セッションにおける行動の大部分は直感という『トリガー』により引き起こされる。直感は不確定なものではなくて記憶に基づいて行われる確実な作業なの。直感が外れるというのは、
直感ではなく
あてずっぽうってことね。
セッションで記憶の【創出→格納→理解】が行われていないなら、当然直感も存在しないの。
カルテをみて、やること、やらないことを分けて、やることに順番づけと時間配分をして終わらせる。
そんなセッションには直感は必要ないし、それ以前に直感の出番もないのね。行動は決めたパターンをなぞるだけだから。
いうなれば、オリジナリティがないセッションなの。それって誰がやっても同じようにできるセッションなのね。たとえ表面的には前回と違うように見せる為に複雑化していても、結局パターンを分解して組みなおしているだけなの。
”パターン”を保持したままセッションに臨むと、新しい記憶を創出することもないし、創出したとしても格納する領域には丸々パターンが占領してるのだから無理なのね。
晃穂が一回一回リセットしてセッションに臨むのは、パターンを消去して新たにセッションで創出される膨大な記憶の格納場所をつくっておくことでもあるのね。ディスクもフォーマットしないと容量全部を利用できないものね。でもパソコンをいじるとわかるけど、単なる消去はすぐにできるけど、フォーマットって時間がかかるし大変なのよ。
(わかりずらいひとはバックナンバー
「ゼロからはじまるセッション」を読み返してね。
真珠様も同じことをいってます。)
【創出→格納→理解】のサイクルをどれだけ細かく多く行うかが、閃きや直感を自由自在に展開できるセッションへのキーなのね。
それらのサイクルの大部分は無意識下で行われる作業なの。それが表の領域すなわち【行動】のトリガーとして現れるには、サイクルの蓄積が必要なのね。
無意識の井戸を埋めていって井戸の外、すなわち意識の上に顔を覗かせることが必要。だから、サイクルが繰り返され蓄積されないと【直感】には至らないの。
サイクルの蓄積の中には膨大な記憶がインデックス付データとして存在しているのね。
多数のインデックスを再配置して、再構築して、ひとつのラインを形づくって初めて、意識の領域に直感として現れるってこと。
少数の点ではランダムな点の配置としか認識できない。多数の点があると点の並びが浮かび上がり、線(=ライン)として認識できる。数本のラインでは方向はランダムなまま。
更に点が多くなると何本ものラインが認識できる。ラインが多数存在するとラインの一群が方向性を持っていることが認識できる。
データの集合がラインとなり、その姿と方向が明らかになったときに直感が生じる。直感に従って行動すれば間違いはない。あなたの希望も予想も私には視えている。だから私は意表をつくことができる、ズレが生じたら容易に修正も可能。
あなたが意識していないモノを私は確実に視ることができる。だから、あなたの気付いていない恐れや願望もカタチにして目の前に晒すこともできるのです。 More...