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あした晴れたら・・・/国籍問わない社会に2008年01月04日
【多文化共生の場】 草津市の住宅街にあるかつての日本料亭で昨年末、フィリピン料理の教室が開かれた。先生役は日本人男性と結婚し、10年前に来日したナティビ・ダッド・サンチェス・マキ(69)。甲賀市で暮らすが、家にこもりがちで、夫以外の日本人と話す機会はあまりない。日本語は苦手だ。 参加した日本人たちに簡単な英語で語りかけながら、カレーに似た自慢の家庭料理「メヌード」をつくってみせた。料理をほお張りながら、笑顔で話しかけてくる参加者を見て、「言葉は通じなくても、心を開けば気持ちは伝わる」。目頭が熱くなった。 支援センターの開設は、大津市柳が崎の在日コリアン2世、河炳俊(ハ・ビョン・ジュン)(59)が企画した。河は、日本人と外国人の懸け橋になろうと活動する市民団体「近江渡来人倶楽部」の代表。日本人と韓国人のはざまで生き、「国籍を問わず、人々が憩う場をつくりたい」と強く願うようになった。 小学生の時、韓国籍の友だちが「朝鮮人、朝鮮人」と日本人にからかわれた。仲裁に入ると、河も標的になった。新聞配達のアルバイトをしていた時には、日本人の同級生に待ち伏せされ、一緒に働いていた友達を連れていかれたこともある。顔中アザだらけの友達を見て「なぜこんな目に遭わなきゃならん」と怒りが込み上げた。 石山高校を卒業し、25歳で借金をして不動産業をおこす。在日コリアンであることを隠し、通名の「河本行雄」と書いた名刺で働いた。取引先との雑談で、朝鮮半島の話題になると、自然と話をそらした。「差別を受けると思うと、国籍のことは言えない。自己防衛だった」。日本人として生き、36歳で大津青年会議所の理事長にもなった。 転機は40歳の時。周囲の誘いもあり、在日本大韓民国民団(民団)に入った。日本に対して様々な要求を突きつける民団と、いつまでも理解してくれない日本人。しばらくすると、両方が身勝手に思えてきた。河は「在日コリアンと日本人の接着剤になりたい。自分の手で住みよい日本をつくらないといけない」と決心する。 仕事で使う名刺に初めて「河炳俊」と併記した。50歳になっていた。 00年に発足させた近江渡来人倶楽部では、在日コリアンの生活相談を受けるほか、専門家を呼んで朝鮮半島と日本の歴史について講演会を開くなどの活動を続ける。 06年5月には、大津市の国道1号沿いの自社ビルを改装し、「渡来人歴史館」をオープンさせた。日本と朝鮮半島の関係を時系列で追った年表や、江戸時代の朝鮮通信使の模型などを並べる。 04年からは、県も巻き込んで「おうみ多文化交流フェスティバル」を毎年開催。日本人ボランティアらの協力を得て、外国人が母国の料理や音楽、踊りを披露する場を提供してきた。 活動を続けるなかで、河は良き理解者を得る。料亭を経営していた喜久川修(58)だ。元草津市議の行動派。「世界には『自分の国さえ良ければいい』という考えが広まっている。それではいけない」と思う喜久川は、家族ぐるみの付き合いがあった河と行動を共にするようになる。ナティビに料理教室を開くよう持ちかけたのも喜久川だった。 今後、多文化共生支援センターを舞台に、在日ブラジル人を招いてポルトガル語教室を開いたり、ペルー人や韓国人、日本人などでフットサルの「多国籍チーム」をつくったりする計画を立てている。「近くの大学生を誘って、若い人同士の交流も図れれば」 河の目指す「共生の場」は着実に形になりつつある。「外国人との間に壁をつくる日本人は多い。その壁が解けたとき、希望にあふれた住みよい社会ができるんだと思う」。そう、つぶやいた河は、二つの名前が書かれた名刺に視線を落とした。(敬称略) マイタウン滋賀
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