太極旗:朴泳孝は考案者ではなかった(下)
朝米条約締結当時の通訳官が考案、朴泳孝が制定
朴泳孝がこの旗を作成したのは1882年9月25日で、日本を発って帰国の途に就いたのは同年12月27日だった。この旗の模様についても多くの説が出ていたが、韓教授は最近発見された文書で、その模様が明らかになった、と述べた。この文書は同年11月1日、日本の吉田清成外務大輔が、イギリスのハリー・パークス駐日公使に送ったもので、朴泳孝が太極旗を制定した直後、日本に滞在していたときに描いた太極旗が収録されていたという。
この太極旗について、韓教授は「朴泳孝の太極旗であることは明らかだ」と述べ、また李教授も同意した。一方、金源模教授は「反証資料にはなるものの、朴泳孝の太極旗と断定することはできない」と反論した。だが、この太極旗は1883年3月6日、朝鮮政府が国旗の制定を正式に発表した後、同月18日に清の公文書に掲載された「大清国属高麗国旗」とよく似たものだ。吉田清成が送った文書に掲載された太極旗が「朴泳孝の太極旗」であれば、朴泳孝は「李応浚の太極旗を基にして国旗を制定」し、その際に「卦の左右の位置を逆にする」という役割を果たしたことになる。だが、「太極旗を制定した人物」として歴史に名が残っているのは、「中人」の身分であった通訳官の李応浚ではなく、哲宗(第25代国王)の娘婿の朴泳孝だった。
◆ほかの太極旗はどこへ
1997年、日本の新聞・時事新報の1882年10月2日付に掲載された「朝鮮国旗」の図柄が発見され、一時はこの旗が「朴泳孝の太極旗」だとする説が広まった。この太極旗は四つの卦のうち三つが現在の太極旗と異なるものだったため、論議を呼んだ。当時、金源模教授は「日本側がねつ造したものだ」と主張し、これに対し李泰鎮教授は「信憑性がある」と述べたが、李教授は今回送った反論文で、これまでの自らの見解を改める、と述べた。つまり、時事新報の太極旗は「誤って描かれたもの」であることが明らかになったというわけだ。
また、1883年3月18日の清の公文書に掲載された太極旗について、金教授は「制定当時の太極旗の原型に間違いない」と述べたが、李教授と韓哲昊教授は「地の色が黄色で、太極模様の中に小さな円があるところからして、清が歪曲(わいきょく)したものだ」と主張した。さらに、国旗の名称の前に「大清国属」という文言を勝手に挿入するなど、朝鮮の内政に干渉しようという意図が感じられる、と説明している。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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