書籍・雑誌

2008年6月 6日 (金)

ひねくれた人に振り回されない88の方法

誠実で親切な人ほど傷つけられて悩む 岩月謙司 大和書房 1400円 より~

・ 人を惨めにして誇りや自信を奪うことは、重大犯う罪である。

・ この世の中というのは、自分がしたことはすべて自分に返ってきます。つまり、人に誠実に対応していないと、人からも不誠実な対応をされます。卑怯なことばかりしていると、人からも卑怯なことをされます。そうされる確立が上がるのです。   そして、ひねくれている人はど、つまり不誠実なことをしている人ほど、他人の不誠実な態度に怒っているものです。ひねくれた人ほど、他人の無神経さに腹を立てるのです。人に迷惑をかけている人ほど不平不満が多いのです。   やがて、そうした怒りのために、体から拒絶のサインが出て、さらに人から敬遠されるという悪循環に陥るのです。

・ 現実に無償の愛で親切にされても、「何の利益もないのに親切にするなんて、おかしな連中だな」ぃらいにしか思わない人です。「あとで何か金品を要求されないか」と心配になる人でもあります。無償の愛を何度受けても信じようとはしない人なのです。   なぜ、無償の愛を何度受けても信じたくないのでしょうか。   もし、無償の愛の存在を認めてしまったら、自分の親の愛はニセモノだった、ということが自分にバレてしまうからです。ニセモノをホンモノ扱いしてきたのですから、ホンモノをホンモノ扱いするわけにはいきません。   親から恩着せがましく育てられると、こうなることが多くなります。

・ 自分のひねくれを直そうと思ったら、まずは人に対する不平不満、または、人に言った悪口を指標に、自分の欠点を探してみることです。   そして、自分の思い込みや言い訳を疑ってみることです。思い込んでいる人ほど、自分にはたくさんの思い込みがあるかもしれないとは考えない人です。言い訳をしている人ほど、自分は言い訳はしていないと考えているものです。幻想物語を作っている人ほど、自分は現実を見ていると思っているものです。   「悪いことは自分のせい、いいことは人のせい(おかげ)」という発想に切り替えて生きてみることです。はじめはうまくいかないかもしれませんが、ある日、突然、気がつきます。

・ ひねくれている人に限らず、人は誰でも、みずから変わろうとしない限り、変われません。重要なことは、どれだけひねくれているか、ということよりも、どれだけ真剣に変わりたいと思っているか、ということです。   意欲さえあれば、人は変われるものです。変わらないとしたら、まだ本気になっていないからです。すべては自分のせいです。

・ 人は、悲しみや苦しみを克服したら、過去の悲しみや苦しみというマイナスがそっくりプラスに反転します。つまり、過去に受けた苦しみや悲しみの量がそっくり悦びと感動の量になる、ということです。   なぜ、そっくり反転するのでしょうか。   苦しみや悲しみを乗り越えた人は、人の苦しみや悲しみに対して深い共感ができるようになるからです。

・ 自分の心のゆがみは、自分でしか直せないのです。

・ 過去のこうした罪の償いはどうすればいいのでしょうか。   自分が死亜ウェア背になることです。生き生きと自分らしく生きるようになることです。悦び多き人生をおくることです。   幸せになれば、しぜんに人が寄ってきます。いい人(自分のいいところを刺激する人)も寄ってきますし、また、あなたに助けられたい人は、独特の嗅覚で、誰が自分を救える人かを見抜いてやってきます。   悲しみを乗り越えた人であれば、人の心の痛みを慮ることができますし、また、理解することも、励ますこともできます。もし、その人を支援してあげたい、と思えたら、それができるということです。人は、できるからこそ、それがしたいと思うものです。   助ける事のできる人と、助けて欲しい人。そして、助けることもうれしいですし、助けられた人も、助けられてうれしくなります。こうして人間関係が深まっていきます。こういうことを「縁」とわたしたちは言っているのです。   こうして、双方悦びを手にすることができます。そして、助けられた人が、また次の助けられたい人を助けるのです。助けられた人は、人を助ける力を持つからです。

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2008年6月 1日 (日)

・ 子どもという哲学者 ピエーロ・フェルッチ 泉典子(訳) 草思社 1500円

・ なぜ「困った人」なのか 会社で・家庭で・自分の中で 小此木啓吾 大和書房 1500円

・ ひねくれた人に振り回されない88の方法 誠実で親切な人ほど傷つけられて悩む 岩月謙司 1400円

・ 「ほどほど」の効用 安心録 曽野綾子 祥伝社 1500円

・ 「いい人」をやめると楽になる 敬友録 曽野綾子 祥伝社 1500円

・ 女の子の法則 フェアベル ムックシリーズ 950円

    超モテの法則が満載!!だそうです。楽しみです!

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茨木のり子詩集

思潮社 1165円 より~

     「怒るときと許すとき」

女がひとり

頬杖をついて

慣れない煙草をぷかぷかふかし

油断すればぽたぽた垂れる涙を

水道栓のように きっちり締め

男を許すべきか 怒るべきかについて

思いをめぐらせている

丹羽のばらも焼林檎も整理箪笥も灰皿も

今朝はみんなばらばらで糸のきれた頸飾りのようだ

噴火して裁いたあとというものは

山姥のようにそくそくと寂しいので

今度もまたたぶん許してしまうことになるだろう

じぶんの傷あとにはまやかしの薬を

ふんだんに塗って

   これは断じて経済の問題なんかじゃない

女たちは長く長く許してきた

あまりに長く許してきたので

どこの国の女たちも鉛の兵隊しか

生めなくなったのではないか?

このあたりでひとつ

男の鼻っぱしらをボイーンと殴り

アマゾンの焚火でも囲むべきではないか?

女のひとのやさしさは

長く世界の潤滑油であったけど

それがなにを生んできたというのだろう?

女がひとり

頬杖をついて

慣れない煙草をぷかぷかふかし

ちっぽけな自分の巣と

蜂の巣をつついたような世界の間を

行ったり来たりしながら

怒るときと許すときのタイミングが

うまく計れないことについて

まったく途方にくれていた

それを教えてくれるのは

物わかりのいい伯母様でも

深遠な本でも

黴の生えた歴史でもない

たったひとつわかっているのは

自分でそれを発見しなければならない

ということだった

     「言いたくない言葉」

心の底に 強い圧力をかけて

蔵ってある言葉

声に出せば

文字に記せば

たちまち色褪せるだろう

それによって

私が立つところのもの

それによって

私が生かしめられているところの思念

人に伝えようとすれば

あまりに平凡すぎて

けっして伝わってはゆかないだろう

その人の気圧のなかでしか

生きられぬ言葉もある

一本の蝋燭のように

熾烈に燃えろ 燃えつきろ

自分勝手に

誰の眼にもふれずに

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2008年5月31日 (土)

愛しすぎる女たち 

ロビン・ノーウッド著 落合恵子訳 読売新聞社 1500円 より~

・ 愛しすぎる女に典型的に見られる特徴

1 概して情緒的欲求が満たされない、機能不全な家庭で育っている。

2 愛情と保護を十分に与えられずに成長したために、男性 - 特に何らかの助けを必要としていそうな男性 - の「保護者」になりたがる。そうして、自分がかつて満たされなかった欲求を「身代わり」的に満たそうとする。

3 両親か一方の親を、自分が求める愛情に満ちた保護者に変えることができなかったために、親とよく似た冷淡なタイプの男性に強く惹かれ、愛情によって彼を変えようとする。そうして、親へのそれと同じ努力を、彼に対して再び試みようとする。

4 遺棄されることを恐れ、関係性を維持するためならどんなことでもする。

5 好きな男性を「助ける」ためなら、どんなことでもする。苦労、時間、もちろんお金も惜しまない。

6 個人的な関係で愛情を充分得られないことに慣れてしまったため、待つことをいとわず、期待し、気に入られようといっそう努力する。

7 どんな関係においても、むしろ積極的に多くの責任を負おうとする。

8 自尊心が乏しく、心の奥底で自分は幸せになる資格のない人間だと思いこんでいる。そのために、努力をして人生を楽しむ資格のある人間にならねばならないと自分に課している。

9 子ども時代に充分な保護を得られなかったために、相手や相手との関係性を管理しないではいられない。しかも、相手の状況を自分の都合のいいように管理しようとしながら、しかもそれを隠そうとする。

10 相手との関係において、現実の姿を見つめることよりも、理想の形を夢想することに、より多くの時間を費やす。

11 男性や、男性のもたらす苦悩なしではいられない。

12 心理的に、しばしば生理的にも、麻薬やアルコール、ある種の食べ物、特に甘いものに溺れやすい。

13 問題のある男性を愛したり、複雑で不確かな、精神的苦痛を覚えるような状況に身を置くことで、自分と向かい合うことを避けようとする。

14 すぐふさぎこむ傾向が強い。そのために、不安定な関係に身を置いて、それがもたらす刺激によって「ふさぎ虫」を抑えこもうとする。

15 自分の関心を持ってくれる、優しく安定した信頼できる男性には魅力を感じない。そういった、好ましいと言われる男性を退屈に思う。

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この人はなぜ自分のはなしばかりするのか 

こっそり他人の正体を読む法則 ジョーエレン・ティミトリアス著 冨田香里訳 ヴィレッジブックス 700円 より~

・ 恐ろしい現実が存在する時、人は見ないふりをしたがる。   深いなことや不安なことから目を逸らそうとするのは人間の性だと言えよう。心理学者のレオン・フェスティンガーは1957年に、こういう現象を説明するため「認知的不協和」という言葉を作った。この認知的不協和の症状の一つは、明らかな事実を受け入れずに拒否するというもので、これは妄想的思考の一つと言える。   「妄想」という言葉を聞くと、現実をまったく見失い、意味のないことをつぶやいたり、真実を無視して嘘をついたり、という行動を思い浮かべる人が多いと思う。しかし、普通の人も日常生活の中でさまざまな判断を下すときに知らないうちに妄想的になっているものだ。   現実を直視するのは難しいし、見たくないと思っているとなかなか見えない。   客観性を失ってしまうのは、ある程度、この認知的不協和や妄想的思考のせいだと言える。しかし、かなり大変なことではあるが、見たくない現実を直視することは可能だ。それにはまず、現実を無視したり、歪めたりする理由を理解しなければならない。   次にあげる四つの理由をよく考えてみてほしい。

1 「しがらみ」や「思い入れ」は目を眩ませる感情の絆

2 焦りと不安 - おなかが空いている時の買い物に注意

3 恐怖は最大の動機 - 言動を見失わないために

4 自己弁護 - 言い訳はあとからでも遅くない

・ 性格を決める三つのポイント

1 思いやり度

思いやりの深さを見れば、その人の考え方や行動がある程度は予測できるものだ。   「人の硬度計」で、思いやり溢れる極の近ければ近いほど、その人は寛大で公平、誠実、穏やかで愛情に溢れ、家族思いで人を許すことを知っており、人間のもろさをわかっていることになる。こういう人は思いやりに欠ける人よりも、ものごとを鵜呑みにせず、好奇心旺盛で我慢強い。また、彼らは正しいことをしたいと思うので、ものごとを決めるのに時間がかかることもある。誰も傷つけたくないと思い、いろいろなことに誠実であろうとするからだ。そして人にしたことは、いずれ自分に返ってくると考える。   反対に思いやりのない極に近い人は、批判的で狭量、人を許すことをせず、厳しく罰する。また、自己中心的で分析的、事実だけさっと目を通して、簡単に判断を下しがち。ものごとに白黒をつけたがり、衝動的なので、すべての情報が揃っていないのに、動きはじめてしまう傾向にある。「何が自分にとって有利だろう?」が彼らのモットーだ。   この物差しで人を測り、その人が思いやり溢れる人か冷たい人かを見るほうが、年齢や学歴、職歴、外見、性別などをみるよりも、どんな人なのか、どんな行動をするだろうか、などいろいろなことがわかるのだ。

2 育った環境

一般的に言って、育った環境は人生観や行動にかなりn影響を与える。   経済的な意味であれ、感情的な意味であれ、あまり満たされなかった人は、常に心の中に飢えの感覚を持つ。たとえ大人になってから名誉や財産を得たとしても、この性質がなくなることはないようだ。頑なで自信がない。思いやりがなく、ケチで狭量で、言い訳がましく、自分のことを人に見せたがらない。生き残るために一生懸命戦ってこなければならなかったので、警戒心が強く、結果さえよければ、どんな方法をとってもよいと考える傾向にある。   もちろん悪いことばかりではない。何もないところからはい上がってきた人のいいところは、目標がはっきりしており、努力家で、目標達成のために一心不乱になれることだ。   反対に、いつも欲求が満たされてきた人は、自信があり、気持ちが安定しており、親切で寛大、率直で忍耐強く、人を許すことを知っている。   だが、自分で努力せずになんでも与えられてきた人の場合、なんとしてもあることをやり遂げる気概に欠け、実利的で自分本位になる人もいる。   

3 人生に対する満足度

目標を達成した人は自分の義務と責任を大切にするようだ。思いやりもあり、人の支えになろうとする。自分や他人とうまくつきあえるし、より楽観的にもなる。心が広く努力家で勤勉でもある。   目標を達成しなかった人は、被害者意識を持ちやすい。すぐ人のせいにしたり、怒ったり、恨みがましかったり、ネガティブで悲観的になりやすい。あまり勤勉ではなく、批判的で皮肉屋になる人も多い。   人生の満足度を見るのはわりあい簡単だ。いくつかの単純な質問をすればいい。「高校生の頃、何になりたかった?」 「仕事はどう?」「もし別の人になれるとしたら、どういう人になりたい?」

・ 皮肉は、怒りや敵意、苦々しさ、嫉妬、フラストレーション、生活への不満などを示す。どんなに魅力的な使い方をしても、皮肉な物言いをする人は、「気をつけた方がいいよ、私は噛みつくからね」というメッセージを送っているのだ。思いやりの「硬度計」ではかると、かなり硬い方に位置するだろう。   自分の気持ちや意見を率直に言うかわりに皮肉を使う人は、どれほど自信ありげに見えても、実は不安でいっぱいなのだ。自信のある人はたいてい自分の気持ちをはっきり言う。カーブでなくて、直球を投げる。皮肉屋はカーブを使って、相手をはめようとする。   ひどく相手を傷つける皮肉もある。そういう皮肉は、たいてい個人をターゲットにしたものが多い。   つまりどんな皮肉も、誰かをちくりと刺すものなのだ。誰かを笑い物にしたり批判したりするための、冷酷で無神経なやり方だ。このコミュニケーション手段を好んで使う人に出会ったら、よくよく注意してほしい。    

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2008年5月27日 (火)

壊れた心をどう治すのか

コフート心理学入門Ⅱ 和田秀樹 PHP新書 より~

・ コフートは、神経症も自己愛パーソナリティ障害も、本質的にな治療は同じと言っているのです。   つまり、自己がバラバラになろうとしており、自己が脆弱の状態になっているから、神経症も自己愛パーソナリティ障害も起こるのであり、それに対して治療者がやるべきことは、患者さんの主観の世界の中で自己対象として治療者を体験できるようにし、また共感的な絆を作ってあげることで情緒的な影響を与え、バラバラになった自己をつないであげることです。そのように、情緒的な栄養を与えることによって自己を健康にしてあげるという方向にコフートの考え方は向かっていきます。   この場合、解釈というのは共感を示すためのツールになります。つまり、わかってもらえるという感覚を与えるツールになってくるのです。すると、だんだんと解釈の位置づけも変わってきます。

・ あまりほめられたこともなく愛された事もないために野心の極が満たされてこなかった人は、つい自分で自分のことをほめてしまったり、ひがんでしまったり、相手がほめてくれてもなんとなくお世辞で言われているように思って自信が持てなかったりするだろうし、小さいときに理想化対象を持てなかった人は、なんとなく常に安心感が持てずにいつも不安な感覚でいたり、自分が生きている方向性が正しいのだろうかと不安になってしまったりするだろうということです。

・ 自己の病理

一つ目は「精神病」および「ボーダーライン」状態で、中核自己が発達の早期に形成されなかったレベルです。

二つ目は「自己愛パーソナリティ障害」および「自己愛行動障害」で、中核自己は早期の発達ですでに確立されていますが、自己のパターンの構造化が不完全で、自己愛が傷つくことに弱く、自己愛が傷つくと自己が一時的に崩れてしまうレベルです。

三つ目が、旧来型の「神経症」で、これも中核自己はすでに確立されていますが、自己の潜在能力(中核自己によるプログラム)を結局のところ実現できないで、内面の葛藤に苦しむ状態です。

・ コフートは治療者の役割として、自己を治していくあり方に、おおむね三つのパターンを想定しました。一つは患者に共感的な解釈を与えることで「適量の欲求不満」を与え、それによって「変容性内在化」を起こして患者の自己の構造変化を起こす役割。二つ目は患者の自己(主観的な体験世界)が時間的にも空間的にもバラバラになっている際に、治療者との共感的な関係によってその体験がつながり、まとまっていくという役割。三つ目は、現実的な治療者のガイダンスによって、中核自己の構造には多少欠陥があっても代償構造を機能的にあてにできるようにしてあげる役割です。

・ 治療の目的は自己をしっかりさせて自立した人間になれることではなくて、じょうずに人に依存できるようにすることなのです。これは前著でも協調したように、コフートが最終的な結論として導いた、人間が依存から自立に向かう動きなどというものは「望ましいというのはおろか可能ですらない」(前掲書)という人生観によるものです。そしてコフートに言わせると、「幼児期だけでなく生涯を通して自己は自己対象を必要としていると協調したい」(前掲書)なのです。

コフートの自己心理学についての研究資料

http://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/14/1/80/_pdf/-char/ja/

コフートのメモ

http://grev.g.hatena.ne.jp/keyword/%E3%82%B3%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%A2

初めての心理学

http://www.12counseling.com/

精神分析家のハインツ・コフートは、人間は自分をほめてほしい野心の極と、自分が安心していられるように強いカリスマをもっていたいという理想の極の間を行ったり来たりする悲劇的動物だと述べた。

中核自己 -

  • 生後2~6ヶ月に出現する、単一で一貫した身体単位としての自己の感覚。
  • 乳児は他者(母親)とは別個の存在であることを学ぶ(中核他者感)と同時に、自分が他者とともにあることも体験し始め、身体的な親密性が特徴的である。
  • 自己発動性、自己一貫性、自己情動性、自己の連続性(歴史性)という「自己不変要素」によって、中核自己感は促進される。
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    2008年5月19日 (月)

    もう、他人にふりまわされない

    「自分がみつかる」セラピー 石原加受子 大和出版 1300円 より~

    ・ 「楽しさや喜びや幸福感は、相手が満たしてくれるのを待ったり、相手に満たしてくれるようにと要求して得られるものではなく、自分自身が自分のために感じるものだ」

       そんなことは、わかってた、つもりだった。なぜ、人様に求めてしまっていたのだろう。自分を、自分の気持ちを蔑ろにしてきたからだろうな。。求められてしまった相手は、そりゃ、うざいよ!ほんまに。

    ・ 本来、自分の満足を考えるなら、相手の思いはどうでもいいことである。相手を支配することはできないという前提に立つなら、相手の思いはどうであれ、「相手を支配することなしに自分が満足するためにはどうしたらいいか」をめざすしかないだろう。   だから、理解してもらうのをめざすのではなくて、自分を大事にするために、自分の気持ちを伝える。そんな心の姿勢で表現できれば、行為自体が満足につながる。仮に結果が悪くても、少なくとも充分に表現できたという満足感は残る。長い目でみるなら、「結果の善し悪し」よりも、このような自分の満足感のほうが遥かに大切なことなのだ。   しかも、彼女の例で分かるように、自分が自分のために表現しているときのほうが、相手の心に最もダイレクトに伝わるのだ。またエネルギーの消耗度でいえば、自分の中で生産された思考や感情をそのまま言葉で吐き出す方が、最小限のエネルギーですむ。しかもそんな表現の仕方は、自分の肉体の快感にもつながる。他者に意識を向けている人は、この表現する快感すら頭に浮かばないのではないだろうか。

       相手を支配する、そんなこと、そんな愚かじゃないと思ってた。でも、自分を認めてよ、とか、求めてる、そのこと自体が、支配、だったんだ。自分のために。自分の気持ちを伝える。自分の思いを大切に。自分、見ないようにしてた。私を、感じないように、出さないように、人様のためにって、押しつけがましくなってた。

    ・ 心と身体がつながっていて、思考・感情・行動が調和している心地よさを体感として知っていれば、心と身体が不調和を奏でているときにはすぐに気づく。このままだと気分がよくないから、この気分の悪さを解消するにはどうしていけばいいのかというふうに、心と身体が調和する、つまり満足できる解決方法を探ろうとするだろう。   しかし他者に意識を向けて生きていると、自分の感情や気持ちや身体の感覚に無頓着になるために、自分の心と身体の不調和にも気づかなくなっていく。しかも自分をごまかすのに慣れてしまっていると、いつの間にか自分がどう表現すればいいのか、どう主張すればいいのか、さらには自分がどういう感情を抱いているのかさえも分からなくなってしまう。

       その通り。身体のサインに気づかず、自ら、怠けてるからだ、と、思い込もうとしてた。

    ・ 「他者に認められたいと要求するのは、裏を返して言えば、他者が認めてくれなければ、自分を認められないということでしょう。突きつめて考えるなら、それって、他者に自分の存在を預けているということにならないかしら」   自己信頼が低いということでもあるだろう。他者が高く自分を評価してくれなければ、自分の価値や能力を認められない。しかし、自分で自分の価値や能力を低く評価していて、誰が高く評価してくれるというのだろうか。他者とうまくやっていくには、先ず、「自分ありき」である。自分で自分を信頼していれば、自ずと行動も「自分を中心」になっていく。もちろん他者を支配することなしにである。他者を支配しようとしたり過度に要求すれば、摩擦が起こるのも当然だろう。自己信頼を高めるというのは、支配やコントロールを止めるということである。   「他者を支配して自分を強引に他者に認めさせるのではなく、自分で自分を認めるということなのね」   それは言い換えるなら、他者から自由になるということでもあると私は思う。つまり、より自由になるために、自己信頼を高めるといっても過言ではない。

       

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    2008年5月18日 (日)

    ・ ラブ・アディクション 恋愛依存症 岩崎正人 五月書房 1400円

    ・ もう、他人にふりまわされない 「自分がみつかる」セラピー 石原加受子 大和出版 1300円

    ・ 死を生きるということ 生と死の社会学 寺田篤弘 武田書店 1200円

    ・ 死にたくなる人の深層心理 自殺にいたる3つの要因を乗り越え「生」を選ぶまで 布施豊正 はまの出版 1500円 

    ・ 愛しすぎる女たち ロビン・ノーウッド著 落合恵子訳 読売新聞社 1500円

    ・ この人はなぜ自分のはなしばかりするのか こっそり他人の正体を読む法則 ジョーエレン・ティミトリアス著 冨田香里訳 ヴィレッジブックス 700円

    ・ 愛の流刑地 上 渡辺淳一 幻冬舎 1600円 

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    2008年5月13日 (火)

    「甘え」の成熟 2

    大人のための依存法 和田秀樹 光文社 1200円 より ~

    ・ 結局は、社会的に法外な依存であるかどうかだけでなく、相手の主観にとって法外な依存かどうかも、依存が妥当なものかを決定する重要な要素となる。だとすると、やはりここでも相手の心理的ニーズが読めることが必要となる。つまり、成熟した依存のいずれの条件においても、相手の心理的ニーズを読めることが大切な条件となるわけだ。

    ・ EQ理論( https://www.okajob.com/ssl/htdocs/EQ/top07.html )における共感能力にはいくつか条件がつけられている。   一つは、共感ができるためには、自己認識ができないといけないということだ。自分の感情状態もわからないような人には、他人の感情などわかるはずはない。あるいは、自分の感情についても混乱しているような人は、他人から感情を打ち明けられてもうろ意たえるだけだというわけである。もちろん、コフートのいう共感にしても、相手の立場に身を置いてみて、自分の心を使って相手の気持ちを想像するわけだが、たとえば、病的に疑い深い人が想像すれば、相手もこの立場にいれば、自分を疑っているに違いないなどと思ってしまうなど、かえって共感的な観察をしないほうがいいこともあるだろう。自分がどんな感情でいるのか、自分がどんなものの見方をしているのかがよくわかっていないのなら、共感はおぼつかないのはもっともなことである。   もう一つは、非言語コミュニケーションを読み取る能力が必要だということだ。人間の感情というものは、ことばよりことば以外のしぐさや表情で表現されることのほうがはるかに多い。他人の気持ちを感じ取るカギは、声の調子、身振り、顔つきなどことば以外の伝達手段をどう読み取るかが重要なポイントとなる。自分の子どもを失った親のお葬式の挨拶などを想像すれば、これがよくわかる。ことばのうえでは、冷静な参列者へのお礼のかたちをとるだろうが、その表情や手つきをよく見ていたり、声の調子などに着目すれば、その悲しみが、ことばとは比べものにならないくらい悲痛なかたちで伝わってくるはずだ。

    ・ みんな仲良くしなければいけないとなると、甘えられない。だから自分からは本音を出さず、ネアカを演じるであれ、いい子を演じるであれ、もちろん聡い子はそのなかでも人の気持ちを読むが、一般論から言えばみんなに合わせるのに汲々としてしまう。しかし表面的には、みんな仲良しということになる。意識的であろうが、無意識であろうが、表面的にみんな仲良しであることに疲れた時に何が起こるかといえば、不登校というかたちでみんな仲良しの輪からおりるか、一人の人間をいじめて残りの人間が仲がいいかのようなかたちで、もっと目に見えるかたちの仲良し感を持とうとする。   そうすれば、残りの人間、いじめられていない人間は、みんな仲良しという幻想に浸れるのだ。「みんな仲良し」を強制する社会というのはある種の甘えの否定であり、つまり日本の「甘え」文化の否定であり、さまざまな心理的な混乱を多くの人にもたらすことにつながるだろう。ここで本人に甘える能力があって、仲間はずれにされた時にも一人の親友がいれば、親友と甘えあって、二人でとぼとぼと家に帰ることができる。

    ・ 苦しい時に愚痴をこぼせる親密な関係性のある友人、あるいは泣きつける相手がいるというだけでまったく違ってくるし、楽になれるはずである。

    ・ ここに依存の「成熟」、甘えの「成熟」の意味がある。大学の教授だから、官僚だからといって、一旦なってしまえば業績と関係なしに、出世できたり、高い社会的地位が保証されるというのであれば、これは成熟した依存ではなく、未熟な甘えである。もう一つ言いたいのは、この成熟した依存というのは、本人の能力や社会的地位と相対的なもので、身障者うや高齢者が福祉の世話になることは未熟な依存でも何でもないが、知的機能も肉体的機能も満足な人間がろくに勉強しないで福祉に頼ろうとするなら、これはまさに未熟な依存である。 (略) 自分の地位や能力によって、成熟した依存が意味するもののスタンダードは違ってくるのである。

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    「甘え」の成熟

    大人のための依存法 和田秀樹 光文社 1200円 より~

    ・ おのおのが自立している以上、他人に遠慮する必要もなければ同上する必要もない。勝者は自分の力で手にした勝利であり、敗者が貧しいのは自己責任というわけだろう。富める者が富む反面、能力がないとみなされた人間はリストラという名で整理の対象となる。能力がないのに給料をもらおうとしたり、会社に居残ろうとするのは、甘えた人間、依存的な人間、自立のできていない人間として断罪される。

    かくして、自立しろ、人に頼るな、能力の有無は自己責任だという考え方は、もはやグローバルスタンダードなのだから仕方がないし、日本もそうあるべきだというのが、多くの国民の理解なのだろう。

    しかし、果たしてそうなのだろうか?

    ・ 人間の心というものは独立して存在するのではなく、相手次第で大きく変化することにアメリカの精神医学や精神分析の世界ではコンセンサスが得られるようになってきた。そして、人間の心というのは相手あってのものだという考え方が主流になりつつある。だとすると心の発達の方向性というのは、自律や独立なのではなくて、関係性や依存のありかたの発達なのだというのは明らかであろう。

    ・ 成熟した依存関係

    1. こちらの言いたい事や感情を、言語的、非言語的手段を通じて、上手に相手に伝える一方で、相手の感情や心理的ニーズをわかってあげる関係をもてて、それを通じて自然な人間関係が築けること

    2. お互いの心理的なニーズを満たし、満たされるというギブアンドテイクの関係がもてること

    3. 依存の程度が相手にとって、あるいは社会的に見て妥当なものである

    というようにまとめられるだろう。   2について言うと、依存するにしても、こちらから一方的に依存するのでなく、相手の依存要求に応えられるのであれば、人間関係も長続きすることだろう。相手の心理的要求を周囲が読んであげて、これをお互いに満たし、また満たされることを期待してよいというのが「甘え」概念の基本であるが、最近はこれが「相互もたれあい」と呼ばれて批判されることは多い。しかし、これは十分成熟した依存であることは、最近のいくつかの心理学、精神分析学の理論が物語っているし、私もそう考えている。逆に要求するいっぽう、依存するいっぽうというのでは、子どもの依存と言われても仕方がない。   3について言えば、依存や要求の程度が法外であれば、やはり未成熟な依存としか言いようがない。

    ・ クラインに言わせると生まれたばかりの乳幼児は、同じ人間のよい面と悪い面が同じ人間のものと認知しない。 (略) 例えば、相手がミルクの出るよいオッパイの時は、自分も天真爛漫な天使のような赤ん坊になるが、相手がミルクの出ない悪いオッパイの時は、自分もむずがりオッパイにかむつく悪い赤ん坊になるというわけだ。同様に、ボーダーラインなどと言われる未熟なパーソナリティの持ち主は、相手がいい対象と感じているときは自分もいい自己となり、相手のことを理想化したり、真剣に愛したりするが、相手に何らかの悪い点を感じると簡単に相手に幻滅し、相手が自分に冷たいと感じると相手に攻撃性を向けたりする。つきあっている時はベタベタした関係だが別れるとストーカーのようになってしまうというのは、まさにこのパターンである。カーンバーグに言わせると、このパターンの人は自分と他人の境界も曖昧に感じられるので、相手の都合を考えられず、相手を振り回してしまうという。これもストーカーのパターンである。

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    <自己愛>と<依存>の精神分析 2

    コフート心理学入門 和田秀樹 PHP新書680円 より~

    ・ 自己対象について

    一つ目が「鏡自己対象」です。これは要するにほめてほしいと思ったときにほめてくれる対象です。あるいは、自分は独りぼっちなのかなと思ったときにちゃんと注目してくれるとか、そのように自分のことを愛してくれる自己対象のことです。繰り返せば、自分をほめてくれるとか注目してくれるというかたちで、自分が大切にされている、価値がある人間だという感覚を与えてくれる自己対象を鏡自己対象といいます。   それから二番目が、「理想化自己対象」です。人間いつでも前向きにがんばれるものではありません。落ち込むときもあれば、自分が不安でしょうがないときもあります。そんなとき、自分にとって神様になってくれて、「俺がついているからだいじょうぶだよ」と言ってくれたり、自分がどのように生きていけばいいのかわからないときに生き方の方向性を与えてくれたりする自己対象が理想化自己対象です。   この二つは、コフートが当初から考えていた自己対象です。鏡自己対象はほめられることで自身をもち、中核自己と呼ばれる自己を動かす根っこの部分で「野心の極」を形成します。一方、理想化自己対象は父親などのような自分の理想の人のことで、中核自己のもう片方の極に「理想の極」を形成します。

    三つ目に「双子自己対象」というものを想定しました。つまり、人間には、自分は人と同じであり、人間の中の人間なんだと感じたい基本的な心理ニーズがあって、それを感じさせてくれる自己対象が必要だというところを突いたのです。   実際、このニーズが満たされて、先生も同じ人間なんだと思えた途端に、すねたりひがんだりした感じがなくなり、ほめられてもすんなりと受け入れられる患者さんがおおぜいいます。   何かにつけてすねたりひがんだりして、どうせ先生は別世界の人だと思ってるということは、自分は同じ人間だという感覚をもてないということを意味しています。たとえば、お金を払っているから診てくれているんだろうと考えている患者さんがいるとすれば、それは人間関係として診てもらっていないと感じているということです。商人と客のような感覚で受け取っているのでしょう。そこで、「たまたまお金をもらっているけれども、ほんとうに心配なんだよ」という具合に、同じ人間なんだという感覚を与えてあげることがたいせつになるのです。もちろんお金をもらわなければ困りますから、「お金をもらって治療をしてるかもしれないけれど、私はあなたのことを人間として心配しているのです。ただ、あなたからお金をもらわないと食べていけないのですよ」と言って同列に立つのです。つまりお金をもらっているからほめてあげたり理想化対象になってあげているのではないという感覚をもたせるわけです。場合によっては、「私もあなたからお金をもらわないと生活が困ってしまうんだ」と伝える事で、患者さんは「先生も同じ人間なんだ」という感覚をもつかもしれないのです。

    ・ コフートは、患者さんを共感的に観察し、その自己愛ニーズを満たしてあげることで、患者さんが子ども時代に親の愛情不足で生じた穴を埋めてあげるのが分析家の仕事だと考えていました。そして、最終的には、現実には満たしてあげることができなくても、共感をして人間的な絆をつくり、ことばを通じてわかってあげる体験をさせてあげることで、患者さんの自己が固まり、他の人を自己対象として利用できる、つまり、他の人を信じられる人間にできると考えました。   精神分析という体験と、共感とことばという道具を使って人間のためにできることは何かと考えたとき、コフートの治療論は、要求不満ということばを使ってはいますが、その人のために精いっぱいのことをしてあげることなのだと私は信じています。

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    2008年5月12日 (月)

    ほーん~

    ・ 壊れた心をどう治すか コフート心理学入門Ⅱ 和田秀樹 PHP新書 720円 

    ・ 孔子が話す 世界一わかりやすい「論語」 長尾剛 PHP文庫 514円

    ・ 「甘え」の構造 新稿「甘え」今昔収録 土居健郎 弘文堂 1300円

    ・ 健康ライブラリー イラスト版 依存症のすべてがわかる本 渡辺登 1200円

      

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    2008年5月11日 (日)

    <自己愛>と<依存>の精神分析

    コフート心理学入門 和田秀樹 PHP新書680円 より~

    ・ 同情と共感の違いについて 

    まとめると、、一つ目は心理的な立場の違いです。同情は何となく上に立っている人が示すものですが、共感はそうとは限らない。同じ立場か下の立場であることも多いといえます。二つ目は感情の種類の違いです。同情とは悲しい感情やつらい勘定について使うものですが、共感は一通り相手がもっている感情に対してあわせていいければ共感であるといえます。三つ目はその主体者の客観性の問題です。同情の場合は比較的自分も感情的に流されているけれども、共感の場合はこちらは客観的で冷静な立場にいるということです。   しかし、どれも決定的とは言いにくいわけです。たとえば、感情の種類といってもどこで線引きができるのか。相手がおこっているときにこちらがあこるのは共感なのか同情なのか。そう問われると答えようがありません。それでも同情と共感の違いを述べなさいといわれた時、この三つくらい答えることができればだいたいはそうだねということになると思います。

    ・ つまり、相手の立場に立って、自分も相手と同じような境遇や心理状況におかれていたらどんなふうに感じるだろうと想像しながら患者さんの話を聞いていくと、患者さんの主観的な世界がみえてくるというのがコフートがいうところの共感です。

    ・ 患者さんのほうも、通常は精神的な発達レベルがわるかったりさまざまな感情に振り回されていたりすて内省できずにいるのですから、自分の心は本音ではどうなっているのだろうかと、ほんとうのところはどうなっているんだろうなどと不安がっています。それを治療者が代わりに内省してあげるのです。そういうことで出てきたのが、「共感は、他者の中の自己の認識であり、必要欠くべからざる観察の道具である。それがなければ、社会場面での人間の行動を含めて、人間の生活実に広大な領域が、不可知なままになってしまう」というコフートのことばです。   また、その論文の中で「共感とは、他者を包含しようとする自己の拡大であり、個々の人々との間の強力な心理的な結合となる」とも言っています。どういうことかというと、共感していれば自分と他者とが同じ感情になれるわけですから、自己が拡大すると言っているのです。そして、共感によって心理的な結合が生まれるといっているのです。

    ・ さらにコフートは、「共感は、自己によって引き出されるところの、受容し、確認し、理解する人間的なこだまである。それは、心理的な栄養分であり、それがなければ、現在我々が慈しんでいるような人間の生活は維持することはできないであろう」とことばを続けます。共感的な人間関係をもてなかった人というには、要するにまともな心理的な成長が得られないということです。自分をわかってもらえるという体験をしなければ、相手のことをわかることもできないし、人間は心理的に成長できないということをコフートは言っているわけです。

    ・ 共感を二種類に定義しています。情報収集活動としての共感と、人と人との強力な情緒的な絆としての共感の二つがあるというのです。共感は、最初は観察手段だったのですが、コフートは臨床をやっているうちに、それが情緒的なきずなになるんだと考えるようになったのです。つまり、代理内省の共感と、もうひとつは心の絆ということです。

    ・ 要するに人間というのは基本的に似たようなもので、自己愛が傷つけられたら、どんな人間でも怒ったりみじめな気持ちになります。また、理想的な人がそばにいれば、たいがいの人間は気持ちがよくて安心感が生じます。さらに、人はほめられるとたいがいはうれしいものです。そのように、基本的に人間というのはみんな似たようなものですから、それによって共感できるとコフートは考えたのです。   たとえば、好きな人にふられたらみんな同じように悲しいものです。「私は彼女にふられたうえに、会社をリストラになって、もう生きている価値もなくて、明日どの睡眠薬を飲んで死のうかと考えているんですよ」というようなことを言われたら、自分もその人の身になってみて、「ああそうだ、死にたくなるなあ。たしかにそれは死にたくなるよね。けれどしなれるとおれも悲しいんだよ」と言ってあげればその人は救われるでしょう。しかし、そこで共感的なことばを一つもいわず「芯ではだめだよ」とだけ言っても、あまり通じないのではないでしょうか。

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    2008年5月10日 (土)

    言いたいことが言えない人

    「恥ずかしがり屋」の深層心理 加藤諦三 PHP新書 760円 より~

    ・ 自立するとは、執着を捨てることである。

    ・ 社会的に望ましい存在ではなくても、「この人」は受け入れてくれるという安心感が自身につながる。   ありのままの自分が受け入れられると感じたときに、自己表現ができる。そこにその人の個性が表れる。   「こんなことを言ったらバカにされる」という恐怖感や不安があれば、おしゃべりな人も無口になる。

    ・ 相手に対する信頼感とは、相手が「実際の自分」を知っても、自分を見捨てないという安心感である。自分をさらけだしても傷つかないという安心感である。

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    「思いやり」の心理 2

    自分が大きくなる人間関係の方法 加藤諦三 大和出版 980円 より~

    ・ 本物の人間に接して成長してきた人間は、贋物になかなかごまかされない。洞察力は本物と接することによって生まれる。本物の人間とは、真の自己を発見している人、自己を知り自らの素晴らしい本性によって生きているヒトデある。贋物とは、自我の不統合な人間である。意識と無意識が分裂している人である。抑圧の強い人である。情緒の未成熟な人である。   贋物は押しつけがましい。親が贋物だと子どもを自分に似せようとする。ここで、先ず子どもはゆがんでしまう。子どもは自分を喪失し、生きている意味がわからなくなる。本物の人間に接していないから、成長してもどれが贋物で、どれが本物かわからなくなる。本物の人間とは”いい人”である。自分の本性を解放してくれる人である。   本物の人間は、自分を押し付けてこない。しかし愛情をそそいでくれる。贋物は自分を押し付けてくる。しかし相手を無視する。

    ・ 不機嫌の引き金になるのは、自分が一体化している人間なのである。したがって、時には「こんなに不機嫌になれるのは君の前だけだよ」とか「ほかのやつにはこんな文句はいえない」とか、自分と相手の近さを協調する。そういう時はもちろん期限のよい時である。そしてそのような言葉は相手を喜ばせると彼は確信している。   というのは、不機嫌な人間は、今述べたように他人との感情関係が不安定である。そして甘えた寂しがり屋で、他人との幼児的一体感を求めている。したがって、自分が他人から「君だけだよ」という言葉を求めているのである。その言葉を他人にむかっていうのだから、その人は他人はその言葉に喜ぶに違いないと確信するのである。   しかし、不機嫌な人間から自分の分身と思われた人間はたまらない。何をやっても不機嫌の原因にされてしまう。

    ・ 最近よく当事者意識の欠如がいわれる。モラトリアム人間が多くなった。モラトリアム人間とは、自信をもって生きることの喜びを味わったことのない人であろう。何事においても当事者なることを避けようとする人は、自分自身を信頼できない人である。当然他人も信頼していない。   当事者として苦労している人を「あんなこと馬鹿らしいよ」というようなサラリーマンは、自分で自分を信頼できないでいる人である。自分が自分を疑っている。若い頃、このような人と多くの時間を一緒にすごすと、その人も人格的に欠陥をもってしまう。つまり自信喪失する。もし自信をもって生きたければ、当事者になるべき時には当事者になるような上役と深入りすることである。そのような人からは仕事ばかりでなく人生全体について学ぶことはたくさんある。   自分の責任において仕事をしたがる人は、情緒的に成熟した人であり、決断すべき時にも「まかせるよ」などいう人は情緒的に未成熟な人なのである。仕事に対して否定的、消極的なものの見方をする人は、やはり人生全体をゆがめて見がちである。そのような人が、いかに余暇をすごしているのかを見ればわかる。そのような人が余暇に求めているものは、現実を忘れることである。そんな人は中年になっても、一時の刺激を求めてゲームセンターに集まる敗れた若者と同じなのである。その人の「自信のあるなし」が仕事のしっぷりに表現されることを忘れてはならない。

    ・ 事実がわれわれの自尊心を傷つけるのではなくて、事実についての我々の解釈が我々の自尊心を傷つけるのだ。

    ・ 甘えが満足されず、すねたりひがんだりした屈折した感情をもっている者は、いつも他人の悪口をいって歩いている。従って周囲の人間にとっては、これほど迷惑な人間はいない。となると、周囲の人間はその甘えた人間に対してどういう態度をとりだすであろうか。基本方針としては、なるべくかかわり合いを少なくしようという態度をとるであろう。そしてかかわり合いをもつ時にはすねたりひがんだりされないように、その場だけは甘えを満足させようとする。甘えが満足されず、すねたりひがんだりされたらどんなことになるか知ったいるからである。   自分の側がやるべきことをやらず、相手に対してだけさまざまな要求をする甘えた人間というには不思議なもので、その自分の要求いかに不当なものであるかということにはまったく気づいていない。自分の甘えが通らない時、相手は冷たい人間であり、相手は人間の気持ちを理解しないエゴイストということになる。

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    「思いやり」の心理

    自分が大きくなる人間関係の方法 加藤諦三 大和出版 980円 より~

    ・ 不幸な人というのは、自分を不幸にするような考え方に執着し、自分を不幸にする人に固執していく。自分を不幸にするためにエネルギーを使う。

    ・ 自我の確立していない人ほど、他人の欠点を見つけては辛らつに批判する。面と向かって口ではほめるけど、他人のあらを探して、陰で悪口をいうことに喜びを感じる。

    ・ あなたを大切にする人というのは、あなたがあなたであることを望む人たちである。

    ・ 人前では言葉の上で他人を軽蔑するようなことはしない。しかし、ふっと緊張がとれるような状況におかれると、やはりその言動には他人への軽蔑がある。   その人の底にある、そんな軽蔑を人間は感じとってしまうことがある。ことに弱い人間には、そのように感じる能力が鋭敏であったりする。強い人間には、そのようなことは弱い人間にくらべて少ないであろう。弱い人間は他人からの軽蔑を恐れているから、その点については敏感なのであろう。   うそのやさしさには、やはり要求がましさがある。英語でいうdemandingなのである。どんなに相手を思いやっているような言動をしても、その人の心の底には相手への要求がある。自分のやさしさに対する見返りを求めていたり、相手にこうしてくれ、自分をこう見てくれ、自分をこう扱ってくれという要求がある。しかも、しれがかなり幼稚な願望にもとづいて要求である。そんな要求を、弱い人間はやはり鋭敏に感じとる。   要するに、ストレスを感じる方も、ストレスを与える方も、幼稚なこころを心の中に多く残しているのであろう。

    ・ 相手の言動一つ一つが自分の思うようにならないと怒り出す。つまり相手の言動一つ一つが自分の心の底の満たされなぬ愛情要求にかなうものでないと怒り出す。   よく箸の上げ下ろしにまでうるさいということをいう。それは相手の箸の上げ下ろしまでが、自分の満たされぬ愛情要求にかなうものであることを求めているのである。小さな子が食卓に出される食べ物の些細な並び方一つで怒り出し、「もう食べない」などと言い出す。それも母親への満たされぬ愛情要求から、難くせをつけているのである。   それと同じ事が大人の人間関係にだってある。ただ大人は4歳の女の子と同じようなことはいえない。そこで正義をもち出してくる。「友情がない」とか「冷たい人間だ」とか「君は利己主義だ」とか、いろいろと主張してくる。人間としてあるべき姿をもち出して相手を責める。しかし、それはすべて責めている人間の心の底にある満たされぬ愛情要求から出てきていることなのである。

    ・ 彼自身がつねに他人に何かを求めているのである。経済的利益とか名誉とか快楽とか。だから、他人も自分にそれらを求めていると感じてしまうのである。彼自身、他人とのつきあいそのものを楽しめないから、他人が自分とのつきあいを楽しむとは想像できないのである。   愛とは不安のない状態であるということは、同時に「なぜ?」という問いに意味がないということでもある。愛の世界とは「なぜ?」という問いのある世界より、もちと根本的な世界である。「私はあなたを愛するから愛するのです」 - これは、人を愛するのには理由などいらないということであろう。   人間が人間として存立できるかできないかという根本的なところにあるのが、愛なのである。愛は人間を人間たらしめるものである。愛とは体験するものであって、その内容を説明するものではない。   自己評価の低いということは、その愛の体験がないことを示しているのである。うつ病の病前性格者が、もし愛を体験するならば、内面の不安は解消し、その性格も大きく変わるであろう。その時はじめてその人らしい性格になる。それまでの性格は、何度もいうように、内面の不安を避けようとする努力の結果として生まれてきたもので、その人の本質が表現されたものではない。あくまでも内面の不安に対する防衛なのである。

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    2008年5月 5日 (月)

    ぴんぽんぱん ふたり話

    瀬戸内寂聴 美輪明宏 集英社 1500円 より~

    ・ 他の人間を見るときの価値観を、目の前にいる人の心がどれだけきれいか、きれいでないか、純度が高いか、低いか、それだけで教えていくべきだって。

    九九が出来る、漢字が読める、何でも知ってる、地位や名誉やお金を持ってる、学歴がある、家柄がいい、ブランド物をたくさん持っている、、、そのような俗なことにこだわって、人としての本質を見る目を持てないということは、悲しいことだと思います。「そんなことゆうても、九九くらいはできんとー」「・・・・・そうですか・・・・・」

    ・ 私は、いつも若い人たちに、「自分を育てるの親は自分よ」と言うんです。親や先生や、年上の人たちは人間の先輩としていいところもあるけれど、みんな、実は欠点だらけなんだ。だからいいところだけとって、悪い所は捨てればいい、と。   自分自身がいいことを聞いて、それを租借して、いい人になるのも、あなたの一生。いい意見もなにも聞かないで、グレちゃって一生終わるのもあなたの一生。だから、自分を育てる先生も、親も、生徒も子どもも、全部自分自身なんだと言うんですね。

    いい話を聞いても、聞こう、教わろう、って気がなかったら、何にもならない。まずは、自分自身が、教わろう、聞かせていただこう、っていうアクションを起こせなければ、自分育てもできないのだ。

    ・ 「膝の上に上がるから頭をなでてやったら、いい気になって肩まで登ってくるやつがいる。それを放っておくと今度は頭まで登って、顔までなめ出すやつがいる。おれはそういうやつが大嫌いなんだ。君は、そういうところがなかったからね」と言ったんです。   私もそういう人は大嫌いなんですよ。私には、親子であろうと、兄弟であろうと、夫婦であろうと、他人であろうと、腹6分でつきあうべきだという信念がありますからね。「腹6分でつきあっていれば、親しき仲にも礼儀ありで、みられたくないところは人にみせなくてすむし、また見なくてもすむ。近親憎悪で大変なことになることもなくなる。助けを呼ばれれば出ていけばいいんです。それが人間の一番基本的なつきあい方だと思いますよ」

    「近親憎悪」、一番怖いです。「腹6分」、間違いないです!「助けを呼ばれれば、出て行けばいい」。本当にそう思います。お節介で、先先いろいろなことをしても、相手の方が、本当にその事が必要だと思っていなければ、馬の耳に念仏、ただうざいだけだと思われてしまいますから。ただ、何かあれば、いつでもゆうてね~とか、声はかけさせていただいております。何かあったときに、私が必要だと思われるかどうかはわかりませんが。。

    ・ 魂の純度

    ・ 恥と誇り

    ・ 地獄、極楽は胸三寸にある

    井の中の蛙、のように、狭い範囲で、固定観念や一つだけのものさしでいくら見ていても、変わる事は出来ないけど、意識を変え、自分が変われば、思い方一つで、良い方向に変わる事はいくらでも出来るのです。ということではないでしょうか。。。

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    2008年5月 4日 (日)

    感じない子ども こころを扱えない大人 4

    ほろ岩奈々 集英社新書 660円 より~

    DESC法というのは、四つのステップにしたがって、自分が伝えたい気持ちをはっきりさせ、実際にセリフを作ってみるという簡単な方法である。

    ① D (describe) - 描写する

       これからわだいにしようとすることを、確かにそうだなと自分も相手も納得できる言い方で描写する。

    ② E (express,empathize) ー 表現する

       Dで描写したことに対して、自分がどう感じているのかを表現する。さらに相手の気持ちへの共感があればそれを加える。

    ③ S (specify,suggest) - 特定の提案をする

       自分がDの状態に対して、相手にどのようにしてもらいたいのかを具体的に提案する。

    ④ C (choose,consider) - 選択する

       相手がイエスと言った場合とノーと言った場合について、なんと応答するかを考える。

    * 気持ちの言葉で話してみよう

    (1) あなたが、この2~3日、感じていることは?

    前向きな気持ちになれるように、自分の悪い所を洗い出したいし、人様との関係を、より良く築けるように、どうしたらいいのかを試行錯誤中~そして、恋したい。

    (2) あなたが楽しいと感じるのは、どんなとき?

    気持ちが分かり合えたとき。一番大切な人と一緒のとき!

    (3) 最近「きれい!」と思ったのは、どんなこと?

    黒蜥蜴の舞台で見た、美輪さんの所作、微笑み。

    (4) 怒りを感じるのは、どんなとき?それをどうやってすっきりさせている?

    気持ちを無視されたり、決め付けられたりしたとき。でも、、とかっていうと、じゃあそれでいいのではないか、あなたが良いのなら話す必要はないとか、とにかく、気持ちを無視してこられると、ほんまに、二度と喋らない!って思う。し、ほんとうに、しゃべれなくなってくるし、わかって欲しいとも、思えなくなってくる。だから、ブログに書く。いろんな本の引用や、いえ、私の言葉で書いても信用してもらえないので、本の引用をする。すると、自分の頑なところも見えてくるし、読み返せるので、そのうち、自分の言葉に出来そうな気がしてくるのが、有難いです。

    (5) 今までで一番悲しかったことは?それをどうやって乗り越えた?

    母親に、自分の気持ちを話そうとしたけど、全く聞いてもらえず、反対に、私の気持ちもわかってくれ、と言われた時。時間・・・・・・・・が、解決、、、したのか。。。。。だから、いまだに、自分の気持ちを無視される事に、異常に敏感なのかもしれないな。。。

    (6) 自分が今までにやりとげたことで、我ながらよくやったと思うことは?

    最近では、就職活動。ちょっと前は、子どもの権利条約のNGO活動や、不登校に関する情報公開や、女性問題活動でのおばちゃんたちとの関係、かな。。

    (7) 自分が自殺しない(生きつづけている)理由は?

    ひょっとしたら、良いこと、幸せな出来事があるかもしれないから。

    (8) 最近、自分にごほうびをあげたのはいつ?どんなごほうびだった?

    今月二日に、美輪さんの舞台を見に行ったこと。

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    感じない子ども こころを扱えない大人 3

    ほろ岩奈々 集英社新書 660円 より~

    本のなかに、自分で考えてみよう、というような項目がいくつかあったので、まとめてみました。

    ・ ① 自分がいじめられたと感じたのはどんなときですか?

       大人になってからのことでも、子どものときのことでもいい。「今のいじめに比べたら、あんなのはいじめの部類に入らないかも」などというように、程度の強弱は考えずに、自分が「いじめられた」と感じたときのことを、自由に書いてください。

    無視されたり、私の言う事を否定的にしか受け取られず、だからダメなんだとか、あなたが悪い、とか、気持ちを聞こうとせずに、決め付けられたりしたとき。だから・・と、説明をしようとしたが、言い訳・・のように言われ、何も言えなくなってしまったりした。

    ② そのとき、あなたはどう感じ、どう対処しましたか?

       いじめられたとき、あなたはどんな気持ちになったかを思い出して言葉にしてみてください。そして、どう対処(対応)したかを具体的に書き出してみてください。

    私のことを、ただ利用してるだけなのか、私のことを理解しようとするのではなく、奴隷のように思ってるのか・・悲しく辛かった。そして、だんだん、話ができなくなり、言おうとしても、このように言い返されるのではないか、そうしたら、また、悲しい思いになってしまう、説明しても、言い訳と言われるし、揚げ足を取られたり、理屈屁理屈でやり込められたら、、、などと思うと、説明もままならず、ただ、相手の言う事に、自分の感情とは違っても、そうだね、と言うようになってしまった。

    ③ 自分が人をいじめたくなるのは、どんなときですか?

       いじめたくなる状況、いじめたくなるときの自分の状態、こんな相手だといじめたくなるなど、書きやすいものでいい。言いにくいことではあっても、本当にいじめるかどうか、行動に移すかどうかは別問題。ただ、どうしてその相手なのか、なぜ自分はいじめたくなるのか、それを考えるきっかけとしてください。

    自分がいじめられたときの状況に似ているなと思うと、相手に自分が言われたような事を、ついつい言いたくなってしまう。言ってる時もあると思う。恥ずかしいことだが。。。言い訳かもしれないが、私はこういう気持ちなのだ、ということを、わかってもらいたい、ということもある。

    ④ いじめたい気分をどうやって紛らわしましたか?どうやって、実際にいじめをしないですませましたか?

       いじめたいと思っていても、誰もがそれを実行するわけではありません。いじめたくなる自分をあなたはどうやって抑えましたか?どうやっていじめたい気持ちを解消したか、などを答えてください。

    本当にわかって下さる方に話した。このようなことをされてるというか、言われたりしたと、愚痴を聞いていただきました。他、ブログに書いたり、そのままは書けませんが。。あとは、なぜ、そのような言動をされるのかを、考えたりした。けど、最中では、なかなか恐怖心のせいもあり、第三者的に冷静に考えるのは難しかったです。

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    感じない子ども こころを扱えない大人 2

    ほろ岩奈々 集英社新書 660円 より~

    ・ ルールとして、「いじめはやめよう」と言ったところで、子供タチには、リアルなこととしては、伝わらない。大人から「いじめられるとすっごく落ち込むよね」と言葉をかけられると、子どもも「そうなんだよね」と納得できる。いじめる側についても、いじめる気分がどんなときにおこるのか、と一緒に正面から取り組むことで、「嫌なことがあるといじめたい気分が出てくるみたいだ」とピンとくる。   いじめに限らず、「そのときどう感じたか」「そうされたらどう感じるか」といった気持ち、感情のレベルで大人が子どもに話してみる。そうすると、思いのほか、子どもたちにつたわりやすい、という実感を私は持っている。

    ・ もしも、ここで先生が「横入りはだめでしょ!」と叱るだけだとしたら、ある行動が○か×かということを示すだけで終わってしまう。「正ー誤」の世界に、一足飛びに行ってしまうことになる。「お互いの気持ちをわかりあい、気持ちよく存在するためにあるルール」といった部分が抜け落ちてしまう。自分のみならず、お互いの気持ちに無関心なのだから、自然と相手を無視したり自分勝手な行動が目立つようにまる。子どもたちは、自分の気持ちをどうコントロールすればいいのか、どうすれば相手に気持ちが伝わるのかがわからない。

    ・ 自分が本当にしたいこと、望んでいること、大事に思っていることが、押し寄せる「仕事」という大波にのみ込まれてしまう。それは、自分の感情や感覚が、効率第一主義の社会のなかで抑え込まれてしまっている状態だと考えられる。   そして、この「感情よりも効率」「テキパキと進めることが大事」という、仕事の世界であたりまえになっているものが、家庭のなかにも持ち込まれ、当然のこととなっているのが、日本社会の現状だ。

    まさに!!自分の気持ちを無理矢理抑え込んでるから、抑え込んでない人や自由な人をみると、怒りがこみあげてくるのだろう。けど、怒りはマイナスの感情。良くない。だから、社会人としてそのような行動はおかしいとか、常識、正論、みんなと合わせないといけない、などの理屈を、効率が悪い、人様に迷惑がかかる、という言葉とともに、浴びせかけてしまうのだろうか。。

    ・ 常に誰かの意図を探ろうとか、裏の意味をみつけようとしていると、関心が相手にばかり向かってしまう。そのせいで、自分がだんだんわからなくなる、ということがおこりやすい。自分が何を考えているか、どう思っているのか、何をしたいのか、どう動きたいのかなどが、どんどんあとまわしになっていく。

    そして、必要以上に、疲れる。くたくたになる。

    ・ 「怒り」「嫉妬」「落ち込み感(がっかり気分)」「親密感」・・・・・これらは、本当は感じているのに、「自分のなかに抑え込んで、封印したくなる」感情なのだ。   「こんなことを思ってはいけない!」「こんなことを思っている自分を認めたくない!」という動きがこころのなかでおこる。また、「怒り」など‘ネガティブな気持ち‘を持つ事自体が、嫌な気分を引き起こす。それなら、こういう感情には「気づかない」ようにしよう、「感じない」ように封印してしおう、ということになる。   「親密感」については、以外に思われるかもしれないが、これも危険なものになることがある。こちらが親密になりたいと思ったり、尊敬や好意の気持ちを抱いても、相手からは拒否され、自分が傷つく可能性がある。夫婦同士どちらが先に「好き」と言ったかで、その後の力関係が決まるといった笑い話もあるように、親密感を抱いてしまうと自分が不利になる、ということもおこりうる。好意という気持ちを抑え込もうとするあまり、かえって意地悪な態度をとるということもよくあることだ。「抑え込み、封印したくなる」感情というのは、ネガティブなものだけではないのだ。

    ・ 相手の何気ない言い方に巻き込まれたり、自ら発する言葉の端々に、意図せずしてほかのメッセージを紛れ込ませたり。怒りの感情や無力感を無視しつづけることで、必要以上に皮肉っぽい言い方になってしまったり、尊敬や好意の気持ちを隠そうとして、かえってそっけない表情や意地悪な態度になってしまうなど、誤解の種も生じてくる。ためすぎた碇が突然爆発しる、といったコントロール不可能な状態になることすらある。怒りや嫉妬、落ち込み気分、親密感といった自分でも認めにくい感情が、姿を変えて表現の中にt出てしまうのだ。   では、自分のこころのなかをのぞいてみて、「なんとなくごちゃごちゃしている」とか「落ち着かない感じ」といった、散らかりきった部屋のような状態を「そのまま見る」ことから始めてみる。   そのまま見る、というのは案外難しい。

    そうか。。。感情を抑え過ぎている事に気が付かなかったんだ。。だから、皮肉っぽい言い方になってたり、そっけない表情、意地悪な態度が知らず知らずに出てしまい、気分を害されることになっていたんだ。。。。。。

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    感じない子ども こころを扱えない大人

    ほろ岩奈々 集英社新書 660円 より~

    ・ 「気持ちを大切に」 - これは知識としては、あたりまえのこととなっている。気持ちは大切にされるべきだ、と多くの人が感じている。   けれども、どうすることが気持ちを大切にすることで、具体的には何をすればいいのか。めげている人に「遊びに行こうよ」と声をかけることなのか、静かにあたたかく見守ることのなのか。「学校をさぼりたい感じ」「人を傷つけたくなる気持ち」や「死にたい気分」のような‘ネガティブな気持ち‘までも大事にされるべきなのか ー 。  こういったことがわからない限り、「気持ちを大切に」は、虚しいお題目の繰り返しになってしまう。

    ・ 聞かれた本人は「気持ちを聞かせてくれと」と言うからやっとの思いで話してみたのだ。それなのに、「そんな気持ちはいけない」「そんなふうに考えるのはやめなさい」と、もう一度気持ちを封じ込められるような目にあうことになる。こんな扱いをされたら「二度と自分の気持ちを人に話すものか」と思うようになっても当然だろう。

    ・ 「どうして、そう思うの?」と事実関係を聞いて、その答えを言わせてしまうと、聞いた側はジャッジを下したくなる。どうして?の答えが「なんか、私にはなしかけてくれないの」なら、「そういうときは、自分から話しかけなくちゃ」とアドバイスしたくなる。「なんとなくそう思うの」という答えを聞けば、「そんなこと気のせいよ」と片づけたくなる。聞いた側はすっきりするけど、話した側にはもやもやが残りそうな会話だ。話した側は、「気にしないでおこう」と思いながら、そうできないで困っているという場合がほとんどだからである。なのに、そうたたみ困れるように「あなたの思いすごしだ」と決めつけられると、「そんなことわかってる。でも、気になってるのに・・・・・」というつぶやきが聞こえそうだ。   さらに、子どもの場合「どうして?」を「叱られた」と感じる場合もある。「もう少し聞かせて」というつもりで言った「どうして?」が「そんなことを感じてはいけない」「そんな話をしてはいけない」と受け取られてしまう。これは、「どうして、あなたはそうだらしないの!」「どうして、さっさと宿題しないの!」のように、「どうして」が叱り言葉として使われることが多いせいではないか、と私は思っている。   カウンセリングの教科書などにも「どうして」という言葉ではなく「もう少し詳しく話してもらえませんか?」のような言い方をするほうが好ましい、といったことが書いてあることを付け加えておこう。

    ジャッジを聞きたいわけじゃないんだ。愚痴、を聞いて欲しいだけなのだ。答えは、自分の中にある。ただ迷ってたり、もう少しのところだったりするだけ。良いも悪いも言ってないのに、ちょっとぶちぶちと言うような事を、悪い事と決め付けられる。いや、そうじゃなくて・・というと、じゃあ言わなきゃいい、と。二度と言うまい!と、硬く誓ってしまいますよ。。また、そう言われた相手の人が愚痴を言っても、なかなか聞けなくなりますし・・悲しいことです。。

    ・ 「そうだよ。やっと解ったか」とか「そうかもね」といったちょっと突き放した、気心の知れた仲や親子ならではの応答例もあった。だが、実際、その答えを言われてみると、「冗談だとわかっていても、信頼関係があるからこそ言っているとわかっていても、すごく嫌な気分になる」「もし本当に嫌われていることがじじつだとしても、これ以上この聞き手とは絶対話したくない感じになる」というものだった。

    空気を読まないといけないのは、こういう時であると思う。ちょっと突き放した言い方の方が、後を引かなくて良い場合もあるから。。

    ・ 怒りの感情を強く抑えている人ほど、怒りをストレートに表現する子どもに対して厳しくなるものだ。「怒っちゃいけない」「そんなこと感じちゃいけない」と、自分と同じように感情を抑えなさいと自分の周囲にさえも強いるようになりやすい。結果、子どもの側は、もやもや気分を残したまま、それを無理やり抑え込むことを続けざるをえない。これでは、自分なりの感情の扱い方を開発するチャンスもなく、感情を扱う方法も持たないまま、混沌としたもやもや感、イライラ感だけがどこかにくすぶっている状態になっても当然ではないだろうか。

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    2008年5月 3日 (土)

    本~

    ・ NHK知るを楽しむ この人この世界 源氏物語の男君たち 瀬戸内寂聴 650円

    ・ ぴんぽんぱんふたり話 瀬戸内寂聴 美輪明宏 集英社 1575円

       ー 黒蜥蜴を見に行った時に、サイン本を買わせていただきました。タイトルの意味は、品位の「品(ぴん)」!根本の「本(ぽん)」!模範の「範(ぱん)」!対談集です。

    ・ 少年たちはなぜ人を殺すのか キャロル・アン・ディヴィス 浜野アキオ{訳} 文春新書 1000円

    ・ SとM 鹿島茂 幻冬舎新書 720円

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    2008年4月30日 (水)

    クロワッサン 2

    5/10 この女性の生き方に魅せられて。 より~

    ・美輪明宏さん 「‘正体‘を晒す人間たちのなかにあって、かつては「大人、だいにん、だいじんとかとも言うんだけど、敵も見方もみんな来い来いという、巨大なドックのような胆の据わった大人物」がいたという。現代の悲劇は、「そんな人間たちがいなくなったことじゃないかしら」。

       そんな大人物になれるように、少しずつ日々精進してまいりたいと思います。

    「覚えるだけならコンピューターと同じですよ。文化や教養って、得た知識を60兆の細胞に浸透させて、生かすことでしょ。生活の一挙手一投足、人生すべてに、知識をいかして、言葉遣い、服装、たしなみ、謙虚さ、知識と教養がありながらもそれをひけらかさない。そして優雅でね、凛とした強さがあって、仁義も義侠心もあって、誇りもあって、恥を知っている。人に対する無償の愛がある。こういうものがそろって初めて文化だと私は思うんです。」

       このような文化のある人は、いてくださるだけで安心させていただけ、微笑みだけで全てを語ってくださるような、そんな気さえいたします。そんな人になれるように感性を養いたいです。

    ・ 女の新聞 日常生活の中の差別 171 より~

    3月29日に行われた「反貧困フェスタ2008」 http://www.k5.dion.ne.jp/~hinky/festa2008.html のことが書かれてありました。

    「収入がなく、行政や家族に頼れない個人は、どんなに努力しても自立が出来ない。   加えて、若者たちが感じている生きづらさには、「経済の貧困」だけでなく、「(社会との)関係の貧困」が大きな影を落としている。過剰な同調と競争意識を強いられた若者たちは、学校を居場所にできない「不登校」、あるいは会社を労働の場に出来ない「ひきこもり」に陥り、そのストレスから自分より弱い他者(野宿者)を攻撃することで、自己の存在・価値を実感しようとしているのだ。   「貧困問題を解決するには、その実態を伝え、存在を社会的に共有することが大切です」

       どこを見ても、何を聞いても、みんなとの同調を求めるような意見ばかりが聞かれ、学生とは、社会人とは、こうあるべきだ!そうできない人間は、失敗の烙印を押され、排除されても自業自得である、と唱えられる。人は、なぜ、生きているのだろう。人間らしさは、どこへ行ったのだろう。過剰なまでの同調、異常なまでの正論、人の心は無くなってしまったのだろうか。。

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    クロワッサン

    5/10 この女性の生き方に魅せられて。 より~

    ・ 堀文子さん 「私はいつも己との一騎打ちをしていますから、好き嫌い、この二者択一しかありません。損得だとか利益を考えると迷うばかり、自分が分からなくなります。」

       損得や利益を考えるのは、自分と周りを比べていたり、自分の能力以上のものを欲していたり、自分にすら正直じゃない、そんなふうに思うのです。

     「私は自分の目や手で確かめたものしか信用いたしません。自分で感じて自分で描かなければならない仕事ですから、人の知識は役に立たないのです。」

       何事にしても、自分自身に起こるさまざまな事に、人の知識は役に立たないと思います。自分自身の気持ちや思いに蓋をして、社会的に、人様にどう見られるのか、常識的に、そこに沿うだけのために生きているのなら別だと思いますが。。

    「これだけしたのだから見返りを、と当て込むような俗な世界とは無縁なものでございます。」

       最近は、見返りがないと何もしないし、しても損だとか、意味がないなどと言うことが、正論になりつつあるような気さえいたします。

    「悔やんでも戻れない過去は捨て、またやり直しながら無念をうめるしかない。すんだ仕事は忘れ、消してゆくのは無責任のようですが、私にはその方法しかございません。」

    「それ知ってる、なんて絶対言いたくない。知識も功績もため込まないようにして日々の感動を全身で受けとめたいのです。」

       感性は、そこで生まれてくるのですね~。

       

    ・ 辰巳芳子さん 「いちばん大事なことって、教えて伝わるものではありません。」

       本当にそう思います。人の、血や肉になる大事な事っていうのは、その人が、自分で感じ、考え導き出して始めて、分かる事だと思います。

    「教養というのは知識の量ではなくて慎み、分際をわきまえて知ろうとするひたむきな態度だと思います。」

       慎みを持ち、謙虚な態度に教養が現れてくるのですね~。

    ・ ワダエミさん 「日本の若い人には、とにかく何でも教えてもらってから、という感覚があるんです。靴のサイズを見分けるというのは、将来、こういう仕事をするなら、習う、習わないではなく、できて当たり前。常識なんですね」

       間違えたらどうしよう・・先にそれを考えてしまうのでしょうね。間違い、失敗、それらはいけないことで取り返しが付かない事、そんな風潮があるような気がします。だから、正しい方法を一から順に分かりやすく説明してもらわないとダメ。逆に、説明できない人が悪者にされてしまう。一を聞いて十を知る、というような洞察力やその人の癖や考え方を推し量ったり、自分で考えてみるというようなことは失礼だといわんばかりです。自分に汚点が付く事を、異常なまでに恐れている、とでもいうのでしょうか。。

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    2008年4月12日 (土)

    ・ 文化人類学15の理論 綾部恒雄 編 中公新書 800円

    ・ いじめるな! 弱い者いじめ社会ニッポン 香山リカ 辛淑玉 角川oneテーマ21 686円

    ・ 意識とはなにか <私>を生成する脳 茂木健一郎 ちくま新書 700円

    ・ 感じない子ども こころを扱えない大人 ほろ岩奈々 集英社新書 660円

    ・ 自由論 ミル 山岡洋一訳 光文社古典新訳文庫 515円

    ・ 学校裏サイト 進化するネットいじめ 渋井哲也 晋遊舎 720円   -   お友達のご本です。ぜひ、お買い求めくださいませ(^^)

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    2008年4月 7日 (月)

    おんな

    女という病 中村うさぎ 新潮文庫 400円

    女性が主役を演じた13の事件についてのドキュメント。痛いくらい生々しい現実感。どの女性の方の気持ちもわかるといいますか、胸が痛いくらい悲しい気持ちになるかたや、自分か・・みたいな方。。。どの女性のかたも、ちょっとしたズレやちょっとした間違い、こだわりの強さといいますか、みんなと同じにしなきゃとか、なんてゆうたらいいのか、質問に対して、正しいと思い込んでる答えが一つしかなく、人を受け入れるより、人を批判してしまい、逆にそのことが自分の首を絞めてるのだけど・・・何事にしても、これはこうしなきゃ、こんなときはこうするべきです、こうあるべきなんです、、、、、あんなことするなんて、あんなこというなんて、それではだめでしょう、、、、そんなこともできない、あんなことすらできない、こんなこともわからない、、、、、このように思ってしまうようなことがないように。答えは、絶対ひとつじゃないです!学校になんて行かなくても生きて行けるし、結婚しなくても、子ども産まなくても、仕事できなくても、料理嫌いでも、高卒でも、ぶすでも、でかくても、左利きでも、田舎者でも、変態でも、、、「それじゃだめよ、だからだめなのよ、そんなこともできないようじゃ終わりよ。。。」いろいろと言う族がいますけど、そういう人たちは、かわいそうなんです。物事を捉える巾や教養が狭すぎるのです。そのように、じみーに人をバカにしてくる人のようには、自分はならないと硬く心に誓いませんか。。だって、言われたら悲しいでしょ。ぶすにぶすて、言ってしまうような、思いやりのない事を、常識なのに、あなたのためを思って忠告してあげているのに、いえ、そういうこともありがたいときありますけど、何でもかんでも言っていいことないでしょう。自分が言われたらって、思いましょうよ。人生に、絶対正しい道やものさしなんてないのです!自分で作っていくものなんです。みんなゆうてるから、みんなと同じように、あの人みんなと同じようにしてないから批判されてもいじめられても当たり前、そんな怠け者にならないように。いえ、勝手にしろとか、みんなに迷惑かけてもいいとか、ゆうてるわけじゃないのですよ。日々の身近なことを、テレビがゆうてるとかじゃなく、自分は、自分がどう思うのかなんてなことを自分で考えてみてはどうでしょう~って、思いました。そして、やりっぱなし、途中でやーめたとか、責任うやむや~にせず、しっかり最後まで考える、ハイ、自分に言い聞かせております(^^;;

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    2008年4月 4日 (金)

    非属の才能 3

    山田玲司 光文社新書 より~

    ・ 「自分が認められないまま他人を認める」というのは案外、むずかしい。   おまけに、感度がそれなりに良く、美意識が高い(と思っている)と、いくら自尊心を下げようと努力しても、まわりをリスペクトするのはかなりの難行だろう。   「どいつもこいつもバカに見える」   そんな世界で、とりあえず自分をどけてひと通り受け入れる方法がある。   行き詰まったら、視点を切り替えてみればいいのだ。視点が七つくらいあると、気持ちはだいぶ楽になるだろう。   最初はまず、「相手からはどう見えるか?」たったこれだけで、自分だけの世界からは出ることができる。   すべてには事情があり、歴史的経緯がある。バカをやっている人は、やるに至った理由があるのだ。そして、ひどいことを言う人間は、だいたいにおいて、ひどいことを言われてきた人間だ。   想像力といくぶんかの思いやりを持って、相手の視点でものを見てみよう。   つぎは、「10年前の自分から見たらどう見えるか?」「死んだあとの自分からはどう見えるか?」といった類の「時間軸を変えた視点」だ。   よく「もう40歳だ」とか嘆いて、和解世代を羨む人がいるが、80歳の自分から見れば、90歳でも人生というステージの上だ。   日々が不満だらけなら、「今日は末期癌と言われた自分が奇跡的に完治して退院する日だ」と思えば、ほとんどのことは許せるだろう。   

    ・ 俯瞰的にものごとを見ることができるようになったら、つぎは他人の話を聞いてみよう。自分の世界を飛び出して、相手の世界に飛び込むのだ。   非属でいることは自分の世界から出ないということではない。同調圧力で見失いかけた自分を見つけたら、いつまでも引きこもったり旅暮らしを続けたりする必要はまったくないのだ。   「どこにも属さない自分」に誇りを持って、今度は人の話を無条件で聞いてみるといいだろう。無条件で相手の話を聞くことほど、人間関係を築くうえで効果的なことはないからだ。

    ・ そして、向こうからすれば、話を聞いてくれる人は決して「嫌な人」には見えないだろう。   たとえ、相手がサングラスにタトゥーの強面だとしても、逆に「見た目のわりにいい奴だ」などと思えるから人間はおもしろい。   これは、恋愛の場面ではさらに顕著だろう。   どんな相手と出会いたいかといえば、「話を聞いてくれる人」であり、「自分をわかってくれる人」なのだ。モテる人はだいたいにおいて聞き上手である。

    ・ 大阪のある少女が、おばあさんにこう言われたという。   「耳はお財布耳にしなさい」   つまり、人の話は一度なかに入れておいて、必要な時に出せばいいということだ。   商人の街大阪には、こういう人間関係を良好にするための哲学があふれている。   話を聞くことがができない自分人間は、会話に「でも」と「だって」が多い。否定から会話に入る人間が本当に多くてうんざりする。   前出の「てゆうか」になると問題外だ。

    ・ 話を聞く時間は自分の意見をあえて言わず、ひたすら相手の言わんとすることを聞く努力をするのだ。   努力は嫌い?ハイ、僕もです。   ところが、この努力の見返りは大きく、これができないと人生にはいらぬ敵や自分を無視する人間があふれ、遥かに苦労する羽目になる。   相手によっては、いらない情報や自慢話、こっちがよく知っている話をくり返す人もいるだろう。だからといってここで見下して、「君はわかっていない」などと相手を否定しないことだ。   向こうから見たら、自分もそんなふうに見えているかもしれないのである。   それに、「どんな相手も自分より劣っていて、言い分を聞くことには微塵のメリットもないのか?」といえば、そうとは言い切れまい。   すべての人間に生きてきたいままでの時間があるわけで、聞き手の力量によっては、人間は誰でも情報の宝庫になるのだ。   

    ・ もちろん、話を聞いていると、少なからず自分とは対立する考えを相手が言い出すこともある。   当然自分と違う価値観なのだから、「共感」は出来ない。ところが、こういうときこそ、新たな視点や価値観を身につけるチャンスなのだ。

    ・ 簡単に相手を否定せず、尊重し、自分を大きく見せようとしなければ、自然と相手もあなたの「変わった部分」を認めてくれるようになるのである。

    ・ ―群れずにつながる。

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    非属の才能 2

    山田玲司 光文社新書 より~

    ・ 結局、嫌われ者の変人になってしまうのは、「個人主義の病」にかかった人間だろう。つまり、自立した個人であるのはいいが、自我が強すぎて、まわりとの協調性を軽視してしまうのだ。   同調しないのはいいが、協調もしないような人間は、猫くらいしか話し相手がいなくなってしまう。

    ・ 自分の感覚で決めるのは大いに結構なのだが、自分が常に正しいかどうかはわからないという自覚だけは必要だ。そうしないと、自分の考え方を他人にも強要することになりかねない。

    ・ 群れに属さずに個人の道に生きる人間ほど、逆に他者を尊重する責務があるのだ。コツとしては、自分が正しいと思っても、相手が違う意見を何度も主張したり、こっちが驚くような変わった意見を言ってきたときは、一度自分を引っ込めてこう言うべきだろう。   「そうかもしれないね」   そして、家に帰ってからじっくり考えてみたらいい。   どんな人間でも曖昧に正否を判断できるほど優れてはいまい。   人生の旅ははじまったばかりで、自分は知らないことばかりの未熟な子猫だと思っているほうがいい。そういう相手には、愛も情報も惜しみなく与えてくれる人がこの世界にはたくさんいるからだ。   実際、僕が出会った人は、博学な人ほど「自分はまだ何も知らない」と言っていた。中途半端な若者ほど、「自分はなんでも知っている」という顔をしている。

    ・ 自分に埃を持つのはいいが、プライドというタチの悪い妄想は一刻も早くトイレにでも流してしまったほうがいい。   プライドをふりかざす人は、「無条件に私を認めなさい」と言っているのだ。逆に言えば、それだけ自分のことをみとめてもらえていないと思って生きているのだろう。   こういう威圧的な態度の人を褒め称える気にはなれない。結果、プライドの高い人ほど認められないという悪循環が生じる。   人間は自分を認めてくれる人を認めたがるし、謙虚な人を褒める生き物なのだ。   努力が報われるにはいくぶんかの時間がかかる。自分の努力や人知れず抱えた悲しみなどが無条件で即座に報われる例はほとんどないだろう。   ときどき、たいした苦労もなく、とんでもなく高い評価を受ける若者もいるが、それは栄光の前借みたいなもので、必ず長い返済期間が待っているものなのだ。   とりあえず、不当に自分を扱う世界を許して、自分の価値を世界が認める日まで、「俺は偉い」という看板は押入れにしまったほうがいいだろう。   そして、素直に「キミは偉い」と他人に言えるステージに入ったら、世界が君の価値を認めてくれる日は遠くはないのだ。   

    ・ こうやって見ていくと、問題は「自分という存在が大きくなりすぎていることだとわかるだろう。   「自分」が「自分様」に肥大してしまっているのである。   ところが、何度もくり返すように、この自意識というやっかいなものは、他人にとっては本当にどうでもよく、うっとおしいものなのだ。   ひと言でいえば、非属の才能を持ちながらみんなとうまくやっている人は、この自意識のコントロールがうまい人間である。   「自分は偉い病」や「自分はいつも正しい病」に多少なりともかかっていても、「自分でいっぱい」になることなく、うまく自我を抑えて、他人と協調している。   とにもかくにも、自分を引っ込めて、相手を受け入れなければならない。   自分のなかでは自分は自分王国の王様か王女様なのかもしれないが、そう思うなら同時に、相手もまた大きな国の王様、王女様だと思ったほうがいい。相手は召使や奴隷ではないのだ。   神でもない限り、人は他人のことを何も知らない。親子や恋人、夫婦ですら「ちょっと知っている」程度だろう。   ホームレスの賢者もいるし、大金持ちの餓鬼もいる。   自分を認めてほしければ、まず他人を認めるしかないのだ。

    ・ 賢者とは、自分を押し付けず、相手を受け入れる大きな器がある人なのだろう。

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    非属の才能 1

    山田玲司 光文社新書 より~

    ・ この国で同調性がもてはやされる理由は、「同調さえしていれば、とりあえず無難に生きていける」という暗黙の了解があるからに違いない。   そういった「みんなと同じ」行き方がどんな生き方かといえば、誰かに石をぶつける人間の群れに紛れ、「そーだ、そーだ」と石を投げ、「誰が投げた石か?」と問われれば目を逸らし、問い詰められれば「みんなもしていたじゃないか」と居直るといった、昔のお坊さんが聞いたら「確実に地獄に堕ちますよ」と言われそうな生き方だ。   残念ながら、いまの日本の教育はそういった「責任を取らない大人」を量産している。   (略)   教育における評価方法も、上限のない加点法ではなく、「100点」「優」といった上限からマイナスしていく減点法が主流のため、積極的に人と違う事にチャレンジするより、とりあえず人と同じことをしておいたほうが原点を最小限にとどめることができ、無難に生きていける。   「だったらなおのこと‘みんなと同じ‘がいいじゃないか」という声が聞こえてきそうだが、そういった生き方が許され、幸福になり得た時代はもう過ぎ去ってしまった。   

    ・ 時代の空気や周囲の常識などより、ただ本人を信じてあげればいいだけの話だ。   =   友達、恋人、子ども、信じればいい。これが出来ないと、これが出来たら、せめてこれくらいしてくれたら、、、、、、なんて、条件つけてどうするんですか。自分が言われたらどう思いますか。

    ・ 「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、それは自分の頭で考える事のできる人間が集まった時の話で、「三人寄れば場の空気で」といったことのほうが多いのが現実だろう。   ヘタに自分の意見を言おうものなら、その考えが斬新だったり革新的だったりすればするほど理解できる人数は少なく、器が小さく頭が悪い人間のほうが声が大きく支配的だった場合、かなしことに救いの賢者の口は封じられてしまうのだ。

    ・ 「こうすればオイシイ思いができる」という立場の人たちが「どうでもいい」と思ってる人たちをコントロールして多数決は決まるのだ。

    ・ 「人間がものを話すときには、ほとんどの場合、相手を操作しようという意識が根底にある」と指摘する。   これが、群れのルールに集約されたとき、例の「漠然とした同調圧力」になるのだ。   =   そう思う。そんな服おかしいわ、そんなことしてたらあかんてー、外枠から、徐々に行動を締め付けてくる。人の思いを理解しようという前提じゃなく、あくまでも常識にあわせないとあなたを認めない、という圧力をいたるところで感じる。

    ・ 「九九くらいできてあたりまえ。それができない人間はダメ人間」という思い込みは、ある意味、学校という群れの後遺症だろう。本質を考えれば、それが人間の価値とは無関係だときづくはずだ。   =   といっても、九九くらいはなんぼなんでも・・・って思っちゃうところ、のことなんです。それくらい出来ないと、認められませんか。。

    ・ みんなと違う生き方をしていると、群れからは「孤立」しているように見えるかもしれないが、案外、自分自身でいられるという意味では「孤独」じゃなかったりする。   (略)   群れに合わせて群れのなかで生きるほうがずっと孤独感を味わうことがあるだろう。孤立こそしていないが、そこにいるのはただまわりに同調しているだけの人間で、「自分」ではないからだ。

    ・ 仲間はずれが嫌だから、孤独が嫌だからといって、自分を殺して群れに従うと、そこには本当の孤独が待っている。

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    2008年3月27日 (木)

    ・ NHK爆笑問題のニッポンの教養 ヒトはなぜ死ぬのか? 田沼靖一 爆笑問題 講談社 760円

    ・ むかし女がいた 大庭みな子 新潮文庫 362円

    ・ 女という病 中村うさぎ 新潮文庫 400円

    ・ 日本の特別地域② 東京都葛飾区 昼間たかし編 マイクロマガジン社 1200円   -   素晴らしく面白いでした!みなさん、是非、ご覧下さい(^0^)

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    2008年3月24日 (月)

    おひとりさまの老後

    おひとりさまの老後(上野千鶴子 法研)、自分は今後、老いていくということをどのように考えるのか、ということを考えさせていただける良い機会を与えていただける、素晴らしい本でした!結婚してようがしてまいが、子どもがいようがいまいが、自分が自分の人生を生きていくということの覚悟の証とでもいうのでしょうか。子どもが面倒みてくれる?自分が生きていくのも大変なのに、子ども達に頼みますか・・・?自分の後始末くらい、自分でしたいなと、私は思います。

    第2章 どこでどう暮らすか。今の所、都会で、気心知れたお友達が近くにいてくださるような、そんな暮らし方がいいかな~。第3章 だれとどうつきあうか。そうよね!ここが一番大切よね。大切な友人ネットワークを少しずつ作っていかなきゃ~。第4章 おカネはどうするか。・・・・・・・年金ちゃんとしよう・・・第5章 どんな介護を受けるのか。介護される側の心得10カ条。なるほど、友達付き合いのコツじゃないでしょうか、ある意味、そんな気がします。第6章 どんなふうに「終わる」か。おひとりさまの死に方5カ条、というのがありました。自分の人生に、どのように責任をというか、決着をつけたいのか、というか、ここに、そのひとの人としての器の大きさや優しさ、品格や思いやりがでてくるのでしょうね。しっかり現実と向き合い、自分と話し合い、ゆっくり考えていきたいなと思いました。

    若い方にも、ぜひ、読んでいただければって思える、素敵な本でした。

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    他人を許せないサル

    IT世間につながれた現代人 正高信男 講談社 より~

    ・ 日本人のセルフのあり方は、ひたすら周囲=世間がどう見ているかを認識して、それを内在化することによって、私というものをつくっていく。だから、自分というのは、結局のところ、他人と比べた自分でしかない。他人といかに差異を持った自分であるかを確認するしかない。極端な話、他者と差別化を図るという意味でしか、自分はあり得ない。他人を見下すのも、自分は他人より相対的に上でありたいという心の表れと言える。

    ・ 自分だけが損をする社会が悪いという論理になって、自分を正当化する。罪を犯した本人は、「社会」と意識しているかもしれないが、それは世間にすぎない。世間を許せない人間が増えてきた。その背景には、社会が階級分化し、下流社会の区分が露骨になったことが挙げられる。

    ・ 大学の授業で学生に匿名で感想文を書かせると、平気で無茶苦茶なことを書いてくるという話をよく耳にする。ところが、実名となると、途端にその現象はウソのように消えると。その心のあり方は、欧米人にはない。自分の書いたものに対する責任感が日本人とは異なる。   例えば、大学のレポートの課題で、もし他の学生と同じ文章、または不正な引用をしようものなら、退学は免れない。自分の言動に対する責任は、子どものころから培われている。だから、匿名で他人のブログやサイトに書き込みをする行為は倫理に反するとみなされる。   一方、日本では学生に限らず大人でもそういった考えはない。他人のものは自分のもの、でも自分のものは他人には簡単には渡さない。だから、日本の社会は、基本的に匿名の足の引っ張り合いである。

    ・ 匿名が通用するということは、責任の所在が追及できないことを意味している。安全な群れの中にいて、よその人間をただ攻撃しているだけの庶民主義とも表現できよう。漱石は、どっしりと腰の据わった人間になれと提言したが、他人が気になって仕方のない日本人は、ますます腰がぐらついている。「私」の見た「私」というものを、他人によってどのように見られているかによってのみ把握する事態に陥っている。「腰の据わった」とは、周囲の雑音に左右されずに己の意識するところを深く掘り下げようとする姿勢にほかならず、漱石はそういう態度を欧米の個人思想から日本へ導入しようとしたかったのだと解釈されるのだが、今やその片鱗すら見えなくなってしまった。

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    2008年3月21日 (金)

    ・ 二〇世紀精神病理学史 病者の光学で見る二〇世紀思想史の一局面 渡辺哲夫 ちくま学芸文庫 1100円

    ・ 非属の才能 山田玲司 光文社新書 700円

    ・ いじめるな!- 弱い者いじめ社会ニッポン 香山リカ 辛淑玉 角川oneテーマ21 686円

    ・ 他人を許せないサル IT世間につながれた現代人 正高信男 講談社 780円

    ・ おひとりさまの老後 上野千鶴子 法研 1400円

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    2008年3月18日 (火)

    論語より 2

    高校生が感動した「論語」 佐久協 祥伝社新書 より~

    ・ 弟子の子貢が人の批判ばっかりしているから、「お前は偉いよ。わたしのはそんなことをしている暇はないよ」と嗜めてやったよ。   (憲問第十四~三十一)

    ・ わが身を責める時には厳しく、他人を責める時には寛大にすれば、人から逆恨みされずにすむよ。   (衛霊公第十五~十五)

    ・ 孤立を恐れるんじゃないよ。正しいことをしていれば、必ず同調者が現れるからね。   (里仁第四~二十五)

    ・ 弟子の子夏がきょほの町の代官になった時に、「政治はどう行えばよろしいのでしょうか」と訊きに来たので、「急いで成果を上げようとしないこと。それと小さな利益に目を奪われないことだ。あせれば手抜かりをするし、小さな利益に捉われると大きな仕事ができなくなるからね」と教えてやったよ。   (子路第十三~十七)   =   日常でも、同じ事が言えますよね。急がず、目先の損得だけに捉われない。ですね~。

    ・ 規則や法律を整備して違反したらビシビシ罰する。そんなことをしていたら誰もが法に触れさえしなければ何をしたっていいんだなと荒んだ気持ちになるのがオチさ。道徳や礼儀を教え、内面から自らの行動を律するよにしていけば、誰もが不正を恥じ正しい行動をとるようになるよ。   (為政第二~三)   

    ・ 全員が悪く言うからとて鵜呑みにせず、きちんと調べてみるべきだ。全員が良く言ってる時も同じ事だよ。   (衛霊公第十五~二十八)

    ・ 不出来な者が過ちを犯すと、必ず誤魔化そうとしたり、言い訳をしたりする。   (子張第十九~八)

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    2008年3月15日 (土)

    論語より

    高校生が感動した「論語」 佐久協 祥伝社新書より~   

    ・ 「どうしようか、どうしようか」と自問自答するくらいの段階に達していない者には、教えようがないもんだよ。   (衛霊公第十五~十六)   =   次のお話の中に「四角なものの一隅を説明したら、残りの三隅は自分で類推する意欲がなければ、教えてもまずムダだね」とあったのですが、本当にそうだと思います。自分で考えず、人に説明させて、理解できなかったら説明が悪いと人を批判する。そんな人には何を言っても、分かろうとする気持ちが無いのだなって思います。。

    ・ 「成功するためには裏道や抜け道にも精通していなければダメだ」などと、したり顔で言う者がいるが、そんな要らぬことを学ぶために時間を割くのは百害あって一利なしだよ。   (為政第二~十六)

    ・ 優れた人物は何事に関しても、絶対にこうしなければならないとか、逆に絶対にこうしてはダメだと自分の主張にしがみついたりしないもんだよ。なぜといって、誰もが納得できる客観的な正義を基準にして行動しているからさ。   (里仁第四~十)

    ・ 他人が自分を認めてくれないと嘆く者は多いが、自分が周りにいる他人の才能や長所に気づかないことを嘆くのが先だろう。他人の才能に気づく能力を身につけてみなよ、そんな人物を世間が放っておくと思うかね。   (学而第一~十六)   =   自分はこんなに努力してるのに、自分はこんなに才能があるのに、自分は人よりこんなに仕事が出来るのに、、、嘆く人は多いですね~

    ・ 自分よりすぐれた人物を見たら、ひがんだりせずに、自分もああなろうと発憤することだ。逆に、劣った者を見た場合には、侮らずに、自分にも同じ欠陥がありはしないかと反省してみることだよ。   (里仁第四~十七)

    ・ 「風に吹かれて桜が舞うよ。飛んで行きたきゃ、あなたのもとに。なれどあまりに遠すぎる」という俗謡があるけど、本当に恋しかったら「遠すぎる」なんて言いっこないだろう。弟子達の使うヘタな言い訳と同じだね。   (子?第九~三十二)

    ・ 昔の人が、言葉に慎重だったのは、自分の言葉に実行が追いつかないのを恥としたためだよ。   (里仁第四~二十二)

    ・ 弟子の子張が「徳を高める方法と、惑いを見極める方法をお教え下さい」と同時に二つのことを求めたんでね、「真心を持ち、ウソをつかず、正義を実践していくのが徳を高める方法だ。人を愛している時にはその人の長寿を願うが、いったん憎み出すと死を願ったりする。本来、人の死を願ったりなどしてはいけないと頭で分かっていながら、状況がちょっと変わっただけで考えや主張が百八十度変わる。そういうのを惑いと言うんだよ。大切なのは、状況に振り回されないようにすることだね」と教えてやったよ。   (顔淵第十二~十)

    ・ 立派な人物というものは、ゆったりとして驕ったところが少しもない。ところが、小っぽけな人物ときたら、驕り高ぶり、ゆったりの「ゆ」の字もないときている。   (子路第十三~二十六)

              

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    2008年3月12日 (水)

    きずな喪失症候群 2

    「あなたを傷つける人」の心理 加藤諦三 PHP文庫 476円 より~

    ・ アメリカに「毒のある人々」という本がある。それによると、毒のある人は親戚の人でもあり、ボスでもあり、友人でもあり、恋人でさえあるという。それはあなたを惨めな気持ちにさせる人である。まず私に言わせれば、「毒のある人」はあなたに近い人である。   近くなければ、毒をもっていても、毒をもっていなくても関係ない。その人が親戚だから問題なのであって、親ではなく遠い親戚のおじさんなら、「毒があっても、なくても」関係ない。見知らぬ人ならもっと関係ない。近い人だから毒が問題になるのである。

    ・ 自己ひげする人が傷つきやすいのは、心の底では自惚れているからである。自己卑下しながらも他力で自惚れている。だから傷つくのである。自己卑下の後ろに高慢さが隠されていると言われる。

    ・ 恋愛中に「私と恋をして、勉強のじゃまにならない?」とか「お仕事のじゃまにならないかしら?」と言いつつ、相手と会おうとする人は、男性であれ、女性であれ、ずるい人が多い。毒キノコ的な人々である。それは、こう言いながら会えば「嫌われないで」会えるからである。   毒キノコ的な人は、自分の責任を逃れて自分の要求を通す。毒キノコ的な人は、へりくだっているようで、しっかりと自分の得るものを得るタイプである。   燃えつきる人はこのテクニックに引っかかる。「私、あなたの勉強のじゃまにならないかっていうことが一番心配なのよ」というようなことを言う人を「いい人」と思い込んでしまうのが燃えつき症候群である。

    ・ 強くなるとは、喧嘩をすることではなく、自分をもつこと、自分を守ることである。そして自分の意見をきちんと相手に伝えながら、相手に対する思いやりを忘れないことである。これがコミュニケーションなのだが、迎合する人はこれができない。

    ・ 神経症者は、相手が無理して言っていることがわからないから、自分では日頃から遠慮してるつもりでも、人から厚かましいと思われたりするのである。本人はなんで自分が人から嫌われるかわからない。   神経症者は人からどう思われるかということばかりを気にして、相手の「ちょっと無理した」態度や「ちょっと無理した」言い方に気がつかないのである。だから、人から気にいられたいと思いながらも、結果として人から嫌われることが多い。そして周囲に気を使いながらも、孤独なのである。

    ・ なぜ神経症者は相手を見ないのか、もっと言えばなぜ相手を観察できないのか。その一つの大きな理由は、自分の本質を隠しているからである。自分が隠していることを相手に気づかれることが怖いから、相手の目を見ない。目を見ないのは、自分のほうに疚しさがあるからである。

    ・ ところで、人を見分けるということはどういうことであろうか。表面の言葉を信じないということである。「大変だ、大変だ」と騒いでいる人が一番大変なわけではない。「苦しい、苦しい」と騒いでる人が一番苦しいわけではない。「傷ついた、傷ついた」と騒いでる人が一番傷ついているわけではない。   逆に「傷ついた、傷ついた」と騒いでる人が、人を最も傷つけていることが多い。深く傷ついても「傷ついた、傷ついた」と騒がない人もいる。黙ってそれに耐えている人もいる。   「傷ついた、傷ついた」と騒いでる人は、心が揺れているのである。何かを隠しているのである。整形をして実際の自分の顔を隠しているようなものである。そして見られたくないものを見つかって「傷ついた、傷ついた」と騒いでるのである。「苦しい、苦しい」と騒いでる人が、逆に周囲の人の重荷になっていることも多い。

    ・ 愛情飢餓感が強い人ほど、すぐに人とかかわる。それは、心理的に健康な人以上に「求められる存在」のなろうと必死で努力するからである。求められたことがないから、求められる体験に飢えている。誰にでもいい顔をする。求められることで、人は自分の価値を感じる。燃えつきタイプである。愛情飢餓感が強い燃えつきタイプは、人から求められるための努力をする。

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    2008年3月11日 (火)

    きずな喪失症候群

    「あなたを傷つける人」の心理 加藤諦三 PHP文庫 476円 より~

    ・ 捨てられてしまうのではないか、という不安なときに、猛烈に相手に攻撃的になるタイプがいる。迎合するタイプとは逆である。怖いときに相手を攻撃する。相手の態度を非難する。相手の思いやりのなさを攻撃する。  相手を非難、攻撃しているのは、その人の淋しさや不安の感情処理である。攻撃される側の態度に問題があるというよりも、攻撃する側の感情に問題がある。これは、性格的な問題である。この種の人々は、感情処理の方法として、攻撃的になる。常時不安なため、常に相手を攻撃しいる人もいる。

    ・ 生きるのが辛いということは、今の人間関係の中で生きるのが辛いということである。生きることそのことが辛いわけじゃない。違った人間関係の中では生きるのが楽しいかもしれない。生きるのが辛いのか、楽しいのかは、どのような人に囲まれているかによって決まるところが多い。 

    ・ 現実から逃げている人には、現実と向き合って生きている人の真剣さが理解できない。現実と向き合って生きている人の戦いが理解できない。現実と向き合って生きている人の耐えている気持ちが理解できない。きずな喪失症候群の人はすべてが安易だから、人も安易にことをすませていると思う。  現実から逃げている人は、一度も真剣に厳しい現実に立ち向かってないから、厳しさとはどういうものか理解できない。怠けていても、最後には周囲がなんとかしてくれる、という甘えで生きている。

    ・ 自分が人の事をしたことがないから、相手が自分のためにしてくれたことの意味がわからない。やってくれたことの「深さ」がわからない。そこにどれだけの思いが込められているのかがわからない。「お願いします」がどれほど大変なことかをわかっていない。実際に人を紹介する労をとった人は、そう簡単に「お願いします」とは言えない。それが大変なことだとわかっているからである。   きずな喪失症候群の人は「人の事をしたがらない人」である。だから相手の心がわからない。

    ・ 心理的に病んでいるということは、人格の統合性がないということである。これは混合型などによく現れる。「自分は、人にこう接する」というポリシーのようなものはない。相手に甘えられれば、とことん甘えて相手を困らせる。その上、相手に不満になる。もっと甘えさせないからである。そして逆に相手が怖ければ、とことん犠牲を払う。気に入られようと相手に尽くしてしまう。   心理的に病んでいる人の言動を考えるときには、この人格の不統合性考えに入れなければ説明ができない。たとえばある人を、「卑屈に迎合する人」と説明したとしても、その人がどこでも卑屈に迎合するわけではない。「凶暴な人間」になるときもある。

    ・ きずな喪失症候群は常に相手を嫌いである。もともと人を恨んでいる。相手が好きなら、相手のすることにそれほど不満にはならない。もちろん燃えつき症候群の相手を嫌いである。自分の周囲の人を嫌いということは、二つの症候群共通している。もちろん混合型も自分の周囲の人を嫌いである。だから生きるのが辛いのである。

    ・ サン=デグジュペリは「真の贅沢とはただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」と述べている。

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    ほん~

    ・ hon・nin 本人 6 太田出版 950円

    ・ メンズノンノ 

    ・ 高校生が感動した「論語」 佐久協 祥伝社新書 800円

    ・ 「あなたを傷つける人」の心理 きずな喪失症候群 PHP文庫 476円

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    2008年2月25日 (月)

    ・ 戦前の少年犯罪 管賀江留郎(少年犯罪データベース主宰)著 築地書館 2100円 

    欲しかった本です。手に入れました。そしたら、お友達が、ネットにデータあるよと・・いいもん!本のほうが見やすいもん~♪

    ・ ヘキサゴンドリル 扶桑社 600円

    やってみます。。そのうちに。。。一人で(^^;;

    ・ クロワッサン特別編集 体のツボの大地図帖 マガジンハウス 980円

    ツボを押したりするくらいなら、くらくらしたりしないのでいいかな~って(^^)

    ・ 時々買う週刊誌とかは、ぴあ、東京ウォーカー、アンアンとかでしょうか~

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    2008年2月19日 (火)

    怒り

    怒りの方法 辛淑玉著 岩波新書 700円 より~

    ・ 差別はこちら側の問題ではないのだ。

    ・ 個人で生き抜いている者はぶれない。どんなことがあってもだ。

    ・ 教訓その1 差別して、叩くやつほど、道を説く

    ・ 教訓その2 声出せば、無知な大衆、敵になる

    ・ 教訓その3 ‘ガンバレ‘は、飛び火を避ける、保険かな

    ・ 無力感を自分のものにしてしまうと、あがくことを忘れてしまう。  怒りは、自己の無力感への抵抗となるのだ。

    ・ 自分できちんと怒りを表現できる人は、相手の怒りも受け止められる。  そういう人は、自分に向かってくる相手の怒りが正当なものなのか、それとも八つ当たりなのか、簡単に見分けられるものだ。  だが、自分の感情を押し込めている人は、相手の感情にも鈍感になってしまいがちだ。まして、まずわが身を守ろうという姿勢になってしまうと、相手が何を訴えているのかさらに見えなくなり、相手の怒りの正体がつかめずに、かえって相手を怒らせてしまうことにもなる。

    ・ 評論家の佐高信さんが、ある集団からエキセントリックな集中砲火を浴びたことがあった。 (略) 「人間、叩けば埃が出てくるのよ」と言って、にやっとした。  私は、ふっと肩の力が抜けたような気がした。  人間なんだから、生きている間は失敗もすれば、過ちも犯す。それを頑なに否定しても始まらない。清く正しく美しく、だけでは生きられない。  私なども、よく、失敗をして反省する。  失敗するから先に進める。そう思っているから、人から批判されても、さほどしんどくない。私には失敗し、きちんと批判される権利があるのだ。当たり前のことだ。  批判されて喜ぶ人なんていないだろうと多くの人は言う。でも、それは、真正面からの、きちんとした批判をされた経験がないからではないだろうか、と私は思う。多くの批判は、感情だけ乱暴にぶつけたり、相手の人間性を全面否定する形でなされてきた。それがトゲとして突き刺さったままになっているから、ちょっとでも否定されると、その意味をよく考えることもなく全身で拒否反応がでてしまうのだろうと思う。

    ・ 「困った子ね」「わがままなんだから」「どうしようもない子ね」「まったく、頭が悪い」「グズなんだから」行為を批判するのではなく、一方的な決めつけ、レッテル貼りである。  こうした言葉の後ろには、愛情を感じることができない。  子どもに限らず、こういう言葉を投げかけるのは、相手を見下しているか、相手との関係が切れても良いと感じているかのどちらかだろうと思う。  相手のために言っているのではなく、批判という形を借りてちょっとした快楽を味わっているに過ぎない。見下したり、否定することは楽しいことでもあるからだ。

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    2008年2月18日 (月)

    買いたい本

    『戦前の少年犯罪』(築地書館\2205)菅賀江留郎

    以下の番組を見まして、とても興味が湧きました。そのうち、買います!

    ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』収録。
    宮崎哲弥、一緒。

    #21「戦前・戦後少年犯罪のウラ」(2/15配信)
    ゲスト・管賀江留郎(かんがえるろう)。
    宮崎哲弥さんが大推薦の『戦前の少年犯罪』(築地書館)の著者で
    ウェブサイト『少年犯罪データベース』主宰の管賀氏が登場。
    メディア出演は初めてとの事。

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    2008年2月17日 (日)

    ・ 妬心 瀬戸内晴美 集英社文庫

    ・ 脂肪の塊・テリエ館 モーパッサン・青柳瑞穂訳 新潮文庫

    ・ 犯罪文学傑作選 エラリー・クイーン編 滝口直太郎訳 創元推理文庫

    ・ 幻の特装本 ジョン・ダニング 宮脇孝雄訳 ハヤカワ文庫

    ・ 死の蔵書 ジョン・ダニング 宮脇孝雄訳 ハヤカワ文庫

    ・ PLANETS 大衆を挑発するお茶の間襲撃マガジン VOL.03 第二次惑星開発委員会 <特集 LOVE 2007 メディアと恋愛、コミュニケーション>

    ・ 死んでしまったぼくたちの見た夢 西岡兄弟 パロル舎 (ずいぶんと幼い頃から、14歳で死のうと思っていました。(本文より)

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    2008年2月 6日 (水)

    <変態>の時代

    菅野聡美 講談社現代新書 720円 より~

    エピローグの最後より ・ オウム真理教にしても他の「怪しげな」集団にしても、時にマスコミが大々的にとりあげても一時的な騒動で終わってしまいます。そこにあるのは共感不能な断絶意識にもとづく無責任な好奇心でしかありません。ある「標準」を逸脱したものにたいするまなざしは、冷たさを増していると思うのは私だけでしょうか。あらゆる面で、おそろしいまでの同化圧力が強まっており、それに適応できない人たちの反応の一つが、引きこもりやニート、あるいは精神疾患であるのかもしれません。

    本当にそう思います。マスコミなどが無責任に好奇心を煽るだけ煽り、煽られた人々のはけ口にネットの掲示板などが利用されてていたり。。標準、正しいとされることから外れた人には、そのことについて容赦のない罵詈雑言。。言ってる自分はどうなんだ、そんなに正しくて標準に生きてるのか、、って疑いたくなるようなことです。外れてしまった経緯やその人の気持ちなど、考える余地すらなく、だって悪いんだから悪いのよ、悪いんだから何を言われたって仕方ないもの、言われたくなかったら正しいことをすればいいのよ、自分たちは正しいことを教えてやってるんだから自分たちは悪くない、正しくないことをやった人が悪いんだから、、、、、、そのようなことを言う族(やから・・・不平を言い、また、口論をしかける者)、自分は正しいと思ってるのでしょう。でないと、そんな教養の欠片もない、稚拙なことを大きな顔してなんて、恥ずかしすぎて言えません。そのような人たちに、向ける言葉なんてないから、日々そのような中に暮らしてたら、そりゃ~精神的におかしくなってきます。人の批判するということは、自分の首を絞めてることにもなるんだということ。。より、みんなと同じでないとと、脅迫的に思うようになったり、失敗が恐ろしくなったり。。。

    人はみんな違う。違いを認め合う、違いを分かり合えるように、勉強したり話をしたりするのですよね。。みんな違うんだから、どう生きるのが正しいなんて答えはみんなのぶんあるわけで、でも、それを考えるのがじゃまくさいのか、正論だ、正しいことだ、常識だ、標準だ、なんて、簡単に図れるものを振り回してるだけ。。教養や知恵がないことを、公に公表していただかなくても、顔に書いてますから。ブランド物身につけたりしても、一言二言喋ったら、ばればれですよ。みんなと同じ物差し持ってないと、なにもできないし何も言えない人だって。

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    2008年2月 3日 (日)

    あなたの身近な「困った人たち」の精神分析 パーソナリティそのミクロな狂い 小此木啓吾 新潮OH!文庫 619円 より ~

    ・ 成熟とは何を意味するのだろうか。それは、人への思いやりとか、やさしさとか、共感とか、あるいは自分の感情をうまく調整するとか、無理に強がったり、虚勢をはったりしないで、自分の弱さを語り合うことができることを言う。このような心のかかわりが自然にできるようになり、人にも自分にも寛容になり、心にゆとりが生まれる。そのような心の豊かさを持つことだ。

    ・ どうしてピーター・パンと言われるような、そんな子供っぽい男たちに尽くさなければならないのか。相手が気ままで未熟で、わがままなのに、どうしてその責任は自分にあると考えて、自分を責め、無責任な男たちの世話をするのか。男性をお母さん気どりで甘やかせながら、それを愛情だと思っている。   実はこのウエンディ心理の背後には、自分に対する自信のなさとか、だれか自分を支え、自分が頼りにする人がほしいという心理がある。たとえどんな子供っぽいわがままな男でも、だれも男がいないよりはいい。ここで何とか彼の気を引こうと尽くすことになる。しまいには、何もできない彼にかわって世話役になる。   彼との間でトラブルが起こると、「みんな私が悪いの」と自分を責めるのだが、それはひとえに、彼に見捨てられる恐怖があまりにも深刻なためだ。あるいは自分に自信がない。だから、別れて一人になれない。いつもだれかに頼っていたい。たとえどんなに未熟なピーター・パンでも、その人がいるだけで頼れる相手に思える。   この心理には依存型パーソナリティの傾向がある。依存型パーソナリティの人々は、自分に自信が持てない。自分の気持ちを抑えても人に従う。あまりにも人に頼りすぎてしまうことを特徴にしている。とりわけ、親きょうだい、恋人や配偶者なぢの依存対象から離れられなくなってしまっている場合が多い。

    ・ その人がちゃんと一個の人格としての連続性を持っているか、いろいろな人格状態を経過していくにしても、それぞれについて社会的な、あるいは人格的な責任を持つような一貫性やまとまり、つながりをちゃんとやっているかどうかということが、まず第一のとらえ方である。   第二に、この人は、自分の心の中、頭の中で空想したり、考えたり、思ったりしていることと、実際の現実とのかかわりについて現実検討を行ない、自分の主観を越えた客観的な現実や対人関係を頭の中でちゃんと認めながら暮らす人なのかどうかを判断する。   第三に、どの程度自己愛が満たされ、どんな超自我との関係を持っているのか、道徳的な罪悪感とか良心を持っているのか、そんなものは無視したり、否認したりして、自分本位の行動を正当化し、攻撃性を発揮する面を持っているのか、あるいは自分の感情、欲望を自分の心の中でコントロールして、人格としての独立性を保つことができるのか、それともすぐに感情的に興奮したり、いら立ったり、他人に喧嘩をふっかけたり、他人にしがみついたりして、自分の感情を人とのかかわりの中に持ち込んでしまう、そういった未熟な対人関係様式や欲動のコントロールの仕方の持ち主なのかどうか。   第四に、自分の言動が周囲に対してどんな結果を引き起こすかについて、ある程度の予測や判断力を働かせて、現在の自分の言動を自己調整するだけの思慮深さや心の成熟を身につけているのか。人と人とのかかわりについても、人と自分がそれぞれ別々の感情や都合を持っていて、自分の思うとおりにならないことがあっても、それをやむを得ないことだとあきらめたり、許容するだけの心のゆとりや幅を持っている人なのか。   それとも、そうした状態になったら、何が何でも自分の思うとおりにさせようと試みたり、あるいはそれができないときには激しく落ち込んだり、怒ったり、破壊的な行動に走ってしまうおそれを持っている人なのか。   最後に、社会生活を営んでいく上で欠くことのできないパーソナリティの機能として支配・達成の能力がある。社会人として生活していくためには、何をおいても職業的な能力を持ち、一定の社会生活での適応が可能になるような仕事なり役割を達成することが期待されるのだが、このような能力をちゃんと身につけている人かどうか。

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    2008年1月23日 (水)

    本 内容

    オレ様化する子どもたち 諏訪哲二 中公新書ラクレ 740円 より ~

    ・ 現在トラブルになるのは、子ども(若者)たちが親や教師の言葉を聞いたとき、距離をおいて受け流せなくなったことであろう。関係がフラットになっているのですぐに「等価交換」を始めて傷ついてしまう。自分の気に食わないことを言われるのが耐えられない、許せない。  (略)   親や教師や友人のコメントを、それはそれで「正しい」ひとつの意見であると距離をおいて受け止められなくなっている。まず、「この私」に合っているかどうかを判断してしまう。「私」はともかく、「この私」に合うものはなかなかない。親や教師から違った地図を示されると、もうすでに子ども(若者)たちの自我が傷ついてしまう。これはもちろん宮台氏も指摘している「幼児的全能感」と結びついている。   (略)   子ども(若者)たちの「私」(自我)が、みんなの無数の「私」のなかのひとつの「私」にすぎないという自覚がない。「私」を「外部」から眺める、もうひとりの「私」がいない。ほかの人からみた「私」というパースペクティヴ(視線)が欠けている。また「私」を変革しなければならないと思っていない。「私」の感じたり思ったりすることは「私」にとっては確かだが、ほかの人からはそう見えないことに気づいていない。したがって、「私」の思ってもいないことが親や教師やほかの人から提示されることへの身構えができていない。   (略)   彼ら若い世代の人たちは主観と客観が区別されていない(自分の見ている世界、思っていることが客観世界だと思っている)。主観を叩かれた経験がない。「幼児的全能感」が温存されていて、精神分析的に「去勢」されていない。宮台氏の言うような<世代間の感覚地図の乖離>というよりは、感覚地図を構成する自我のありようが変容していると捉えた方が正解に近いように思える。   

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    2008年1月10日 (木)

    ・ 大人の見識 阿川弘之 新潮新書 680円 

           帯に書いてあった言葉 - 軽躁なる日本人へ (軽躁ー軽くて乾いてること)                急ぎの用はゆっくりと。理詰めで人を責めるな。静かに過ごすことを習え・・・

    ・ 一冊で哲学の名著を読む 「ソクラテスの弁明」から、さるとる「存在と無」まで17冊がよくわかる! 荒木清 中経出版 1500円

    ・ 自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本 狩野力八郎 講談社 1200円

                                                            

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    2007年12月18日 (火)

    ・ オレ様化する子どもたち 諏訪哲二 中公新書ラクレ 740円

    ・ 生物と無生物のあいだ 福岡伸一 講談社現代新書 740円

    ・ 自殺するなら、引きこもれ 問題だらけの学校から身を守る法 本田透 堀田淳司 光文社新書 700円

    ・ 若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か 赤木智弘 双風舎 1500円

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    2007年12月13日 (木)

    下流志向

    学ばない子どもたち 働かない若者たち 内田樹 講談社 1400円 より~

    ・ 消費主体にとって、「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないです。そのようなものはそもそも商品としては認識されない。ですから、先ほどの小学校に入ったときに、先生に「ひらがなを習うと、何の役にたつんですか?」と訊く子どもは消費主体としてごく自然な質問を発しているわけです。「この商品は何の役にたつのか?」と訊くのは消費者の権利であり、義務ですから。  そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。

    ・ 昔の子どもたち、つまり、労働主体として出発した子供たちにとって、学校における「勉強」と、家事「労働」は(いずれも英語で言えばworkということになりますが)同一のものとして観念されていました。一生懸命「ワーク」をすれば、家族や地域の人々から「有用な社会的存在として承認される」という直接の報償が約束されている。ですから、「ワークをすることは何の役に立つのか?」というような問いは子どもの側からは出てきません。家事労働をしている子どもは、自分がしている労働そのものがどんな意義や有用性を持っているのかをまず知りたいとは言いません。それはただ自分がしなければ、母や父が「やらなければならないこと」であって、それを代行すると、母や父の負担が軽減するものにすぎません。意味なんかどうだっていいのです。「やると、父母の負担が軽減される」ことがわかっているから、していただけです。承認の感覚を求めて、手探りで労働主体としての自己形成のプロセスを進んだわけです。  それに対して、消費主体として出発した子どもたちは目の前に差し出されたものをつねに「商品」として見ます。そして、それを「値切ろう」とする。ふつうの商店で売っているものなら、貨幣をもってその代価に充てます。では、学校では何を代価に充てるのでしょう?

    ・ このゲームのルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられてきた子どもは、どんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取りする能力に長けてゆきます。人間、生きている限り、さまざまな不快なできごとに遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という被害ー加害のスキームを瞬間的に作り上げようとする。  この能力を現代日本人が以上に発達させつつあることに、みなさんはだいぶ前からお気づきだと思います。街を歩いていて、人とぶつかったときに僕は必ず「あ、どうもすみません」と先に謝りますが、僕に謝ってくれる人はほとんどいません。これは若い人に限らず、五十代、六十代の人でもそうです。人をにらみつけて、ちっと舌打ちして去る、という人がずいぶん増えました。これは礼儀がどうこうという問題ではなく、どんな場合でも、「おまえのせいで私はいま不愉快になっている」という態度をまず採ってみせることが有利に働くということがわかってきたので、日本人の全体がだんだんそういうマナーを採用するようになったということだろうと思います。

    ・ 現代日本人は「迷惑をかけられる」ということを恐怖することについて、少し異常なくらいに敏感ではないかと僕は思います。「迷惑をかけ、かけられる」ような双務的な関係でなければ、相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑をかけていないんだから、ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。たしかに、その人は、誰にも迷惑をかけてないのでしょうが、それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく、他人から迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので、「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって、人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。  自己決定・自己責任という生き方を貫けるのは強者だけです。そして、リスク社会における「強者」とは、その定義からして、相互扶助・相互支援のネットワークに属しており、そのおかげでリスクをヘッジできているものに限定されるわけですから論理的に言えば、リスク社会には自己決定・自己責任を貫けるような強者は存在しないということになります。いるのは、自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者だけなのです。そして、日本の教育行政もメディアも、久しく、このような「迷惑をかける相手もかけられる相手も持つことができない」膨大な数の構造的弱者を作り出しつつあるのです。

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    2007年11月29日 (木)

    絶対弱者

    絶対弱者 孤立する若者たち 三浦宏文・渋井哲也 長崎出版 より ~

    ・ 絶対弱者の特徴

    1) 高学歴だったり、知的好奇心があるなど、知に関しては無関心ではない。

    2) 社会的な成功を目指して、様々な行動はしている。

    3) 地味な努力や社会的なコミュニケーションを軽んじている。

    4) 自分の振る舞いの結果に関する想像力が不足している。

    5) その結果に関して、学習しようとせず、自己正当化する傾向がある。

    6) 親との関係を清算しきれていない。

    7) 相手の感情を想像できない。

    8) 自己が肥大化している。

    9) 社会的なコミュニケーションを必要と考えていない。

      -  以前書いた、自分に酔う人、酔わない人の自己愛人格障害チェック  http://s-charity.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_a735.html や、誇大自己症候群2のチェック http://s-charity.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_595e.html や、モラハラ加害者チェック http://s-charity.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b0c4.html 、なんだか、似てるような似てないような~・・・

    とっても良かったです!とりあえず、買って下さいませ(^^)

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    2007年11月18日 (日)

    読んでない本がたまってきました・・・

    ・ 茨木のり子詩集 思潮社 1165円

    ・ 家族依存症 仕事中毒から過食まで 斉藤学 誠信書房 1500円

    ・ 罪と罰 まんがで読破 ドフトエスキー イースト・プレス 552円

    ・ 蟹工船 まんがで読破 小林多喜二 イースト・プレス 552円

    ・ 下流指向 学ばない子どもたち 働かない若者たち 内田樹 講談社 1400円

    ・ しごとダイアリー  300円  NPO法人POSSさんが出されている労働に関する便利手帳。詳しくはこちら~ http://www.npoposse.jp/

    ・ 絶対弱者 孤立する若者たち 三浦宏文・渋井哲也 長崎出版 1600円  お友達のご本です。是非、お買い求めくださいませ~(^^)

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    2007年11月 1日 (木)

    愛情という名の支配

    「あなたのために」が不幸のはじまり 信田さよ子 新潮OH!文庫 505円 より~

    ・ 甘やかすという言葉は、支配する側が、支配される側からの反撃を恐れる言葉です。

    ・ 共依存的な支配とは何でしょうか。そこには、「理解」「期待」「、それから「アドバイス」が入ります。理解も期待もアドバイスも、日本ではプラスの言葉です。私たちは「理解のないところに友情はない」とか「親が来たいしない子どもはダメだ」とか、そういう言葉をよいこととして考えています。しかし、子どものとっては果たしてそうなのでしょうか。 (略) 哲学者ミッシェル・フーコーの言葉です。「私たちは評価や正常化する判断が、社会制度の受容名機構としての、司法や拷問にとってかわった社会に生きている」  簡単に言うと、取っつかまえて牢屋に入れたり拷問するのではなく、評価されたり、これは正常なことですよ、と言ってアドバイスされたりすることが、実は拷問とか刑務所に入れられているのと同じ機能をはたしているということです。そういう社会に私たちは生きているということです。  「それは間断なき視線にさらされた社会なのである」とも述べています。誰の視線がというと、他者の私たちを査定し、評価し、支配する目なのです。  

    これを学校社会に置き換えることもできるでしょう。今の学校では一人だけ飛び出るといじめられますから、みんな横並びになっています。  学校でずっと優等生をやってきたある若者がこう言いました。ゴール寸前になって、あと一メートルでゴールという時にパッと飛び出るのがうまいやり方だというのです。「うまいやり方は、ずっと同じふりをしてみんなが90点を取ったら自分も90点を取って、最後の試験で自分だけ100点を取るんです。すると自分だけ勝者になれて、しかもみんなからいじめられない」  これくらいのテクニックを用いて、いつもピリピリと他者の視線を感じていないと生きていけない社会はどれくらい苦しいことでしょう。   

    「私たちは評価や正常化する判断が、拷問にとってかわった社会に生きている」という言葉の「社会」をこのように「学校」や「家庭」に言い換えることもできるでしょう。

    ・ 家に帰ると正しいことしか言わない親がいます。それに反論したら「あんたが悪い」ということになります。だから残された道はいくつもありません。正しいと言われたら、正しいことをそのままするか、もしくは、逆らうためには家庭内暴力を振るうしかありません。しかし、暴力を振るうともっと自分が正しくなくなってしまいます。母親や父親がもっと正しくなるのです。それで、最後の手段として引きこもることになるのでしょう。つまり、親の言う通りの行動以外は何も許されないという構造になっているのです。

    これははっきり言えば、拷問に近い家庭です。こんなに価値観が多様化し、情報があふれていながら、このような単一な価値観とは何なんだろうかと思います。

    ・ 口を開くと正しいことしか言わないで、子どもに対しても立派な母親をやり、正しいか正しくないかという軸で家族が動く、これはどこか裁判所にいるようで絶えず裁かれている感じを抱くのです。 (略) その人たちはなぜ正論にしがみつくのか。それ以外の軸を知らないからです。それ以外の軸とは何かと言うと、幸せか不幸か、気持ちがいいか悪いか、呼吸が楽か苦しいか、という軸です。そういう軸をどこか軽視しているところがあります。

    ・ 「頑張ってる?でも、いいのよ、あなたの人生だから」と言いながら、言葉以外の方法で‘あの大学に入れ‘という支配をちらつかせます。

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    2007年10月27日 (土)

    ・ 反貞女大学 三島由紀夫 ちくま文庫 660円

    ・ オタク学入門 東大「オタク文化論ゼミ」公認テキスト 岡田斗司夫 714円

    ・ 愛情という名の支配 「あなたのために」が不幸のはじまり 信田さよ子 新潮OH!文庫 505円

    ・ 日本創業者列伝 企業立国を築いた男たち 加来耕三 人物文庫*学陽書房 700円

    ・ バカとは何か 和田秀樹 幻冬舎新書 720円

    ・ 健全な肉体に狂気は宿る -生きづらさの正体  内田樹 春日武彦 角川oneテーマ21 724円

    ・ <変態>の時代 菅野聡美 講談社現代新書 720円

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    2007年9月29日 (土)

    他人を見下す若者たち

    他人を見下す若者たち 速水敏彦 講談社現代新書 720円 より~

    ・ 今、人と人との密接なつながりが失われつつある現実の中で、誰もが体面を保ち、個を主張して生きていくことが求められている。だが、少子化の影響で小さい頃から大切に育てられ、苦労をせず、楽しいこと、面白いことに浸ってきた若者にとって、見知らぬ社会を一人だけで歩いていくことは恐怖でもある。欲しいものを何でも買い与えられ、有り余る時間を自分のためだけに使ってきた人たちが、厳しい現実の競争社会の中でまともに生きていくことは難しい課題である。 しかし、実はかれらはそれを乗り越える術をいつのまにか修得してきたようにも見える。それは、おそらく本人自身もあまり気づいていない無意識的なもので、個人主義文化を担った人たち、さらには、ITメディアの影響を受けた人たちがいつのまにか身につけた仮想的有能感とでも呼ぶべきものである。これは先ほど述べた他者軽視をする行動や認知に伴って、瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚である。 現代人は自分の対面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。 このように若者を中心として、現代人の多くが他者を見下したり軽視することで、無意識的に自分の価値や能力に対する評価を保持したり、高めようとしているように思われる。しかし、この仮想的有能感はやっかいな代物である。現実には、特に負け組みになりそうな人々が生き抜くためには必須の所持品ではあるが、他者軽視をすることで、社会にさまざまな弊害を生じさせることが懸念されるからである。 仮想的有能感は、他者をどう見るかという一つの他者評価を基盤にしたものである。他者の能力を低く見るほど自分の能力の自己評価を吊り上げることになる。しかし、これは自分の過去経験にはまったく左右されない思い込みの自己評価と言える。他方、自分の過去経験に規定された自己評価の概念として自尊感情がある。自尊感情は自分への満足感や自信を意味するものである。

    ・ 九十年代以降、国際競争力をつけるために日本人はもっと自分を主張せよと言われ続けてきた。そのことが、「人の欠点をはっきり言う人のほうが有能」「先に指摘したほうが勝ち」という風潮を生み、「日本人は<あら捜し>をすることがうまくなった」とまでいわれるようになったという。

    ・ 自分の迷惑行為を迷惑と感じないのに、他者の迷惑行為に対しては敏感に反応するように思われる。これもおそらく、自分の方が大きい、立派だという気持ちが無意識に働くことによって、相手を強く批難することになるのだろう。

    ・ 「ユーモアの源泉は哀愁である」というマーク・トウエインの言葉があるが、本当のユーモアは、周りを下に見て笑うのでなく、自分の人間としてのいたらなさ、不十分さといった、本来悲しみの源泉となるようなものを、少し距離をおいて他人の立場で眺められるようになったとき、生じるものではなかろうか。

       -   哀愁、松本人志さんも、笑いは哀愁を帯びてないとダメだ、というようなことをおっしゃっていた。私も、そう思う。笑いは、悲しさの中から魂の叫びのように、沸いてでてくるものではないかと思う。だから、最近のお笑いブーム的なものは、正直、気持ちが悪い。表面的な薄い感じが、どうも、私は苦手だな。。

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    2007年9月21日 (金)

    誇大自己症候群 4

    誇大自己症候群 岡田尊司 ちくま新書 740円 より~

    ・ 現代社会で、もっとも手に入りにくいものがある。それは掛け値のない本物の愛情である。人々は自分だけのことを考えてくれる100パーセントの愛情を求める。だが、それは、現実の人間には到底満たせるはずもないものである。その結果、そうした欲求を簡便に満たすことのできる自己愛の慰撫装置が、万人の必需品となる。アイドル、ペット、アルコール、ドラッグは、その代表的なものである。 (略) その結果、自己愛の慰撫装置である「自己対象」が、自己愛型社会において大活躍することになる。お気に入りのゲームやファンタジーの世界も自己対象である。そうした自己対象は自分の思い通りになる世界であるがゆえに、ままならない現実からのシェルターになる一方で、真実の他者との出会いを妨げ、本当の共感性を育てる機会を奪ってしまう。逆にこうした慰撫装置が発達すればするほど、誇大自己症候群は過剰形成を起こしやすくなる。 若者たちは、今そうした悪循環の中におかれている。快適なシェルターの中にばかりいることで、些細な不快さも余計耐え難いものとなってしまうのである。

    ・ 誇大自己症候群を修正する上で、もっとも大切なことは、自分のためではなく相手や周囲のために配慮し、自分の役割を果たすことを身につけることである。なぜなら、誇大自己症候群にもっとも欠けているのは、他者という視点だからである。 自分のためだけに頑張らせる教育は、一番肝心なものが抜け落ちてしまうのである。個性や学力以前に、もっと肝心なものを育てることに、個々の教師の努力だけでなく、システムとして取り組む必要がある。なぜなら、こうした問題は、一人一人の努力だけでは、どうにもならない問題を抱えているからだ。まさにこうした点にこそ、政治や行政は指導力を発揮すべきである。

    ・ ある傷つきと偏りをもった存在である自分を知り、自分が向き合ってこなかった部分も含めて、すべてを自分として受け入れなおすということである。自己の再確認と再統合という過程をくり返す中で、自分の中のさまざまな可能性に命が吹き込まれ、傷や歪みでしかなかったものも、現実的な力となっていく。 誇大自己症候群の人は、誇大自己を膨らまさずにはバランスが保てないだけの、何らかの背景をかかえている。それは、多くの場合、愛情剥奪と溺愛が入り混じった、バランスの悪い親との関係に由来し、その親もまた一家のねじれた過去を背負っている。 誇大自己症候群が、ひとつの脱皮を遂げるとき、自らを振り返り、自分という存在を再構成する作業が必要になる。 そうしたプロセスは、自分自身とのかかわりの中だけでは達成することが難しい。他者とかかわることによって、自分の特殊性や偏りというものが、他者を介して照らし出されることの方が多いからだ。他者と向き合う中で、絶対的なものに思えていた自分というものを、相対的な視点で眺められるようになっていく。 さらにそれを助けるのは、対話である。対話には二つある。書くこと、語り合うことである。書くことは自分自身と対話することであり、語ることは、他者と対話することである。対話によって、人は自分をさらに客観的な目で振り返りやすくなる。 逆に、そうした他者によって自分を映し出す機会を拒んだり、切り捨て、自分の世界にだけ閉じこもっていくと、その人は自分というものを本当に知ることができなくなってしまう。自分の独りよがりな思い込みでしか、自分を捉えることができなくなってしまうのだ。それは、とても残念なことに思える。

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    2007年9月 3日 (月)

    自分に酔う人、酔わない人 2

    瀬古浩爾 PHP新書 より~

    ・ 意味にとらわれるとき、たいていの場合が心身不調である。仕事、家族、友人、好きな人、すべてが順調なときに、余計な疑問など湧きあがってくるはずがない。そんな疑問が入り込む余地は微塵もない。有頂天とは「仏教で、色界・欲界の最高所」のことであるから、自分や他人を顧みることなど、ほとんどありえない。意味などいらないのだ。人も羨む自分の現実があるのだから。 だがいうまでもなく、人生とはそんなものではない。意味とは、自分を支えることである。自分を支えるとは、自分をなにかに託すことである。自分はひとりでは立つことができない。支えるものがたとえば「コツコツ」である。 「コツコツの先に成功がある」わけではない。しかし、「コツコツやってもなあと思う前にコツコツやれ」とは真実である。「コツコツやってもなあと思う」のは、すでに、そうしたくない自分への言い訳である。「コツコツ」とは、自分を見ないで、目の前にあることを見よ、ということだ。成功すればいいが、しなくてもいいのである。自分を見るなというのではない。「はた自分」について、あまりにも考えすぎなのである。自分では酔いの実感がないものだから、他人にわたしを酔わせて、もっと酔いたいの、と甘えているだけである。

    ・ そう、「自分」のことで悩んでいる人は、「解決せん」ことばっかり考えているのである。どこにも正解などありはしない。自分の身の上について考えることは、自分を頭で納得させるためか、自分を実際に動かすためか、の二つしかない。 自分を動かすには、目の前のことをやるしかない。目の前になにもなければ、自分で動いて、なにかを目の前にしなければならない。無理やり自分を納得させようとすることは、多くは自己欺瞞になる。自分を動かすのは満足を遅滞させる「現実原則」だが、自分を納得させるのは、どうしても「快感原則」に傾きがちになるからである。 だから、現在の自分を納得させようとすることは、ほんとうは考えていることにならない。考えているフリをしているだけである。フリとは自分と世間に対する言い訳である。自分に猶予を与え、世間には、これはほんとうの自分ではなと虚勢を張る。「自分のほんとうにやりたいこと」など見つからなくてもいいのだ。なんでも、時間を書ければ出来るようになる。できればおもしろくなる。おもしろければ好きになる。好きこそものの上手なれ、はたしかに真実ではあるが、一面の真実でしかない。

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    自分に酔う人、酔わない人

    勢子浩爾 PHP新書 より~

    ・ 自分の非を絶対に認めないこと、あるいはひと言も言葉を発しないことで、なにを守ろうとしているのか。なにが、非を認め、言葉を発することを妨げているのか。なにがなんでも、自我の安寧を守ろうとしているとしか思えないのである。自分から下手にでるような言葉を発することは、自分の自我の負けなのである。「すみません」というと、自我が損をするような気がするのだ。 ことの正否などどうでもいい。つねに自分の思いどおりでありたい気ままな自我に、他人には指一本も触れてもらいたくないのである。

    ・ わたしたちは、弁解の言葉ばかり覚えてしまったのである。「つい」だの「ちょっとした」だの、これらに共通するのは、「だから僕を許して」「悪気はなかったんです」「せめて罪を軽くして」である。つまり、「僕に責任はない」である。いいや、許さん。「酔った」のでも「若気」でも「魔」でもない。あなたの明確な欲望が欲したのだ。 「つい」も「ついつい」も「ちょっとした」も「なぜかしらないが」も「ふらふらと」も「いつのまにか」もすべて認めてよい。長い人生だ。そういうことはある。もともと摩訶不思議な自我だ。そういうことはたしかにある。 ただ、そのときに「酔った」だの「若気」だの「魔」だの「出来心」だのと弁解するのが見苦しいのである。「わたしがバカでした」「全部わたしの責任です」といえば、すべてすっきりするではないか。二十歳も四十歳も六十歳も八十歳も全世代において、また酒飲みもそうでない者も使えるではないか。 「なんであんなことをしたんだろう」と慙愧の念に耐えないことはある。「心にも無いことをいってしまった」と後悔することもあるだろう。だが「つい」男達や「ちょっとした」女たちにそんな殊勝な心はないのである。人間関係自体をなめていて、かれらの心はつねに軽いのである。「あわよくば」と、あくまでも自分の責任ではない、と言い張ろうとする根性があさましいのである。他人を欺こうとするだけではない。そういう言い訳をすることで、自分自身をも欺いているのである。

    ・ 「みんな」などいやしない。いるのは「一気飲み」を強制した一人ひとりだけである。35人の一人ひとりである。最初に声をあげたひとりがかならずいる。35人全員がいっせいに声をあげることなぢありえない。 そのひとりの声に、「ああ、オレでなくてよかった」と安堵して、その安堵を確実なものにするために、付和雷同して拍手する一人ひとりがいるだけである。指名されたひとりのことなぢ、とりあえずどうでもいのである。その人間の「一気飲み」など、ほんとうはさせたくも見たくもないのである。拍手することによって「みんな」のなかに逃げ込み、身を隠したいだけなのである。 このようなとき、いったいだれが35人の「みんな」に抗することができようか。先にいったように、日本人には「ノリが悪い」だの「空気を読め」だのの、個人の意思を抑圧しようとする「みんな」の圧力がある。「場がしらけるじゃないか」というバカもいる。しらける「場」など無い。もししらけるのなら、そいつ一人がしらけるだけである。「みんな」を隠れ蓑にしているだけで、どこまでも卑怯なやつである。

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    2007年8月21日 (火)

    ほん

    ・ 社会学入門 「新版」 秋元律郎・石川晃弘・羽田新・神井孝子 有斐閣新書 824円

    ・ 自分に酔う人、酔わない人 瀬古浩爾 PHP新書 700円

    ・ 30代未婚男 大久保幸夫・畑谷圭子・大宮冬洋 生活人新書 740円

    ・ 男というもの 渡辺淳一 中公文庫 552円

    ・ シネマティック恋愛論 渡辺淳一 集英社文庫 410円

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    2007年8月13日 (月)

    ほん

    ・ 詭弁論理学 野崎昭弘 中公新書 660円

    ・ 生きているのはひまつぶし 深沢七郎 未発表作品集 光文社 1600円

    ・ 中原中也詩集 新潮文庫 476円

    ・ 寺山修司詩集 ハルキ文庫 680円

    詩集、楽しみです。 

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    2007年8月 9日 (木)

    本より~

    いまどきの「常識」 香山リカ 岩波新書 より~

    ・ かつて、「自分も傷ついたことのある人は、他者の痛みにもやさしくなれる」と言われたことがあった。これが今ではまったく通じない。自分が苦しみを経験したことで他者の苦しみをも理解できるようになる、というのは、まだいくらかは心に余裕があったからなのだろうか。今は多くの人たちはそれさえ失い、「とにかくまず、私の苦しみを聞いてくれ、なんとかしてくれ!」と‘自分物語‘を叫び続けているのだろうか。だとすれば、社会にいくらかでも余裕が戻ってくれば、私たちはまた他者の苦しみや痛みににも想いを寄せられるようになるのだろうか。とくに余裕のない生活を強いられているわけでもないのに、自分の苦しみにしか感心を持てなくなっている最近の学生たちを見ていると、どうもそうとも言えないような気もしてくる。このまま、大きな声で‘自分物語‘を語る人ばかりがどんどん増え、それに耳を傾ける人がどんどん減り続けていけば、いったいどんな風景が出現するのだろうか。

       -   自分物語を聞いてくれない人は嫌な人で、だから、悪口をいってもいいし、自分はこんなにがんばっているのに、認めない社会とかが悪い、そんな声が聞こえています。

    ・ 「少年事件の本質は、その少年にあるのではなく、大人や社会にある。間違っていたのはあなた自身なのだ」と自分に‘お鉢が回ってくる‘のはなんとしても避けたいからだ。誤解を招く言い方かもしれないが、被害者に対して「気の毒に」と同情、共感している間は「優しさを持った自分」でいられるが、加害者やその家族について想像を始めると、自分の中にもある「あやまち」や「不実」にも向き合わなければならなくなる。問題を自分と切り離すために、「被害者はほんとうに気の毒、加害者はモンスターだ」と言っている人はいないだろうか。  

    ・ 「私は、その病気になったことがないので、患者さんの気持ちはわかりません」自分とは少しでも異なる立場や情況にある人の心情を想像する気が、最初からないのである。  ・  「想像し、感情移入してもよい」と思う対象が、きわめて限定されているのだ。

    ・ 自己肯定感とは他人に与えてもらうものではなくて、自分自身で手に入れるべきものだ。場合によっては、他人が「ダメだ」ということであっても、自分が信じているなら実行するということさえあるだろう。ところが、今の若者たちはそこまでして自分の思いを貫きたいとは思わない。たとえ、「こうしたいな」「あそこに行ってみたいな」という希望があったとしても、必ず「いいじゃない、やってみなよ」「キミなら絶対できるよ」といったあふれんばかりの他者からの保障や承認がなければ、一歩を踏み出せない。

       -   若者だけじゃないよね。大人だってそう。自分で責任取りたくないから、無理してまでもやる必要はないって思うのじゃないかな。。。

    ・ 「決まったこと」に対して異論を唱えたりすると、「みんな従っているのに自分勝手だ」と言われる。その法律やシステム、あるいはリーダーが本当に信頼できるかどうかが問題なのではなくて、「私だって不平不満を言わずにおとなしくしているのに、自分だけが好きなことをっタリやったりする人がいる」ということの方が問題なのだ。もっと平たく言えば、「抜け駆けはずるいじゃないか」となるだろうか。 こういう人たちは、誰かに「大切なのは足並みをそろえることです」と教えられ、抜け駆けを強く禁止されていわけではない。それなにに、自主的に「決まったことには逆らわない」、「強い力を持っている人の言うことはきく」、「もし反発を感じてもひとりだけしれを口に出したりはしない」というルールを制定し、それを固く守って生きているのである。そして、そうやって自分で作ったルールに縛られて生活しているうちに、本当にリーダーや権力者の言うことが正しいような気になってくる。

       -   そう、異論とまでいかなくて、どうなんだろう・・って言うだけでも、根性が必要だ。困ったことだ。。。

    ・ 私たちは、「‘弱い人‘の立場になった考える」ことの面倒くささから逃れるために、病気や障害を持つことになってしまった人たちまでを、「あの人たちは‘負け組‘なんだ」と考えようとしているのかもしれない。そうすれば、「‘負け組‘が暮らしやすい社会」のことまでは考えていられないよ、と片づけることができるからだ。しかし、本当に「‘弱い人‘たちが暮らしにくく、そうでない人たちだけが暮らしやすい社会」などというものがあるだろうか。‘弱い人‘が暮らしにくい社会は、‘強い人‘にとってもやっぱり暮らしにくい。そう思うのは、流行の本のタイトルではないが「負け犬の遠吠え}にすぎないのだろうか。

     

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    狂い 2

    「狂い」のすすめ ひろさちや 集英社新書 より~

    ・ われわれには、自分は自分であっていいという基本的人権があるのに、その世間の重圧に負けて、無理矢理、自分が自分であってはいけないと思わせられているのです。

       -   学校で、家庭で、友達同士の間で、職場で、、、常識にそぐわないやつは、捨ててしまえといわんばかりに。常識に沿ってる人だけ、認めてあげますよ~って、くだらない言葉にひらひらと付いていき、ついてこれなかった、ついていかなかった、そんな人たちを、みんなでいじめ倒すのです。いじめだとおもってないか・・・あなたたちのために、言ってあげているのに!感謝してほしいくらいだ!!かな~

    ・ そもそも癒しを求めるのがよくない。心が傷ついたとき、癒しを求める人が多いのですが、たとえばサラリーマン生活をしていて心が傷つきやすい環境に身を置いていながら、その環境を変えずに癒しを求めても、癒しが与えられているあいだはよくても、またすぐに心は傷つきます。それよりも、心が傷つかない環境に身を置くことを考えたほうがよいのですが、現代日本の社会生活では、心が傷つかない環境なんてないのです。誰だって心が傷ついています。まあ、人間に二種類があって、鈍感な人と敏感な人がおり、敏感な人が癒しを求めるのですね。でも、癒しは与えられない。そうすると、求めた人はそれだけ多く悩むわけです。 それに、すでに指摘したように、孤独は人間の根源的なありかたですから、癒されるわけがないのです。そこのところをしっかりと認識しておいてください。 だからわれわれは、 - 孤独を生きねばならない - のです。いいですか、孤独に生きるのではなしに、孤独を生きるのです。

       -   自分の心は、自分の力で何とかしないと、だれもなにもしてくれないし、アニメのように、魔法使いがやってきて何とかしてくれる・・なんてな、ことは、無いです。

    ・ 正しいことというのは、わざわざあなたが相手に言ってあげなくても、相手がよく知っていることです。いう必要なんてありません。

    ・ ともかく、縁もゆかりも無い人間に向かって正しいことを言えば、ぶん殴られる危険があります。縁もゆかりもある人間に向かって正しいことを言えば、あなたは憎まれる危険があります。だから、正しいことは言わずにおきましょう。 それから、正しいことをあなたが言うときには、あなたは勝手に裁判にかけて判決を言い渡しているわけです。そのことに気づいてください。

    ・ <この人はまちがっている><わたしであれば、こんなことはしないのに・・・>と思うことも含めて、相手に対してなんらかの「判断」をすることは、結局はその人を裁いていることになるのです。したがって、何も言わない、その人を裁かないほうがよいのです。 わたしたちは、聞いてあげればよいのです。 失敗した人、悲しんでいる人に向かって、わたしたちは何かを言ってあげたい気持ちになります。だが、人間の言葉にはトゲがあります。そのトゲでもって、相手を傷つける危険が大きいのです。心の中で<わたしであれば、あなたのようなことはしない>と思っているから、相手を裁いています。それでトゲが出来るのです。

       -   正論、正しいことを言うというのは、なんだか、情けないですね。。自分の底の浅さをわざわざ露呈してくださり、自分は人に対する優しさのかけらも、余裕もないことを、自分で宣伝してくださっているのですから。。

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    狂い

    「狂い」のすすめ ひろさちや 集英社新書 より~

    ・ 一見、弱者が思想を持っているかのように思えることがあります。でも、それは思想ではありません。それは、 - 常識 - なんです。よく聞いてみてください。赤提灯で得々として語っているサラリーマンやおやじの「意見」なんてものは、商業新聞や週刊誌に書いてあることと同じです。いわゆる体制護持的な思想、それを弱者は自分の「意見」だと思っている。思わせられているのです。そして、そのような「まともな意見」に逆らう奴を、「なんて非常識な奴なんだ、おまえは・・・!?」と、蔑みの目で見ます。じつは、その人は奴隷でしかないのですよ。世間の奴隷、常識の奴隷になっているのです。 困るんです、この奴隷になった連中が。奴隷は、自分が弱者のくせに、ちっとも弱者だと思っていません。権力者の太鼓持ちのくせに、自分が権力の一端を握っていると考えている。虎の威を借る狐です。彼らは最後には、自分には何の力もないのだと自覚してしょぼんとするのですが、その自覚のないうちは、虎の威を借りて威張っていて、弱いものいじめをやっています。

       -   弱いものいじめ、学校、職場、隣近所、、いたるところで醜くおこなわれてますよね。。それに対抗するために、常識を振り回してるのはわかるのですけどね・・・あまりにも、教養がなく下品で情けない。。。

    ・ 世間の常識は、世間そのものにとって都合のいいものを一般大衆に押し付けているだけのことです。だから、都合が悪くなると、その常識を変えてしまいます。

       -   例えば、できちゃった婚、覚悟一つ出来ずセックスして、何となく結婚・・一昔前は、情けなくはずかしいことだったのですけど、今は、最先端かのように、理解しない人のほうが、頭が固くてつきあいずらいよね~なんてな感じです。

    ・ 一休禅師の道歌より<生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も><世の中は食うてはこ(室内用の便器)してねて起きて さてそのあとは死ぬるばかりよ>

       -   こだわり、プライド、お金、地位、、、死んでしまえば何も無し~

    ・ 「一夜賢者経」より<過去を追うな。 未来を願うな。 過去はすでに捨てられた。 未来はまだやって来ない。 だから現在のことがらを、 現在においてよく観察し、 揺らぐことなく動ずることなく、 よく見きわめて実践すべし。 ただ経なすべきことを熱心になせ。 誰か明日の死のあることを知らん>

    ・ 期待しないのは、絶望することではありません。

       -   だから?って声が聞こえてきます。もっとちゃんと説明してくれと。そんなこと思う人は、あほです。自分で考えてみてください。

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    2007年7月28日 (土)

    本より

    ブッダ - 大人になる道 アルボムッレ・スマナサーラ ちくまプリマー新書 より~

    ・ 「みんな言っているから」という言い訳を私たちはよく使います。しかし、みんな言っているからといって、事実・真理にはならないはずです。 このように、私たちには真理を発見できないハンディがあります。そのハンディは「固定概念」という言葉で表すことができます。 ・  子どもはおとなになる過程で、教育と称していろいろな固定概念ばかり叩き込まれます。そうして「知り得る能力」を失ってしまうのです。その後は、「○○の立場」から物事を見るようになります。 ・  だから私たちは「知り得る能力」を取り戻すために、「ただありのままに見る」というところに戻らなければいけません。事実を「見たくない」という今の状態から、「やっぱり見てみようかな」というところにまで戻らなくてはいけないのです。これができないから、様々な問題に遭遇しても、解決方法を見出せず大変苦しんでいるのです。

       -   固定概念、なんだけど、正しいもの、という思い込みがあるから、あの人へん・・とか、差別や嫌がらせがはびこるのよね。正しい、という判断は、自分の今いるその○○の立場からの見方だったり、ほんとはとても狭い範囲での、その瞬間だけの正しいだったりするのですけどね。。正しかったにしても、永遠に正しいわけじゃないし、柔軟にならないといけませんね~

    ・ 私にとって花がきれいに見えるのは、仕方ありません。しかし、それが「正しい」と思わない、つまり、自分の「知識」を「正しい」と思わないことです。私たちがいつも「自分、自分」と言って大切にしているものは、じつは自分の「知識」を「自分」だと思っているのです。 ・ 私たちは、自分の間違っている知識を、「自分だ、自分だ」と勘違いしています。真理ではないに決まっている「知識」にしがみついて、人生につまずいて失敗しています。そして、自分も周りの人も、不幸に陥れてしまうのです。  ・  「私が思う、ゆえに正しい」という、いい加減な思考をやめましょう。

    ・ 「嫌う」ということは、つまり「自分が狭い」ということです。自分が嫌われたら、「どうぞご自由に。ご勝手に」という態度でいればいい。自分は決して相手を嫌わない方がいいのです。「私はあなたも嫌い、この人も嫌い」というと、自分がどんどん狭くなっていきます。  ・  他人を嫌う人の心は小さなからの中に縮こまっています。一方、自分が誰にも「嫌い」という気持ちを抱かなければ、その人の心の輪は柔軟に、すごく大きく広がるのです。その大きな心の輪に、たくさんの人の心の殻が包み込んでしまえるのです。しかし包み込んでも、「他人の心の殻を破ってやろう」というお節介まではいりません。

       -   自分が正しいと思うから、相手を嫌う。正しいのだから、嫌っても当然。反省すべきなのは、嫌われている本人であって、私ではない。なぜなら、私が正しくて、間違ってるのは、相手だから。。。。。そんな理屈が聞こえてきます。ほんまに、心が狭いです。正しいとか間違ってるとか、くっだらない!そんな、時と場合でくつがえるようなものを、知識だと思い込み振り回す。人として、小さい狭いな~って思います。私、そうならないようにしたいと思います。

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    本より~

    不幸になりたがる人たち 自虐指向と破滅願望 春日武彦 文藝春秋 より~

    ・ 相手に違和感や不快感を覚えるとき、それは自分がノーマルで「正しい」といった無根拠前提に基づいているのが通常だからである。「わたしだったら、あんなことはしない」「マトモな人物は、こんな態度は示さない」といった、押しつけがましい常識論や価値判断、倫理観を振りかざしている可能性が大いにある。 おかしいのはどちらなのか、正しいのはどちらなのか、といった議論になってしまうと話の焦点はぼやけてしまう。わたしが話題にしたいのはファナティックな道徳論ではない。世の中には、まぎれもなく風変わりで奇異な人物がそんざいするけれども、人によってはその脱線ぶりに気づかなかったり「あれもまた個性のうちだなあ」と肯定的に判断する。それでそのまま仲良く共存していけるのなら問題ない。ところが、世間にはしばらく付き合ううちに次第に迷惑ぶりや自己中心性、押しつけがましさといったものを露骨に示しはじめてくる人たちがいる。出会った最初は、そんなとんでもない人物ではなかった筈なのに、いつしか頭痛の種となっているような人物が存在する。

    ・ わたしが精神科医として沢山の人たちと接しているうちに気づいたことがあって、それは人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の三つに過ぎないというまことにシンプルな事実である(それは犯罪の動機の大部分が「色・金・怨恨」も三つに収斂してしまうことにつうじているのかもしれない)。もちろん、こだわりやプライドがなければヒトはなにもなし遂げられまい。無気力で受動的な人物となり果ててしまうだろう。だが、過剰かつ非現実的なこだわりやプライドは、驚くばかりに心の動きを異様なもの(ときにはグロテスク、ときには滑稽、ときには迷惑千万なもの)に変える。被害者意識もまた同様であり、これら三要素がもたらすものは業と呼ぶしかない。

    ・ 調子は良いし愛想も良いが偏屈でわざとらしく、そわそわと底の浅いプランを次々に打ち上げては陳腐な結果を自慢げに披露し、周囲の失笑には居直ったり道化者を装ったりしつつさらに陳腐路線をまっしぐらといった人物が存在する。けれんが見え隠れし、言動にはどこか卑しさが伴う。   -   ←これ、私の事だ、っておもいました。

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    2007年7月26日 (木)

    恋愛小説より~

    今夜誰のとなりで眠る 唯川恵 集英社文庫 より~

    ・ 人と深く関わったり、ものに執着したりしなければ、失望を味わうことはないと思っていた。好きな仕事と、心地よい住みかがあれば、穏やかにくらしていけると思っていた。 そんなのは嘘だった。ただの傲慢な思い込みだった。

       -   失望、見返りを求めるからだ。そこに、意味を与え、結果を求めるからだ。人との関わりは、自分を成長させてくれる。ものやいろんなものに対する執着、執着してしまうことが、心のすき間を、その、もの、で埋めようとしているからではないのか。執着は、マイナスはあってもプラスはない、そのことを自覚して、執着する覚悟があるのかどうか・・・

    ・ 愛されることでしか相手を認められない。どうしてわからないんだろう、そういう人間がいちばん傲慢だってことが。

       -   そうだ。。愛されてなくても、その人を愛しいと感じられる、大切だと思える、そこにいてくださる、そんな人に会えた、その幸せに感謝ということもある。たとえ、酷い事をされても、言われても、人にもその状況にもよったり、後々だったりするのですけど、その人を認められる。。(貸した金は返してもらうべきで、殴られたりしたら、ちゃんと謝っていただかなくてはいけないし、、、そういうことを黙って認めろって言ってるのではないので、想像力があったり、悪意でみてくださらなければ、理解していただけるでしょうか・・(^^;)

    ・ 「解説 温水ゆかり より~」   思えば、女の三十代は、もう人生の夏は過ぎたことを思い知らされる季節だ。若くして結婚すれば結婚生活の単調さに倦み、結婚していなければ、女の賞味期限なのか消費期限なのか、どちらなのかは分からないけれど、いずれにしてもデッドエンドの気配に怯え始める。離婚していたら、あの選択はただしかったのだろうかと、苦い後悔に苛まれる瞬間があるかもしれない。 結局どんな道を選んでも、私たち女は、あり得たかもしれない「もう一つの道」に‘恋い焦がれて‘(という言い方もヘンだけど・・・・・・)しまうものなのだと思う。なぜなら、女は憧れを胸に飼う弱い生き物だから。でも、そんなことは夢想もしていないという顔で、毎日をやり過ごすほどリアルで逞しい動物だから。

       -   よく分かるわ・・只今、40歳。動物的に、人間として半分、女として半分くらいはやっぱり思って生きていたいわ・・と、覚悟もでき、子どもも18歳になり、家族の役割といいますか、結婚の前半の意味も良く分かり、人生残り三分の一かな(^^;どうして、何を拠り所にといいますか、生きていくの?と、突きつけられてるな~と実感しながら、なるようになるか・・と、日々過ごしております~♪

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    2007年7月20日 (金)

    ・ 生命あるすべてのものに マザー・テレサ 講談社現代新書 660円

    ・ ブッダ - 大人になる道 アルボムッレ・スマナサーラ ちくまプリマー新書 760円

    ・ 死生観を問いなおす 広井良典 ちくま新書 700円

    ・ 不幸になりたがる人たち 自虐指向と破滅願望 春日武彦 文藝春秋 660円

    ・ 怒りの方法 辛淑玉 岩波新書 700円

    ・ 性的唯幻論序説 岸田秀 文藝春秋 770円

    ・ 「狂い」のすすめ ひろさちや 集英社新書 680円

    ・ いまどきの「常識」 香山リカ  岩波新書 700円

    ・ 一度死んでみますか? 漫談・メメントモリ 島田雅彦・しりあがり寿 PHP新書 720円

    ・ 子どもの「心の病」を知る 児童期・青年期とどう向き合うか 岡田尊司 PHP新書 880円

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    2007年7月17日 (火)

    ネット注文した本

    ・ はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内 野矢茂樹 PHP文庫619円

    ・ 死ぬほど好き 林真理子 集英社文庫 438円

    ・ 今夜誰のとなりで眠る 唯川恵 集英社文庫 533円

    ・ みんないってしまう 山本文緒 角川文庫 438円

    ・ 長距離走者の孤独 アラン・シリトー 新潮文庫 466円

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    2007年7月14日 (土)

    ・ hon・nin本人 03 ビートたけし&松尾スズキ対談 大田出版 950円

    ・ Quick Japan vol72 松本人志/北野武 900円

    ・ 環境問題はなぜウソがまかり通るのか 武田邦彦 洋泉社 952円

    ・ 妄想中学ただいま放課後 宮藤官九郎 太田出版 1299円

    ・ 自殺うさぎの本 アンディ・ライリー 青山出版社 900円

    昨日、買ってしまいました(^^;;;

    そして、本日、あまりにも暇だったので、ネットで本を注文してみました。初めてです!ネットでお買い物(~~)届くのでしょうか~

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    2007年7月 6日 (金)

    働こうとしない人とたち 拒絶性と自己愛性 矢幡洋 中公新書 より ~

    ・ 群れの中に入らなければ安心できない、というのは「自分ひとりで生きていく自信がない」という依存性の根本的な傾向の現れです。彼らは、気の合うグループの中では、けっこうハイテンションにはしゃいでみたり、一見元気そうに見えることもあるのですが、そのようなグループから離れて、自分とは異なる価値観の人間と関係する、ということを考えると「とてもやっていけない」と感じてしまいます。

    ・ 個人として存在することなく、物心ついたころから「群れている」ことが常態であった若者は、個の確立のはるか手前にあり、「自分はこれをしてみたい」という目標も希薄です。

    ・ 一種の現実逃避は自分自身にめくらましをかけ、自分に嘘をつき続けている状態であり、それを維持するためには無理な労力を使うものである、としています。長期的には、彼らはいつまでたっても夢が実現しないために抑うつ的になっていたり、「社会が悪い」「理解してくれない周囲が悪い」というように責任転嫁し被害妄想的になることもある、としています。 また、このタイプの人々は、自分が卓越した能力を持っているかのような幻想を抱いているため、「自分のような優れた人間は現実社会のつまらないルールに縛られる必要はない」といううぬぼれに陥るようになります。 自己愛性性格の人々は、他人のことを低く評価することに慣れきってしまっています。社会には、ギブ・アンド・テイクという原則があるのに、このタイプは、「自分が、相手(ひいては会社)に何を提供しているのか」ということを等閑視しがちであり、それよりも「相手は自分に何をしてくれているのか」という「もらう」「受益する」方向にすぐに注意が向かってしまうのです。

     

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    2007年6月28日 (木)

    誇大自己症候群 3

    誇大自己症候群 岡田尊司 ちくま新書 より ~

    ・ 乳幼児の観察や児童の精神分析から対象関係論という一分野を切り開いたメラニー・クラインは、深いな自体が生じた場合、それを自分以外のもののせいにして、攻撃や怒りで反応する状態を「妄想・分裂ポジション」と呼んだ。それに対して、自分の非を感じ、落胆や後悔を覚えている状態を「抑うつポジション」と呼んだ。

    ・ 大人になっても「妄想・分裂ポジション」が色濃く残ってる人もいる。そういう人は、少しでも不満なことがあると、それをすぐに誰かのせいにして、自分の問題には目が向かないのである。自分がしくじったことを、親や社会のせいにしてしまうということも起こりやすい。 あるいは、自分の非を認める代わりに、居直るということも起こる。自分の非を逆に誇示したり、アピールしようとする。抑うつや罪悪感から逃れるために行う強がりを、クラインは「躁的防衛」と呼んだ。誇大自己症候群の人は、「抑うつポジション」に陥るのを避けるために、まさに「躁的防衛」をしているのである。それでも自分を守りきれなくなると自己愛的な怒りに囚われ、相手に責任転嫁し、攻撃しようとする。自己愛的な怒りの正体は、クライン流に言えば、「妄想・分裂ポジション」なのである。 最近の若者には、悪いことをしても、まるで罪悪感が欠如してるような人が少なくない。そうしたケースで従来多かったのは、親の愛情もろくに知らずに育ったというものであったが、最近目に付くのは、まったく正反対に、親から叱られたことがほとんどないというケースである。幼い頃に出来合いされ、必要な時にも叱られずに何でも許されたという人では、都合の悪いことはすべて人のせいにして、ちょっとでも傷つけられると過剰に反応し、相手に復讐しようとする。

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    誇大自己症候群 2

    誇大自己症候群 岡田尊司 ちくま新書 より ~

    誇大自己症候群チェック~

    ① 自分のこと、自分の関心があることばかり話したがる。逆に、自分のことが話題になるのを極力避けようとする。

    ② 大げさな表現や大きなことを口にしたがる。ありふれたことではなく、普通の人が言いそうにないことを、さらっと言ったりする。意表をつくような、周囲があっというようなことをすることがある。どこか、現実離れをした話をする。

    ③ 理屈っぽく、理詰めで話をする傾向がある。すぐに法律や専門的な知識を持ち出して、物事を論じようとする。話し方にも、自然な感情や思いやりに乏しい。逆に、感情を過度に煽るような、少し芝居がかったしゃべり方をする場合もある。

    ④ 過度に丁寧だったり、過度に傲慢な態度をとる。最初は緊張が強く、よそよそしくて警戒的だが、いったん話し出すと、べらべらとよく喋り、急になれなれしい態度をとる。まだ、よく知らないのに、過度に相手のことを理想化したり、褒めたりすることもある。

    ⑤ 少しでも自分の言ったことにケチをつけられたり、軽くあしらうような言い方をされると、そこにこだわった反応を示したり、顔色が変わる。

    ⑥ 自分のやり方にこだわりが強く、融通がきかない。物事の見方や関心、視野、活動領域、価値観が過度に固定し、それを広げようとしても強く抵抗する。潔癖で完全主義の傾向がみられる。

    ⑦ 家族や身内を過度に理想化しているか、過度に嫌っている。友達に対しても、心から信頼するというよりも、どこか表面的だったり、自分の都合で相手を利用しようとする。

    ⑧ 些細なことで機嫌を損ね、立腹する。そんなときは、普段とは全く別人のように、態度が豹変するのが特徴である。

    ⑨ きまぐれに、考えや決定がころころ変わる。だが、相手が決めることは好まず、自分が決定権をもとうとする。

    ⑩ 相手によってひいきしたり、態度が違う。従順で思い通りになる相手は、お気に入りであるが、自分の意思をもった存在には、批判的で激しく嫌う。

    これらのチェックをみて、以前書いた「モラルハラスメント」の、自己愛にそっくりだと思いました。それよりも、幅がひろいかもしれません。(モラハラの記事は2月8日をご覧下さいませ)ほんと、このような人が、多いです。某所で土曜日デモをされるようなかたたちは、このような素質を過分にお持ちでしょうね。。。

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    誇大自己症候群 1

    誇大自己症候群 岡田尊司 ちくま新書 より ~

    ・ 現実に不適応を引き起こすほどに肥大した万能感と他者にたいする驕りを特徴とする、この一連の症候群を「誇大自己症候群」と呼ぶこととする。特徴 - ①根底にある自己否定とそれを補うべく肥大した幼い万能感や誇大な願望、②他者に対する非共感的態度、罪悪感の乏しさ、責任転嫁と自己正当化、③現実感の乏しさや自己愛的な空想、解離的傾向、④性格の二面性と突発的に出現する激しい怒りや攻撃性、⑤安心感の乏しさ、傷つきやすさや傷つきへの囚われ、を主な共通点として指摘することが出来る。   -   最近、とてもこのような性格といいますか、そのような性質を持った方が多くいらっしゃるように思います。

    ・ 自分が支配できる対象や理想化した対象に対しては、過度な感傷や感情移入がみられる一方で、思い通りにならない現実の他者に対しては、本当の親しみや共感をもちにくいというギャップが、誇大自己症候群においては特徴的にみられる。現実よりもファンタジーや操作可能な環境に対して、安心感や親しみを持つのである。生の現実ではなく、「幻想性」と「操作性」によって加工された、思いのままにコントロール可能な模造現実を、居心地よく快適と感じるのである。 ファンタジーであれ操作的環境であれ、その根底にあるのは同じく、思い通りになるということであり、万能感を用意に充足させてくれるということである。その、最たるものが、ゲームという環境である。コントローラーによって操作できる環境も、コントローラーによって味わえる疑似体験も、容易に制御可能な作り物の現実という点では同じで、体験とファンタジーの区別は失われていく。そうした「体験」を本来の体験と勘違いして育つ世代は、必然的に現実とファンタジーの区別が曖昧な、ファンタジー優位な精神構造を持つようになる。   ー   ゲーム、アニメ、マンガ、自分達で自分達の思いのままに作り上げる同人誌、自分が主人公になってしまうコスプレ、自己顕示欲は、とどまるところをしりません。。。

    ・ 現代社会は、誇大自己の万能感を追及することに最大限の価値をおく社会である。進歩、発展、成長、向上、発達、進化。より優れたものへと高まることこそが、近代以降、人々の心を捉えるスローガンであった。物質的、精神的、肉体的な点であれ、社会的、経済的、文化的な療育であれ、さらに向上と改善を目指し、発展し進歩していくことが善とされる。常に強気に、前向きに進んでいくことが求められる。いつまでも発展し続けていくという幻想が、現代社会の一つの「宗教」なのである。現代社会は絶対的価値を失った空虚を、無限の成長や発展という幻想に酔うことで忘れようとする。   ー   上昇志向を持ちエリート街道へ、勝ち組に!そこに、何があると思ってらっしゃるのでしょうか。。乏しい貧しい精神が、拝金主義へと走らせるのでしょうか。

    ・ 誇大自己症候群の人は、自分を特別な存在だとアピールしようとする。たわいもない話題でも、それが正しいとか間違っているということにこだわったり、自分の知識や経験をひけらかそうとしたりする。議論の全体ではなく細部にこだわり、共通点ではない違いに囚われやすい。 誇大自己症候群の人と議論をしても、大抵は不毛である。建設的な議論が発展することはなく、ただ自分の狭い考えを正当化するだけの「議論のための議論」になってしまう。 何事においても、問題自体ではなく、自分の思い通りになるかならないかが、誇大自己症候群の人には重要なため、肝心な点からずれてしまう。そして、どちらが勝者でどちらが敗者であるかを競う泥仕合になってしまうのである。   

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    2007年6月19日 (火)

    仏教 2

    仏教「超」入門 白鳥春彦 PHP文庫 514円 より ~

    ・ 相手を純粋に愛してると自分では思ってるかも知れないが、いつしか相手への依頼心ばかりが増幅していることもある。生き方すらも相手にゆだねてしまう人もいる。 そういう状況は愛憎の素地をつくる。いったん関係がこじれたりすると、ひっくり返って憎しみが顔を出してくる。愛の腐敗である。

    ・ 変質する愛とは、相手や物を自分のものと思い込むような愛着である。 相手を自分の所有物だと誤解してるからこそ、ためらいもなく暴力が振るえるのだ。簡単に捨てたり、取り替えたり出来ると思っているのである。 自分のものならば、どんなふうに扱ってもいいという、根本的な誤謬がそこにある。

    ・ 愚痴は口から出る毒である

    ・ 何でもかんでも目に見える形やノウハウだけを欲しがって換骨奪胎(かんこつだったい)してしまうのが、日本人の昔からのよくない癖かもしれない。   -   

    ものすごくそうおもいます!それで具合が悪くなると、誰かのせいにしたり、理屈屁理屈にもならないようなことを言い、醜態をさらけだすのですけど、見ている方もノウハウだけだから、おかしいじゃないか!と言うのも一瞬だけ。具体的にちゃんと解ってる人は、ひとりもいないのでした~

    仏教の考え方といいますか、哲学、私とっても好きです。ハウツゥが書いてあるわけじゃないので、なんで?どういうこと?おかしいやん、って思うかたも多いかと思いますけど、自分で考えないとダメなんです。私も、まだまだわかってないですけど、時々、本を出してきては眺め、ああ、あの時の自分はダメだった・・とか、ああ、この精神を忘れてた、とか、反省ばかりしながらでございます。仏教になんか触れると、心がすーっと楽になるんですよね。。

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    仏教 1

    仏教「超」入門 白鳥春彦 PHP文庫 514円 より ~

    ・ ブッダは「人生とは苦しみである」と断言した。あるいは、人間存在を苦しみであると見るところから出発した。

    ・ 自己の欲望がかねつしているのを自覚している人を「マニア」という。だから、マニアは特定の物を収集し続けて飽きることがない。 その様子は、傍から見れば狂気そのものである。(ギリシャ語で、「狂気」のことを「マニア」という)

    ・ 自由になるたいのだったら、今のままで自由に生きればいい。自由がないのではなく、自分が自由になっていないのだと気づけばいい。 人間は不思議なもので、何か都合の悪いことがあっても、なかなか自分のせいだとは思わない。自分を不自由にさせているのは何なのだろうかと、自分の外に何か原因を探そうとするのである。 しかし、自由を感じるのも、自由に動けるのも自分なのだ。自分に自由さを許すような何かが外にあるわけではない。

    ・ 心を覆う五つの煩悩 - むさぼり ・ 怒り ・ 鬱屈、ふさぎこみ ・ 落ち着かずにそわそわすること ・ 疑心暗鬼やためらい  ~   欲望の制御ができず、欲しいものが手に入らないと周囲に対していらだち、そのくせ些細なことで失敗を味わうとふさぎこんで部屋に閉じこもり、仕事についても落ち着かず、確固たる自信がないためにあらゆることを疑い、いつまでも香道に踏みきれない。 まさに煩悩の荒波、暴風雨である。

    ・ 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。-「法句経」の最後にある言葉   ~   煩悩に悩まされてる人は物事のせいにして嘆いているわけだが、その悪い物事とは、まさしく自分の心の現われなのだということだ。

    ・ 世間の価値観や会社の方針に沿い、人並みに生きようとする限り、煩悩はつきない。 そして、いつまで経っても不満が多いものだ。それは、すべて揃っていなければ満足できないし、何事もできないと駄々をこねているようなものではないだろうか。

    ・ 煩悩 - 人間が迷い惑うこと、思い悩むことがすべて煩悩。

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    2007年6月18日 (月)

    ほん・・・

    本屋さん、危険です・・買ってしまいます(><)

    ・ 仏教「超」入門 白鳥春彦 PHP文庫 514円

    ・ 反「道徳」教育論 「キレイゴト」が子供と教師をダメにする! 山口意友 PHP新書 720円

    ・ ユリイカ 6月臨時増刊号 腐女子マンガ大系 青土社 1300円

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    ・ 誇大自己症候群 岡田尊司 ちくま新書 740円

    ・ 働こうとしない人たち 拒絶性と自己愛性 矢幡洋 中公新書 740円

    ・ 選別主義を超えて 「個の時代」への組織改革 大田肇 中公新書 780円

    ・ 職場のうつ AERA LIFE  朝日新聞社 743円

    読んだら良かった本。以前紹介した本なんですけど(^^;

    「仕事とセックスのあいだ」、仕事と日常をセックスを媒介にして考えてみると、以外に面白くて、的を得てるなっておもいました。もう一冊「現代の貧困」。是非、呼んでいただきたいです。はやり物のように、ワーキングプアとか格差なんていわれてますけど、私はそういうのが嫌で、腹が立ってたのですけど、これは、ちゃんと昔からのことやどうして現在のこういう状況になってきたのか、などが書かれていて、良かったです。そして、やはり今の日本では、新しい言説を立てるよりも、貧困問題、労働問題、と言ったほうがやっぱりいいなって、なんか思いました。

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    2007年6月11日 (月)

    自分の受け入れ方 2

    自分の受け入れ方 競争社会のメンタルヘルス 加藤諦三 PHP文庫 より~

    ・ 人の不幸にとって、問題は「不公平」だという。  しかし、人生は不公平なのである。  デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言った、すべてのことは疑わしいが、人生が不公平だということだけは確かなのである。  それを本当に受け入れられたときに、あなたは幸せになれる。  人生の不公平を正面から受け入れた時に、自分は今「大きな闘い」をしているということを理解できる。そして、自分の人生に誇りを持ち、謙虚になれる。  「毎日毎日よろこんでかれの運命に従うものは、幸福である」  逆に人生の不公平を嘆いているうちは、どうしても幸せにはなれない。  人は運命を受け入れるから幸せになれるのである。

    ・ あなたが今まで「そのように」生きてきたということが、そのままあなたの固有の人生なのである。あなたの過去を肯定するということはそういうことである。  だから、あなたは自分が今までしてきたことのなかに「自分」を発見することである。自分の過去を肯定的に見られるときに自分を発見できる。  私たちは「できない」ということを「よくないこと」と思いがちである。しかし、できないことがなんでもかんでも悪いことではない。時にはできないということが、その人がこれから長く生きていくことにとって望ましいことも多い。

    ・ 幸せとは、問題のないことではない。問題を扱う心の能力によって、同じことを幸せと思う人もいるし、不幸せと思う人もいる。

    ー   私は、私だからいい。今の私でいい。ダメなところもあると思うけど、それを克服しないと認めない、なんていう質の悪い人を利用しようとするような人の言葉は聞かない。人に要求ばかりしない。してほしいことばかり言わない。してほしかったら、自分から人様に優しさを分けてさしあげる。

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    自分の受け入れ方 1

    自分の受け入れ方 競争社会のメンタルヘルス 加藤諦三 PHP文庫 より~

    ・ 幼児的願望とは、わがまま、頑固、恩着せがましさ、ナルシシズム、依存性、いつでも褒められたい、注目されたい、求められたい。努力したら「よくやったねー」と言われたい。周囲の人にはいつも自分の話をしてもらいたい、だから人の話題はつまらない。いつも自分一人が得をしていたい、でも利己主義とはいわれたくない。損するのはいや、でも寛大な人と言われたい。辛い自分の気持ちを汲んでもらいたい。いつでも「あなたは正しい」と言ってもらいたい。無責任でいたい、でも尊敬はされたい・・・・・・。  幼い子がある人を好きになったとする。するとその人が、自分のそばにいてもらいたいときに側にいなければ、その人に不満を感じる。  しかし、その人に側にいてほしくないときには、側にいると不満になる。幼児的願望とは、とにかく自己中心的なのである。  さらに重要なことは、幼児は「してもらうことがあたりまえ」と思っている。自分のしてほしい何かをしてもらえるのがあたりまえと思っている。  幼児的願望とは、無条件に「愛してー」という叫びでもある。相手に何かを与えるのではなく、与えてほしいという叫びである。  心理的に健康な大人は、他人に背中をかいてもらった、方を叩いてもらった、マッサージをしてもらったなど、何かをしてもらったら「ありがとう」と言う。  普通はいろんなことをしてもらえば、相手に感謝する。相手の気持ちを汲み取る人なら「あー、気持ちよくなった、ありがとう」と付け加える。   -   幼児的願望を見透かされないために、理屈屁理屈正論詭弁、、言い訳という理論武装してる方がむっちゃ多いですよね。。まあ、自分にも、幼児的な所見受けられますので、注意したいと思います(^^;

    ・ いつまでも「愛されなかった、愛されなかった」と連呼している時期ではない。過去を引きずっている人は、今を生きていない。この時期、この時を楽しめない。  今、目の前に見える美しいイチョウを見ていない。  いつも、失ったものや、落ちたものを拾おうとする。  そして、今、この目の前にある現実を受け入れられない。

    ・ 親が与えたゆがみを自分の力で直していくということが、生きていくということである。  今、親についてすごいことを書いているようであるが、この世の中に理想の親などいない。理想の環境で理想の資質を持って生まれる人もいない。  もし、理想の資質を持って理想の親の元に生まれ、理想の環境で成長した人がいたら、そんな人生に生きる価値はない。  自分の背負った運命と闘うことが生きるということである。自分の弱点を克服していくことが生きるということである。   -   本当にそうだと思う。あれが足りないこれが嫌だ、なんて、要求ばっかり言っていても、誰もしてくれない。自分で努力するしかない。根性決めて、自分で受け入れて行くしかない。病気のフリしても、人の気を引くことをしても、問題は何一つ解決なんてしない。現実を見つめ、一つづつ自分でやるしかない。人と比べなくてもいい。自分のペースで、自分のやり方でいい。妬まず、僻まず、要求ばかりせず、無理せず、自分のペースで、自分でやるということ。

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    2007年6月 7日 (木)

    ・ 自分の受け入れ方 競争社会のメンタルヘルス 加藤諦三 PHP文庫 552円

    ・ 仕事とセックスのあいだ 玄田有史 斉藤珠里 朝日新書 700円

    ・ 大法輪 6 特集=死についての教え 

    ・ PRESIDENT 2007 6・18 「板ばさみ」の心理学

    ・ ポポロ 7 (^^)レジに持っていくの、恥ずかしくなんかないです!もう、慣れました~♪明星がジャニーズジュニアがたくさん載ってると聞いたので、今度は明星にいたしましょー☆

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    2007年5月28日 (月)

    差別

    差別原論 <わたし>のなかの権力とつきあう 好井裕明 平凡社新書 より~

    ・ 差別主義者は、己の特権や利益を守り、正当化するために、相手がどう感じようがおかまいなく、差別的な攻撃を被害者に向けて行うというものだ。  -   自分の損得だけで、自分が攻撃を受けるのを極端に恐れ、自分は被害者であると自分を正当化するために、相手を執拗に攻撃するようなことをしないようにと思います。

    ・ 一つは、差別という行為が与える本質的な人間存在への痛みであり、差別を受けたものが「私はこれこれの我慢ができない差別を受けた」と主張することの困難さである。今一つは、そんな言葉を受け入れたくらいで、そこまで怒るのも大人気ない、深刻に考えすぎだよ、といったかたちで、たとえば差別的な発言や言葉を”からかい、野次、冗談、本気ではない他愛のないこと”などとして処理していこうとする、私たちがあたりまえのように暮らしている日常が持つ力の問題性なのである。  -   「そのようなことをされたり、言われたりする自分も悪いんじゃないか」とか、「自分には関係ないし、あなたの問題でしょ」などといわれたり、ここにもあるように、考えすぎ、大人気ない、なんていう反応をされることが日常である。自分が何かあったときに、そんなことを言われたらどう思うのか、しっかり考たいと思います。

    ・ 権力を持つ、いまの支配的な社会のなかで自分より上の場所にいる人間に対しては、仮に”ぼこぼこにしたい”という思いを抱くとしても、そう容易く実行に移すことはないだろう。自らにも”しっぺ返し”が必ずやってくることがすぐに思い浮かぶからだ。すぐに仕返しなどしない存在だと決め付けられたからこそ、袋叩きという暴力行為を公に告発しないだろうと勝手に決めつけられたからこそ、彼らは安心して、暴力を振るっていたのである。  -   暴力をふるっても、仕返しなどしないだろうと思える決め付けは、日常のなかでみんながそう思っているだろう、そんなことを言っていたから、なのだろうか。。「常識的な他者認知、現実理解に用いられる装置(カテゴリー化)」が、人の感情なしに働くと、そういうことになるのかもしれないと思いました。。

    ・ ”差別する(かもしれない)わたし”の姿を「いま、ここ」で素直に認め、評価すること、そして「問題」として整理された差別をめぐる世の中の知識に囚われることなく、できる限り「わたし」を開け広げること、たとえば、”差別する私”の姿に向けて「いま、ここ」で語られる他の人々の批判的な語りを”風”として受け止め、”寒さ””暖かさ””爽やかさ””うっとおしさ”など、そこで感じ取る感触や情緒に素直に反応すること、ではないだろうか。  -   

    学校などで行われている、「一般的な規範が表層的に確認されるのみであり、いわば”お題目”の唱え方を学習し確認するだけで、ただの知識が詰め込まれ、規範の確認に終始する」ような、学習しかできてないのではないだろうか。まあ、そのような学習方法のほうが、テストもしやすいし、「ある権威から承認や評価を得ることで安心したい」人たちには、うってつけである。履歴書のようなもので人をカテゴリー化できるのは、簡単で、安心で、それが一般的な規範になるし、自分がなくても、感性や情緒のようなあいまいなものにふりまわされるよりも、確かだから。でも、それって、おかしいです。人、じゃないです。そう、思います。 

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    2007年5月15日 (火)

    モラハラ

    知らずに他人を傷つける人たち モラルハラスメントという「大人のいじめ」 香山リカ ベスト新書 680円 ~ より

    ・ 立場や権力の違いがなくても、いやがらせをする。これが、モラル・ハラスメント(モラハラ)のひとつの特徴だ。 権力を握られているのではないなら、いくら嫌がらせをされても、その要求の答える必要はないではないか。あるいは、相手が同僚や年下の部下なら、「やめてくれよ」とはっきり言えばいいではないか。 多くの人は、そう感じることだろう。 ところが、モラハラをされ続けると、被害者は独特の心理状態に陥ってしまう。被害者の多くは、「悪いのは私のほうではないか」「私に問題があるから、こういういやがらせをされるのではないか」と思ってしまう。 相手の要求に従わなければならない理由もいじめに耐えなければならない必要もないのに、相手のいじめにじっと我慢してしまう。そして、そのうち疲れきって、うつ病や過呼吸症候群など心の病に追い込まれ、中には失踪や自殺まで考えてしまう。追い払わなければならないのは自分ではなくて相手なのに、被害者は「私さえ消えればいいんだ」と思い込んでしまうのだ。

     - そう、人に理解してもらいにくい。こんなことがあってと、勇気を出して話しても、嫌だと言えないあなたにも問題があるとか、そのようにさせるようなことを遠まわしにあなたがしているのでしょとか、ストーカーやセクハラなどの時と同様、二次被害を受けることが多い。だから、人には話しにくい。。我慢してると、身体症状はどうしても出てきてしまいますよね・・・

    ・ 第3章 怠業型モラハラを招く「三十代うつ」-部下だってモラハラより  ~  彼らの多くは、「自分に甘く他人に厳しい人たち」である。しかも、その自覚は乏しく、自分はまわりの人に比べ、遠慮がちで気を使うタイプなので、結果としていつも損をしている、と考えている。"凝り性"の彼らは、他人とはひと味違った趣味に熱中する。私の経験した例でも、「香道」 (中略) など、かなり個性的な趣味や活動に打ち込んでいる人が多かった。 こういった考え方やライフスタイルを見ても明らかなように、彼らは「自分は特別」という意識を持っている人たちなのだ。そして「会社ではその特別さに見合った扱いをしてもらっていない」という不満や挫折が、ついにはうつ症状にまで発展してしまっているのだ。そういう意味では、彼らは非常に自己愛が強く、しかもその自己愛には何らかにゆがみや異常な肥大が生じている、といえる。 こう考えてくると、「三十代うつ」に陥る人と、職場や家庭でモラハラを行う人たちとには、「ゆがんだ自己愛」という共通点があることがわかってくる。

     - たまたま三十代に多くみられるからというだけで、このような人は、20代にも40代にも、もちろんおられる!他人への批判は容赦なく、職場や周囲の人たちの自分に対する扱いに不満がいっぱいで、特別な優れた自分のプライドを守ることにやっきになり、他人から受ける言葉や態度にぴりぴりしていて、自分を批判したのか?と思う人には、容赦のない攻撃をしかける。そして、私は、上記のように、こんなに人に気を使っているのに・・・・・と、病院へ。。そう、彼、彼女は、病気なのだから、彼らの分までがんばらなくては!と、二次被害まで起こってくることもある。。あー、困ったもんだ(==)

    他にも、いろいろなモラハラについて書かれていて、怖いな・・・って思いました。

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    2007年5月14日 (月)

    ハラスメント 3

    ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 安富歩 本條晴一郎 光文社新書 840円 ~ 大切だと思う所をピックアップしました。

    ・ 加害者によって呪縛されるのが被害者であり、加害者と被害者が揃ってハラスメント構造に呪縛されるのではない。責任は全面的に加害者の側にあり、被害者の側に非は全くない。「問題があるのはお互い様」というのは、加害者の都合に合わせた詭弁である。あくまでも加害者によって被害者が呪縛されるのであり、ハラスメント構造という場が呪縛されるものでもなければ、相互的でもなく、被害者が勝手に呪縛されるわけでもない。

    ・ 自分が善人であるという思い込みゆえに、自分が被害を与えている相手にハラスメントを指摘された場合に、その指摘を自分に対する加害行為と捉えてしまう。被害者を加害者とみなすことで、自分にハラスメントをしかけるはラッサーを守ることができる上、自分の加害も存在しないことにできる。このような姿勢は、謝罪の仕方に表れる。顕著な例は「もしあなたを傷つけたならばあやまります」という限定付きの謝罪であり、これは「自分の行為は悪くないけど、それであなたが勝手に傷ついたのだ」の言い換えになっている。傷ついたことを被害者自信の責任に転化しており、実は全く謝罪になっていない。それどころか「自分は何も悪いことをしていないのに、それを悪く言うお前はひどいやつだ」という新たな攻撃も兼ねている。

    ・ 知性の高い人とは、学習能力の高い人間に他ならない。いくら知識を詰め込んでも、学習能力は高まらない。知識を詰め込むというのは人間を単なる入れ物だと思うことであり、生命の豊かさを馬鹿にした冒涜行為である。

    ー いや~、他にも、いいところたくさんありました。大分難しいところがありましたけど、でも、なんか、言いたいことはわかります。何度も読み返して、人様にハラスメントをしないように、また、人様からハラスメントを受けないように、受けたら、ちゃんと対応できるように、しっかり学習したいと思いました。

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    ハラスメント 2

    ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 安富歩 本條晴一郎 光文社新書 840円 ~ 大切だと思う所をピックアップしました。

    ・ あらゆる教育、イデオロギー、科学的理論、宗教は、ハラスメントを正当化する理論を提供することができる。なぜなら、これらは人間の感覚と切り離された規範そのものであるか、もしくは規範として利用することが可能なものだからである。感覚と切り離された規範は、自分が感覚を信じられない状態を正当化し、他人に対する攻撃の武器として使用できる。そして相手の情動がどのように反応するかを一切考慮に入れず、一方的な規範を押し付けることによって相手に屈辱を与えることができる。情動を否定した規範の強制、それがハラスメントの本質である。このように、ハラスメントの問題点は、相手の情動反応を無視することにある。そして、自分の都合を押し付ける。これは、悪意のなせるわざだ。

    ・ 外的規範を正当化したり、しつけや教育が推奨されたりするときの根拠は、本能的行動が危険だという思想だ。理性を身につけて本能を抑えることが人間のあるべき姿だと考えるのである。

    ・ パッケージ化には、何らの肯定的な意味もない。自分がどういう人間かを決めることに何の意味があろうか。自分に対しても他人に対しても、自分がどのような人物かを説明したり、自分の行為について先回りして理由を説明したりする必要はない。自分の理念を述べて行動を正当化するのは単なる臆病である。

    ・ ハラスメントとは「人格に対する攻撃」「人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令」の二つの合わせ技であり、情動反応の否定とラベル付けの強制によって実行される。そしてハラスメントにかかった状態、つまり呪縛された状態とは、「謂れなき劣等感」を押しつけられた上で「劣等感に気づかないように設定した自己像」を守ろうとする状態である。

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    ハラスメント 1

    ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 安富歩 本條晴一郎 光文社新書 840円 ~ 大切だと思う所をピックアップしました。

    ・ 子どもは、本来のあるがままの豊かな人格をもって生まれてくる。親が子供をあるがままに受けとめ、愛することができるなら、この本来の自分に適合する形で人格形成され、メッセージに対する深い識別能力を育てることができる。ところが、親が子供の「ためを思い」、野心を持たせ、競争に勝てる、社会に従順な人間に育てたいと考えると、本来の自分を捨てさせることになる。そのかわりに見せかけだけの「正常」な行為を産出する装置が組み込まれ、それが「自分」を構成するようになる。こうして本来の自分は「自分の中の他人」となってしまう。

    ・ 自分の都合に合わせて相手の行動を否定したり、意味付けを強制したりすることは、愛情に反する行為である。本当の愛情とは、相手に学習させようと否定や強制をすることではなく、相手の学習を阻害しないように受容と提示をもって臨むことである。

    ・ 否定と強制、実はこの二つがハラスメントの本質である。

    ・ お腹が空いていない子供にご飯を食べさせる。食事の時間でないから空腹を我慢させる。夜遅くまで勉強をさせる。全てハラスメントである。子供は必要なことを自分で自然と学んでいく能力を持っている。大人は単にきちんと庇護さえすればよい。それがしつけと呼ばれようが教育と呼ばれようが、ハラスメントは子供の自然な発達を阻害する方向にしか働かない。

    ・ アリス・ミラーは、ありとあらゆる教育は有害だと指摘している。それは、権威主義的な教育に限らず、反権威主義的なものについても同様である。教育をしたい、という欲求は、自分が受けた教育を正当化したいという欲求や、自分の都合のいいように他人を操作したいという欲求、もしくは自分が受けた屈辱を他人にも味わわせたいという欲求の表れであり、子供の成長を促すものでは決してない。

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    2007年5月10日 (木)

    ・ 知らずに他人を傷つける人たち モラルハラスメントという「大人のいじめ」 香山リカ ベスト新書

    ・ 心を開かせる技術 AV女優から元赤軍派議長まで 本橋信宏 冬舎新書

    ・ 現代の貧困 ワーキングプア/ホームレス/生活保護 岩田正美 ちくま新書

    読みます、もの~☆

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    2007年4月28日 (土)

    今日、「プレカリアート」に関しての集まりにいってまいりました。そこで宣伝なさっていた本を思わず買いました(^^;

    ・ 生きさせろ!難民化する若者たち 雨宮処凛 大田出版 1300円

    ・ 「ひきこもり」の「社会理論」 「ひきこもり」完全理解のために 市野善也 850円

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    2007年4月25日 (水)

    ・ 差別原論 <わたし>のなかの権力とつきあう 好井裕明 平凡社新書

    ・ 女性の品格 装いから生き方まで 坂東眞理子 PHP新書

    ・ ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 安富歩 本條晴一郎 光文社新書

    いろいろと本を読んで・・・る??のですが、その時はなるほど!って思っても、すぐに忘れてしまいます(^^;新しい本を買うのじゃなくて、今までの本を、読み直しましょうかね~♪

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    2007年4月13日 (金)

    book

    若者たちはなぜ自殺するのか 渋井哲也 長崎出版 1800円

    是非、買ってください(^0^)お友達のご本でございます(^^;

    まだ、読んでないのですけどね(^^;;生きづらさ・・表紙に付いている帯のところにかいてありました。生きづらさ・・・みんな抱えて生きてるのではないかな。。(だから、我慢しなさいとか言いたいのじゃないですよ。。人それぞれ、思いはありますから。)親兄弟身内との関係、友達関係、仕事、お金、病気、自分の性格、容姿、恋愛、、、、自分の思い通りにいくことなんて少なくて、自分のことを解ってくださる人に出会うのも難しく、でも、絶対ないことはない!!ずるいことをせず、卑怯にならず、くさらず、謙虚に一生懸命、自分の思いばかりにとらわれず、人様の役に立てるように感謝の気持ちを持ち、一日を穏やかに。。。。。なかなか、できることじゃないですけど、思ってるだけでも違うのではないかなと、自己弁護かしら・・・誰かと比べるのじゃなく、正しいことばかりが正解じゃないし、人それぞれの気持ちや生き方を受け入れられる、そんな懐の深さと、人としての優しさを持ちたいです。

    さー、読み始めましょ~♪

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    2007年3月22日 (木)

    王子辞典!

    ・ 王子辞典 タイムマシンラボ編 大田出版 1480円

    とある、腐女子のかたがたが、ひいきになさってる本屋さんで購入いたしました(^^;いや~、おもしろい!赤い薔薇を持った、要潤さんが表紙です。

    ・ 若者はなぜ「会社選び」に失敗するのか 渡邉正裕 東洋経済新報社 1600円

    個人的には、失敗してもいいんじゃないでしょうかっていうか、失敗を失敗にしなかったらいいわけで・・などと思ってしまうのですが。。。

    ・ 児童心理 2007・4 特集「いじめ」と子どもの自殺

    ・ こころの科学 132 特別企画 精神医学と法

    ・ 及川光博×Cast Special Edition 1996~2006

    デビュー10周年を記念して出された本です。今までのミッチーのキャストでの発言集+いろんな活動の詳細が載ってます。いや~、イケイケのときに言っていたようなのが残ってるってのは、かなり恥ずかしいところもありますけど、それも含めて、その人で、そんなところもお茶目で可愛いですね~そうそう、王子辞典にも、ミッチ~様、載っておりました(^^)☆

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    2007年3月10日 (土)

    ・ 女性労働と企業社会 熊沢誠 岩波新書

    ・ 能力主義と企業社会 熊沢誠 岩波新書

    ・ 個人尊重の組織論 大田肇 中公新書

    ・ 自殺予防 高橋祥友 岩波新書

    ・ 成果主義と人事評価 内田研二 講談社現代新書

    ・ リストラと能力主義 森永卓郎 講談社現代新書

    ・ 定常型社会 広井良典 岩波新書 

    買ってしまいました。さて、読めるのでしょうか~(--;;

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    2007年2月15日 (木)

    本だよー

    生きながら火に焼かれて スアド ソニー・マガジンズ

     - 女性の権利の無さについて、赤裸々に書かれてました。よその国のことじゃないです。日本でも、変わりません。子どもを産む機械で、男を慰め癒すためのメイドで、雑用をこなす安い労働力。。女は強くなったとか、そんなこといわれてますけど、いろいろな法律とかできてますけど、20,30年前と何も変わってません。いえ、法律のおかげで救われてる女性の方がいらっしゃるのは、知ってますけど、状況、そういうことがおこるような、変化がみられないですよね。。

    一度なら許してしまう女 一度でも許せない男 嫉妬と性行動の進化論  デヴィッド・M・バス  PHP研究所

     - 浮気をしやすい性格とは、って項目で、ナルシシストと書いてあって、どういう人がそうなのかってのをみたら、モラハラしてしまう人にあてはまってるじゃないですか~以下本文より~  ナルシシストは、もちろん、人あたりがよく、人を楽しませ、社会的な活動に活発にかかわることができる。しかし、彼らと結婚した人は苦しみを味わうことになる。その過度の自己陶酔や、強引な特権に意識や、自分が与える他人の苦しみに対する共感の欠如から、ナルシシストは浮気のパートナーに性的な満足とともにうぬぼれを満たしてくれることを求める。彼らが自分の行動を正当化していることはまちがいない - なんといっても、自分は特別な人間だから、ほかの人間が律儀に守るけちなルールにしたがう必要などなく、特別なところから喜びを得る資格があると思っているからだ。 ~ 浮気、したかったら、したらいいと思いますけど、責任は自分でちゃんと取る、その覚悟が、まず、ないとね~

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    2007年1月18日 (木)

    本より~

    他力 五木寛之 講談社文庫 より~

    ・<他力本願>とは、安易な<他人依存>とは根本的にちがいます。国家や、憲法や、政府や、病院や、学校や、企業や、世間の良識や、マスコミや、銀行や、そのほかのすべてに頼ることを捨てることから発する、真の自力の確信こそ<他力本願>の姿です。  

      -  確かに。。頼ってるから、あれかなん、これかなん、こんなことしはった、こんなこと言われた・・・・・って、言うのでしょうかね。

    ・私はこの十年間、‘心の内戦‘という表現で自殺の問題に触れてきましたが、いま生命の濃密な充実感がまったく失われていることを痛感せざるをえません。自他ともに生命の存在感が非常に希薄になって、命の尊さを語る宗教家や教育家の言葉が人々の心に全然届かない、そういう状況のように思います。 なぜそうなったのかは一言では言えませんが、たとえば、<諦める>ことが少なくなったからではないかと思います。 諦める、というのは、物事を消極的に、後ろ向きに受け止めることではなく、言葉本来の意味「明らかに究める」、勇気を持って現実を、認めたくない事実をリアルな目線で直視する。これが諦めるということです。まずきちんと認める、確認するという、その作業から出発しなければならないということです。

      -  現実を、認めたくない事実をリアルな目線で直視する、みんなが逃げているところですね。なぜ、逃げるのか、責任取らされたら、損だから。。。

    ・<拒絶から寛容へ><対立から共存へ>

    ・私は知識人は傲慢だと思います。むしろトルストイの言うように「知識人や芸術家は一介の農夫に学ぶべきだ」と素朴に思う。

      -  ほんとうに・・・

    ・現実にプラス思考だけで救われない世界があります。プラス思考と対をなして、大きなマイナス思考という重要な世界がある。そのマイナス思考のどん底の中かしか本当のプラス思考はつかめないというのが、じつは私の考え方なのです。

      -  そう思います。

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    2007年1月11日 (木)

    本から~

    わたしを認めよ! 勢古浩爾 洋泉社 より~

    ・最も耐えられないのは、自分という存在が無視され否定されることである。無意味で無価値だときめつけられることである。ひとは侮辱や無視から他人を傷つけ自分を傷つける。自分の命を絶ち他人の命を絶つことすらある。

    ・理念が「他人の視線」の前にあっさり敗退する。

    ・いかにして意味の承認がおこなわれるか、を確信することはできなにしても、ひとつだけはっきり言えることは、そのためのいかなるマニュアルもないということである。ひとつ叱って三つ褒めよ、などというテクニックを心のないままに適応してもダメだとおもう。また、子どもは親の背中を見て育つなどという牧歌的なことももはや通用しない。 最低限、暴力をふるうな、皮肉をいうな、揶揄するな、社会的価値観を評価軸にするな、家族一人ひとりをはかにだれとも比較をするな、ということくらいならいえるかもしれない。しかしそんなことよりもやはり、親のほうがいかに「ふつう」の生活を「まじめ」に営んでいくのか、ということのほうがよっぽど大切だという気がする。

    ・会社(世間)とは陰口社会でもある。老若男女を問わず、他人を誹謗・中傷する科白にはおよそ際限がない。しかしどんな場合にも共通しているのは、その奥底に、それぞれの自尊心と嫉妬が微妙に絡み合っていることであり、なおかつ悪口(陰口)はかならず聞き役を必要としているということである。 聞き役は承認者である。そう、たしかに「あなた」のいうとおりだと、その悪口を承認してくれる者である。つまりその悪口は悪口ではなくて正当な評価であり、「あなた」のほうが「かれ」よりもはるかに優等であると承認してくれる者でなければならない。うかつに反論でもしようものなら、その聞き役がこんどは、あいつはなにもわかっちゃいないなどといわれるハメに陥らないともかぎらないからである。

    ・「無縁の他者」とはわたしたちの関係意識の品格を測る試金石である。字が構造を測る、といってもいい。その「無縁の他者」という存在をどのように見なすのか。また、どう対処するのか。現在のわたしたちの社会は、基本的に<警戒>からはいるのではないかという気がする。「舐められてはならない」という警戒から入って、尊大か、卑屈か、敵対か、排除に終わる(気心が通じるまで相手を受け入れることは延期される)。つねに過剰対応か仮称対応しかなくて、その<中間>がないのだ。

    これが出来たら認めてあげる、こういうことを出来る人でないと認めない、そんな自分が得をするような関係ばかり求めたり、社会的価値観しか基準になく、世俗的欲望むきだしで、理屈をこねたおして自己正当化しようとする、そんな大人が目に付くのは気のせいでしょうか。。

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    2006年12月12日 (火)

    やっぱり本

    経済学入門シリーズ 労働経済学入門 大竹文雄 日経文庫

    経済学入門シリーズ 経営組織     金井壽宏 日経文庫

    を、購入~。さて、眺めてみます(^^;;

    <対話>のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの 中島義道 PHP新書より~

     彼らは言葉を信じていない。あたりまえである。彼らは小学校以来、自分の語ることが(とくに授業中)廻りの者に尊重されてこなかった。自分の言葉によって全体の状況を変えることができるなど想像もつかない。自分の言葉には威力がなく、優等生の言葉には威力がある。この差別をずっと見つめてきたのである。しかも、この国で彼らに要求されるのは「和の精神」である。 (略) 「和」とは、現状に不満をもつ者、現状に疑問を投げかける者、現状を変えてゆこうとしる者にとっては最も重い足かせである。容易に見通せるように、「和の精神」はつねに社会的勝者(例えば学力の高い学生)を擁護し社会的敗者(例えば学力の低い学生)を排除する機能をもつ。そして、新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。かくして、「和の精神」がゆきわたっているところでは、いつまでも保守的かつ無難な見解が支配することになる。

     この国では「他人を傷つけずに自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがって、われわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしても、注意されたことそのことをはげしく嫌う。その他人は私を傷つけたからであり、「思いやり」を欠いたからであり、日本的行為論の「公理」に反する暴挙に出たからである。こうした行為観のもとでは、注意することは大勇気を要し、注意されることは大屈辱である。だから、みんな黙っているのだ。だから、それにもかかわらず注意されるとき、われわれは激怒するのである。注意した相手をはげしく憎み、恨み、場合によっては殺すのである。だから、アアセヨ・コウセヨというバカ管理放送・管理標語がこの国では繁茂するのである。この国では、みんな「思いやり」という名のもとに真実の言葉を殺している。<対話>を封じてる。しかも、- 恐ろしいことに -ほとんどの者はその暴力に気づいていないのである。

    なかなか、面白かったです(^^)また、しばらくしてから、読み返したいと思います。

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    2006年12月11日 (月)

    本だわ~

    あなたの話は、なぜまわりくどいか 矢幡洋 中公新書ラクレ より~

     体験を客体化して、ほかの誰にでも理解可能な一般的な言葉に組み立て直して話すという整理が不得意で、 (略) 「自分自身から切り離して対象的に分析することが苦手」

    まさに、そのとおりでございます!!私、気持ちが先走りして、いっぱいいっぱいになってしまいます。この年になっても・・人様にあきれられながら、時には怒りを買うこともありながら。。反省はするのです!でもさーー     自己弁護、ひらきなおりとおっしゃられるのなら、仕方ないのですが・・・いろんな人がいます。その日の気分や、自分に起こったいろいろな出来事によっても、人様に伝える伝え方って、違ったりしますよね。この人は話しやすいけど、この人の前に行くと、何も話せなくなるとか、強気になってしまうとか。。。。。この本にも、いろんな傾向が分析され、説明されて、いろいろと指摘をしてありました。はい、よくわかります。けどね、だから、いけない、のでしょうか。。いえ、いけないとは、書いてなかったのですけど、、、、、自分は、こういう傾向があるわねとか、あの人は、そんなことゆうてはっても違うのよ、とか、そんなふうに、優しくお互いを認めていけばいいじゃん~って思います。いえ、私の説明不足につきましては、落ち着いて、一呼吸おいて、リハーサルをしてお伝えするようにしないといけない、という方法は、編み出しました(^^)あとは、実行でございます♪

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    2006年12月 3日 (日)

    灰谷さん~

    NHKで、人間大学のアンコール、灰谷健次郎さんのを、やってはりました。本がありましたので、読み直ししました。

    子どもに教わったこと より~

    ・答えをみつけることが大事なのではなく、答えを見つけようとして、あれこれ考えることが本来、教育の目的であるはずなのに、それが授業の中で忘れ去られるから、自分の頭でものを考え、自分の足で歩こうとする子ほど、問題児扱いされてしまうわけです。わたしがよく例に出すゴルネイ・チュコフスキーのことばに、 - 試行錯誤の振幅が大きければ大きいほど、子どもはたくましく成長する    というのがあります。あれこれ考えて、試行錯誤するほど、頭脳は発達する。考えてみれば当たり前のことが、正しく認識されていないのです。同じ答え、一つの答えを見つけることが、教育の最終目標ではない、ということを、くり返しておきます。

    ・ふつう、わたしたちはことばでもって、お互いの意志を伝え合います。じゃ、ことばは万能かというと、そうじゃない。激しい感情を伝え合うときは、ことばがもどかしい場合もあります。ことばが不自由なことをさして、わたしたちは、ハンディとか障害とか呼びますが、考えてみると、これはおかしいです。ことばは万能ではないのに、それを絶対視しているから一方をハンディとみるのでしょう。ことばが不自由でも感受性は人一倍つよいということがあります。すると、ことばの世界では不自由でも、コミュニケーションの総体ではなにも変わらない、ということもあり得るわけです。一方をハンディと決めつけるから、こちらの側が相手の鋭敏なところへ立ち入っていくことができない。つまり、不自由なのは、わたしたちの心の方にあるのです。ことばが不自由というのは、一つのようすにしかすぎない。しかし、なかなか、そういうふうには考えられないのが一般です。

    ・絶望をくぐらないところに、ほんとうの優しさはない、ほんとうの優しさはきびしさをともなうものです。

    ・いくら知識を身につけても、それを人のしあわせのために生かされなければ、その知識は役に立たないだけではなく、人を見下したり、人の不幸を土台に、地位や財産を得ようとしたり、自然を破壊したり、ときには人を殺しかねない兇器にもなるのだということを、わたしたちは考えてみる必要があるのではないでしょうか。教育は、すべての命に役立つものであるはずです。

    灰谷さんの本は、ほとんど持っているのじゃないかな。。先日、お亡くなりになられたという記事を見て、胸が痛くなってしまいました。本を、もう一度読み返したいな・・って、思いながら、きっかけがなくて(^^;;単行本なんかも、読み返したいと思います(^^)

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    2006年10月30日 (月)

    心の病はこうしてつくられる 3

    本文中より~

     ライフスタイルとして主張するのでしたら、”NEAT”という綴りで主張していくことは、なかなか有意義だと思います。これは「清貧の思想」とはちょっと違っていて、豊かさの中の一つの表現型だと思います。生き方の表現型としてニートという言葉を使うのでしたら”NEAT”という綴りでーこれは一種のキャッチコピーですがーのみ成立するのではないかと私は思っています。

      身売り労働主義は、学校至上主義と結びつきます。不登校が問題になった時代は、そういう身売り労働者の供給の場としての教育を行ってきたわけです。それに対して子どもらが生きることを問い直すなかで不登校がおきたりしたわけです。即、不登校は、現代社会の労働の質とか、雇用関係とか、古い言い方になりますが搾取や収奪の問題、その辺りの問題に関してかなりすっきりしたアンチテーゼを出していることは事実ですね。その一方で、ニートの層が増えれば増えるだけ、一部の人間たちの凄まじい経済収奪は進行してくるし、それが政治力の収奪にもつながりかねないという危機があるわけですね。

    ~労働とは何かという質を問う。新しいNEATな生き方。いま、問われている大切な事柄だと思います。

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    心の病はこうしてつくられる 2

    心の病はこうしてつくられる メンタルヘルス・ライブラリー17 石川憲彦+高岡健 批判社 より~

     精神的満足が物の中に閉じ込められて、社会的価値と人間存在の意味がますます解離を強めていく社会の中で、自己の生物的満足の欲求をどこまでいっても満たされないまま過剰に追求しないといけない。それによって不安が深まるといいますか、そうした不満と不安のアンビバレンツな構造みたいなものがあるのではないかと思いますが・・・・・・。

    ーぶっちゃけ、よくわかりませんけど、社会がああいうから、こんなん求めてるから、っていうのはわかります。でも、それって人としてどうなの。。ってのも、わかります。その距離が、恐ろしく離れていってるのも実感です。さて、自分はどうするか。私、社会はどうでもいいです。といっても、文句はいいませんよ。どっかからミサイル飛んできても、私にはどうすることもできませんし。。ただただ、現実を受け入れ、自分の出来ることを日々、やるだけのことです。それこそ、文句ゆうてても仕方ないし、もしこんなんなったらどうしよう・・って、不安ばっかりでももっとしゃーない。。それよりも、消費社会に踊らされず、豊かな暮らしは金だけじゃないし、人のすることを批判ばかりせず、だって、自分のこと批判されたら悲しいし、まあ、批判されるようなことばっかりですけど(^^;だからこそ、人様を受け入れることをって思います。

    なんだか、日本は、いろいろな生き方ができない国ですよね。。一億総火の玉だ、、みたいな感じがします。人様と同じに出来ないからと、いじめたり、それが、正当化されてる?みたいな感じがあったり、不登校、ニート、引きこもり・・みんな精神障害や病気にしたがったり、いえいえ、救済しますよ!「堂々たる納税者」に!こんな法律作りました(^^)当事者抜きでね・・・・・いろいろな生き方認めるにも、条件をつけたがる。。社会がなんぼのもんか知りませんけど、人として卑しくて下品で覚悟のないもの、そういうものは私嫌いです。なんかあると、人のすることすること批判したり、自分が好きかどうかよりも損得だったり、そういうこと言うのって、管理されてるから出る言葉ではないかしら。。「息を抜いたり、紛れたりする時間までもが管理されている」って、この本にも書いてましたけど、まさに、その通り。手の洗い方や、うんこのしかた、食べるものひとつひとつにまで、講釈があり、手順があり、最高の方法でないと気がすまない、のか、なんなのか。。自分だけでやってるのならいいのですけど、そうやらないやつは、あほだ、つきあえねえ、などと言っちゃう。。そんなことしなくても、あなたは、あなたのままでいいのに・・どこの学校だろうが、いってようがいってなかろうが、裸のあなたが自分が、大切なのですよ!なんでも言語化して、理由や論理、理屈ばっかりをならべてきたから、何を失ったのか、なにが生きにくくなったのか、そんな人の心がわからなくなったのでしょうかね。。。

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    2006年10月29日 (日)

    ウェブ恋愛

    ウェブ恋愛 渋井哲也 ちくま新書 680円

     お友達の新刊です。ぜひ、お買い求めくださいまし~(^^)

    他に、買った本は~

    「戦後」状況論 課題としての日本 高岡健 八柏龍紀 雲母書房 1700円

    読めてない本が、少々溜まってきましたです。。

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    2006年10月23日 (月)

    心の病はこうしてつくられる

    メンタルヘルスライブラリー17 石川憲彦 + 高岡健 批判社 1800円

    はしがきより~

     真に問題とすべきは目的や手段ではなく、「情緒障害児」(といっているが本質は不登校や親への暴力)や引きこもりを、潜在的な悪としてとらえる思考そのものだ。

     だが、どう考えても不登校や引きこもりの子どもや青年が、それ自体として問題になるわけがない。彼らは自分の心で感じ頭で考えて、そう振舞っているだけだからだ。問題視される場合の多くは、親への暴力が伴っているときだが、それもはじめに親のほうが子どもを追い詰めている。何かしないではいられないなら、大人たちは自分のことをすればいい。なにも子どもたちに奇麗ごとを強要する必要はないのだ。回りの大人たちが悪事を働かない限り、子どもたちは必ず成長発達する。

    本文中より~

     具体的に言うと、友達がたくさんいるのがよくて、一人ぼっちが悪いというふうなステレオタイプ(常同的)な思考がある。そのような思考は、個人の中にあるというよりも、社会の場でそういう思考が流通しているのです。そこをまず最初に扱っていかないことには、本当のサポートにはならないのではないか。  そういう意味では、個人に対して何か矯正するよりも、環境を調整する方が先決です。環境を構造化していくこと自体はだれもが異論を持っていないはずなのに、実際には、個人に対する矯正に重点が置かれている。そこをもう一度逆転していって、甘いやり方だとまた言われるかもしれないけれども、やはり環境調整の側に重点を置いていくことが、私は最大のサポートだと思います。

    まだ、少ししか読んでないのですけど、とても、勉強になります。

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    2006年3月11日 (土)

    10代のぜんぶ

    博報堂生活総合研究所 ポプラ社 1300円 より~

    ・コミュニケーション過剰の現代。10代男の子は一人で過ごし時間を大切にしながら、女の子は人間不信に陥りそうになりながらも、ともに社交性を身につけることによって、溢れるコミュニケーションに対応している。

    ・いつの時代も、10代は時代を映す鏡である。その時代の悪い面も綺麗に映し出す。しかし同時に、彼らはその時代に適合する力を最も持っている生き物でもあるのだ。むしろ新しい時代に対応できてないことに気づかずに、「失われた10年」を過ごしたわれわれ大人たちこそ懸念すべき生き物なのかもしれない。永遠の愛。裏切りなき友情。拠りどころとなる家族。幸せになる方程式。全ての絶対的なものが崩壊してしまった今、我々大人は、ひたむきに新しい生き方を模索している今の10代から学ぶことは多いのではないだろうか。

    いろいろな状況や地域の10代の女の子男の子にきいたわけではなさそうなのですが、なるほど、って思いました。息子様に、どう思う~なんて聞いてみたりしました。答えが、同じような感じに、驚きながら、改めて、今の時代の生きづらさについて、考えてみたいなって思いました。

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    2006年2月15日 (水)

    図解雑学 ポスト構造主義 ナツメ社 1400円

    なんだか、面白いです。

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