部落解放同盟(組坂繁之委員長)などでつくる「部落解放・人権政策確立要求中央実行委員会」は30日、 東京都内で集会を開き、政府が再提出を予定している人権擁護法案を抜本修正して今国会で成立させるよう与野党に働き掛ける方針を確認した。
人権擁護委員の選任要件から国籍条項を撤廃することに自民党内で強い異論が出ていることを念頭に、 組坂委員長は「法案をつぶそうとしている勢力とは断固として闘う」と述べた。集会では「人権は国籍を問わずすべての人に認められており、国籍条項を設定する必要はない」との意見で一致した。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050331k0000m040133000c.html
人権擁護委員の選任要件から国籍条項を撤廃することに自民党内で強い異論が出ていることを念頭に、 組坂委員長は「法案をつぶそうとしている勢力とは断固として闘う」と述べた。集会では「人権は国籍を問わずすべての人に認められており、国籍条項を設定する必要はない」との意見で一致した。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050331k0000m040133000c.html
人権利権に必死。
参考
TBS筑紫キャスター「屠殺場」発言事件
(出典)山中央『新・差別用語』汐文社1992年
89年10月2日,TBSテレビ『筑紫哲也のニュース23』で,キャスターの筑紫哲也氏が対談の中で
「屠殺場」ということばを使い,東京や横浜の屠場労組から一年にわたり,激しく糾弾された。
「ニュース23」は,テレビ朝日の「ニュースステーション」に対抗して「報道のTBS」が朝日新聞の
花形記者筑紫氏をキャスターに起用して話題を呼んだ番組だったが,好事魔が多し,初日からトラブルに
巻き込まれてしまった。
10月2日夜の放送でビートたけしとの対談コーナーでコロンビアの麻薬問題を取り上げた際,
次のようなやりとりがあった。
たけし「全部コロンビアに移住させたらどうですかね。麻薬で捕まった奴は,コロンビアに強制的に送ると。
結局は,だけども,あれはなくなりませんよ。あんな取り締まりしたって,全部死刑にするわけ,
いかないんだから。そうしたらもうブツの値段を吊り上げるしかないですよ」
筑紫「今吊り上げたら,ニューヨークの街も多分屠殺場だね。今ブッシュが見せたクラックってのは
安いでしょ。安いからまあ,普通の人が,多少人を驚かすくらいで買えるわけ。けど,たけしさんのように
カネを高くしたら,そのカネ得るために,五番街で殺し合いやるでしょうね」
番組の後「不穏当」発言に気付いたTBSは,翌日10月3日夜の放送で,筑紫キャスターが「今,岩見さんが
『政治家はことばを大事にすべきだ』といわれましたが,実は私自身が昨日の放送で過ちを犯しました。
昨日の放送でビートたけしさんと麻薬戦争の話をしたときに『麻薬の値段が上がったら,ニューヨークの街が
屠殺場になる』という発言を私がいたしましたが,アメリカの話とはいえ,屠場に対する偏見と差別のある
日本では極めて不適当な表現でした。ここに深くお詫びを申し上げます」と釈明した。
通常の「不規則発言」のケースでは,「何が,どう問題なのか」に触れないまま,「番組で不適当な
発言がありました。お詫び申し上げます」と通りいっぺんの謝罪放送を行い,あとで解同などから,
「不十分である」として追及されるケースは多いが,このケースでは,事実と問題点を明らかにして
謝罪したのだが,これでも治まらなかった。
10月5日と6日の両日,東京都中央卸売市場や横浜市食肉市場の関係者と全芝浦屠場労組,全横浜
屠場労組の各代表者十数人がTBSを訪れ,VTRテープを見た後,「重大な差別発言である」として
TBSへ抗議した。
屠場労組には解同関係者も役員に名を連ねているが,TBSのお詫び放送は不十分であるとして,
前後九回にわたる大型の「確認糾弾会」を開き,筑紫キャスターらを吊るし上げた。
第一回大衆糾弾会は,89年11月22日両労組員ら二〇〇人が参加してJR品川駅前の芝浦食肉市場で
開かれた。
席上,筑紫氏が差別の意図はなかった旨釈明したが,参加者からは,激しい罵声や怒号が浴びせられた。
糾弾は午後いっぱい,四時間にわたって続けられた。まさに長時間の「拷問会」であった。
以後,糾弾会は12月13日,90年1月10日など,90年8月1日まで,毎月一回,計九回開かれた。
四,五回までは第一回同様,「人格が破壊されかねない」ほどの激しい糾弾会となった。
あるときは「差別とは何か,いってみろ」といわれ,あまりにも漠然とした問いに戸惑っていると,
「なぜ黙っているんだ。いえないのか」とやられ,考えがまとまらずに何かをいうと,次から次へと
揚げ足とりで突っ込まれる。何をいっても吊るし上げられる,一時の過激派学生の大衆団交と同じだったという。
特に筑紫氏が,差別される側に立った良心派ジャーナリストとしての自負から「発言の責任は自分がとる」と
毎回出席し,「私の場合,差別意識からではなく『偏見』だった」などあれこれ発言したのに対して,
「バカヤロー」などのヤジや脅迫的発言が浴びせられた。
テレビの花形キャスターが,顔面蒼白になって立往生するのを見て痛快に思ったのか,糾弾会は毎回
100人〜200人の参加者を集めた。都や横浜市の関係者も毎回立ち会っていた。
TBS側は,90年9月27日の『ニュース23』で,同番組の一年の回顧特集として「いま改めて
マスコミを考える」を放送した。評論家の大宅映子,天野祐吉両氏とマスコミとキャスターの立場を
話し合った際,問題点をいくつか指摘した中で筑紫キャスターが自らの屠場差別語事件に触れ,「深く
反省している」と関係者にお詫びした。
この後,90年11月,TBSから,「筑紫発言は,屠殺場を『残酷で非常な流血の場』という意味で使った
ものです。この発言が屠場関係者の人権と職業的な誇りを傷つけただけでなく,テレビで放送したことに
よって,屠場に対する社会的な差別を拡大・助長する結果となった責任を,確認集会と屠場見学を体験した今,
より一層痛感しています」というお詫び文書を提出し,事件は一応決着した。
よく,解同関係者は「糾弾は教育の場」というが,筑紫糾弾会は拷問に等しい。屠場労組は,解同ですら
「いうことを聞かない」とサジを投げた形になっているが,ここではかつての解同の糾弾スタイルが過激な
形で残っている。
TBS筑紫キャスター「屠殺場」発言事件
(出典)山中央『新・差別用語』汐文社1992年
89年10月2日,TBSテレビ『筑紫哲也のニュース23』で,キャスターの筑紫哲也氏が対談の中で
「屠殺場」ということばを使い,東京や横浜の屠場労組から一年にわたり,激しく糾弾された。
「ニュース23」は,テレビ朝日の「ニュースステーション」に対抗して「報道のTBS」が朝日新聞の
花形記者筑紫氏をキャスターに起用して話題を呼んだ番組だったが,好事魔が多し,初日からトラブルに
巻き込まれてしまった。
10月2日夜の放送でビートたけしとの対談コーナーでコロンビアの麻薬問題を取り上げた際,
次のようなやりとりがあった。
たけし「全部コロンビアに移住させたらどうですかね。麻薬で捕まった奴は,コロンビアに強制的に送ると。
結局は,だけども,あれはなくなりませんよ。あんな取り締まりしたって,全部死刑にするわけ,
いかないんだから。そうしたらもうブツの値段を吊り上げるしかないですよ」
筑紫「今吊り上げたら,ニューヨークの街も多分屠殺場だね。今ブッシュが見せたクラックってのは
安いでしょ。安いからまあ,普通の人が,多少人を驚かすくらいで買えるわけ。けど,たけしさんのように
カネを高くしたら,そのカネ得るために,五番街で殺し合いやるでしょうね」
番組の後「不穏当」発言に気付いたTBSは,翌日10月3日夜の放送で,筑紫キャスターが「今,岩見さんが
『政治家はことばを大事にすべきだ』といわれましたが,実は私自身が昨日の放送で過ちを犯しました。
昨日の放送でビートたけしさんと麻薬戦争の話をしたときに『麻薬の値段が上がったら,ニューヨークの街が
屠殺場になる』という発言を私がいたしましたが,アメリカの話とはいえ,屠場に対する偏見と差別のある
日本では極めて不適当な表現でした。ここに深くお詫びを申し上げます」と釈明した。
通常の「不規則発言」のケースでは,「何が,どう問題なのか」に触れないまま,「番組で不適当な
発言がありました。お詫び申し上げます」と通りいっぺんの謝罪放送を行い,あとで解同などから,
「不十分である」として追及されるケースは多いが,このケースでは,事実と問題点を明らかにして
謝罪したのだが,これでも治まらなかった。
10月5日と6日の両日,東京都中央卸売市場や横浜市食肉市場の関係者と全芝浦屠場労組,全横浜
屠場労組の各代表者十数人がTBSを訪れ,VTRテープを見た後,「重大な差別発言である」として
TBSへ抗議した。
屠場労組には解同関係者も役員に名を連ねているが,TBSのお詫び放送は不十分であるとして,
前後九回にわたる大型の「確認糾弾会」を開き,筑紫キャスターらを吊るし上げた。
第一回大衆糾弾会は,89年11月22日両労組員ら二〇〇人が参加してJR品川駅前の芝浦食肉市場で
開かれた。
席上,筑紫氏が差別の意図はなかった旨釈明したが,参加者からは,激しい罵声や怒号が浴びせられた。
糾弾は午後いっぱい,四時間にわたって続けられた。まさに長時間の「拷問会」であった。
以後,糾弾会は12月13日,90年1月10日など,90年8月1日まで,毎月一回,計九回開かれた。
四,五回までは第一回同様,「人格が破壊されかねない」ほどの激しい糾弾会となった。
あるときは「差別とは何か,いってみろ」といわれ,あまりにも漠然とした問いに戸惑っていると,
「なぜ黙っているんだ。いえないのか」とやられ,考えがまとまらずに何かをいうと,次から次へと
揚げ足とりで突っ込まれる。何をいっても吊るし上げられる,一時の過激派学生の大衆団交と同じだったという。
特に筑紫氏が,差別される側に立った良心派ジャーナリストとしての自負から「発言の責任は自分がとる」と
毎回出席し,「私の場合,差別意識からではなく『偏見』だった」などあれこれ発言したのに対して,
「バカヤロー」などのヤジや脅迫的発言が浴びせられた。
テレビの花形キャスターが,顔面蒼白になって立往生するのを見て痛快に思ったのか,糾弾会は毎回
100人〜200人の参加者を集めた。都や横浜市の関係者も毎回立ち会っていた。
TBS側は,90年9月27日の『ニュース23』で,同番組の一年の回顧特集として「いま改めて
マスコミを考える」を放送した。評論家の大宅映子,天野祐吉両氏とマスコミとキャスターの立場を
話し合った際,問題点をいくつか指摘した中で筑紫キャスターが自らの屠場差別語事件に触れ,「深く
反省している」と関係者にお詫びした。
この後,90年11月,TBSから,「筑紫発言は,屠殺場を『残酷で非常な流血の場』という意味で使った
ものです。この発言が屠場関係者の人権と職業的な誇りを傷つけただけでなく,テレビで放送したことに
よって,屠場に対する社会的な差別を拡大・助長する結果となった責任を,確認集会と屠場見学を体験した今,
より一層痛感しています」というお詫び文書を提出し,事件は一応決着した。
よく,解同関係者は「糾弾は教育の場」というが,筑紫糾弾会は拷問に等しい。屠場労組は,解同ですら
「いうことを聞かない」とサジを投げた形になっているが,ここではかつての解同の糾弾スタイルが過激な
形で残っている。