2008-06-05 グロコムのセミナー「人のつながり」の理論と社会・インターネット
■開催概要
国際大学グローバールコミュニケーションセンターのセミナー、『「人のつながり」の理論と社会・インターネット』に出席した。
* タイトル: 人のつながり」の理論と社会・インターネット
* 日時 : 2008年6月4日(水) 午後3時〜5時
* 会場 : 国際大学グローバル コミュニケーション センター
(東京都港区六本木6-15-21ハークス六本木ビル2F)
* 講師 : 増田 直紀氏(ますだ・なおき)*1、飯盛義徳氏(いさがい・よしのり)*2
事務局による開催要項によれば、概要は下記の通り。
「人のつながり」の関係への関心が高まっている。国内で1,300万人以上のユーザーを抱えるmixiや1億人以上の利用者を抱えるMySpace、FacebookなどのSNS(Soc ial Networking Service)だけでなく、GoogleがSNSと様々なサービスをつなぐ標準規格「OpenSocial」を提唱するなど、次世代のビジネスプラットフォームとしてネット上の「人のつながり」を活用しようという動きが盛んになっている。また、社会・政策の文脈でも「人のつながり」が話題に上ることが増えている。 今回の研究会は、あらためて「人のつながり」について深く考える機会としたい。インターネットを介することで「人のつながり」にはどのような影響や効果が現れるのか。また社会や組織、人間関係のとらえ方について、理論的な研究ではどのような新しい知見がもたらされているのか。ビジネスや地域社会との関係も視野に入れながら、「人のつながり」のとらえ方について考えたい。
司会の国際大学グロコム研究員、庄司氏より、まず、『ネットワーク』の議論や研究には、3つの流れがある、というご紹介があった。
1.ネットワーク科学
数学や物理学によるネットワーク科学。点(ノード)と線(リンク)によって成り立つ構造としてネットワークをとらえ、
人のつながりを含む自然界のさまざまなネットワークを研究対象とする。
成果として、『ベキ乗則』等。
組織や集団における個人間の関係や相互作用などを研究。
成果として、『弱い紐帯の強さ』等
3.政治や社会運動の文脈で出たネットワーキング論
ネットワークを統制的なタテ型組織と対置して、自発的な参加意思に基づく、水平的でゆるやかな人間関係ととらえる。
増田氏は1の立場から、飯盛氏は、2と3の立場からお話いただく、という前置きがあった。
ネットワーク科学の立場から、前段は『複雑系ネットワーク』に関するプレゼンテーションがあった。数学者のオイラーから始まる、ネットワーク科学の歴史に始まり、複雑ネットワークの知見として、ベキ乗則、スケール・フリーネットワーク(ハブのあるネットワーク)*3『6次の隔たり』という言葉で有名になった、スモール・ワールド・ネットワーク*4等のご説明を通じて、複雑系ネットワークの研究により、どのような成果が出ているのかということをわかりやすくお話いただき、大変面白かった。特に、ハブがあるネットワークの伝播の早さ(伝染病、流行等)の分析が、伝染病の伝播の阻止等の成果に繋がりつつあるという事例、あるいは、マーケティング等の経済現象や意見形成やオンライン・コミュニティーの分析等にすでに活用されている例などは実に興味深かった。
インターネット業界関係者であれば、ある程度常識とされるネットワーク論のお話しのはずなのだが、如何に自分が通り一遍の知識しかなかったかということに気づかされることになった。関係者によると、増田先生の本は非常に評判が良いという。是非早々に読んでみようと思った。また、ある程度言葉は知っていた、ダンカン・ワッツの「スモールワールド・ネットワーク」*5や、バラバシ・アルバートの「スケールフリー・ネットワーク」についても、あらためてきちんと研究しておこうと思う。
また、後段では、トレンドマイクロ社と共同で進めておられる、ウェブのアダルトサイト等の危険なサイトをホームページのテキストマイニングにより発見して行く研究のお話があった。サイトのテキストマイニングにより、つながり方を次数分布として可視化して、アダルトカテゴリーの特徴をつかむことができるという。すでにその特徴的な分布から、コンテンツの中身を確認しないでも、危険なアダルトサイトを発見することができるのだそうだ。特に、相互リンクの密度はアダルトカテゴリが最も強いという。また、ホスト間のリンク数が以上に強い結び付きを持つところも多数存在し、中にはホストノードが930以上という巨大クリークもあり、これは人工物にしかありえないということが一目瞭然だ。アダルトサイトは青少年の問題もあるが、危険なウイルス伝染の温床になることも多く、貴重な研究成果だと思う。
関連記事は下記。
サイトのリンク構造から有害コンテンツを判定、東大とトレンドマイクロ
■飯盛氏のプレゼンテーション
タイトルは、『地域のつながりを取り戻す』で、飯盛氏の実践的な取組みの紹介が中心のプレゼンテーションだった。内閣府の調査によると、地域のつながりの希薄化は進行しているが、一方で、社会貢献に関心のある人は増加しているのだという。従来の地縁をベースとした地域コミュニティーは、過疎、近代化、高齢化等による維持の難しさだけではなく、濃すぎる人間関係、いわゆる、『過剰な埋め込み』(同質性の高すぎて異質な要素が取り込まれにくい状態)の問題もあり、機能不全になりつつある。打開策として、地域情報化プロジェクトを企画して推進することで、従来対処が難しかった問題に取組む。これを飯盛氏の主催する、鳳雛塾(ベンチャー企業スクール)*6の活動事例を例にあげてご説明いただいた。
自分も地方出身のため、地方の持つ固有の問題は肌感覚としてわかるつもりだが、この手の取組みで一番厄介なのは、共通の目的意識を持つことの難しさだと思う。一見同じ方向を向いているはずだった人たちが、実は呉越同舟だったということが本当に多いのだ。自然発生的なコミュニティは、親族や相互扶助のやむないニースを除けば、どうしても長く維持することが難しい。だから、飯盛氏の取組みも、プレゼンテーションを聞くだけではなく、実地で見ないと、本当のところ実感が湧きくい。ただ、このような努力が続けられていることは心強い。自分の故郷を一つのケースとして、適用可能かどうか、という点で今後精査してみたいものだ。
■総評
今回のセミナーは、自分としては非常に関心があるテーマ設定と考えていたのだが、実際に最前線のお話を聞くと、如何に自分が勉強不足であったかを思い知らされることになった。ただ、今回は取り上げられなかった地域SNSが、実のところ自分が一番聞きたかったテーマであることを再認識することにもなった。インターネットの発達が地域のコミュニティーにどう関わって行くのか、あるいは行かないのか。
通常、インターネット(携帯電話を含む)のコミュニケーションというのは、実際に顔を合わせるリアルなコミュニケーションよりも、浅く、希薄であると定義される。よって、特に地域コミュニティーというような実態が明確なコミュニティーでの利用は、補完的な扱いでしか語られないことが多い。ただ、今のインターネット・コミュニケーションの実態を見ていると、実際に顔を合わせていてもけして明かさないようなプライベートな部分や深い感情や思想をさらすことによる、より深いコミュニケーションが起きているケースに出会うことも多い。実地だけでは表面的な関係だったのが、インターネットという間接コミュニケーションによって、むしろ深い部分の告白であったり、その深い部分の関わる交流だったりする。そういう地平を切り開いていることをもっとちゃんと評価すべきではないかと考える。是非、次のテーマとしてご検討いただきたいものだと思う。
*1:増田 直紀(ますだ・なおき)1976年東京生まれ。東京大学大学院・情報理工学系研究科・数理情報学専攻講師。博士(工学)。複雑ネットワーク、社会行動の数理モデリング、脳の理論を研究。著書に、増田直紀『私たちはどうつながっているのか』中公新書(2007)。増田直紀、今野紀雄『「複雑ネットワーク」とは何か』講談社ブルーバックス(2006)。 増田直紀、今野紀雄『複雑ネットワークの科学』産業図書(2005)
*2:飯盛義徳(いさがい・よしのり)1964年佐賀市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部准教授。上智大学文学部を卒業後、1987年松下電器産業(株)入社。 1994年慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了(MBA取得)。2002年慶應義塾大学大学院経営管理研究科博士課程入学。慶應義塾大学環境情報学部専任講師を経て、2008年より現職。これまでにアントルプレナー育成スクール「NPO鳳雛塾」(2003年度日経地域情報化大賞日本経済新聞社賞受賞)、(有)EtherGuyなどを設立。総務省地域情報化アドバイザー、総務省過疎問題懇談会委員等を多数歴任。主著に『「元気村」はこう創る』(日本経済新聞出版社、2007年)ほか。
*3:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%B1%A1%BC%A5%EB%A5%D5%A5%EA%A1%BC%A5%CD %A5%C3%A5%C8%A5%EF%A1%BC%A5%AF:title]
*5:
スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法
- 作者: ダンカンワッツ, Duncan J. Watts, 辻竜平, 友知政樹
- 出版社/メーカー: 阪急コミュニケーションズ
- 発売日: 2004/10
- メディア: 単行本
2008-06-04 変貌する若者たち(後編)
前回(変貌する若者たち(前編) - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る)、前編と銘打って、変貌する若者たち、というタイトルでエントリーを書いた。 今回は、その後編ということで、一応締めくくっておきたい。
■若者の変化はネガティブな方向だけではない
前回述べたように、現代の若者(10代〜20代)が、非常に行動範囲を狭めており、エネルギー小消費型とでも言えるようなライフスタイルが主流になっている、ということを書いた。そして、それは以前に書いた、若者の自動車離れの原因の一端とも言え、経済的な国際競争力という観点では、少々具体が悪いことになっている、というニュアンスのことも書いた。
ただし、多少、補足しておくと、私は若者のこの変化を必ずしもネガティブにだけ捉えるつもりはない。逆に言えば、消費の連続的拡大を経済成長のエンジンとして奨励し、そのサイクルの拡大を持ってよしとする従来の仕組み、しかも一旦まわりだすとそこから下りれなくなり、しかも昨今のように、各国の経済が過度に相互連関を持ち、一度その一部に穴があくとすぐに全体に影響がおよぶようなあり方は、やはりどこか無理があると考える。資源環境制約の問題やサブプライムローンの問題は、まさに強烈なアンチテーゼと言っていいだろう。
そもそも、満足の大きさと物的消費の多さは直接にリンクしない。今の若者の生き方は、その少し上の世代の、ブランド志向が強くて、世界中に出かけてブランドを買いあさったような行動と比較すると、むしろ洗練され、物の消費は少ないが、文化的にはレベルが高いと行って良い部分もあるのではないか。内にこもったオタクの土壌から、非常に優れたアニメ作品が生まれたような現象は、その一例だろう。国際競争力という点でも、もはや日本は製造業的な、物的な生産や消費の量で経済成長率を押し上げるような経済運営はできないし、やるべきではない。高度情報経済の勝者であろうと思えば、クリエイティビティーに溢れた個人がセンスのよいアイデアを競うというタイプでの勝者を目指す必要があり、それはエネルギー小消費型と言ってもよいはずだ。
■内向きとなった理由は?
ただ、明らかに、この10年くらいに起きたことには、ある一定の方向性が見られる。前回も書いたが、日本社会全般が非常に『内向き』になって来ているし、中でも若者にその傾向が顕著だ。その中には、問題として取組んで解決したほうがよいこともあるし、特に問題としてではなく、『トレンド』として捉えて、マーケティング情報として活用するほうが利巧と思われるような現象もある。
この『内向き』というのは、どういうことなのか。
生活空間を『私的な領域』と『公的な領域』に分けて考えてみると、今の日本は過度な『私的な領域』偏重になっているのではないか。 今回は、正高信男氏の『ケータイを持ったサル』*1を読んで、大変考えさせられた。この本自体は、正直なところ、若干飛躍が大きいのでは、と感じるところも多く、すべて納得できるとも言えないのだが、全体としては大変興味深い問題提起がなされていると感じた。
非常に雑駁にまとめると、こんな感じだ。
日本の戦後の家庭のあり方(男は会社、女は専業主婦)は、日本の歴史の中でも特異な例外で、子供をあたかもサルが子供を育てるときのように、過保護で、非常に長い母子密着型であった。その結果、多くの子供は『良い子』になり、安全で安心できる環境で育つことができるため、育てられ方が全く異なる海外の子供と比較しても、精神的にも安定して、幸福感も優っている。ところが、幸福な子供の時代を終えて、一人前の大人として『公』の場に出るところで、適応不全を起こしてしまう若者が激増してしまった。しかも、成人して尚、公の場に出ることができずに、うちに帰ろうとする子供を日本の親は温かく迎えようとする。それどころか、それを喜んでいるふうさえある。当然子供は安全で快適な家のなか/私的な領域に引きこもり、イギリスと日本以外に世界にも例がないと言われる、ニートが生まれる。そこまで極端ではないにせよ、公的な場でも、私的で、『私』の世界から出ようとしない。その結果、人前で、平気で化粧をしたりするような、『どこでも家のなか』的な若者で溢れることになる。そして、公的な責任をできるだけ避ける行動の帰結は、親になることの拒否となり、出生率は激減する。
このような親子関係は、正高氏によれば、サルにそっくりなのだそうだ。サルはほとんど群れを出ること(人間で言えば公的世界に出ること)はしない。群れの仲間とはしょっちゅう繋がっていることを鳴き声で確認し合うという。鳴き声の中身に意味は無く、連絡しあって繋がっていることを確認しないと不安でしかたがない。まるで、ケータイを肌身離さず持ち歩き、膨大な数のメル友と、内容はほとんどないメールを四六時中送り合い、ただ、繋がっていることを確認し合っている若者とそっくり、というわけだ。
実際の文章は、コミカルな印象さえ感じる名調子なので、印象的な部分を以下、少し引用してみる。
P124
常にケータイを持ち歩き、厖大な数のメル友と四六時中交信し、靴のかかとを踏みつぶし、あるいはルーズソックスをはいて、電車内でも平気で化粧をしたりする一連の行動には、実は一貫した原理が背後に存在する。それを、この本では「家のなか主義」と命名したのだった。公の世界を拒否して、私の世界の内部だけで生きようとするあまり、そうした行動は極端にサルに類似してしまう。その姿勢は、昨今の「ことばの乱れ」に端的に象徴されている。公共性を持った他者との交渉をしようとしない。仲間とのあいだに安定した信頼関係を築こうとせず、「万人が万人を敵とみなす」ような、かつての啓蒙主義者が自然状態と想定したようなつき合い方をする。いや、そのようにしか振舞えないのかもしれない。公共性ということをかなぐり捨てたライフスタイルを、現代日本の若者は取るようになってきている。
P170
(前略)今の日本の若者の行動の特徴を簡単に要約するならば、「家のなか主義」すなわち公的状況へ出ることへの拒絶である。だが、過去の日本の家族のあり方を振り返ってみると、その前兆は少なくとも半世紀前にすでに存在していたことがわかるのだ。すなわち、専業主婦の誕生そのものがその萌芽と言えなくもないのだ。それまでは男も女も外へ出て労働に従事するのがふつうであったのが、女には「奥さん」になる可能性が開けた。「奥さん」とは有閑階級であり、まさに「家のなか」でもっぱら暮らすことのはじまりであった。しかも、その「奥さん」が子育てをもっぱら単独で担当するようになり、かつ子どもが奥さんの自己実現の対象と化するにいたり、後継の世代の「家のなか」化は飛躍的に程度を高めた。そして今や、そういう新世代が親たる成人層の過半数を占めようとしているのである。では新世紀のこれからの特徴は何だろう。一言で言うなら、「親になることの拒否」であろうと私は思う。
■無視できない仮説
ここで書かれていることを、鵜呑みにするつもりはないが、『公』と『私』に関わる仮説については、自分でもよく吟味してみたいと思った。確かに、今の日本は、少々『私』の方向にバランスが崩れすぎていないだろうか。おそらくこれを嘆く大人世代は、武士道に帰れ、というようなことを言いたくなるのだろう。確かに、江戸期の武士というのは、いわば、生産活動から離れて、抽象的な道徳観念を練り上げることを商売にしていた人たちだ。その結果として、日本もノブレス・オブリージュの概念を持つことができていた。ただ、その武士は人口比率で言えば、わずか10%未満だ。でもそれくらいの割合のいわばエリートが存在することはけして悪いことではない。今はその頃と比較すると、大人の側にも節操がない。社会の子供化と同時に、大人の無責任化の相乗効果が様々な問題を引き起こしているのだと思う。
また、若者のエネルギーレベルが下がって見えるのも、必ずしもエネルギー総量の問題ではなく、公的な場での活動が減り、外からは見えにくい私的なところでエネルギーを使っているということではないか。
もちろん、若者の変化のすべてを、この正高氏の説で語り尽くせるわけでもない。上にも書いた、クレバーな若者の中に見られる、『虚飾を排した洗練』等については、また別の場で分析してみたい。
では、どうするのか。それは、今回の正高氏の著作には書いてない。私達自身が考えて答えを出して行く必要がある。
*1:
2008-06-02 世界は文化理解を通じて繋がって行く
■GlobalVoicesについて
先日、私のブログが英訳された件について記事を書いたのだが、(自分のブログが世界に発信された日 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る )そのページをリンクしていただいた人のリンクから、この英訳(というより、多言語化)に係わる事業の『中の人』へのインタビューをもとに書かれた、アンカテ(ブログ名)のessaさんの記事にたどり着いた。
GlobalVoicesの中の人に会って来ました - アンカテ
アサヒコムの記事でこの事業、GlobalVoicesの概要はわかったような気がしていたが、essaさんの記事はずっと詳細でしかも、本当に知りたいことが書いてある。メンバーのサルツバーグさんの人となりにも一層理解が深まった。
『バター不足について』、という記事が、英訳されて、反響が大きかったため多言語化されていった、というお話や、スペイン語やアラビア語で書かれたブログが日本語になるなど、GlobalVoicesが、英語からさらに多くの言語に広がるコミュニケーションのキーステーションになっているということも、あらためてよくわかった。本当にすばらしいことだと思う。こういうインターネットやブログのポジティブな部分はもっと注目されていい。最近の日本の若者のコミュニケーションは、mixiやモバゲータウン等に見られるように、非常に活発ではあるが、一方で内向きに過ぎるきらいがある。前回のブログでの主張の繰り返しになるかもしれないが、『外向き』の活動がもっと増えることで、日本のブログももっとバランスが取れて行くのだと思う。そして、まだ沈黙している多くの日本の『スマート・モブ』をブロゴスフィアに参入させるきっかけになると思う。
■『空気』や『世間』への興味
また、サルツバーグさんの日本語のブログ記事を拝見して*1、カナダの人が、日本人にとってもかなり難しい概念である、『空気』や『世間』に注目されていることに驚いた。アンカテのessaさんが書かれているように、サルツバーグさんが、『ここで言及している次の記事は、自分としてはけっこう面白い記事になったという自信があったけど、予想した程は反響がなくて少しガッカリした』とおっしゃっているのは、まあ無理もあるまいと感じる。日本人相手であっても、この話題に興味を持って応じてくれる人はそう多くはないのではないか。大変奥深いテーマではあるのだが、『言語化』することは必ずしも簡単ではなく、意識的に興味を持って探求する人は案外少ない。
実のところ、私自身にとっても、昔から『空気』『世間』は、かなりの興味を持って探求して来たテーマである。参考文献としては、『空気』なら、山本七平氏、『世間』なら、阿部謹也氏の著作が出色だと思うが、かなり前からこのお二人の著作を初め、いくつかの著作を読んで、自分なりの仮説を構築して、実際の日本の社会を観察してきた。その結果、自分の納得の範囲はそれなりに広がり、この『空気』や『世間』を知ることがマーケティング実務を行うにあたっても大変な隠し味として役立ってくれたり、交渉の場でも、自分の身を救う智慧となってくれた。そればかりか、海外市場開拓、特にアジア圏内の市場開拓やプロジェクトを担当するにあたっても、一国の文化を深く理解するための参考点として大いに役立ってくれたと思っている。しかしながら、これを言葉で他人に語ることには、本当に苦労した。誤解を受けることも多かった。どうしてそうなるのかは、難しいところだが、『空気』も『世間』も実際に間違いなく『あるもの』なのだが、それがある理由ははっきりわからないから、ということだと思う。
ただ、それでも、『空気』や『世間』と直接同じ概念ではないが、同心円上にあると考えられるいくつもの概念が、異口同音に語られ、一定の役割を果たして来ている現状を見ると、今でも探求を続けることに大きな意義があると思える。例えば、下記のような概念は、直接使われる場面も、意味さえも違うが、大きなカテゴリーとしては同一の要素を持っていると考える。
- 集合無意識
- コード
- 野生
- 空/無
■世界は文化理解を通じて繋がって行く
これらは、心理学、哲学、文化人類学、民俗学等が様々な取組みをしてきた軌跡で語られて来た概念である。当然、日本だけでなく、世界中の識者が取組んで来たものだ。およそどの文化現象にも、表があれば裏もあり、この裏の部分の理解の厚みがなければ、その文化にある不文律の部分を理解することは難しい。民族や宗教の衝突は、そういう深層のレイヤーの無理解が原因であることは実に多い。だから、私は、ビジネスのニーズという意味でももちろんそうだが、それ以上に、こういう文化の深層の探求は、国家や民族の衝突回避や平和的な相互理解に絶対に欠かせないこと、と考えて来た。
西洋文化、中でも近現代のアメリカは、そういう文化の衝突を避けるためのルールとして、できるだけ誰でもわかる平易さと、明示的で、論理的な理解が可能であることを重視してきた。それは、実際にビジネスには大変大きな役割を果たしたし、そのレベルで合意を取って行くことは、世界をスムーズで住みやす場所にするためには大事なことだはと思う。だが、これは『歴史の終わり』を主張して、アメリカの一極政治支配の思想的バックボーンともなったフランシス・フクヤマ氏と、『文明の衝突』を書いて、支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしないと主張する、サミュエル・ハンティントン氏の論争を思い出させる問題だ。
現時点で見ると、世界はグローバル化が進み、フラットになったが、実際に世界の人々が近くに集まってみると、文化/文明理解なしにやっていくことは難しいということを再認識した、というのが本当のところだろう。そういう意味では、世界は文化理解によってこそ繋がって行くのだと思う。
長くなってしまったが、上記のように考えて来た私としては、日本に住み、日本人以上の美しい日本語を駆使する、サルツバーグさんのような人が『空気』や『世間』に興味を持っていただいている、これこそが、本当に文化の相互理解が進みつつある証なのだと思う。海外にこれを発信していくことは本当に大変だと思うが、是非何度もトライして欲しいと考える次第である。
2008-06-01 講義『地球環境問題と企業の取り組み』を聴講して
■講義の概要
5月31日(土)、首都大学東京のオープンユニバーシティーの講座の一つである、『地球環境問題と企業の取組み』の第一回目の授業に参加した。(全四回)*1
一回目の授業の概要は以下の通り。
日 時: 5月31日(土) 15:30〜 17:00
講 師: 慶応大学名誉教授 高山隆三氏
議 題: 企業と環境問題(総論)
本件は、私の大学時代のゼミのOBで、現首都大学東京教授の米山先輩の依頼を受け、恩師の高山先生や同じくOBで明治大学経済学部教授の大森先輩が講師としてお話をされるという連絡があり、それを受けて参加した。特に今回、第一回目は高山先生の授業が何十年ぶりに聞けるチャンスということもあって、肌寒いあいにくの雨模様ではあったが、時間を見つけて参加することにした。(ただし、遅刻してしまった!)
高山先生のプロフィールは下記の通り。
農業経済がご専門の先生に、私が学生当時も環境問題や食料問題等のご指導をいただいた。当時は、第二次オイルショックの興奮さめやらぬころということもあり、資源環境問題、あるいは食料問題、環境汚染の問題等、やはり非常に関心が高まった時期であった。長く続いた、戦後の高度経済成長も第一次、第二次オイルショックの波をかぶり、一方で、ニクソンショックにより、日本も安定した円ドル固定相場から、変動相場へ放り出され、一人前の国家として、世界の競争に向かうべく、緊張感が社会全体に感じられた時期だ。
そして、長い年月を経て、今また先生のお話を聞くのは、実に感慨があった。自分が学生のころには、今の状況はさすがに読めなかった。それはもう驚きの連続と言ってよい。例えば、
そして、世界はフラットになり、先進国の『豊な社会』に向けてばく進しだした。資源環境問題という意味では、当時このことを勉強していた私たちが想定した中では、いわばもっとも厳しいシナリオに近くなりつつある。 そういう意味では、当時より今は資源環境問題は、数段リアルだ。
先生が講義で使用された、レジュメは先生の許可を頂ければ、後日掲載しようと思うが、取り敢えずレジュメの項目は下記の通り。
1.地球温暖化問題
(1)スターン報告
(2)CO2温暖化への疑問
2.IPCC(1988年発足)第四次報告(2007年、2月、第1作業部会報告)
(1)気候変動に関する政府間パネル報告
各国の温暖化対策に法的拘束力を持つ数値目標を国連が課したこと
以下、私が興味を感じた点にコメントしておきたい。
■スターン報告
私自身は遅刻してきたため、この最初のパートはあまり聞けていないのだが、レジュメの内容および後段部分のお話から、地球温暖化の環境へのインパクトについては、主として、06年10月にニコラス・スターン卿によって発表された地球温暖化に関する報告書を引用してお話をされたようだ。*2
スターンの報告書の概要は次のブログによると、以下の通りとされる。ホンネの資産運用セミナー | スターンレビュー〜地球温暖化は第二次大戦に匹敵
- 二酸化炭素(CO2)など温室効果ガス削減に向けて国際社会が行動を起こさなければ、地球温暖化による将来的な経済的損失は世界各国の国内総生産 (GDP)総計の約20%に上る。これは、第一次、第二次世界大戦の被害規模に匹敵する。
- 今すぐに温暖化防止を始めれば、これにかかる費用は年間、世界のGDPの1%(約300億ドル)ですみ、経済発展と両立することが可能である。つまり「行動しないこと」のコストが、必要な対策のコストを圧倒的に上回る。
非常にインパクトのある内容で、誇張があるのではないかと感じる向きも多かろうが、「これまで行われた地球温暖化の経済影響調査の中でもっとも包括的なもの」と評価は高いようだ。 リアルの深刻さが想像を上回りだしたと言ってのかもしれない。
08年5月の文芸春秋に、『地球はこれから寒冷化する』という記事が掲載されているそうだ。(私は記事は読んでいない。)
丸山教授は、2007年にも同様の意見を週刊現代に掲載されており、その概要がwikipediaに書かれている。*3
地球温暖化問題と二酸化炭素との関係にたいして否定的な意見を持っている。 月刊現代2007年9月号の田原総一郎のコラムにおいて地球温暖化の原因について以下のような意見を述べている。
* 太陽の活動度が高まってきている。
* 産業革命以前と現在では大気組成中の二酸化炭素の割合が1万分の1%しか上がっていないこと。
* 温室効果ガスのほとんどが水蒸気である事。
また現在太陽の活動が頭打ちの状態にあり2050年には地球寒冷化の兆候が見られるはずだと主張している。
ほとんど世界中が、『地球温暖化』『二酸化炭素原因説』を唱えているこの時期に、このようなお話をされるのはさぞ勇気がいることだろうが、太陽の活動が非常に活発という事実は確認されているし、この1万年間でも、気候変動は繰り返されており、0.6〜1度くらいの気候変動はありふれている、というのも事実だ。
■だからといって・・
ただ、だからといって、人間活動(二酸化炭素排出)原因仮説に基づいて、何かをやらないわけにはいかないのが実情だろう。スターン報告もそうだが、 ICPP第四次報告書*4でも、下記の通りの主張がなされている。
・化石燃料依存の成長を続けると、21世紀末は20世紀末に比べて、最大6.4度上昇。
・平均2〜3度上昇すると地球上に広範な悪影響。
・こうした変化は人間活動によりもたらされたもの。
当面この人間原因仮説を前提として、各国が協調して取組むしかないだろう。ただ、京都議定書以降の各国の協調体制は、難産そのもので、アメリカの離脱等の協調体制のひび割れもそうだが、日本も2012年、90年度基準6%削減、2006年度比約12%削減義務づけという非常に厳しい目標が課せられていて、一体本当に実現可能なのかと、いぶかってしまう。それに、二酸化炭素排出が最も多い、石炭の産出および使用量が多いのが、躍進する中国とインドというのも、なんという巡り合わせなのか。この2国の協力取り付けが実現しなければ、全体のプログラムが瓦解しかねない。
■企業活動への取組みが鍵
全体の割合から見ると、やはり戦略的、中心的に取組む必要があるのは『企業』で、その中でも優先度が高いのが、『電力』だ。世界の温室効果ガスの分野別排出量比率で見ると、全体の1/4を電力が占めている。短期的には、最も二酸化炭素排出の多い、石炭をLNG、石油、原子力に転換していく必要がある。(だから余計、中国とインドは鍵となる。) 二酸化炭素に値段をつけ、特に先進国には、国際競争力をそぐことになりかねない環境コスト負担を輸出時の補助で相殺する等の工夫も検討されているという。
■ただし資源はあるのか?
ところが、その石油や原子力燃料のウランが枯渇しつつあるという。特に石油については、長年、石油の理論可採量は技術進歩と共に徐々に増えて、限界説を先送りしてきた感があるが、いよいよピークがやって来たという見方がある。その例として、
資源枯渇という問題は、地球が温暖化しても、寒冷化に向かうとしても、それとは別の大問題だ。二酸化炭素排出という観点だけではなく、資源枯渇を見据えた、資源節約、代替燃料の開拓が不可欠ということになる。
■総評
時代が激変しても、高山先生の洞察力とそれを支える勉強量はすさまじい。あらためて脱帽することになった。ただ、一方で、やはり弟子にとって先生がいつまでも第一線で、なかなか超えられない存在であることは大変喜ばしいことだ。まだまだ進化する先生に是非近づくべく、自分もがんばらねば、と思った。
学生時代から、環境問題に関する私の一番の関心は、人間の側、すなわち、エネルギー消費の少ないライフスタイル/生き方/哲学のほうで、それを探求するのが私のライフワークの一つだった。何とそれは課題として今でも死んでいないようだ。むしろ、今回の先生の講義を聞いていると、以前よりもっと重要な議題になっているのではないかと感じた。昔を思い出して、もう一度ちゃんと取組んでみたいという気持ちになって来た。
2008-05-30 変貌する若者たち(前編)
■若年層の変化
日本の社会構造の変化を分析するにあたって、生起する変化を最も象徴しているのは、大抵いつでも若年層だ。若者はモードをつくり、社会変革の中核となって大人世代を脅かす。大人は大人で、若者の未熟さと大人が作り上げた世界の作法を守らない無神経にいらだちながらも、そのエネルギーに徐々に席をゆずり、いつしか頼もしささえ感じるようになる。 そんな風景は自分が死ぬまで変わらないであろうと半ば信じていた。だが、現実はどうもまったく違うようだ。本当は最近気づいたのではなく、この10年くらいの間に徐々に気づいてはいた。ただ、自分が気づいたことに確信がなかったのだ。というより、簡単に説明ができるような変化ではなかったといったほうがよいかもしれない。
だが、最近、基本的に抑えておくべき、とても重要な仮説に出会った気がしている。
若年層について議論が錯綜する中、若者に『エネルギーがない』と感じている人は非常に多いし、自分でもそう感じる。ただ、それは、実は若年層だけの問題ではなく、『失われた10年』(10年ではなくて、15年、あるいは20年?)の後も、社会の将来に目標や展望が見えない日本人全体の傾向というべきであろう。特に若年層だけの問題を説明していることにはならない。それでも、若者の変化と考えられる要素を一つずつあげてみると、やはり何か構造変化が起こったとしか言いようが無い。
■エネルギーの低下?
この若者の変化を知るのには、岸本裕紀子氏の著作『なぜ若者は半径1m以内で生活したがるのか?』*1がとてもわかりやすい。
かなりランダムにピックアップしても、その言わんとするところは十分に伝わってくる。
P114
考えてみれば、今どきの若い女性たちの間で流行しているもののかなりの部分は、かつて老人が楽しみとしていたものなのである。 温泉、風呂、お伊勢参りなどの国内旅行、整体やマッサージ、お弁当、和菓子、猫と遊ぶ、占い、長話(長メール)、たまに行く芝居や歌舞伎。(中略)若いのだから、温泉なんぞでゆっくりする代わりにバックパックでも背負ってインド旅行でもすればと勧めても、そんなきつそうな旅はしたくないという。(中略)今どきの若者は放浪の旅などとは無縁である。『おうちでのんびり』が大好きだ。ヒットソングの歌詞も、若いくせにやたらと過去を振り返るものが多い。『楽しかったね』『大切なことを教えてくれたね』ちか。まったりとしながら、『ちょこっと和』の暮らしを楽しんでいる。そう、大好きなおばあちゃんのように、だ。
P130
20代の海外旅行離れが進んでいる。(中略)そもそもヨーロッパになど、興味がないというのだ。(中略)若い人々にとって、パリやニューヨークは古いのではない。パリやニューヨークは関係ないのである。
P134
若者たちを見ると、『はじめから視野にはいっていないもの』がとてもたくさんあるように思う。これだけ情報が溢れている現代に、若者たちは視野を狭めて生きている。日々の精神的な安定を得るためには、視野を広げすぎないこと、若い人たちは、そんな習慣が身についているのだろうか。
P135
最近の若い男性は、かつてほど車に興味を持っていないようなのである。(中略)大都市での若者の車離れが進んでいる。
P136
若い女性、特に10代後半から20代半ばくらいの女性たちは、欧米のハイブランドにさほど興味を示さないし、お金も使わなくなってきている。
P155
若者はかつてほど都会の生活に憧れを抱かないし、都会が魅力的だとも感じていない。それよりは自分が生まれ育った街が一番だと考える。
P159
周囲と同じでありたい、多様な価値観を受け入れる、という日本人の国民性が、ゲームコンテンツの多様化の中で、競争や時間制限というゲーム性に深く関わる要素を省きました。他ではありえない進化です。他のアジアの国、特に中国や韓国では、相手をやっつけて武器を奪い、それを売って、みたいなものが圧倒的に主流です。
どうだろうか。
おばあちゃんのような女性。 海外旅行、車、ブランド離れ。地元でまったりほんわか過ごす若者像が見えてくる。確かにエネルギーがないと言われても仕方がない感じだ。
では、そんな若者がこだわっているのは何か。 『ケータイ』と『コンビニ』だ。
P140
特にケータイメールへの依存は深刻である。(中略)若者のほとんどは、ケータイのない生活など想像もできないと断言している。(中略)大切なのは、常にメールを通じてつながっている相手が複数いること、その安心感だ。
P141
コンビニはもはや、単なる商店というよりは、若者の生活に密着した空間になっている。彼らは、精神の安定と生活の便利さはケータイで得て、日々の物質的な欲求と消費の楽しさはコンビニで満たしている。
そして、それは岸本氏の本のタイトルにあるように、半径1mにまで狭めてみせる空間、すなわち自分の身の回りだけですごす若者像に繋がって行くわけだ。引きこもり、ニート、パラサイトシングル等の存在とも底流で繋がっている。
ケータイやコンビニへのこだわり、特にケータイへのこだわりには大変なエネルギーを感じる。PCやケータイを通じたネットの世界を見れば、そこにオタクや引きこもりを言われる若者たちが、如何にここで大変なエネルギーを投入しているかわかる。社会的には表に出ることを忌避する、『オタク』や『腐女子』はそれぞれ秋葉原や東池袋でエネルギーを発散しまくっている。若者にエネルギーがないなんて、一体何の話? という感じだ。
確かに、世界に冒険旅行に出かけたり、世界の市場を切り開いたりというような、外向的なエネルギーはすっかり影を潜めたが、内向的なエネルギーはむしろ上がっているように見える。つまり、エネルギー量が減ったというより、エネルギーは一定だが、変化したというほうがあたっているのではないだろうか。では、表面の変化の背後にある理屈は何なのか、いったいどうしてこんなことが起こったのかという点については、同書にはほとんど説明がない。
その問題のヒントは、『公的空間』から『私的空間』への大幅なシフトが起きていることにある。これは、後編でお話したい。
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