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スポニチColumn
2007年01月24日 平山譲「スポーツ百景」自分じゃないかもしれないけれど(1)
FC町田ゼルビアは、試合後もおもしろい。観客席に詰めかけていた小さなサポーターたちが、試合終了のホイッスルと同時に息急(いきせ)ききって階段を駆けおりる。向かうのは、戦いが終ったばかりの芝の上。迎えるのは、戦いを終えたばかりの選手たち。
「子供たちの笑顔以外、眼に見えるものはなにも貰えません。へとへとに疲れているのに、体に鞭(むちう)ってボランティアでやってくれている選手たちには、ほんとうに頭が下がります」
そう話してくれた竹中穣(たけなかみのる)さんも、背番号9を背負い、さきほどまでピッチを走りまわっていた一人である。全身汗みずくで、肩をちょっと押すだけで倒れてしまいそうなほど疲労の色は濃い。
そんな彼や選手たちに、しかし元気いっぱいの子供たちが駆けよって「コーチ、コーチ」としがみつく。ユニフォームを引っぱったり、太股(ふともも)に抱きついたり、背中に負ぶさったり。
「今日は勝てたからいいですけど、敗れた試合のあとでもやるんです。日頃子供たちに、積極的にシュートを打って点をとろうよなんて教えていても、『コーチこそ、今日はゴールを決められなかったじゃん』なんていわれたりして参ります(笑)。子供たちに試されているような厳しさがありますね」
FC町田のフォワードである竹中さんは、サポーターから「ミスター町田」と称され、親しまれている。彼は選手兼コーチとして、チーム最多得点者でありながら、AC町田スポーツクラブスクールのスクールマスターも務めている。幼稚園児から大人まで300人の会員を抱えており、週に5日間、サッカーの指導をしている。そして週末の試合後は、会場をそのまま課外授業の場として利用している。
Jリーグが発足した平成5年以降、多くの少年の夢に、「プロサッカー選手」がくわわった。それまでの少年サッカーといえば、地域の有志や父親が即席コーチとなる場合が主だった。それがプロ化から12年が経ったいまでは、ときには世界の舞台で試した経験を基盤にした元プロ選手が、夢にまっしぐらの少年たちに技術を伝授している。
「僕らの時代とはすべてが雲泥の差。小学2年生でリフティングを400回もつづける子もいます。だから求められるものも、やりがいも大きいです」
子供たちにとって、Jリーグでのプレー経験もある竹中さんは、夢そのもの。彼らの「ゴール」でもある。
この日は試合観戦を楽しめればそれでよかったはずだが、子供たちと戯れる竹中さんの混じりけのない笑顔を見ているうちに、彼がプロになるまでの過去が聞きたくなった。
「僕のサッカー人生なんか」と竹中さんは後ろ頭を掻(か)いた。
「聞いたって面白くないですよ、この可能性豊かな子供たちに比べたら、ちっぽけですから」
◇ ◇ ◇
竹中穣さんは、あたりまえのようにサッカーを始めた。
小学2年生のときに目黒区から転入してくると、清水や浦和同様「サッカーどころ」といわれる町田のスポーツ少年団に入団した。前線で体を張り、楔(くさび)となって相手を活かすプレーが得意で、日本学園高校3年生時はインターハイ、選手権の両都大会で決勝戦まで勝ちすすむなど活躍した。
「サッカーのことしか頭になくて、少年時代といえば、ボールを蹴っていた記憶ばかりを思いだします。うちの家族は銀行員の父を始めとして勉強家ばかりでしたから、ちゃんと勉強をしろよというスタンスでした。中学生のときは勉強ができなくて、父に迷惑をかけました。それでもサッカーの試合になると、父はカメラやビデオを持って観(み)にきてくれました。一生懸命な姿を認めてくれたんですかね。だからサッカーをしているときだけが、自分を輝かすことができる時間だと思っていました」
サッカー推薦で帝京大学へ進学した頃はJリーグブームで、将来のJリーガーの一人と期待された。同時に自身も具体的な目標として、大人になってもサッカーを続けたいと思うようになったという。
「あまり執着心が強いほうではなくて、他のことは長続きしないのに、サッカーだけはどのレベルへいっても『つづきもの』という意識でした。高校3年生あたりからは、サッカーでいちばん上を目指したいと真剣に思うようになって。もっと自分に自信がもてるようになりたかったからですかね」
サッカー選手としての旬といえる20代前半、2度、運命のいたずらに翻弄された。それが、有望だった竹中さんの未来を変えた。
1度目は大学3年生のとき。同大学ラグビー部の下級生の不祥事と同時期に、サッカー部までが試合中の暴力事件で公式戦出場停止処分となり、1年間を棒に振った。それでも4年生のときには総理大臣杯関東予選で準優勝し、Jリーグのチームの練習相手としてたびたび試合をできるようになった。そして得られたプロチームとの契約話。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)のスカウトの眼鏡にかない、入団寸前まで進展した。だが、ブラジル人監督の更迭、そしてチーム方針の転換によるフランス人フォワードの獲得という2度目の不運で、また試合から遠ざかった。
「大学を卒業するにあたってもサッカーの練習ばかりしていて、就職活動はいっさいしませんでした。しばらくは引越し屋さんのアルバイト。いわゆるフリーターってやつです。早起きして一日働いて、6000円のときもあれば、9000円のときもありました。毎日、ああサッカーやりてえなあって(笑)」
道をきりひらくのは、自らの意志力でしかない。
卒業から4カ月が過ぎたとき、日本が駄目なら海外があると、竹中さんはバイト代と親からの援助を合わせてイギリスへ渡った。プロチームとの契約のあてなどない。半年間のみ滞在が許されたオープンチケットを購入しての旅立ちであった。
「イングランドはサッカー発祥の地だからという、ただそれだけの理由で、文化や言語などなにも勉強しないまま、ロンドンのヒースロー空港に降りたちました。入国審査でなにをしに来たのか訊(き)かれて、サッカーがしたくて来たと答えたら、不審がられて2時間も入れてもらえませんでした(笑)。とりあえず公園にでも行けば、サッカーをできるだろうと思っていたんです」 【つづく】
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