2008-06-09 do everything with nothing 
花は、花を咲かせようとはしない。
鳥は飛ぼうとして飛びはしない。
そこにあるのは、ただ自然の働きだが、自然は何かをさせることはしない。
自然は何かに対し、特別な何かを行わない。
ところが人間の認識では、世界は自己と対立するものでしかなく、
そうして自然と対峙しては、
世界にあるのは、何かの働きが加わって別の何かに成った事態しかない。
技術や方法や知識といった作為を以て自然を変えることができると思われているが、
自然はただそうあるほかなく、人の実感は別として自然は何も変わってはいない。
何かに対して何かを行ったとき、始まりと終わりが生まれる。
始まりと終わりのある単線上の認識で世界を見た時、始まりの始まりの始まり…
といった具合に無限の分割が始まる。
何かに対し、何かが特別に働きかけ、何かが起きた。
その原点を探ることが、世界の謎を解く手法だと思ってしまうが、
そもそもそういう見方をしたから無限分割が起きたのではないか。
観察者は己の似姿を世界に見い出す。
為すこと無く自ずから然り。
無為自然とは特別の境地や見解ではなく、私たちの眼前に展開している事実を記述した運動のことだろう。
花は、花を咲かせようとせずして開花する。
自然は何も行わずして、それを行わせる。
「何もしない」とは、「何かをしない」という細則にわたる禁止ではない。
ただ、「そうである」ということ。
無為自然とは、(do everything with nothing)であり、その起きてしまったことは、
私たちの見ている因果の外にあるのではないか。
2008-06-07 観察者 
2008-06-05 現実主義 
2008-06-04 100 years of choke 
2008-06-02 先後 
「空中に円を描くような腕の運動をするとき、大きな円を描こうとする場合でも小さな円を描こうとする場合でも、それに要する時間はほぼ同一である、つまり腕を動かす線速度は円の大きさに比例する」
「この規則を意識的に変えることはできない。ということは、円の大きさに関係なく、円を描こうとする腕の運動は描かれるべき円の大きさをすでに最初から予想し、しかるべき速度を先取りしえ運動を始めていたのだということになる」
「馬が歩行の速度を速めようとすると、その歩行形態も(ステップ・トロット、ギャロップ・フルギャロップなどと)必然的に変化する」
ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカー
ここで重要なのは、「描かれるべき円の大きさをすでに最初から予想し、しかるべき速度を先取りしえ運動を始めていたのだということになる」の主語は誰か?ということだ。
その予想した運動とは、私が十全に意識したものならば、それはいまの運動ではなく結果から始められた、つまりは過去の行為に他ならなくなる。
結果としてそうなるということと、結果からコントロールされた動きは似て非なる。
これからしようとして行うことは、いまのことではない。
それが、どれだけ「いままさに」を強調しようとも。
いまの運動はすでにいまになく、常にいまの先もしくは後にある。
時間として先(後)にあるとは、時間という客観的なものが先(後)にあるということではない。
それは認識の刻印を帯びた、現実とは関係のない出来事だ。
過ぎ去ることも先へ進むことも同じだ。いずれもいまに居ない。
2008-06-01 人為的介入 
対象化とは、非常に汎用性の高い行為だ。
歴史であれ、ビジネスであれ、心理であれ何であれ、あらゆる出来事についてクリティカルに考える上で欠かせない。
それが有効なのは、人為的に物事に介入している自覚を伴うときだろう。
長さの概念を以て初めて長さが量れるように。
したがって、対象化とは、あるフレームによって事物をとらえ、介入した時に立ち現れる反応であり、それは問いに対する、問いに応じたリアクションであっても正解では決してない。
対象化とは、いままさに目の前にあるものを扱うのではなく、出来事を分節する以上、起きたことしか扱えない。
出来事は常に対象化する行為をすり抜けて存在し続けている。
対象とは、それが在るという事実。
対象化とは、在ることについての記述であり、それは存在の残照のようなものだ。
2008-05-31 在るとはどういうことなのか 
唯識派によれば、存在は刹那刹那に生滅を繰り返しているという。
そして、刹那は数量化できる時間単位ではない。
その問いを持ちこたえられないものは、ノウハウに問題を矮小化しようとする。
しかし、どう観測すれば、現れて滅する運動を記述できるだろう。
専門的に考え、特別な意味を見いだすことは、「意味を与える行為」であることに留意する必要があるだろう。
今は、かつてとなり、そのかつては、かつて今であった。
今は今にあるが、その今は今と指差すことはできないが、今にある。
なぜなら、今がないことには、私も世界も今に存在しえない。
さっきと今は違う。しかし、今はある。
事実、存在は現れては滅し、滅しては現れている。
かくして、すべては変化している。
しかし、すべてが変化しているということは、
観測者もまた変化している以上、すべては変化していないことでもある。
ナーガルジュナの言うところの運動の否定とは、一切が変化という運動の過程である。
つまりはある視点から見られた特別な運動は存在しない、という意味ではないだろうか。
2008-05-30
最短・最大・最速
|「最短距離」と聞くと物理的な事実を表していると思いがちだが、
「2点間を結ぶ最も短い距離」とは、概念上でしか成立しない。
線とは定義上、幅を持たない。
ようは人間にとっての認識上の事実であって、世界の事実ではない。
地球から月へ打ち上げたロケットは、最短の直線運動で目的地へ向かうように見える。
だが人間の認識に関係なく、実際の運動は螺旋をーつまり連続的な曲線を描いている。
地上においても最短かつ最速と思われている直線運動は、
事実としては曲線運動にほかならない。
風と海流を読んでAからBへ向かう船の航路を見下ろすと、
「|」ではなく小刻みに「Z」を描く。
重要なことは、最短・最大・最速で目的地を目指す「現在の動き」は、
目的地に向かう航路としては常に誤っていることだ。
しかし、そうでないと最短の時間で彼の地に辿り着けない。
対象はなんら変化していない。
観察する者がどこで何を見るか?によって見え方が異なる。
ところで政治、経済の分野では、昨今最短、最速の判断が正しさを弾き出す上で肝要だと喧伝されている。
だが、人は常に直線を行かないことでしか目的に達せないことを忘れている。
「見る者はどこで何を見るか」を勘案するセンスが最も蔑ろにされている。
2008-05-29
所有の記憶
|あらゆる事物は滞ることなく移ろい行くことが、疑いようのない事実ならば、
私は何かを確かに所有することなどできない。
心理を記述し、後生大事に記憶として取り置くこともできない。
記憶は池に投げ入れた小石の水面に広げる波紋のようなものだ。
起きた事実とは、小石と水との出来事によって生まれた別の何か。
2008-05-28
観察
|事物をよく観察すれば、よく見えるようになる。
その方法に習熟することが客観化であり、対象化だと、
あらゆる機会を通じてアナウンスされる。
だが、観察する行為自体が対象に影響を及ぼす以上、観察とは自分の見方を見るようになることでしかない。
長さは長さという概念を持ち出すことでしか観測できない。
しかし、宇宙には、本来メートルという単位は存在しない。
存在は私の視野の外にあり、決して概念化されることはない。
対象化とは、私にとっての経験であり、「私と事物」に世界を分割することであり、
そのことによって人は世界を経験する。
けれど、この上ない現実は分割されない。
「現実はひとつ」しかなく、分割されることはない。
何となれば「いま・ここ」は、名指すことができない。
瞬間を数値化し、名指そうとしても、それは無限に分割可能であり、決して瞬間の始まりと終わりに行き着かない。
<道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず>
世界は私の認識よりも計測不能の大いさとして存在する。