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ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記― このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-06-10

[]マンガ家はなぜ出版社と対等になれないのか


今日の一枚

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蟷螂拳みたいな構えを取りながらTVを観賞中。


私のblogを見た友人知人の方々から、とても表に出せないような話を色々と聞かされてカルチャーショックを受けている多摩坂です。雷句誠さんの陳述書を見た時は「こんなデタラメな編集者がいるわけがない。もしいたとしても来る編集来る編集ことごとく喧嘩腰なんてありえない。作家側の主観が入りすぎではないか」と思って先のエントリを書いたのですが、どうも想像をはるかに超える深刻な現場がこの業界には実在するらしく。雷句さんの主張が100%正しいとはさすがに思いませんが、多分に真実を含むものとして認識を改める必要があるようです。


さて。今日はまず雷句さんの陳述書に出てくる、あるフレーズに対する違和感から話を始めてみたいと思います。それはこのようなものです。


雷句誠の今日このごろ。:(株)小学館を提訴。

(1)本来、漫画家と、編集者出版社)は、対等の付き合い、フィフティーフィフティーの関係でした。全没(始めから全てやり直し)が出たら、編集さんは深夜でも自宅のFAXで直しのネームを受け取り、すぐにチェックをし、原稿に取りかかれるようにする。そして直しを出すにしても、その先に漫画が面白くなるような展開を話し合う、漫画家を納得させて、漫画家も面白くするために努力する。もちろんお互いを仕事相手としても見ています。


ここを読んで妙な引っかかりを感じました。そのときには何が引っかかったのかわからなかったのですが、後に奇Ring・エッセンスさんの「とりあえずプレゼン用」というエントリを見て違和感の正体に気付きました。私は「対等」という言葉に引っかかっていたのです。


奇Ring・エッセンスさんのエントリは、マンガ家編集者信頼関係を、「良い編集者モデル」「悪い編集者モデル」という2枚の絵で表現しています。この絵の矢印を逆転させてみましょう。「良いマンガ家モデル」というものを考えた場合、編集者の信頼は作家がおもしろくて売れる作品を作り、かつ締め切りを守ることによって生まれます。しかしそのようなことはめったに起こりません。どうしても「悪いマンガ家モデル」、つまり締め切りを破ったり(これが一番多い)、売れなさそうなものを描いてきたり、言うことを聞かなかったりといった方に寄りがちになります。


だいたいマンガ家が期日までに売れる作品を上げてくれるなら、編集者は必要ないのです。元をただせば、締め切りを守れず、放っておくと売れないものばかり描くマンガ家を監督するために派遣されてきた人々が「マンガ編集者」として定着したのではないでしょうか。


マンガ家という個人事業者のところに出版社編集者という名の監督者を派遣しているというのは、親会社子会社に指導員を送り込むのに似ています。そのようなことが常態化している条件下で、両者は対等であると言えるでしょうか。少なくとも出版社は対等であるとは考えていないのではないでしょうか。さらに言うと大手になるほど編集者の目線も出版社のそれに近くなっていくものなのではないでしょうか。


またマンガ編集者については夏目房之介さんが次のように語っています。


マンガナビ:

「海外マンガ事情レポート」マンガ評論家夏目房之介氏に聞く『マンガ世界戦略』

編集者というのはもともと出版社という名の企業マンガ家という個人の間に立っている、というよりかなりマンガ家寄りの立場に立つ奇妙な存在です。本来、これは編集者ではなく、個人事業者のエージェントの役割です。編集者が本来の会社員の仕組みにそぐわないあまりにもいろんなことを一個人としてやりすぎていたので日本ではエージェントというプロフェッショナルな職種が育たなかったのが実情だろうと考えています。


マンガ編集者会社員の立場からはマンガ家に対する監督者ですが、同時にマンガ家のパートナーとしての立場からは会社との交渉を代行するエージェントでもあるということをこの記事は示しています。奇妙で複雑な立場であり、この立場からはマンガ家は俺達がなんとかしてやらないとダメだ」という意識が生まれがちになります。マンガ編集者がときに高圧的に、そしてときに傲慢になるのはこの立場によるところも大きいのではないでしょうか。

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