The Edge of the Cloud
「雲のはて」。K.M.ペイトン。私の一番好きな本。
|
2008.06.03 Tuesday
さよならのとき。
グイド・グレコは第二のランチアだと私は思います。
久しぶりに安室ちゃん聞いた。いいね・・・なんだろ。あれはフーバスタンク?を、きいたときの感動に近い感じ。 わたしとフーバスタンクの出会いは運命でした。いや、運命ってほどでもない。ザリーズンというタイトルの歌を見ただけです。 続き本編の内容が含まれちゃいます。
続きを読む >>
comments(2) . -
2008.06.02 Monday
無気力な日々。
今日SAIダウンロードしやした。なんだあの描きやすさ。ちょっとびっくりしました。
いろんなことがあるなぁ、と感じます。 最近わくわく感が足りない。多分、私生活に足りない。でものっぺりやっていきたいなぁなんて、思う。 既存連載が全然のらない。オールは、わたしが自分を自由にするためそのに道程を書くがごときお話なので、ちょっと特殊ですし・・・。かと言って無限回廊!なんじゃありゃ!なんか悔しいです。 ネット上って、いろんなひとがいるなと思います。案外の類似性に支配された狭い世界とか勝手に思ってましたが、とんでもない(笑)!最近意識し始めたのは、マイナー需要というやつです。声が小さいひとの気持ちももう少し聞きたい。 わたし、結構blogに意見書きまくるくせに、人には意見って送ったことありません。匿名で意見は送れないひとなんで、自分の名でしか言いたくないんですが、案外いざご本人にっていうと言う気分にならないんですよ。その時点で、自分って案外無関心なのかなぁと強く感じます。 ご意見をくださるかたは勇者だと思います。私は。そんなわけで。 学校がかったるい。どうした、レベッカ! わたしのしていることは間違っている?わたしの信じていることは間違っている? そのたびに言い聞かす。何かを信じることで自分を支えようとする自分が弱いんだと。 comments(0) . -
2008.06.01 Sunday
今はちょっと寒い。
今日、縞嬢の日記を読んでいきなり思い付いていってきました。ミルフィオーレ企画。
なんも知らずに行ったが、メインは縞とはなしているうちに決まりました。レベッカ五年越しのファンさせていただいている、ココさまにあいにいくこと!感動してあったときいっきにテンション上がっちゃったんですが、やばい。ほんとやばい!握手頼んでしまった・・・すいません、あ、あつかましいぃいいい。でもほんと嬉しい。ほくほく顔で読む、同人誌。会えてうれしい・・・もっとお話したかった・・・!すいません、騒いで。いや、もうほんとうに嬉しかった。大ファンのひとに会うって、こんなにうれしいことなんですね。 ミルフィオーレオンリー、とても空気があったかかったです。 そのあと縞と語りまくりました。いや、相変わらずのテンションでした。話が出来て、良かった。ああ、わたしこういうこと言いたかったのかな、と思った。それが正しいかは・・・ちょっと西尾維新を罵倒しすぎたかもしれないけど、実際彼女のようなファンと話して、はじめて彼の『魅力』を納得したような気がします。 別に、熱烈にアピールしなくても、必死でたたみかけなくても、彼女のようなスタンスもあるんだなぁと。ちゃんと、素直にものが伝わる。何かを、きちんと伝えるための言葉。たたみかけて、言葉量でなんとなく形をつくる私とは違う、感じです。ああいうセカイが好きです。 帰ったら、まぁいろいろ、いろいろやりますよ。 わたしCPのが好きなのかな(笑)。多少独自性が盛り込まれていても、CPを読むと、リボーンって感じがするんです。 独自性が嫌いなわけではないんですが、オリジナリティと銘をうってあからさまになんかのパクりだったりとか、他の色物キャラをリボーンキャラに上塗りするようなのはやっぱやですね。いや、それあなたのオリジナルじゃないから。そこは結構大事なことです。日本はレプリカ天国だからひともそーいうのに疎そうですが。だけど独自性という言葉の持つ意味を勝手に変えたら、言葉なんてなにもかもがどうでもよくなってしまう。 二番煎じ的なものが売れているのを本屋で見かけるたび、ああ、ひとは結局過去を越えないかもしれないと思う。それを書く人も、それを選ぶ人も。わたしもまた今のままぐにゃぐにゃ薄くいるより、出来合いな型にしっかりはめこむべきなのかもしれないと思った。でもそれはまるで、わたしではなくその『型』が人をひきつけ夢中にさせているような気がして、なんだかむなしかった。それでも、何番煎じでも、多くのひとがそれを求めてお金を払うのに。 しょぼくてもつまらなくてもいいよ。たとえ最終的に何かに似ていても。作ってくれ。安易に何かを上塗りして、オリジナリティと称する世界が私は許せない。「才能」と称するならそれは既に才能への冒涜だ。軽々しく使われてやる「才能」。まるで、無理矢理服を脱がされて露出させられてるみたいに、見える。 CPのほうが、わたしはより『そのひとのせかい』を見られる気がします。えっと、自分も例外ではないんです。もちろん、みんな天野先生のお力がなければなりたたないのだとして。アンソロジーというものは、わたしはとても好きです。 人には好き嫌いがあって、それはとても大事なことだ。だけど、同じものを大事に思って、尊敬して、それを形にするひとは、私はみな友人になりたいと『一方では』感じるし・・・一種のその気概はなくしたくない。ずっと。だから追放はしたくない。その意気で。 ファンやらなくちゃ。それはなかなかに強い意志が必要なことなんです、すぐに折れたくなる。誰かに頼まれてやってるわけではないし、折れていいんだけどね(笑)。とっととくたばれ自分みたいな。 でも、オンリーの雰囲気すきだなぁ。きもいこと言ってすいません。でも、ああ、ファンでうれしいなってちょっと思うよ。 同人誌もいきすぎるとあれなのかもしれませんけどね・・・。 comments(0) . -
2008.06.01 Sunday
やっぱ西村さんすきですわー。
拍手を総入れ替えしたいんですよね・・・もうすぐ一年だし。
今、ちょこちょこ連載各話の四コマ描いてるんで、それをば、と思ってます。 ただ、一応ビジュアルは描くんですけど、私がつくるビジュアルというのは大抵ちょっとはずれてるので、このビジュアルがすべて、というんではなくて、あくまでわたしこういうふうに描いたかなー、ぐらいで。ついでに四コマも土壇場でやめるかもしれません(笑)、ただ、景気づけとかつなぎにいれるのも悪くないかなと。 フォトショマスターしたいです。 comments(0) . -
2008.05.31 Saturday
やっぱり十二巻が好き。
雨!
明日うちの学校さんは、年に一番盛り上がる、かもしれない某なんちゃら大さんとの試合らしいんですよ、野球。どうなんかな。延期?来年は行こうと思います。今年は出そびれました。「行く?」って聞かれ「行かないです」って言ったら、「一回はいっとけ」、と言われました。教授に。すいません、連帯感低くて。でも一回は行きたいです。 本をはば広くいっぱい読むべきか、読みたい本をひたすら読むべきか迷って、レベッカ、決意しました。後者を取ります。なんか狭い人間にやりそうでいやだとおもったんだけど、ここは腹をくくります。やるべきことを、少しずつ、考えるようになった。絶対に正しい解決策はないけど。ゆえに名作を平気で読んでなかったりするかもしれませんが。いい、いつか読む。それは今じゃなくてもいい。 続き「恋空」。
続きを読む >>
comments(0) . -
2008.05.30 Friday
言って、一体何になる。わかっている。それでも。
日本の小説家の言うことがあまりに話にならないと感じてしまう理由は、それが感性から発せられた言葉だからなんだろうなと最近感じる。
批判はただの感想文、その感想には骨がない、利己的で自分勝手な『意見』ばっかり押し付けるのは正直やめていただきたいです、ついでに編集者、腰抜け。くたばれ今すぐ。 ・・・(笑)、つけるべきかな、全文の末尾に。 遺跡の授業とってるんですけど、何で遺跡ってのこさなきゃいけないのか私はさっぱりわからなかったんですね。いや、もうさっぱり。特に日本とか、ビル建てたくてうずうずしてるくせに伝統守らなきゃ伝統守らなきゃって言ってんの何でかって聞いたとき、先生は答えてくれませんでした。いや、遺跡とか守るのはいいと思うんですけど、「何で守るのか」っていう理由がないのに税金かけないでくれませんか、みたいな。すごい遺跡の修復にお金かけてるんですよ、政府。 しかも、遺跡たって全部残してるわけじゃないじゃん。残す必要あるなら全部残せよ、みたいな。残す遺跡選ぶ、とかっていかがわしくない、どんな基準なの、みたいな。 そうしたら私の隣の子が、「たとえ理由はなくても、そこはフィーリングでいいと思います。なんとなく、その町にいて、ああいいなぁって思う、それが大事なんじゃないかしら」 いや、うんうんうなずいて引き下がったけど内心はっきりいってまったく納得しませんでした。 結局、「なぜ残すという考え方がうまれたのか」はその後自分で調べました。それはかなり西洋的な考え方です。納得はいったけど、あくまで、西洋思想なのかな、と思ったりしました。 「フィーリング」というものがだめだ、とは、言ってません。 ただ、人って一人一人違うと思うんですよ。食べ物とかでいうと、ある民族は大好きなのに、ある民族にとっては見るのもいやなものとか、あるでしょう。フィーリングってその危険をおびてるんです、こういうばあい。つまり、あるものを、ある「一部」の人が賛美することで、ある「一部」のひとが肩身の狭い思いをすることになるということね。もっと極端になると、それが価値観の押し付け、につながる可能性も無視できないんでないかな。ほら、これが「文明的」である、とか、これが「きれい」とか。それで、その「文明的」で「きれい」な文化を持ったひとびとが、そうでない文化を「認めない」。「つぶす」。しかも、それは「思いやり」からだったりとかするんですよ、だって「きれい」じゃないんだもん、だからこういう文化はなくなるべきです、みたいな。この問題難しくって、実際なくなったほうがいいのか、どうなのかっていうのは、ほんっとうに多種多様だとは思うんですが、少なくともある文化が自己と違うって理由でほかの文化をつぶすっていうのは乱暴じゃないのかな。 きれいだなと感じるものって、本当に人それぞれだと思う。日本人は、たぶんみんな「感性」とやらがにたりよったりさんだから、「感性」があれですね、共通の言語になれる。けど、ある動物の肉を食べれないひとがいたりだとか、ある種の「味」を識別できない人種がいたりだとか、ひとそれぞれ、いろんなことがあると思う。 はい、本題。物事を「フィーリング」だけできりとったら、自分の「フィーリング」が反応しなかったものが「理解できない」ってことにつながるんじゃないかなってことが、言いたかったんです。 たとえば・・・ある絵があったとします。自分のフィーリングだけではその絵のよさがさっぱりわからない。でも、ある国の人たちはその絵をすっげぇ大事に思ってるし、ほかのありとあらゆる絵に勝るすばらしいものだと、思っていたとします。 ま、いいんじゃない、人それぞれだし。お前ら勝手にすばらしいと思ってれば。わたしは思わないけど。 いや、そうだよ。でも、それってあるいみでいえばさ、その絵がすげぇと思ってる国の人々の美的感覚だとか文化をシャットダウンつか無視する、ってことじゃない?それで、いいのってわたしは謎く思う。「いいんじゃない、人はそれぞれ違うんだし」。だからこそ、工夫してかなくちゃいけないんじゃないの。 ある社会問題にたいして作家が挑むときに、あまりにもありえねぇ!ってときがある。それが間違ってる、とかそれが正しい、とかそのレベルにすら達してない感じのことを言ってる。それは、多分フィーリングだったんだなと思う。いや、内容もなんだけど、内容というよりは、「論じ方」の問題だと思います。論じなくてもいいんですが。論理の組み立て方の問題?手段の問題? いいのか、自分と違うもんは、もしくは気に食わないものは問答無用でシャットダウンして。すごい思う。「気に入らないひとは、別に読まなくていいよ」、でいいわけ。その時点で超後ろ向きなな考え方じゃん。それがベストセラーだったとしてもそんなやるきねぇぽっと出の本なんざ読みたくないわい。たとえ一人にもよんでもらえなくても、書くひとがそんなこと言ったらおしまいじゃん、ねぇ?!・・・まぁ、無理やり読むとか読まされるのはやだけど。はじめは逃げ腰、うまくいってはじめて、さも計算していたかのような顔ですましてる本。はじめっから終わりまで「利己的」、「自分勝手」な著作物が最近ことごとく目障りです。もぉぶっちゃけそういう文も文字も目障り。だめとかなんとかじゃなくて、目につくわ。ありゃ一種の暴力じゃないの。まぁ発信は自由であるべきなんでそこまで言うといいすぎだけどね。 フィーリング天国。悪いね、感性に乏しくて。じゃあ、わたしも言われるんだろうか。「気に入らないひとは別にみなくていいよ」。 いったいどこに行けっていうの。なんだ、この村八分的感性世界。臆病者どもの描き出す世界のちまいポケットサイズの世界。誰だ探偵批判の猫の言葉の意味を根本からはきちがえてる奴。しかも小説の一文目から。憤りで、一文目で本を閉じたのなんてさすがにはじめてだったよ。わたしどんな本でもとりあえずは読むし、どこかしら好きになるよ。なんだありゃ。ある意味ゴッドじゃね。はきちがえるのもあらたな文学だがあのはきちがえかたはちょっと問題だよ。あんな愚劣な小説がまして子供の間で蔓延するようになったんだとしたらちっとは反省しろK社。 ・・・えっと、最後にことわっておきますね。これもまたひとつの価値観なので、うたぐってください。 フィーリングで生きているからあいまいなんですよ、単数と複数が。それっていったい悪いことなんですかって思ったけどね。英語の時間イギリス人の先生がきれてたんですよ、「日本語はどうして単数と複数の区別がないんだ!信じられない」って。いや、そんなこと言われても。 でも、フィーリングで生きるっていう文化はそれはそれでレアな感じがして、それ自体は嫌いではないんですけどね。そっと、宝石を守るように、大事にしたいもの。だけど何かを書くとき、ダイヤの首飾りでいったい何ができるっていうの。 comments(0) . -
2008.05.29 Thursday
手記。
昨日の考察の、『その街に生まれたのが罪』というのは、いろんな意味に言えると思うのだ。よくよく考えてみた。
クライムとシン。英語だけど。かたっぽは犯罪で、もう一つは宗教上の罪だって言う。 『この街に生まれたのが罪』。原文はどっちの意味で書いてあったんだろう。わたしは後者かなと思った。そして、それは最高のアイロニーだと思った。その街出身のひとが、言葉のかざりでなく、姑息でなく、ただ鋭さをもって、描いた。だけど犯罪の意味にもとれてしまいそうだった。これは、原文を読めばわかることかもしれない。 日本語って曖昧でムカつきます。もっぱら馬鹿にされるまでにくそ真面目なわたしを、いつもはぐらかし、嘲笑っているかのように。この場所自体が、そう。けどそれが故意ではないことも、分かっている。 ここでベストセラーになるのは、人の生活の真実ではない。ただはかなさだけを求めた、恋愛小説。それだけ。まるで文壇から死ね死ね言われているみたいで甚だイラッとくるけど、よくよくかんがえれば日本の名作はたいていそんなんだ。それをだめとは言うまい。だがわたしの感性にはあうまい。それだけ。 これこそやっと、という言葉を使おう。やっと、わたしは書きたいものを書いていくことにした。わたしが書き明かしたいものを書く。阿呆の正直さをもって。しらじらあかす光でもいい。闇は見えるままに書け。わたしは、本を読んで、よかった。今日、そう、思った。世界の権力図に興味はないだが、そう。それだけ。 comments(0) . -
2008.05.29 Thursday
手記。
残酷なのは現実だけで充分だ。
でもだからこそ問いたい。物語って現実をねじまげるものですか? そうなのかもしれない。 メルヘンとは、ハッピーエンドなものだ。現実には実現し得ない夢をかなえるもの。 comments(0) . -
2008.05.29 Thursday
のどっかぜがしぶっとい。
まだジャンプ感想書けてない・・・(泣)。
comments(0) . -
2008.05.28 Wednesday
手記。
いな、私はある本を読んで考えただけなのです。たった一冊の本。
何の信憑性を持ってたった一冊で。でもまず考えたことです。 ある少女が友人と出掛けたところ銃撃の盾にされて命を奪われた。そのまちに言われた人間が、言った。『かのじょのつみはこのまちにうまれたこと』だと。 この言葉のいちばん目を見張る点は、死者に向けられた言葉である点だ。生きた人間が罪を自覚するのとちがうのは、死んでしまったら自覚やつぐないが出来ないじゃないか。死んだ人にむかって、言う。『この街に生まれたことが、おまえの罪だった』。わたしにはとても使えない言葉だ。言葉の重み。世界の重み。どんな街ですか。 それでわたしは思い出したのです。『パンドラハーツ』を。物語の登場人物の授かる罪。そのいかに分かりやすいことか。この場合に背筋がぞっとするのは、罪という言葉の見た目ではない。つみの特質でもない。街のおかれている現実の方だ。 分かりやすさでは説明できないことがある。それそのものがわかりにくい場合。ある種の想像力は邪魔だ。妄想という名の陶酔。 だが罪という言葉はロケーションによって違うことも理解しなくてはならない。 文章がキリスト教ではないように感じられました。罪、という言葉が出て来るあたりはキリスト教的な発想かもしれないけど。言っていることは仏教みたいだ。だからその意味では、キリスト教徒ではない私の心を真にゆさぶる言い回しではありません。心なんて揺さぶられなくていいのです。感動くそくらえ。こどもはけれど構わない、だけど陶酔だけで言葉を振り回す小説たち、帰ってくれ。家に。真摯に、本当のことをかこうとしているものがいい。 感動がなくたって、頑張りたいよ。応援したいよ、あがきたい。笑いたい。助け合いたい。守りたい。感動が、なくたって。感動デェ動いてるうちはヨユウデスネ。『シアワセ』じゃないんですか。心が動かなくても、考えたいの。 愛したい。 |