大阪市立大学 大学院創造都市研究科 都市情報学専攻 中野 潔
2002年4月29日の午後9時,NHK総合テレビは,NHKスペシャル「奇跡の詩人」という番組を放送した。これは,出生直後から脳性麻痺になった少年が,人に感動や癒しを与える詩や文章を書くというものである。文章を「書く」際には,母親が少年を抱え,少年の指の動きをサポートする。少年が文字盤を指していき,母親がそれを読み上げる。過酷なリハビリ訓練を通して,それが可能になったというのである。
この番組が始まって10分ほど経った頃から,巨大な匿名掲示板として知られる「2ちゃんねる」に,この番組に対する批判が書き込まれ始めた。さらに,短期間のうちに,この番組をビデオキャプチャーした動画デジタルデータが,無許諾でネット上にアップロードされ,2ちゃんねるの書き込みなどからそれに対して,リンクが張られるようになった。
こうした行為を行ったのは,ジャーナリストを生業としている人々でも,マスメディアや個人のウェブで時事問題を時々論じているような,アマチュアの批評家でもない。
ウェブログ (4) の隆盛からわかるように,ジャーナリズムの担い手は,いまやプロのジャーナリストだけではなくなっている。しかし,時々刻々変化していく社会で起きる現象(この場合は,批判の対象となる現象自体がジャーナリズムに関連するものだったが)を,伝え,批判するという点では,匿名掲示板における社会批判は,広義のジャーナリズム活動に入ると考えられる。
この「奇跡の詩人」のキャプチャー動画のアップロード問題は,まさに,現代のサイバージャーナリズムにおける典型的な課題だといえよう。
なお,本稿では,「奇跡の詩人」の内容の信憑性などについては論じない。
この「奇跡の詩人」と「2ちゃんねる」とを巡る事件では,番組をキャプチャーした動画をアップロードした者と,それにリンクを張って論評した者とは同一人物とは限らないのだが,ここでは,それが同一人物であったという想定のもとで考察を始めよう。
まず,静止画の引用についての判例については,小林よしのり氏のマンガを批判する文章で,マンガの一部を複製した杉聰氏を小林氏が,著作権の複製権侵害と同一性保持権侵害で訴えた事件がある (5) 。この「脱ゴーマニズム裁判」において,1999年8月31日に出された地裁判決では,漫画を批評するために漫画の一部を掲載することは引用であるから許されるとして,小林氏が全面的に敗訴した。
2000年4月25日の東京高裁では,小林氏の主張を一部認める判決が出た。この判決において,絵自体を引用することは合法とし,引用において,一部,原画のレイアウトを変えて (6) 掲載したのが同一性保持権侵害だとした。2002年4月26日,最高裁が,被控訴人の上告を棄却したので,高裁判決が確定した (7) 。
動画の引用についても,判例がある。1989年10月4日,TBSの「ニュース23」における山口組の一斉摘発のニュースで,TBSは,山口組の製作した「山口組五代目継承式」のビデオの一部を流し,山口組がTBSを著作権侵害で訴えた。結果は,TBSの勝訴であった。これについて,日経新聞の福田氏の著書から引用する。
【「報道の自由」と「著作権の保護」が報道の具体的なケースで争われた。
結果的には「時事の事件の報道のための利用」として引用したことが認められ,TBSは大阪地裁で'93年3月に勝訴,判決が確定している。この勝訴という判決の大きな要因としては,山口組が問題のビデオを傘下の組に配布したこと自体を,山口組の勢力拡大の動きのひとつとして裁判所が「時事の報道」と認゜たこと。また番組の最中に口頭と字幕で「山口組製作のVTRより」と出所を明示したことによって,著作権の侵害をまぬがれたのである。】(8)
引用というのは,別に,被引用作品に対し,否定的な姿勢で論評するときだけのものではないが,まずは,引用の範囲内での複製,あるいは,引用の範囲を超えた複製における社会的有用性が高い例を考えてみよう。
テレビ番組の内容に疑義がある場合で,その番組内容自体を文章でいくら詳しく描写しても,疑義の正否判断に役立たないケースというのは,十分想定しうる。たとえば,文献 (9) では,「輝」なる人物が,「奇跡の詩人」の今回問題になっている個所を文章で描写している。しかし,これを読むだけで,番組の信頼性を,描写者の主観にゆだねることなく読者が判断することは非常に困難である。この文章による描写が,もっとずっと細密なものであったとしても,その状況に大きな変化は生じないと思われる。
こういうケースで,番組に対する疑義を(読者,視聴者に納得してもらえる形で)論じるには,番組の該当部分そのものを引用(あるいは,引用の範囲におさまらないとすれば,正当な引用の範囲を超える複製)するしかないと思われる。
番組内容自体を文章で非常に詳しく描写しても,説得力ある批評が構成できず,かつ,テレビ番組の著作権者が部分的複製の許諾を出さないときに,「どんな程度の動画アップロードでも引用でなくて複製になるから,著作権者の許諾を得なければならない」とすると,そうした番組の批評行為自身が成り立たないことになる。
動画による表現,特にテレビ,映画が,社会的に大きな影響をもつ現代において,著作権者が部分的複製の許諾を出さないかぎり,その動画そのものを見ながらの批評ができないとすると,表現の自由に対する大きな制約になる。
引用などを通じて他者の著作物を批評する権利が,プロフェッショナルのジャーナリストだけでなく,アマチュアのジャーナリストにもあるかどうかであるが,この問題については,6.3.1の冒頭で述べたように,サイバージャーナリズムの機能を社会に提供することが必要なのであって,それを職業にしているか否かは,特に問題にならないと考える。
本稿で論じている,NHK番組批評のための活動において,問題があったのは,番組の批評のために引用する人と,他者の批評に使われることを見越してウェブ上にアップした人とが,別だった点である。
どう考えればいいだろうか。批評のための引用が許されるためには(現在の著作権法の前提がそうであるし,社会通念でもそうであるが),「背景説明→引用1→論評1→引用2→論評2→結論」のように,論旨展開上必然性のある引用でなければならない。これは,論評の対象が動画であっても同じであると考えられる。
アップロードする者と,論評する者が別の場合,批評のための引用にはなりえない。共同不法行為というのはあるが,個々の行為は違法だが,共同で正当な行為に転化するというのは考えられない。
結論としては,テレビ番組の批評者自身が,当該テレビ番組のうち,批評文の流れからして必要な引用部分をウェブなどにアップロードするのは適法であるが,他者によるテレビ番組批評において用いられることを想定して,テレビ番組などの一部をウェブなどにアップロードするのは,非常に違法性の高い行為だといえるだろう。
(4) ウェブログとは,主に他のウェブ上の記事へのリンクと,それに関する自分の解説とを綴ることによって,時事問題などについて迅速に論評していく,主にウェブページを用いた表現形式をいう。6.5.1でもウェブログについて論じる
(5) 上野良樹,「リンクと著作権について」,http://murasame_toppa.tripod.co.jp/Copyright.htm ('02年7月9日存在確認)
(6) 原画の載ったときの判型と引用した書籍の判型とが異なっていた。このため,レイアウトを変えずに縮小して掲載すると小さくなりすぎると引用者が判断して,レイアウトを変えたものと思われる
(7) 氏名不詳(webmaster@faireal.net),「『脱ゴーマニズム』裁判」,http://www.faireal.net/tmp/2002/gooman#dai3 ('02年7月9日存在確認)
(8) 福田秀和「インタ−ネット・サバイバル」,日本評論社,'01年5月刊
(9) 輝,「「奇跡の詩人」とバリアフリー社会」,http://members.tripod.co.jp/YaYa/kiseki.htm ('02年7月9日存在確認)
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(c) Kiyoshi_NAKANO, OSAKA-CU, 2003