中日新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社説・コラム > 編集局デスク一覧 > 記事

ここから本文

【編集局デスク】

敗者の笑顔

2008年5月10日

 笑みさえ浮かんでいる。夢が砕け散った敗者とは思えない。畳に転がったまま天井を仰ぐ顔は、晴れ晴れとしていた。

 全日本柔道選手権の準々決勝。十八番の内またで勝負に出た井上康生(こうせい)選手は、逆に抑え込まれ、北京五輪への道を断たれた。

 4年前のアテネ五輪を思い出す。井上選手は同じように大の字に倒れていた。だが、この時の彼は身じろぎもせず、うつろな目には何も映っていなかった。現地の取材団長だった私には忘れられないシーンだ。

 日本選手の金メダルラッシュに沸いたアテネ。中でも「金に最も近い男」と呼ばれたのが、シドニーに続いて連覇に挑む彼だった。それが、4回戦で畳にたたきつけられたのだ。

 しかし、彼は「実力がなかったということです」とだけ語り、言い訳は一つも口にせず、悪びれた様子もみじんも見せなかった。

 その後も彼は、選手団の主将として仲間の声援に駆け回った。激励会にも金メダリストたちと一緒に堂々と顔を出し、気遣う周囲を逆に和ませ、記念写真ににこやかに応じていた。

 そんな姿に間近に接して胸が熱くなった私は当時、コラムに書いた。

 「敗れたときにこそ、人は真価を問われる。彼の振る舞いは、間違いなく世界王者のそれだった」

 再起は、いばらの道だった。大けがと闘い、失意に幾度も涙を流した。それでも、一本勝ちを狙う「美しい柔道」を貫き通した。

 「わが柔道人生に悔いなし」。引退会見で彼はそう言い切った。だからこそ、雪辱の夢がついえた瞬間もさわやかな笑顔で迎えることができたのだろう。

 勝ち続ける人生などありはしない。勝利より敗北の方がきっと多い。敗北に学び、立ち上がるしかない。井上選手の笑顔がそれを教えてくれる。もう一度言おう。「君は世界王者だ」

 (名古屋本社編集局長・加藤 幹敏)

 

この記事を印刷する

広告