新聞協会賞
日本新聞協会は昨日、2006年度の新聞協会賞を発表しました。
このうち企画では、西日本新聞社の『検証 水俣病50年』が新聞協会賞を受賞しました。(京都新聞社も『連載企画「折れない葦」』で受賞。)
西日本新聞の『検証 水俣病50年』は、現在も第8部が連載中です。
私のところに同紙の記者が取材に来たのは、確か今年の3月か4月。それが、4月下旬の『第4部「チッソ・未完の決算・原因企業の現在」』の記事の一部になりました。
水俣病は、これまでは新聞社でも社会部(や政治部)の記者が扱うことが多かったと思いますが、西日本新聞のこの連載企画の第4部は経済部の記者達が担当しました。
どうして水俣病が起きたのか。
社会部的には「戦後の高度成長の歪み」だとか「成長優先で置き去りにされた部分」といった表現で済まされてしまうことが多いように思います。(そして記事の主体は、被害にあった方たちの苦しさ、悲惨さが中心になるように思われます。)
これが、経済部の記者の目から見ると、チッソという企業の「企業体質・経営体質」に問題はなかったのだろうかとか、政府による支援は資本主義の枠組みの中でどこまで許され、どういう形をとるべきだったのだろうかとかいった視点が中心になってきます。
私もこのブログで、「金融機関から見た水俣病」と題して、何回か、水俣病の問題について書いてきました。ご関心のある方はお読みになってみてください(2月25日、3月28日、4月13日、4月14日の記事です)。
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コメント
「易者にまでみてもらった。
が、もちろん、わかるはずもなかった。
日ごとにやせ細っていくトヨコちゃん。
溝口さん夫婦は、娘に少しでも栄養をつけさせようと、水俣湾内でとれた貝や魚を食べさせた。
医師たちも病名をつけかねた奇病の症状は、しだいにすすんだ。
そして、三十一年三月十五日、入学式を前にトヨコちゃんは死んだ。
今日、トヨコちゃんにはられたレッテルは、水俣病患者第一号。
『おそろしい水銀がはっているとも知らず、せっせと魚や貝をあたえた。毒を食べさせていたわけです。』
と、あとになってマスエさんはくやんだが、トヨコチャンの生命はももどらなかった。」
(「公害のはなし~むしばまれゆく地球~」(松谷富彦、ポプラ社)より)
昔に、中学校で開かれたバザーで買った、この本を読んで、初めて「公害」と、企業と行政の癒着がもたらす恐ろしさを、僕は知りました。
この本によると、当時、この奇病の原因解明に積極的に取り組んだのは、意外なことに、新日本窒素水俣工場付属病院の細川医師などで、そして、熊本大学医学部に本格的な調査を依頼していたそうです。
昭和三十一年当時の水俣市の人口は、約四万三千人で、その四分の三が新日本窒素と繋がりの有る人たちで、三十五年に新日本窒素水俣工場が水俣市に収めた市税の総額は、全体の48%を占めるものであったそうです。
長年にわたって、地元から親しまれていた企業を、誰も「憶測」で悪く言えない状況だったと思います。
(なにしろ、水俣病の原因である、有機水銀を副産物として生成する装置の発明者は、当時の水俣市長だったそうです。)
ところで、水俣病は、新潟県阿賀野川でも発生し、「第二の水俣病」と呼ばれたそうですね。
新潟水俣病事件の裁判では、賠償金で決着したそうですが、「いくら金を積んでも、死んだものやしびれた手足はもとにもどらない。これで罪の償いが終わったと思うなよ。」と、勝訴した患者家族は、被告側の企業代表者に叫んだそうです。
「公害」を考えるとき、企業単体の問題ではなくて、行政との関わりあいも留意することが、とっても重要だと思いました。
投稿 まさくん | 2006年9月 7日 (木) 22時23分