2008年6月 5日 (木曜日)

ひとりじゃない

いくら

現実に向き合う為の「掛け声」を

自分自身に言ってみたところで、

しょせん、弱っちぃ、もろい自分なのだ。

 

あまりにも容赦ない現実が連鎖すると、

ペラペラの「化けの皮」が剥がされ、

ひとりぼっちの自分に不安になる。

 

すっかり

やりきれなくなってきた僕は、

思わず、

「弱音」という愚痴をメールにのせた。

そしたら、

すぐ、

「言葉」が返ってきた。

 

 

「現実」は何も変わらないまま

僕が進まなきゃならないまま

だけど、

チカラが出た。

 

 

その存在に

ものすごく支えられて・・・・

 

ひとりじゃないって

   

いいね。

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胸一杯の気配。

 
おっと!
法話ライブ6月版が迫っていた。
 
 
 
*7日(土)は、遠方のお寺の婦人部の皆さんが「バス旅行」でこの辺りを周りながら、最後にウチの寺にお参りに来る。その時に、その婦人部からのリクエストが僕の「法話ライブ」なのだ。
 
 
*10日(火)は札幌中心部の某老舗ホテルを会場に、真宗大谷派(お東)のお寺の「坊守大会」がある。関東・東北地方や北海道内から約200人のお寺の奥さんが参加するというデカい集まり。その懇親会の席のアトラクションとして、「法話ライブ」を30分程させていただく。      
 
 
今日はそれらの場所で歌う曲を選んだ。
今回は新曲は発表せず、あえて今まで歌い込んできた歌を選んだ。
 
いつも以上に、胸一杯に表現しようとする気配が、僕の中に漂ってきているのを感じる。
 
 

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2008年6月 3日 (火曜日)

「忙」にならないで。

いつも、僕のブログを読んで心配してメールをくれる人がいる。

ありがとう。
見守っていてくれて。
その「言葉」で頑張れます。

でもね、
私はいつもいつも忙しい訳じゃありません。

ただ、
忙しい日とヒマな日の落差が極端なんです。

最近、次から次へと集中しなきゃならない出来事が押し寄せるので、目の前の事には懸命になり、過ぎ去った事がボヤケていく?
気持ちを切り替えないと向き合えない場合もあるし…。

「先日はどうもありがとうございました。」

と挨拶されて、先日って何かあったっけ?とすぐ思い出せない場合もあるから、僕らしくない。

今日も時間に追われた。
49日法要のお宅でお会いしたジイチャンはものすごく愉快で、言葉使いは悪いが僕をからかったり、でもホメてくれたり、僕も逆にジイチャンにツッコミ入れたり。すっかり意気投合した。でも僕は次の時間が迫っていたから、
「ジイチャン、元気でな!」
「おぅ!坊さんもしっかりやれ!」
と別れた。もっとゆっくりジイチャンと喋りたかったなぁ。

時間に追われるスケジュールの日は

心が亡びる「忙」という文字のような自分にならないように……、ね。

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キツかった。せつなかった。

キツかった。

でも、気づいたことがある。

住職として、
「若者」とか 「哀しい亡くなり方をした人」の葬儀を勤めるのはキツくて、
逆に、
「お年寄り」の葬儀にはそれなりに慣れていたのだとしたら…?

そんな僕が問われている。

葬儀の「メインテーマ」は、
ひとたび赤ちゃんとして生まれてきた以上、若者であろうと、お年寄りであろうと、死に至る縁(キッカケ)が整えば死を引き受けなきゃならない、という真実。それを亡き人からキッチリと受け止めること、
そういただいている。

亡き人は、迷える「亡者(霊)」ではなく、先立って私を真実に導いてくださった「先輩(諸仏)」。

実は、僕の所属する「浄土真宗」では、「冥福を祈る」ことはしない。
そんな意外なっ!と思われるかもしれない。

実は
「冥福を祈る」ヒマもないほど、私たちは、いや、私たちも「死」に直面している存在であり、
それを教えてくれたのが亡き人だ、と学ぶ。

冥福を祈った時点で、「俺はまだ死なない。あなたはあの世でどうか幸せに…。俺はまだ生きるから。」と亡き人の示されたことが「他人事」になってしまい、知らぬ間に「生きていること」にうぬぼれていることになる。

だから
「眠れ」と言ってみたり、「見てて」と言ってみたり。亡き人との間にバッツリと線引きをしてしまう。

亡き人と同じ地平線に立つ為には、
「あなたが教えてくれたように、もしかしたらこの私も死ななければならない、その真実を忘れていました。」
という事実に目覚め、生きている事実をよりクリアーに受け止めながら、歩み続けること。

………とは言っても、やはり、キツかった。

若者の遺影を見つめながらお経をあげていると、泣けてきて。せつなかった。

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2008年6月 1日 (日曜日)

学ぶぞ。

昨日(31日)は、僕の街の仏教会主催の“花まつり”があった。
 
法要のあと、「お稚児さん」として参加したちびっ子達53人が街中をパレードをした。
 
 
 
僕もちびっ子達と一緒にパレードの列に入り歩いた。
ちびっ子達に声をかけたり、「変なお坊さん!」とからかわれたりしながら、楽しいパレードだった。
 
 
 
そして、夜は前回投稿した方の「お通夜」だった。お経をあげて、緊張しながら法話をさせていただいた。
 
 
そんな1日の出来事を振り返りながら、
色んな「いのち」の場面を考えていた。
肩こりがバンバンに酷くなっていた。
 
 
 
 
今朝目覚めたら、また悲しい知らせが入った。若者が交通事故で。
 
 
現実は容赦なく、僕の想いを超えて、押し寄せてくる。
 
 
 
しばらく、めまいが止まらなくなっていた。
 
 
さ、学ぶぞ。
自分のいただいたいのちをよりクリアーに受け取る為に。

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2008年5月30日 (金曜日)

死亡診断書

 「枕経」の知らせ。

 お宅へ伺う。

 亡くなったのはバアチャンと二人暮らしの息子さんだった。なんで??

 

 家の中に入った瞬間、皆さんの「雰囲気」で・・・・、分かる。

 

 枕経をあげて、

 葬儀の日程を打ち合わせるべく、皆さんと向き合う。

 みんな無言だ。

 重たい空気の部屋の中。

 そして、僕も、どんな言葉を先ず言えばいいのか、戸惑う。

 

 すると、

 『死亡診断書』が僕の目の前に置かれる。

 「(これを見て、察してください)」

 という「無言」が、また引き続いていく。

 「死因」と「備考欄」に書き込まれた内容に、

 僕は、言葉を失う。

 何度も何度も、その欄を見る。

 皆さんの様子の意味が・・・分かる。

 バアチャンが小さく呟く。

 「若い人が先で、何で年寄りが後なんだ・・・」

  

 部屋の壁に目をやる。

 1箇所を除いて何の予定も書いていない真っ白な5月のカレンダー。その「28日」の欄に、バアチャンの字が書いてある。

 「○○。たんじょうび」  

 ひとつ年齢を重ねたのは、2日前。病院のベッドだった。昏睡のままで。

 

 

 バアチャンの介護をしたり、バアチャンの病院の送り迎えをしたり、

 孝行息子さんだった。

 僕が最後に会ったのは3月。

 やはり、

 バアチャンを連れて、お寺にお参りに来ていた姿を見た。

 人なつっこそうな、優しい笑顔だった。

  

  

 自分を取り巻く「状況」と、それを受け止める「心」の歯車。

 その歯車がズレてしまったとき。

 自らの手で「そっち」へ向かおうとする心の 

 何が「ブレーキ」になるんだろう?

 もし、

 タイムマシンがあって、「その時」に戻れるなら、

 何が「ブレーキ」になる?

  

  

 ・・・・・・・・・・・・帰り道。

 車の中で、

 さっきの放心状態で座り込んでいるバアチャンの「姿」を思いだしていた。

 横たわる息子さんの「姿」を思いだしていた。

 

 僕はつぶやいた。

 「ばかやろう」

  

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風が運んだ時間

 
朝、ウチを出たときのこと。
 
サーッと風が吹いてきたら、遥か昔、小学校の頃に登校する時に感じた「匂い」がした。
せっかくの懐かしい気分を失いたくなくて、思わず立ち止まって、深呼吸をした。
 
物置のガラス戸に映る僕は「現在」だった。
 
 
時間ってなんだろね。
 
 
もう5月も終わるんだなぁ。
 

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2008年5月29日 (木曜日)

言葉のイメージ。いろいろ。

たとえば、女性から

「明日、ランチrestaurantご一緒しませんか?heart02

な~~~んて「お誘いのメール」が来たら、ワクワクするっスcoldsweats01

ランチですよ、ランチ。「昼飯」じゃありませんって。「ランチ」だから、サバみそ定食とかカツ丼じゃないな、パスタとかピザとか、ちょっとオシャレな感じかなぁ。。でも、そんなオシャレな店が近所にないのも問題点・・・ま、妄想妄想・・・confident

でも、
・ランチをする・・・・(昼飯を食う) とか ・ディナーに誘う・・・・(晩飯に呼ぶ)

なんて、単なるカタカナ言葉のイメージにちょいとダマされてるのかも(*^_^*)

  

逆のパターンもあるな。

意識してカタカナ言葉の使用を避けている場合。

例えば、

僕がススキノのライブハウスでライブに出演するために、どうしても檀家さんの法要の日程を変更してもらわなきゃならない場合、

「あのぅ、こんど、札幌でですね、私、公演shineを依頼されておりまして、お参りの日程を変更していただけないかな・・・とcoldsweats01

しかも、「公演」が、「講演」と聞こえる効果もねらっている・・・catface

 

うーん、
言葉のイメージ。いろいろ。

云わんとする内容は同じなのに(*_*)

  

  

札幌での『みのや雅彦 コンサートツアー』に出かけるとき、駅で、檀家さんのバアチャンとすれ違い、「どっか遊びに行くのかい??」と言われ、咄嗟に

「はい、わたくしのお師匠サンの【公開講演会】が札幌でありますので、勉強も兼ねて、聴講に行ってまいりますっ!!」(←実際に使用した言い回し)

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2008年5月28日 (水曜日)

心の闇

自ら命を絶った「ある人」の文章を読みながら、思うままにならない人生と、孤独について考えてた。

いつも笑っていたあの人。しかし「笑顔」の影で生きることへの「絶望」が進んでいたことに誰も気づかなかった。いや、気づいていたとしても、そこまでの「心の闇」を見抜けなかった。

 

「孤独にして同伴者なし」という経典の言葉があるように、やはり人は孤独だ。

でも人は、大きくなって絶望して自殺するために成長してきたわけじゃないはず。

そうなるにはそうなるまでの状況や巡り合わせ、それに対する本人にしか分からない受け止めがあるわけだから、
もし人生が順調に進んでいたら、死を決断することもなかったろう。 

じゃ、なんでそういう状況になったんだろう?

そこで感じることは、
人生は自分の思い通りになるという「思い込み」、
生きるとは自分の都合の良いものだけを追い求めていくという「前提」・・・、
そういう「思い込み」や「前提」をまず問わなくてはならないと思う。

 

決して強くない私。状況が整えば何をしでかすか分からない私。

  

だからこそ、いま、確認しておきたいこと。

思うままにしたい気持ちと、思うままにならない人生。

その中で
限界を知る「覚悟」。
事実を受け入れる「勇気」。

  

まぁ、言葉ではなんとでも言えるけどね。

  

でも、だからこそ、いま、確認しておきたい。
「哀しい夢」を見た自分の「心の闇」と向き合いながら。

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