1959年 | 大分県別府市の観世流能楽師の家に生まれる |
1962年 | 父の舞台に子役として上げられそうになるが 6歳上の兄と違って生来のやる気のなさに父断念する |
1963年 | ハイヒールとダイヤモンドのお絵かきに興じていた時 たまたま兄が描いた馬の絵に感動を覚え、馬の絵ばかり描くようになる |
1964年 | 馬の絵を描く幼児が珍しかったのか、 大人達が描いてみせろとせがむので 調子にのって尻っぽからやひづめから描いてみせたりして パフォーマンスを大いに楽しむ |
1965年 | 小学校入学 写実主義を真剣に考える。 写真のような絵を描こうとするが、所詮お子様芸に終わる |
1971年 | 中学校入学 友人に誘われてバスケ部に入るが、 部員減らしの基礎練習三昧に3ヶ月で退部 やっぱり絵しかないと思い美術部に入部。 しかし描きあげた絵は一枚もなし |
1974年 | 高校入学 それまでの私を見ていた母が「やっぱり絵しかない」と思い 美大付属校への入学を勧める |
※高校時代の話は、講談社刊「終わるハードじゃねえ」に収録されいる 「エデンで会おう」にほぼ集約 |
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1977年 | 大学受験失敗 浪人生活を送るが、なかば強制的になるとなぜかやる気をなくす 性分のため絵に対して急激に熱が冷める |
1978年 | 止むなく就職 ―――がフリーターの方がやはり向いていることを知り3ヶ月で退社 以後アルバイトを転々とする |
1979年 | そんな私を見兼ねた母が何か「手に職を」と 服飾の専門学校へ通うことを勧める |
1980年 | 服を作ることが意外と面白かったらしく、 勢いで師範免状も取ってしまう 調子にのって装苑賞に出品しようかと目論むが、資金繰りに苦労する |
1982年 | そのときたまたま友人が置いて(捨てて)いった雑誌に 「新人漫画賞公募」の記事を発見 賞金100万円に釣られてとりあえず見様見真似で描いた作品を ダメもとで投稿 100万円の10分の1の10万円(佳作)をもらって デビューが決まる しかし投稿作が枚数や原稿サイズ等、 規定外のことだらけだったため印刷できず 速攻掲載できる原稿を1本依頼されいきなり〆切に追われる 服飾学校卒業と同時に別冊少コミックでデビュー |
無事デビューしたものの、私自身にはなんの承諾もなしにガンガン、 ―――が、この頃父の具合が最悪になり、 ―――が、父急死。(静脈瘤破裂による窒息死) ―――が、祖母が急死。(蜘蛛膜下出血) ―――が、雑誌に掲載された作品に誤植発見。 人間だから仕方ない、僕はきみのほかにも20人も作家を抱えているんだから。 プロの漫画家になるためにはプロの編集者と仕事がしたいと、 |
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1983年 | 82年の後遺症からか何もする気が起こらなくなっていて 再就職もままならぬ状態が続く。 何気に生活という現実がのしかかってきて、どうしたものかと思っていたところ、 考えさせて欲しいと言って、人生で初めてこれほど考えた事ないというくらい ―――が、別コミを辞める際に、当時の別コミの編集長から雑誌社なんか 結局、漫画家になる事を決意する。 |
1984年 | 原稿料欲しさにいくらでも描くと思われたらしく、 いきなり月刊(ピンクなキミにブルーなボク)と 週刊(同じくらい愛)の連載が決まる 九州在住でアシスタントもなくひとりでこなすには困難を極めるため 先行して月刊1回分週刊6回分(約200ページ)を まとめ描きすることを決心 とりあえず下絵まで入れた原稿を持って上京、 小学館付近のホテルにてペン入れ開始 この間20日、2日に一度アシスタントが入って仕上げていくという 態勢で着々と完成していく これならいくらでも描けそうと思った矢先、 180ページ目でジンマシンがでる いくらでも描けそうにないことを知る 2日程休みをもらい結局22日で終了。 九州へもどって残りの回数を仕上げる |
1985年 | 前年のことをふまえた上で 新連載(ボーイフレンド小学館/講談社刊)に向けて上京を覚悟する ―――以降、諸々を経て現在に至る |
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長々と読んでいただきお疲れ様でした。で、わかった事ですが、 |