『天空のローレライ』 子供の頃に見上げた澄んだ空色に淡いラベンダーの絵の具を一滴落としたような、 静かに目蓋を開くと暗闇のヴェールに要請の宝石箱からこぼれたビーズを散りばめた夜空が広がっておりました。 エルフは遠い星々に向かい歌をお贈りになったのでございます。 彼の歌声は透き通り、星の間を切り裂いて飛び立ちました。 それは優しく儚く時に狂ったように鋭かったのでございます。 「こんばんは。」 可憐さの中に狂気をはらんだ歌声に魅せられて、一人のドラキュラがエルフの元に御出でになりました。 漆黒の森に流れる風のようにさらさらの黒髪を夜になびかせながら。 「何を歌っているのかね。」 エルフは歌うことをやめ微笑みました。 その微笑みはエルフの美しさを際立たせ、純粋なほどに残忍な光をその瞳にたたえておりました。 「あなたは?」 「ん、わしか?わしはD。ヴァンパイアだよ。皆にはD伯爵って呼ばれおる。」 D伯爵は夜を吸収した翼を羽ばたかせました。 「私はエルフ。生前の記憶は失いました。」 寂しく微笑むエルフにD伯爵が手を差し伸べました。 エルフが滑らかな指先をD伯爵のそれに絡めました。 二人が夜空に舞い上がります。 エルフのアルビノに近いブロンドの髪が星の光を浸透させ、淡く輝いでおりました。 「行くとこがないならわしの屋敷に来なさい。孤独のうちに暮らしておるのだから。」 町外れの古い洋館に向かってD伯爵は翼を動かしました。 D伯爵の洋館は、大きな赤錆に包まれた門があり、名前の分からない雑草が覆い茂っていました。 赤レンガの壁には亀裂が走り、朽ち果てるときを静かに待っているようでありました。 エルフとD伯爵が中に入ると色が変わってしまった名画が飾られておりました。 古いアンティークの家具に銀の燭台がうやうやしく沈黙を保っていたのでございます。 「客間、掃除しておらんかったな。」 エルフを連れ螺旋階段を上りました。 客間には彫刻品と共に、埃を被ったベッドが置かれておりました。 それは月が明るくたいそう星の綺麗な日の夜のことでした。 D伯爵は星を映した窓から美しい歌声を聴いたのでありました。 夜空が、星星が、その歌声のためにだけ優しく鋭く輝いているかのような錯覚さえ覚えました。 歌声を辿ってゆくと月の光を吸い込んだ髪を持った青年に出会ったのであります。 さてその青年こそが今こうしてD伯爵の古びた洋館の一室にいる青年なのです。 青年はエルフと名乗りましたが本名とは違うように思えました。 灰色の埃はD伯爵によって取り除かれておりました。 エルフとD伯爵は古い金色の赤いクッションが取り付けられた椅子に腰掛け、向かい合っておりました。 「宿を貸して下さったお礼に一つの物語をお聞かせいたしましょう。」 エルフが声をつむぎ、D伯爵に物語を語り始めました。
昔々の王国にたいそう綺麗な皇女様がおりました。 皇女様の肌は透き通る真珠ように白く、髪は金のガラスで編んだように滑らかでした。 唇は珊瑚のように艶やかで、瞳は輝くブルーサファイヤのよう。 しなやかな手足は皇女様の美しさをいっそう際立たせておりました。 人々は口々に皇女様の美しさを褒め称えました。 外見だけの美しさを。 月日は残酷に皇女様から外見の美しさを奪っていきました。 真珠のようであった肌にしみと皺を作り、髪は色艶を失い色あせていきました。 皇女様はご自分の美しさを保つことに必死でした。 しかし、外見の美しさは保つことができませんでした。 皇女様は彼女の外面の美しさが損なわれていくことに我慢がなりませんでした。 そしてたいして美しくもない、若いだけがとりえのメイド達に嫉妬なさいました。 なぜならメイドたちの若い肌はしわもしみもなく、年を重ねた皇女様よりも滑らかだったからです。 ある日、一人のメイドが皇女様の髪に櫛を当てている時に、 皇女様はお怒りになり、メイドの手をお打ちになりました。 ひび割れた皇女様の爪がメイドの肌を傷つけてしまいました。 彼女のてらてらと流れる血が皇女様の肌に触れた時、皇女様は気が付きました。 赤い林檎のような血が皇女様の肌をみずみずしく、滑るように美しくしていることに。 皇女様は月の色のナイフをメイドに振り下ろしました。 オペラのようにメイドが歌い、皇女様は薔薇の真っ赤なシャワーをお浴びになりました。 それからというもの、皇女様は若く美しい娘達を城に呼ぶようになりました。 娘達は皇女様のために可憐なその命を捧げました。 皇女様は毎夜乙女の紅いお風呂にお浸かりになられました。 若い娘達の涙と引き換えに皇女様は美しさを取り戻しました。 象牙のような肌を取り戻しになられました。 月のような髪を取り戻しになられました。 珊瑚のような唇を取り戻しになられました。 深い海のような瞳を取り戻しになられました。 皇女様は美しくなられたのです。 ご自分の幸福のために乙女を不幸に貶めながら。
D伯爵がお尋ねになられました。 「それで皇女はどうなったのだ。」 「彼女は晩年裁判にかけられ、高い塔に幽閉されました。孤独に死んだと聞いております。」 夜の流れるような風が温かな空気をさらっていきます。 ため息を吐くようにエルフが言いました。 「幸福だから狂ったのでしょうね。」 「おかしいではないか。幸福ならば何故狂うのだ。」 「満たされすぎていて、少しの不幸が狂気への引き金へとなってしまうのではないでしょうか。」 「ならばそれは不幸だ。不幸であるから皇女は狂ったのだ。」 「幸福と不幸の定義は難しいのです。これは昔のお話ではなく、現代の寓話なのです。」 夜空を旅する雲が寂しげに微笑んでおりました。 「傍目には幸福に見えるけれど、心の中は不幸に食い尽くされていたのです。 D伯爵は窓の外にある夜を見つめました。 遠く離れた星空の元に人間が暮らす街があるのです。 街を覆う人工の醜い星を思い出し、D伯爵は悲しくなりました。 夜を可憐に淡く飾る天の星を街の明かりが隠してしまっていたからです。 「本当の幸福とは星のようなものなのでしょう。」 エルフが哀しい顔をなさっているD伯爵に言葉をかけました。 「創り出された幸福は偽りなのです。幸福とは創るものではないのです。」 D伯爵は黙って頷きました。 月が優しく二人を見守っておられました。
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