2006年10月18日

ホリケン

df87ec27.jpg>ぬうさん

武富士業界のホリケンこと。故堀川健三氏が生前、発行していた『東京FAX週報』。さる同和団体からいただきました。
もともとは武富士の顧問だったのだが、内部情報を得るや、突如、バッシングを開始。マスコミ各社、武富士本店、各支店、取引先、銀行、同業他社などあらゆる関係先にばら撒いていました。
特に武井令嬢のスキャンダルをほのめかし、「親はどういう教育しているんだ
」などとあげつらい、週報といいながら、連日のように武富士を攻撃。
結局、事務所に目だし帽を被った男たち、5、6人が侵入し、バールでホリケンを滅多打ち。後遺症で半年後に帰らぬ人となったのでした。
1人の強烈な表現者の遺稿から、どうして殺されたのかの一端も垣間見れるでしょう。これでも、元は新聞記者だったというから、人生どう転ぶか分かりません。
以前、某漫画誌編集者から、裏経済の連載をやりたいと持ちかけられ、「こんなイメージのものをやりたい」と申し上げたことがありました。

参考までに、何年か前に『裏ブブカ』に書いた記事----------

 記者の手許にB4版、12枚のコピーがある。新聞の体裁を模した『東京FAX
週報』と銘打たれた機関紙で、発行人は堀川健三(本名・藪下久男)という人物。
堀川は、いわゆるブラックジャーナリストといわれる仕事人で、大手企業のスキャ
ンダルや暗部に食らいつき、紙爆弾をもってして攻撃し、カネを引き出す、とい
うことを生業にしていた。
 この『東京FAX週報』だが、現在は発行されていない。発行人である堀川が死亡しているためだ。堀川が死亡したのは、96年8月3日、まだ49歳という若さで、折りしも消費者金融大手・武富士が株式店頭公開を果たした時期と重なっていた。実は、堀川の死に何らかの形で武富士が絡んでいたのではないかというのが、衆目の一致するところなのだ。堀川の身に一体何が起きたというのだろう――。
 中背で痩身、髪型はいつも七三に分けられ、ビシっとしたスーツ姿でメタルフレームの眼鏡を掛けていた。一見すると、どこにでもいるサラリーマン風の堀川だが、こけた頬と異様なまでに鋭い目付きが、対峙する者を威圧していた。『大阪日日新聞』『やまと新聞』記者を経て、フリーのブラックジャーナリストに転身。最上恒産、佐川急便、地産など、不祥事の多いオーナー企業に入り込んで、一定の情報が得られると、裏切って怪文書などを初めとした紙爆弾で執拗なまでの攻撃を展開。相手が音を上げたところで、手打ち。攻撃を止めることを条件にカネを引き出すというのが常套手段だ。企業からは「死神」と恐れられていた。
 結果的に堀川の最後のターゲットとなったのが消費者金融大手・武富士だった。武富士と堀川の関係はかなり古い。堀川が「死神」の異名で企業から恐れられていることを知った武井は、1985年から非常勤嘱託として堀川を招き、給料を支払っていた。ところが、堀川は89年、武富士が日本3大部落の1つといわれていた京都の崇仁地区の地上げに関する怪文書をばら撒いた。これによって、嘱託契約は打ち切られたが、堀川は92年になって再び武富士を攻撃し始めた。これに困り果てた武井は、矛を収めてもらう代わりにまたしても堀川を広報担当外部顧問として迎え、毎月35万円の顧問料を支払う関係に落ち着いた。以降、腐れ縁が続いていたというわけだ。
 すでに2003年12月2日に電気通信事業法違反(盗聴)の容疑で武井保雄会長が逮捕されたことで、明らかになったが、武富士は普段からジャーナリストや幹部社員を盗聴しなければならないほどに暴力団や右翼、警察などとの癒着をはじめ、多くの暗部を抱えた企業体質だった。
 さて、堀川が武富士を再度攻撃し始めたのは、95年10月頃から。武井保雄会長や会長の親族のスキャンダルを約40日間で18回、『週報』と称しながら、連日のように武富士はもちろん、取引先や金融機関、マスコミに送りつけた。そればかりではなく、堀川はアングラ勢力との関係も緊密で、堀川の攻撃と歩調を合わせ、暴力団、右翼が追従していることも確認できた。当時、武富士は株式の店頭公開を96年8月に目指しており、非常に大切な時期である。『東京FAX週報』を初めとし、右翼や暴力団の動きに神経を尖らしていた。
 当初、無視を決め込むつもりだった武井会長もば、攻撃の的が武井の長男や長女にまで及び、さすがに慌てふためく。武井いわく「筆舌につくしがたいほどの大きな精神的痛手を受け」たという。
『東京FAX週報』の内容を紹介する。
「当クラブの幹事の一人がそっと代表幹事にいう。
『武富士側は本紙が一部の関係者にしか配信していないのではないか、とタカをくくっていたらしいが、ここに来て大騒動しているようだ。本紙にはFAX機器が一台しかないと思っていたようだが、その台数(三台)を知ってウロたえていたようだ』
(略)
 三台のFAX機器のうち二台は同報システムで配信しており、その機動力を知るものは当クラブを訪れたものしか分からない。
 また別のコンピューターファイルには極秘資料がビッシリ登録・保存されている。
(略)
 要するに、武富士の武井会長は、本紙発行人・堀川健三と永いつきあいであるにもかかわらず、堀川の本当の姿を知らなかったのではないか。
 つまり、堀川をナメ切っていたのだ。
(略)
 武富士川は今後、会社がどういう事態になるのか、まったくわかっていないようだ。
 本紙に武井会長が同社を『引退』する情報が入ってきた。武井会長本人から直接聞いた話ではないのでおろそかなことは言えないが、堀川健三は『どうぞ、引退してください。しかし、武井会長が引退したとなれば〜〜本紙の糾弾記事が益々、激しさを増すことだけは指摘しておきます。また会長は家族問題だけは書かないでほしいと本紙に依頼しているが、何をふざけたことを言っているのか。特に武富士株三百万株を持つ令嬢Kの問題は本紙が持つ資料・情報の内、第三番目に大きく取り上げなければならない問題ということを頭に入れていただきたい。令嬢の過激な人生模様も本紙にとっては重要なテーマの一つ。令嬢が世田谷でマンション住まいしていた頃、岩崎和美の名前を使っていた問題。なぜ、そんな名前を使っていたのか。本紙は聞きたい。本紙ではすでに岩崎名義の電話機を入手、そこには令嬢が住まいとしていた所在地までが明白な事実として浮上してきた。当然、本紙は当時の令嬢の素行も調査済み……それからしばらくして令嬢は米国ハワイ州知事の仲人で盛大な結婚式を挙行〜〜だが結婚式の裏に重大な秘密があった。もはや武井一族とは骨肉の争いだ」と武井一族に刺し違える挑戦状を投げつける」
 こうしたなか、武井保雄会長のところへ出版からゴルフ場経営までしている廣済堂会長の櫻井義晃から1本の電話が掛かってきた。堀川が武井を攻撃していたさなかの95年11月下旬から12月上旬頃のことだ。
「FAX週報の件でだいぶお困りのようだが、武富士のためになる人、武井会長に喜んで貰える人がいるから、会ってみてはどうか」
 指定されたホテル・グランドパレスに赴くと、静岡県富士宮市を本拠とする山口組系暴力団・後藤組・後藤忠政組長がいた。後藤組といえば、山口組関東勢の責任者との呼び声も高い有力武闘派暴力団だ。各界に太いパイプを持ち、武富士に限らず、創価学会との抗争やオウム事件など様々な事件に名前が挙がることでも知られている。
 後藤組長は武井にこう言った。
「私は堀川と親しい人物を知っている。堀川はこの人物のいうことならよく聞くので、その男に話してみよう」
 武井は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 会談は15分で終了した。
 株式公開を目指す企業の代表が暴力団にトラブルの処理を委ねるなど、もってのほか。武井もそのことに気付き、「ヤクザである後藤忠政氏に『東京FAX週報』の解決を依頼するのはまずい。裁判で解決すべきであると考えるにいたり」、その2日後、専務に「このあいだの後藤さんとの件、裁判で片をつけるつもりだから、ことわってくれ」と言ったが、後の祭りだった。
 “事件”が起きたのは、12月21日の午後。堀川が新橋の事務所で複数の暴漢に襲われたのだ。
 この日の午前中に堀川の事務所に見知らぬ男から電話が入ったのが事件の予兆である。
「おもしろい情報があるので提供したい」
 堀川が「午後からなら、手があくので事務所にきてくれ」と言い、事務所の住所を知らせると、電話の主は「必ず伺います」と低い声でって電話を切った。
 この電話があったため、午後になって、事務所のドアがノックされたとき、堀川は何の警戒心も抱かず、書類に目を落としながら、「開いてるよ」と答えた。
 入ってきた複数の男たちは、バールと鉄パイプで武装。机に向かっていた堀川に一直線に駆け寄り、無言のまま滅多打ちして、その場を後にした。堀川は聖路加病院に収容される。暴漢の人数すら確認できないほどの一瞬の出来事だったが、堀川は頭部に30針裂傷、腕に打撲の重症を負った。
 堀川は警察の事情聴取で「犯人は武富士が雇った暴力団」と供述した。
 犯人は未だ特定されていないが、事件の8ヵ月後、堀川は事件の後遺症と見られる脳内出血で急死した。
 堀川襲撃に関しては、様々な証言、憶測が入り乱れているが、複数の情報を総合すると、堀川がなぜ死ななければならなかったのかがおぼろげながら浮き彫りになってくる。
 堀川が襲撃されたのは、武富士が東京地裁に『東京FAX週報』差し止めの仮処分請求を提出した当日だった。記事の悪質さは火を見るより明らかで、実際翌年1月8日には仮処分の命令が下っていた。実は、堀川も仮処分には異議はなく、裁判の過程で武富士から和解金をせしめようと考えており、すべてが“予定調和”に進んでいた。実際に事件後、武井は堀川に弁護士の同席の上、3000万円での和解が成立している。武富士には堀川を襲撃するメリットなどなかったはずである。
 しかし、第3者が武井から堀川のトラブルの収拾を依頼されたという言質を持っていたとしたら……。武井が想像もしないような手段で堀川の口を黙らせたとしても、武井と第3者は“共犯関係”になる。
「われわれは武富士のためを思って、堀川を殺したわけですよ。われわれは仲間ではないですか」などと言い寄られたら、武井もたまったものではない。株式公開をして億万長者になる武井には、うなるほどの資産がある。第3者のご機嫌を伺うのに、何十億積んだとしても高い代償ではない。この第3者の供述次第では、武井は殺人教唆になる可能性すらあるのだ。
 後に盗聴容疑で逮捕された武井は、当初容疑を否認していたものの、1週間も経たないうちにあっさりと罪を認め、武富士会長職を辞した。
 この間、マスコミ界では、「武井が罪を認めたのは、取調べで『盗聴を認めなければ、殺人教唆で立件する』と脅されたからだ」といった噂がまことしやかに囁かれた。警察にとっても本気で殺人教唆で立件することは考えていなかっただろう。現職会長が人殺しをしたとなっては、武富士が潰れるのは目に見えている。融資残高1兆6756億円、経常利益1828億円(平成15年3月末)という巨大企業を潰すことの社会的影響は計り知れないのだ。
 最後になるが、武富士の元渉外部部長・藤川忠政が武富士に対して起こした訴訟で飛び出した驚愕の陳述書を紹介する。
弁護士、後藤組は堀川さんの問題に解決をつけたんですか。
藤川 後藤組がつけたというか、これは裁判で解決をつけたが、襲撃事件は、後藤組の手のものがやったということは、関係者から聞きました。
弁護士 誰から?
藤川 佐野逸雄(後藤組傘下の組長)です。
弁護士 武井の指示で後藤組が動いて、堀川健三を襲ったということですね。
藤川 そうです。
弁護士 まちがいない?
藤川 まちがいないです。
 藤川陳述書に寄れば、後に武富士と後藤組は、右翼の懐柔工作の成功報酬で揉めに揉めたという。最初は武富士の株式市場上場の時価総額1兆円の1パーセント、100億円の取り決めだったはずが、武井がこれを30億に値切ろうとしたことが発端だった。
『東京FAX週報』は、堀川襲撃後に休刊したが、関係者によれば、堀川の弟子筋が堀川の意思を継いで別の媒体で武富士を攻撃し続けたという。だが、その媒体もしばらくすると、休刊。「結局は、カネで片が付いた」(関係者)という。
 現在もマスコミ各社には、『東京FAX週報』のようなブラック新聞がFAXで送られてくるようだが、発行人の逮捕で休刊したり、また新しく創刊されたりを繰り返しているという。

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参考資料
『武富士対山口組』(木村勝美著・イーストプレス)
『銀バエ 実録武富士盗聴事件』(山岡俊介著・創出版)
『スキャンダル大戦争7』(鹿砦社)所収「武富士タブーは本当になくなったのか」(高田欽一著)
『週刊特報』(洋泉社・2004年3月22日号)


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この記事へのコメント
もっと。わかることがあれば書いてください
Posted by 777 at 2006年11月17日 23:52
これ以上は知らないです。
Posted by ほしでん at 2006年11月18日 01:11