金融機関から見た水俣病(その3)
2月25日(第1回)、3月28日(第2回)の続きです。
水俣病公式発見の日とされるのが、1956年5月1日。もう少しで、ちょうど50年になります。
ということで、朝日新聞などのマスコミが特集記事を組むようになりました。
私が、この問題について、時折ブログを書いているのは、(ちょうど50年になるというマスコミ的発想とは関係なく)水俣病問題がいまなお極めて今日的な問題を我々の前に提示していると考えるからです。
たとえば資本主義、市場主義を考える上で、国や県はどこまで市場に立ち入っていくべきかという問題があります。
チッソは、1400億円を超える債務超過にあっても、閣議決定のもと、国、県、民間金融機関が支援をしていて、ある意味で絶対につぶれない会社になってしまっています。
その結果、本来、市場が持つ discipline (鍛錬、規律)が働かない会社になってしまっています。
Market Discipline (市場が持つ鍛錬、規律)とはどういうことでしょうか。
例えば、放漫経営者がいたとして、その経営者が経営に専念するよりも、株主や銀行から融資を受けた金を使って、銀座で取引先と遊び、社有車を何台も揃え、会社仲間でゴルフに興じているとしたら、資本主義、市場主義のもとでは、本来は、Market Discipline が働きます。
その会社の株価は下がり、敵対的買収者によって買収される(アメリカで1988年にKKRによって買収されたRJRナビスコの例が思い起こされます)とか、倒産するといった事態に追い込まれます。(その結果、放漫経営者はマーケットから放逐されます。)
本来、市場には、そうした、ある種の『自己鍛錬機能』がビルトインされているわけですが、チッソのような仕組みにしてしまいますと、その機能が極めて働きにくくなります。
水俣病問題を興銀で担当していた時は、国から、『その辺の経営指導は興銀できちんとやってくれ』と言われましたが、市場の持つ『神の手』の機能に比べれば、銀行が出来ることは限定的です。
たとえばチッソは今年、創業100年を迎えたということで、『社史を編纂していてこれを発行する計画にある』との話が伝わってきます。
多くの民間企業が生き残りの為に必死のリストラを重ね、なんとか利益を上げて税金を納めています。その税金が、水俣病の被害にあわれた方々の救済に使われるならまだしも、これを起こした会社の社史の編纂に使われるとしたら 『納得がいかない』 という納税者の方も多いと思います。
水俣病問題が提起するもう一つの今日的な問題とは前回のブログでも触れた Lender Liability (貸手責任)の議論です。
長いチッソの歴史の中で、チッソ経営陣の中には、銀行出身の社長なり、役員の人がいたこともありました(最近はどうなっているのか知りません)。
そもそも銀行が融資先の会社に役員を送り込むということの意味を、銀行は軽く考えすぎていないでしょうか。
銀行からすれば、銀行から送り込んでいるのではなく、『その人の見識などを評価され請われてその会社に行っている』というロジックになるのでしょう。
しかしながら、銀行出身者が書いた多くの本を読んでみますと、実際には銀行の人事システムの中で派遣候補者の名前が上がってきて、受け入れる会社の方は、『この人ではどうですか』と銀行の上層部から言われる という『現実』があることが分かります。すなわち派遣候補者を選んでいるのは銀行の方です。
送り込まれた経営者は、銀行の利益を考えて行動するのか、あるいは送り込まれた会社の利益を考えて行動するのか。『あうんの呼吸』とか『大人の対応』といったわけが分からない状況に、時として、陥ってしまうことが懸念されます。
銀行は、いったい利益相反の問題をどう考えているのでしょうか。役所による天下り、談合の問題が最近批判の対象に上がっていますが、銀行による融資先への『一種の天下り』についても、きちんと本質を議論していくべき段階にきていると思います。
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