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2008年06月09日(月)

栄光への架け橋~塚原直也~

テーマ:Olympic Games

4年前の夏のとある朝。太平洋の島国に遠くギリシャのアテネから一陣の風が吹きこんだ。
それは名実況という名の美しいフレーズを乗せて熱風となり、一瞬にしてその国を歓喜の渦に巻き込む。
そう。体操ニッポンの復活、28年の時を超えたドラマを運んできたあの風である。

↓アテネオリンピック 体操男子団体 金メダル↓


日本時間2004年8月17日午前5時39分。
E難度の降り技、日本人が生み出し美しいニッポンの体操の象徴とも言える伸身の新月面の着地を

エース冨田洋之が決めたその瞬間から僕は溢れる涙をこらえられなくなっていた。
そしてその涙が落ちないようにまばたきもせず画面の中のただ一人の男を見ていたのを憶えている。


塚原直也
日本体操界の無残なまでの低迷期をエースとして苦しみながら支えてきた選手だ。


あのアテネで頂点に返り咲くまで日本体操界は長らく不振に喘いでいた。
バルセロナでの団体銅メダル後、アトランタでは10位という歴史的な惨敗

世界は遥か遠くにかすんでいく。

立ち直るためには何か、劇的な何かが必要だった。


塚原が頭角を現してきたのはそんな時だった。

父は世界に名だたる体操選手、塚原光男。母もオリンピックの元体操選手。

劇的な何か、には申し分ない選手だった。


塚原もそれに応えるように96年から全日本選手権を5連覇、世界選手権個人総合で二度、表彰台に

登るなど孤軍奮闘し、エースとしてシドニーでは個人でのメダルを期待されるまでに成長した。


大きな期待を背に望んだ二度目のオリンピック。

だが・・オリンピックの女神は塚原を頂点から引きずり落とす。

個人総合のあん馬と種目別鉄棒で信じられない落下。
個人総合では18位という受け入れられない現実だけが残った。


「重圧に弱い男」 「ノミの心臓を持つ男」

その後の無責任な外野の揶揄はとどまることをしらなかった。
さらにそんな冷たい視線に晒された塚原に追い討ちをかけるように精神的支柱であった

アンドリアノフコーチが契約切れで彼のもとを去っていってしまう。


それからの塚原は転げるように悪夢の螺旋に引きずり込まれていった。

目を覆うばかりの不調。かつてエースとしてお家芸を引っ張ってきた男の輝きは欠片もない。


塚原は終わった。。
「あいつが輝きを放つことはもうないな・・」
そう思った人も多いだろう。

一度地に落ちたエースが復活するケースが稀であることを誰もが知っていたから。


しかし塚原は2003年のNHK杯で劇的な復活を遂げる。

その3年の間に何があったのかもちろん僕は知らない。
たった一人で日の丸を背負ってきた重圧から解き放たれたのか。
常に父と比べられるジレンマを吹っ切ったのか。
とにかく想像を絶する葛藤があっただろう。
そしてそれを克服し彼はオリンピックの桧舞台に帰ってきたのだ。
今度はエースとしてではなく若手を支える頼もしいベテランとして。



そんな彼を見てきた日本中の体操ファンの思いはひとつ。
なんとか塚原にオリンピックの金メダルを!


そしてあの日、8月17日。その願いが叶った。
気がつけばもう彼は一人で日本を背負う必要はなかったのだ。
だって彼の周りには世界一頼もしい仲間達がいたから。


遅れてきた天才米田功

冷静沈着のオールラウンダー冨田洋之

美しい体操で観客を酔わせる鹿島丈博

大怪我を乗り越えてきた不屈の男水鳥寿思

シンデレラボーイ中野大輔


そして彼らをサポートした補欠の選手やコーチ、そして全ての裏方さんたち。

みんなが一丸となって日の丸を背負いそして頂点に立った。



表彰式の時、アナウンサーの刈屋さんがふともらした言葉がある。

塚原選手に金メダルをかけてあげたかったんです


おそらく全てのコアな体操ファンの心を代弁した言葉だったと思う。それは

伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ!

というあのフレーズよりも心に静かに、そして深く響く言葉。
塚原の辛い時期を知っている誰もがその思いを共有できただろう。



そして今ふと思う。

栄光への架け橋、それは低迷期を支え続けた塚原自身だったんじゃないか、と。


↓ゆずの歌にのせて 28年ぶりの王者奪還 男子体操 アテネ↓