誰でも、頑張るのなんて、あたりまえでしょ。ただね、頑張っていますとはいいたくないですが、楽しいですとは自慢したい。人生、楽しく生きていることは、誇っていいことだと思いますから」
春から、FC町田ゼルビアの、Jリーグへの新たな挑戦が始まる。暖かくなったら、リトアニアから逆輸入された町田っ子のプレーを、また楽しませてもらおうと思う。
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