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1年先の話なら歯切れよく約束する。でも、ひと月先のことになると口をもごもごさせてしまう。日々の暮らしではよくあることだ。
地球の脱温暖化で日本は何をするか。その青写真となる福田首相の構想からは同様の印象を受ける。
高々と掲げた旗は、40年ほど先の目標である。2050年までに二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を今よりも60〜80%減らすという。
「世界全体の排出を今世紀半ばまでに半減」は今、国際世論の大勢になっている。世界の科学者らでつくる「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の警告で浮かび上がった、地球を温暖化から守る生命線だ。先進工業国の日本が、半減を上回る削減をめざすのは当然だろう。
残念なのは、遠い未来の目標は科学をもとに定めたのに、近未来の展望ではそれが影を潜めることだ。
50年に世界で半減させるなら、おのずと近未来のおおまかな通過点も決まる。その目安は去年、IPCC報告をもとに気候変動枠組み条約締約国会議で議論された「先進国は20年までに90年比で25〜40%減」だ。
ところが首相は、中期目標を示す代わりに「日本は20年までに05年より14%削減可能」との試算をあげた。日本の排出は90年よりもふえている。05年比でこの数字では小さすぎる。
これは、産業などの分野ごとに削減可能量を積み上げる方式をもとにした試算だ。政府は、国別目標をこの方式を土台に決めようとしている。だが、可能量を積み上げるだけでは必要な削減量に届かない。今回の数字は、それを物語っているようだ。
一方、今秋から排出量取引市場の試行を本格的に始めるとしたのは評価したい。企業に排出枠を課し、それより減らせば余った枠を売れるしくみだ。
制度設計にあたって、日本の産業が不利にならないようにする工夫は必要だ。だが、それだけではだめだ。
この制度は、CO2を出さないことが得になるという価値観を日本経済に組み込むものだ。日本の産業を低炭素型に変え、それを競争力につなぐという発想が求められる。急な負担増で企業が失速しないよう配慮しつつ、年月をかけて産業界の変身を促すしくみを見いださなくてはならない。
民主党はすでに地球温暖化対策基本法案を国会に提出した。「90年に比べて50年までの早い時期に60%超、20年までに25%超」という排出削減目標を掲げ、国内の排出量取引は10年度から始めるとしている。福田案よりは行程がはっきりと見える。
洞爺湖サミットの直前に、ようやく政府と野党第1党の構想がそろった。目標比べではなく、必要な目標に至る具体策を議論するときである。
買い物客が集まる日曜の歩行者天国が、一瞬にして惨劇の舞台となった。
世界的にも知られる電気街、東京・秋葉原のど真ん中で、無差別の殺傷事件が起きた。7人もの命が奪われ、10人が傷を負った。
犠牲者の中には、10代の大学生もいれば、息子と買い物に来た70代の元歯科医もいた。「悪い夢を見たようです」。悲報を受けて、そう語った遺族、まして殺された当人たちの無念さはいかばかりだろうか。
あまりにも残虐で、許しがたい凶行だ。逮捕された25歳の男は、なぜこんな理不尽な事件を引き起こしたのか。
男は静岡県内の工場で、派遣社員として働いていた。この日はレンタカーを借りて乗りつけた。だれもが知っている大繁華街で、目立つ騒ぎを起こしたかったのだろうか。
逮捕後、男は「世の中が嫌になった。生活に疲れてやった。誰でもよかった」と供述したという。
だが、その言葉から、大量殺人へ至る理由は見いだし難い。たとえ世の中に絶望したとしても、なぜ通りすがりの人を手当たりしだいに殺さねばならないのか。
男は事件の前々日に職場を無断欠勤し、その翌日にはトラックを借りる予約を入れた。こんな凶行を数日前から計画していたのだろうか。その冷酷さは空恐ろしさを感じさせる。
男の中で膨らんだ殺意は身勝手としか言いようがない。
事件当日には、携帯サイトの掲示板に「秋葉原で人を殺します」との書き込みもしていたらしい。そんな予兆にだれかが気づき、手を打てていればと考えると、残念でならない。
こうした無差別の殺人や未遂事件は、昨年までの10年間に67件起きている。今年3月には茨城県のJR駅で、24歳の男が8人を殺傷する事件があった。男はやはり「誰でもよかった」と供述したそうだが、凶行に及んだ心の底はいまだにはっきりしていない。
今回逮捕された男は、出身地の青森県で進学校に通っていた。順調そうだったのに、なぜ自暴自棄になってしまったのか。職場や家庭、生活に不満があったのか。この社会のどこかに生きづらくさせるものがあったのか。
今の日本社会に閉塞(へいそく)感が漂うといわれて久しい。だが、それは決して他人を攻撃する理由にはならない。
今後の捜査や裁判を通じて、できる限り真相に迫ってもらいたいが、それだけでは足りない。一見平穏なこの社会のどこかに若者を暴走させるものがあるとすれば、それを探って、何とかしなければならない。
そうでなければ、巻き込まれた人たちの「なぜ自分に刃物が向けられたのか」という疑問や無念さに答えることにもならないからだ。