トリノのしあわせごはん (22)

「秋のイタリア食材を探る旅〜豚の屠殺〜」

フードライター 宮本さやか


 200キロはあるであろう大きな身体に不釣合いな細くて小さな尻尾をパタパタさせながら出てきた彼女は、ご主人様やいつもの親しいメンバーに会釈をしてから、フワ〜っと大あくびを一つ。すると突然いつもの親しいメンバーの一人が、冷たい何かを押し付けたかと思うと、額に激痛が走った。
 
 11月の、冬がいっぺんにやってきたような寒さのある日、私はictの秋のイタリア食材を探る旅の一環として行われている豚の屠殺見学に参加した。ローマ郊外の小さな村の、そのまたはずれの小さな農家でその日屠殺された豚は体重約240キロ、4回出産をすませた4歳の雌豚だった。屠殺のシーンから見るのは当然全員が始めての見学参加者たちは緊張と寒さに顔をこわばらせ、農家の前庭に集合した。
 「豚に緊張やストレスを与えると肉の質が落ちるので静かにして」。屠殺の主なメンバーであるマチェライオ(肉屋)氏と獣医氏からの注意に、さらに緊張が走る。静かに豚舎前に移動。のんびりと姿をあらわした豚の額にあっという間にピストルで釘が撃たれたが、今回に限って急所をはずしてしまうというアクシデントが起こる。痛い思いをだけをして死ねなかった豚は、びっくりして豚舎の奥に引っ込んでしまった。それを無理やり引きずり出そうとするものだから怒り、抗議の泣き声をあげる豚。男たちと200キロを超える巨体の暴れ回る音。しかし1分も経たないうちに再びバン、というピストルの音とともに倒れた豚が引きずり出されてきた。まだ息はあって暴れる彼女の足をロープで縛るのに少し苦労はしたものの、トラクターに後ろ足で吊り下げられ、首をナイフで掻き切られ、動かない肉の塊と彼女が化してしまうのに何分もかからなかった。
 豚の血が、まるで蛇口から流れ出る水道の水のようにバケツの中に落ちる。それと同時にデンとしていた豚の胸からお腹にかけてギューッとへこんでいったのが印象的だった。きれいに血を絞り取ったら作業台へ豚を移す。もちろんこの血も後でサラミにしたり、料理したりして無駄にはしない。
 前庭に急ごしらえされたような作業台の上で、まず豚の毛をそぎ取る仕事が始まった。熱湯をかけながら、ナイフでていねいに豚の身体をこそげていくと、泥で薄汚れたよたような豚の身体が淡いピンク色になっていく。ああ、豚って本当にピンク色なのね、とつぶやく女性参加者の声。熱湯をかけるのは強い毛をとりやすくするためだそうだ。耳や顔の周りはバーナーで毛を焼きとる。目じりと口角がぐっと下がった豚の死顔は、いかにも嫌な表情だ。農家の子犬がやってきて、地面に落ちた豚の皮をクンクンとかいでは食べている。食物連鎖という言葉が頭に浮かぶ。豚は肉食じゃないから関係ないのかな、でもこんなに身体が大きいのに、こんな子犬に食べられるなんて変だ。豚は家畜として、犬はペットとして人間が勝手に彼らの生き方を変えたんだもんなあ、なんて考えていると毛をとる作業は終了した。ここまでで約1時間。工場生産レベルでは、当然こんなに時間をかけてはいられない。死んだ豚を熱湯の入った大きなプールに入れ、プールの底面についている電動の刃が回転して毛をこそげとる、そういうシステムになっているそうだ。この方法だと肉が水を吸ってしまうので、多少肉の味が落ちる。「手作り」が尊重され値段がはるのは、要するにこういうことなのだ。
 毛をきれいにとられた豚にいよいよナイフが入る。再度後ろ足を縛って吊り下げ、内臓を取り出す。腸の量がものすごい。これは生前よく食べていただろうなあ、と感心。内臓を取り除いたら作業台にもどし、あとは部位別に切り取っていく。ここがパンチェッタ、ここがラルド、この部分からカポ・コッロというサラミを作るんだ、とマチェライオが説明しながらカットしていく。ほんの1時間ぐらい前にはまだのんびり歩いていたのに、今ではただの肉片だ。
 豚を「おろす」作業がすべて終了したら、肉屋へ移動して、サラミはどう作られるかなど、豚肉製品の見学。そして試食。来る前には、屠殺の現場なんか見たらしばらく肉はだめだろうなあ、なんて想像していたが、自分はそんなにデリケートではないことを再確認。好奇心と食欲のほうが俄然強いのだった。
 最初に搾った血をタマネギと炒めたサングイナッチョは、レバー炒めのようでおいしく、何の抵抗もない。サラミもプロシュートも、ロースとも、すべて豚を使った料理だがとてもおいしかった。
 
 あの日から、サラミやプロシュートを食べるたびに、ああ、これはあそこから作るんだよね、と切り裂かれる豚の死体が目に浮かび、ちょっとしたプロの気分。そして、豚に限らず食べ物を残すことに異常に抵抗を感じるようになった。だって、彼らはゴミ箱に捨てられるために死んだんじゃない、おいしく食べてもらってこそ成仏できるというものなんだから。あれから1ヶ月、スカートのホックが心持きつくなったのは気のせいではない。



プロフィール
宮本さやか・みやもとさやか
東京でのフードコーディネイター兼フードライターという生活を捨て、5年前、トリノの外国人向けイタリア料理学校に短期留学。そのままトリノに住み着く。現在はフットワークの軽さとイタリア在住を強みに、現地からならではの記事を日本の雑誌に送っている。著書に『魔法の料理』(マガジンハウス刊)『ピエモンテのしあわせごはん』(メディアファクトリー)がある。
メイルアドレスは sayaka.mh@tiscali.it
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