過去のかい人36面相(H11.3〜H11.6)

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差別と表現(6月4日)

 その昔、黒人に対する差別を助長しているとして問題となった「ちびくろさんぼ」のオリジナル(THE STORY OF LITTLE BLACK SAMBO)をそのままの絵を使って忠実に再現した「ちびくろさんぼのおはなし」が径書房より刊行されるそうや。「ちびくろさんぼ」といえば従来日本で多くの訳本が出されてきたが、黒人を戯画化しているとか、「ちびくろさんぼ」というタイトル自体が蔑称であるという批判が起こり、1988年ころに一斉に絶版とされ、それ以降はストーリーは同じでも、タイトルも絵柄も変えたまるで別なものが刊行されてきた。恐らく、今回のこの「ちびくろさんぼのおはなし」も論議を巻き起こすやろう。
 前回も触れた部落差別やその他の差別問題でも見られることやが、我が国では差別にあたる言葉を使わず、タブーにしてしまうことが差別解消につながると信じられてる。部落解放同盟やその他の市民団体がそういった言葉を使うことに対し、敏感に反応したため、テレビなどは抗議を恐れもはや自由に言葉を使えない状態にある。確かに、そういった言葉に対し抗議することは差別を認識させることに多少の効果はあるやろう。だが、すべての言葉を無条件に潰していくことは、言論の自由を妨げるだけではなく、表面上は差別がなくなったように見えても、それらの言葉を使わないことにより差別が陰湿化し、地下に潜ってしまう可能性がある。その時代時代に差別が存在し、差別用語が使われていたことは紛れもない事実であり、昔それを使っていたことまで排除していくことが差別解消につながるとは思えない。
 「ちびくろさんぼ」はよい作品や。だからこそ、全世界の多くの国で翻訳、刊行されてきたんやろう。そしてその内容自体は黒人差別を推奨するような内容ではない。タイトルや絵柄だけでその内容を決めつけることはできない。そうであれば、例えば原爆の悲惨さを訴えた「はだしのゲン」に登場する火傷を負った人たちの絵も、火傷を負った人たちに対する「差別的表現」になるんやなかろうか。

本当の部落解放って・・・?(5月22日)

 先日、いつものように学生食堂で食事をしようとすると、これもいつものようにビラが机の上にばらまいてあった。それは、部落解放研究会による「新歓フィールドワーク」の案内のビラやった。その内容がすごい。「高槻市にある被差別部落をフィールドワークします。地元の人から運動の歴史や現状についてお話しを聞くことができます。興味のある方気軽にご参加ください。」と。こういうことが本当に新入生歓迎でするようなことなんか?「気軽にご参加ください」って、これに気軽に参加できるやつなんかいるんか?もしそんなやつがいたら異常な人間としか思えん。
 だいたい、なんでわざわざ被差別部落に行く必要があるんや?部落の人の話を聞くだけなら、その人を他の場所に招いてもできることやないか。ここに、部落解放研究会の本当の目的が見えてくる。つまり、被差別部落は他の地域よりもこんなに貧しくて、かわいそうなところなんやと見せて、部落民に対する同情を喚起して部落解放運動に引き入れようとしているんやな。だが、それこそその人の心の中にある差別感、優越感を前提とした同情にほかならない。もし、これに参加する新入生が部落解放研究会のフィールドワーク以外でその被差別部落を訪れたとしたならどういう感想を抱くやろか。そこが多少他の地域よりみすぼらしく見えても、部落差別とあまり結び付けたりはしないんやなかろうか。ところが、この「新歓フィールドワーク」に参加してからは、その新入生にはおそらく周りより貧しくみえる地域がすべて部落にみえてしまうやろう。結局、この部落解放研究会の「新入生歓迎イベント」は差別を助長しているように思えて仕方ない。
 わしはすべての差別が将来根本的になくなるとは思っていないが、部落差別は歴史に中に埋もれるか、もしくは、逆に部落であることを誇り得るようになればなくすことのできる差別やと考えている。だから、この部落解放研究会のような活動は真の部落解放とはまったく正反対の行動やと思ってしまう。同情を前提としたこうした活動が結局部落についてモノが言えない雰囲気を作ってしまった。部落を出されては何も言えない状況を利用して広島では部落解放同盟などが教育に入り込んで反日の丸・君が代教育、反天皇制教育(教育というより洗脳か?)を堂々と行っている。

たまたま拾った「赤旗」大批判 其の一(5月12日)

 ある日、わしが携帯で電話していると、足下にあるがさがさとしたものを踏んづけてしもた。何かいなと思て拾てみると、共産党の機関紙「赤旗」(4月23日付)やった。普段目にせんもんやさかい、この際徹底的に読み込んで叩いてやることにする。
 いきなり一面トップに「戦争法案の国会審議」と書いてある。記事の中身を見ても、「戦争法案(ガイドライン法案)」と何と戦争法案のほうが正式名称だと言わんばかりや。ちなみに、正式名称は「日米防衛協力の指針(ガイドライン)関連法案」や。国会議員を多数送り出す「立派」な政党の機関紙がこれではいくら何でもまずいんやなかろうか。一方、中の方の国際面記事では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と書いてある。
 「戦争法案」と決めつける根拠はいったいなんやろう? ガイドライン関連法案はそもそも日本の周辺で日本の安全保障に関わる有事が発生した場合に、その処理に携わる米軍の支援を目的に1997年に日米両政府が合意した「日米防衛協力の指針」を具体化するための法案や。戦争のための法案では全くない。「戦争法案」という名前からは日本が再び戦争のできる国になるという感じを受けるが、そんなことは絶対ないし、また共産党も分かっているに違いない。「戦争法案」という名前は法案のイメージを落とすための彼らお得意のレッテル貼りや。彼らが恐れるのは日本が米軍の仲間とみなされて攻撃目標にされること。これを指しておそらく戦争といっているのやろうが、だいたいその前に「日本有事」、すなわち日本が攻撃を受けたりする危険がある状態においてこの法案が機能するのであるから、本末転倒な話やで。攻撃目標にされることのないような状況ならガイドライン関連法案など必要ない。
 このような共産党のイメージ戦略に騙されてか躍らされてか、ガイドライン関連法案を我が国を戦争に導くものだと完全に思い込んでいる人々がいる。一面下の記事では、沖縄の県民代表が「戦争法案」廃案を共産党の不破委員長に要請したとある。要請団長の山内徳信前沖縄県出納長は、「沖縄では戦後が終わっていないのに、再び戦前が押し寄せている」という。どこが戦前に戻ってるんや!我が国は手足を縛られた上で手足の代わりを務めてくれる米軍に協力しようとしてるだけやで。事務局長の伊波洋一県議は、「法案が成立してしまうと国民・県民が戦争に協力させられ、米軍がそれを根拠に戦争を始める懸念を持っている」という。あのなあ、法案が発動する時には日本全体が危険にさらされているんやで。あんたのいうことを聞いてると米国が戦争したがっているように聞こえるんやが、あまりにも失礼やないんか。米国よりも もっと戦争をしたがってる国が日本の周囲にあることこそが問題で、そんな国があるからこそこのような法案が制定される必要があるんやで。  また、一面下のコラム「潮流」では1032人が名を連ねたという戦争法案に反対する意見広告を紹介している。「赤旗」の事務局には意見広告に名をよせた人たちからメッセージが届いているという。「戦争につながる行は絶対にいけない」柳家小さんのメッセージ。有事に対して何もしないことこそ「戦争につながる行」ではないんやろうか。それとも何もせずに滅ぼされることは戦争ではないとでもおっしゃるのか。 「どんなことがあっても人を殺さない!これがわれわれ世代の不戦の誓いです。そのためには命は惜しくありません」小林亜星。自分たちが殺されそうになっても相手を殺さないのだろうか。この老作曲家はよほどの聖人君子なのか。「”いつのまにか”というのは恐ろしいです。アピールすることの大切さを思います。」遠藤郁子。どこが”いつのまにか”なんや? 数年前から連日のように「ガイドライン」という文字が新聞紙面を飾っているのをわしは見ているが? ”いつのまにか”ガイドラインを戦争に結びつけてるんはあんたらのほうとちゃうんか? 「見えにくく暗くしておいて、確実に同時進行しているものがある」加藤剛。政府が戦争をするためにガイドライン法案を通そうとしているとでもいうんか? それくらいやる政府だったら何も問 題はないんやが(笑)「中国での侵略戦も最初は「事変」と呼ばれていました。・・・ごまかしに乗っては、歴史に学ばないことになります」美術家の首藤教之。廬溝橋事件に始まるでの紛争は支那事変や。「事変」=「国と国との間に生じた争いを実力で解決するために起こる、宣戦布告のない戦闘行為。」(三省堂国語辞典)。ごまかしで「事変」と呼んでいたわけではない。などなどと文化人とやらの戯れ言を並べとる。ああ、あほらしや。文化人とやらよりも一般大衆の方がよっぽど現実を知ってますな。彼らには日本の周辺にある危険な国々は見えず、日本の政府やアメリカが戦争を起こす鬼か悪魔のように見えるんかな?
 とても一回では面倒みきれんので、三、四回に分けてぶったぎることにした。もしわしが「赤旗」を購読したら、眠る暇もないやろうな(苦笑)。

おかしなおかしなテレビ業界(4月21日)

 タレントの上岡龍太郎がTBSの番組、「ここがヘンだよ外国人ガツンと言ってやるゾスペシャル」で、「和歌山や奈良の人間が大阪に来てひったくりをやっている」と発言して、視聴者からの声に押されて和歌山、奈良の両県が抗議したそうや。TBSは番組で「事実とは異なります」というテロップを流し、20日までに謝罪文を提出したらしい。テロップを入れて放送したということは、放送前から抗議が来ると予想してのことではないやろか。上岡龍太郎は毒舌で売っているタレントや。わざわざテロップをいれんかったら、個人のジョーク発言としてとくに問題になることもなかったのやないか。わしは番組を見ていなかったが、見ていたとしてもテロップがなければ少し「おや?」と思っても「ああ、また上岡がやっとるな」くらいですんだやろ。ところが、テロップが流れたら余計に不快感が増す。局側が問題を認識して放送したと分かるからや。だいたい、「大阪でひったくりが多い」ということからして(事実やけど)大阪に対して失礼なんやないやろか?つまり、上岡発言も単に大阪を弁護して大阪の周りからひったくりする人が来ていると言いたかったんやないやろうぁw)・・・錫鮠w) テレビはあまりにも「抗議」を恐れすぎてる。他にも、討論番組で「北鮮」や「支那」という言葉を使っただけで注意されたという風に、使ってはいけない言葉がたくさんある。その中には確かにテレビで放送するには不適切な言葉もあるが、何もそこまで・・・というのも多い。そのくせ、被害者や芸能人のプライバシーも考えず平気で追い回し、子供が起きている時間帯でもお下劣な番組を放送する。視聴者に迎合したくだらないドラマやバラエティ番組をつくる。何かおかしい。やはり視聴率に左右される無料方式がダメなんかなあ?

脳死は死ではないというのは詭弁や(4月10日)

 去る3月1日に日本で初めて脳死による臓器移植が行われた。マスコミは異常なほどの熱気でこれを歓迎した。脳死による臓器移植にはなお問題が山積みで、そこまで皆が皆「臓器移植万歳」となることには少し危険を感じるんやが・・・もちろん、臓器移植そのものには反対ではない。不治の病で苦しむ人々に光明をもたらすという意味で、今回の移植成功には拍手喝采やし、これからのこの医療の発展を期待しとる。ただ、飽くまで臓器移植は特別な医療であり、一般的に施されるというもんとちゃう。ある人の臓器を他人のために活用するというのんは、他人の精子で子供を出産するという不妊治療と同様、多分に倫理的な問題を孕む。
 だから、脳死による臓器移植に反対、あるいは慎重だという人々がいるのはむしろ健全なることや。だが、そのような人の中には、脳死は人の死ではなく脳死の時点での移植は殺人にあたるという人々がおる。脳死臨調のメンバーである梅原猛もその一人や。梅原は「諸君!」5月号に「『心』を忘れた脳死移植」という論文を載せている。全体としてはわしは梅原の論に賛成や。移植医療は決して勧められる医療ではなく、やむを得ないもんで、将来精巧な人工臓器ができるとともに消滅する「繋ぎ」の医療。医療の発展を担う医学者たちはともかく、マスコミや世間一般まで脳死移植推進に走るのは危険だという、梅原の主張に全く同感や。
 ところが、梅原の脳死は死ではないという主張はわしには疑問や。梅原は、脳死は人間が古来より持っていた「死」の定義を変えてしまうものであると主張する。確かに、脳死が古来よりずっと人間に存在した状態であるならば、脳死を死とするのは死の定義を変えることになるやろう。梅原は臓器移植は近代合理主義、科学至上主義の産物であり、そのような科学信仰は人類を滅ぼす怖ろしいものだという。だが、梅原のいう脳死は生であると定義すること自体、科学の発展抜きにしてはできないことなんやで。脳死という状態は、人工呼吸器を着けなければ自然に心臓死に至るという状態である。科学の発展なしには脳死状態は存在しなかった。すなわち、脳死状態での延命治療こそ、自然の死の定義に反した「生命」至上主義の産物なんや。梅原は一方で移植医療を現実のものとした科学を批判しながら、科学に依った「脳死は死ではない」という立場に立つという矛盾を犯している。
 結局、脳死は日本人の死生観を根本から変えるというもんとは違うちゅうことや。わしが脳死移植推進万歳に危険を感じるのは、脳死を死としていることからではなく、ドナーの家族の心情を無視したマスコミ報道や、臓器を授受するという行為に嫌悪感を感じる人だっているのに(わしも他人の臓器を貰ってまで生き延びたくはない)、マスコミが安易に移植礼賛に走る現実を憂慮してのことからである。 

所詮媚売り政党か(3月24日)

 3月22日付読売新聞によると、共産党が反日の丸・君が代を必死にアピールしているそうや。不破委員長が国民が討論した上でならば日の丸・君が代を国旗・国歌に採用することも吝かでないとの見解を表して、共産党支持者からの反発を喰らったかららしい。最近ちょっと支持率が上がったからいうて、どうもこの党は調子にのっとるようやな。民主党やなんかに野党共闘を呼び掛けてみたり、革命路線を凍結するといってみたり、これがあの共産党かと見まごうくらいや。しかしこれらが実は人気取りのリップサービスやちゅうことが今回の記事からもようわかる。物分かりのええようにみせて人気をいただく、この手段は社民党(旧社会党)も使うた手や。その結果どうなったか。それを考えると、現在の共産党人気もそう長うは続かんやろうな。せいぜい大衆に媚売って落ちぶれろ!

こんな運動知ってんか?(3月24日)

 少し前にうちの大学の学生食堂でこんなビラを手に入れた。「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動」のビラや。この署名運動、すでに52万も集まっているそうや。52万人も平和ボケな非国民がおんのか!ああ、世も末やな。でも、よくこのビラを読んでみたら、ああ、こんなこといわれたら平和に浸りきった日本人ならつい一筆したためてしまうかもなと思った。
 まず、新ガイドラインが日本を戦争に巻き込むものと決めつけ(もちろん侵略側)、極端な例と曲解で物騒なことが起こると騒ぎ立てとる。まるで、日本の周りに何も脅威が存在してないみたいな言いぐさや。この運動こそが日本周辺の軍事国家に、判断を誤らせ、日本を戦争に巻き込むものやということが、何でわからんのや。隣の家の人が泥棒やとわかってて窓やドアを全開にして出掛けるようなもんやで。きちんと戸締まりすんのが当然やろが。今の日本はその戸締まりさえ満足にできんのが現状や。ちっとでも頑丈にしようとしてんのが新ガイドラインや有事立法やろ?これを侵略への道と考えるあんたらって平和ボケどころか平和狂いでんな。
 確かに今審議されてる周辺事態法に問題がないわけではない。だが、これが我が国にとって必要なものであることは間違いない。しかも緊急にや。こんな嘘八百ついて法案を潰そうとする連中は平和ボケ国民が許しても、このわしが許さん!ともかく、署名するときは気い付けてせなあかん。うまい言葉にだまされたらあかんで。(この署名運動のHP[http://www2u.biglobe.ne.jp/~hyakuman/])
 ちなみに、この運動の代表的な(わしの知ってる)呼びかけ人をリストアップしておく。どう思うかはあんさんらの自由やけど、わしはこいつらを何を言うても絶対に信用せん(元から信用してへんけど・・・)。

幼稚じみた日の丸・君が代排斥(3月13日)

 日の丸・君が代を巡る論議が盛んやが、これらに反対する学校の教師らの特徴は、その反対の仕方の幼稚さや。職員会議で校長相手に不毛な論争を仕掛けたり、君が代が流れ出すと着席したり、自分らで卒業式をというアホなガキどもに手を貸したり。職員会議で論議吹っ掛ける暇あったら、駅前でビラ配りでもしてこい!学校という自分たちがのさばっておれる閉じた空間でおらんと、世間様にその主張を問うてみい!式典におけるボイコットの仕方はホンマに子供の駄々こねそのまんまやな。大人は我慢のできる生き物やろ。子供が「僕ピーマン嫌いだから食べない!」というのと同じレベルやで。もっと他にできることがあるやろ。ああ、分かった。自分もガキやから、卒業式や入学式をボイコットするガキどもに共感できるんやな。
 3月12日付読売新聞「気流」欄の投稿で、18歳の学生は「オリンピックで国旗が掲揚され「君が代」が流れるのは、やっぱりかっこいい、と思う」と言うてる。これこそ、ふつうの人の感覚やで。あんたら反君が代・日の丸に異常な執念を燃やす教師は日の丸・君が代以外でこの学生にかっこいいと思わすことができるんか?できんやろな。お前らの目指すんは国旗・国歌自体の消滅、すなわち国の消滅やもんな。あるいは、赤い旗を国旗にするんかな?
 確かに、この問題を避け続けてきた政府も大バカや。避け続けた結果、日の丸を掲げる習慣は消滅寸前、卒業式や入学式をイデオロギー闘争の場にしてしもた。かなり遅かったとはいえ、ようやく法制化でこの問題に正面から取り組む姿勢になったことは評価する。だが、やはり一番の責任は聖職でありながら神聖な教育現場を自らのイデオロギーに染めた日教組をはじめとする教職員組合および、それに属する教師どもや。そろそろいい加減にせないかんな。

(注)かい人36面相は架空の人物です。

 


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