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キャリア&転職研究室魂の仕事人第31回 大工育成塾 塾長 松田妙子-その1-現代日本への危機感で大工育成塾を設立 その信念は国をも動かす 戻る
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魂の仕事人 第31回 其の一
現代日本への危機感で 大工育成塾を設立 その信念は国をも動かす
国を動かし、大工を育てる世界初の塾を立ち上げた人がいる。大工育成塾塾長・松田妙子80歳。住宅産業研修財団、生涯学習開発財団の理事長でもある松田氏は、これまで国のため、社会のため、人のために、粉骨砕身の人生を送ってきた。「ひとつずつ必要なことにチャレンジするのが私のテーマ」と語る松田氏に、仕事の意義、人生の意義を語っていただいた。  
大工育成塾 塾長 (財)住宅産業研修財団 理事長 (財)生涯学習開発財団 理事長 松田妙子
 

世界唯一の大工育成機関

 

「大工育成塾」とは、3年間で一人前の大工を育成することを目的に2003年に国土交通省と協働して始めた国家プロジェクトです。現在、東京、名古屋、大阪、福岡で開塾しています。

 入塾を認められた塾生は各工務店に弟子入りし、経験豊富な棟梁に日本の伝統建築の技術の指導を受けます。同時に座学で伝統的な木造住宅に関する技術・技能の知識・理論などが学べます。このように一人前の大工になるために必要な技術と理論を学べるのは世界でもこの「大工育成塾」だけです。

 現在の「大工育成塾」における私の立場は塾長です。塾生を指導する講師を選んだり、講師にアドバイスしたり、塾生が弟子入りしている各工務店を視察して指導したりしています。普通の学校で言えば校長先生のようなものですね。つまりすべてを統括し、きちんと国家プロジェクトとして機能しているかどうかを常にチェックしているんです。かなり難しいですけどね。また、随時国土交通省の担当者と話し合って、今後の方針を決めています。

塾生が弟子入りしている各工務店を視察する松田塾長(写真提供:大工育成塾)

日本に対する危機感から立ち上げた
 

 大工育成塾を立ち上げたそもそもの動機は、日本の現状に対する危機感でした。今、日本で最も早急に取り組まねばならない課題は、日本を支える人材の育成だと思うんです。

 戦後60年、日本は文明社会の急速な発達と比例して確かに暮らしは豊かにはなったかもしれませんが、その代わり失ったものも大きいと思うのです。今、日本中が平和ボケ、贅沢ボケになっています。多くの人々が楽な生活やお金儲けばかりを追求しているように感じていて、「このままでは将来の日本は危ういのではないか」と常々感じていました。なぜそうなったのか、よくよく考えてみたところ、志をもった人材がいないからだと思ったのです。だから今こそ本当に日本の国のために、社会のために、強い意思と志をもって頑張ってくれる人材、21世紀を担う若者を育てなきゃいけないと思ったのです。

 では世の中を改革していくために、どういう人材が必要なんだろうと考えたときに思い浮かんだのが、江戸の末期から明治維新の時代に活躍した「志士」たちでした。武士の精神を持った人材、つまり「侍」をつくりたいと強く思ったんですね。その現代の侍として最適なのが大工なんです。なぜなら私は「家づくりは人づくり、国づくり」だと思っているからです。つまり大工は住まいづくりの志士であり、大工育成塾の塾生はその国づくりの根本を担う侍なんです。

懸命に修行に励む塾生(写真提供:大工育成塾)

現在、住宅業界の重鎮として多方面で活躍している松田氏だが、驚くべきことに住宅業界に身を投じたのは40歳手前のとき。そのキャリアのスタートは全くの異業種、しかも、異国でのスタートだった。

18歳で自立。26歳で単身アメリカへ
 

 そもそも私は18歳のときに自立したんです。最初の職業は進駐軍が集まるクラブのシンガーでした。私の父である松田竹千代(※1)は政治家であると同時に社会奉仕家でもありました。そのため幼少期は何不自由なく暮らせていたのですが、太平洋戦争が始まると空襲で家は焼かれ、敗戦後は父が公職追放となったため、私が家計を支えるために働かねばならなかったのです。

 それでまず進駐軍の将校が集うクラブで歌うことでお金を稼ぎ始めました。それからGHQの特別調達庁で通訳やタイピストとしても働きました。その後、貯めたお金でレストランを開業してGHQの兵隊相手にかなり儲けました。そして26歳のとき、アメリカに渡りました。アメリカに行けば自分の新しい人生が開けると思ったからです。

 日本でもテレビ放送が始まった頃で、テレビの世界はすごく華やかで楽しそうだったので、アメリカに行ったらテレビ局のプロデューサーになると決めていました。それで南カリフォルニア大学のテレビマスコミ科に入学したんです。

 留学して1年後、各テレビ局のトップ20人ほどに「私を雇っていただければお役に立つでしょう」という手紙を出したら、当時の三大テレビ局のひとつ、NBCの親会社の会長から返事がきて、NBCで働けるようになったんです。

※1 松田竹千代──昭和期の政治家にして社会奉仕家。1902年、13歳で渡米し、苦学の末ニューヨーク大学に入学。社会事業を志し、1914年に帰国後、大森安仁子氏が運営する社会福祉施設「有隣園」を手伝う。1928年総選挙に出馬し初当選。終戦後、公職追放されるが、1954年の解除後に自由党に復帰、自由民主党結成に関わった。衆議院議長、文部大臣、郵政大臣などを歴任。社会奉仕家としてもアジア孤児福祉財団会長を務める。政界を引退後は、ベトナム戦争中にベトナムのビエンホア孤児職業訓練センター「有隣園」を創設し、園長として社会福祉事業に尽力した。享年92歳。

日本人女性初のNBCプロデューサーに
 

 留学2年目から学生とテレビ局でのアルバイトの二足のわらじ生活が始まりました。忙しかったけど刺激的で楽しい毎日でした。NBCの方は、最初は事務職からのスタートでしたが、受付、秘書、幹部候補コースを経て、1年半後にはいよいよ制作部へ入ってテレビ番組の演出に携われるようになりました。プロデューサーのアシスタント的な立場で現場の一切合財を仕切るというたいへん責任が重く、昼食を取るひまもないほど忙しい仕事でした。テレビ番組の演出のときには実際にカメラを動かしたり、照明を調整したりもしました。多忙を極めましたが、非常にやりがいのある仕事でした。

 当時のアメリカの日本に対する認識はとてもひどいものでした。日本人が出てくる番組の演出でも、日本人はみんなチャイナ服を着てて、ロイド眼鏡で出っ歯で、カーテンの陰からのぞき見してるというようなイメージでね。座布団も花びらみたいに広げて置いて、しかもその真ん中の座布団がないところに人間が座ったりしていました。

 だから、「それは全然違うからこうするべきだ」と正しい日本を伝えようと演出の指導をしていたら、「日本のことなら松田に聞け」という評判が広まって、仕事の幅も広がっていきました。それで日本人女性初のプロデューサーになったんです。

日本初のPR会社を設立
 

 でもNBCで働き初めて2年目で結婚して、その3年後に長女が生まれたのでNBCを辞めて帰国することにしました。そもそも夫と子供ができたら日本で育てたいと話していたんです。子供が日本のことを知らないと困ると思っていましたから。

 帰国したのは昭和33年、32歳のころですが、私が日本を発った時とはあまりにも様変わりしていました。ちょうど高度成長期の入り口に差し掛かったころで、街には高層ビルが建ち並び、自動車もたくさん走っていました。その急激な経済的発展に夫婦ともどもびっくりしたんです。

 帰国後はマスコミ業界のオーソリティからどれだけ誘われたかわかりません。NHKの会長、日本テレビの正力さん(※2)、電通の吉田さん(※3)などがしょっちゅう来ていました。

 でもその誘いは受けませんでした。当時の日本のテレビ番組のあまりのひどさにあきれたんですよ。できた番組もそうですが、作り方がひどかった。リハーサルもしないで番組がどんどん作られていました。だからこんなの手伝いたくないって断ったのです。

 次に何をしようかと考えたとき、日本の現状を正しく世界に伝えたいという気持ちが湧いてきました。ここまで日本が経済的に発展して豊かになったにも関わらず、アメリカではまだ日本はイミテーションや1ドルブラウスなどの安物ばかりを作っている国だというイメージがあったのです。あるとき、アメリカ人に「イミテーションでもオリジナルよりも良いものを作ったら、それはイミテーションとはいわないんだ」って言ってやったことがありました。それほどの技術力を日本は有していたので、これからの日本は違うんだという自信を持っていたんです。そういう日本をアメリカに正しく伝えなきゃいけないと思って、日本初のPR会社「コスモPR」を作ったんです。

※2 正力さん──正力松太郎(1885−1969)。日本テレビ初代社長。巨人軍を創立し、原子力委員長、初代科学技術庁長官を務め茨城県東海村で日本初の原子炉稼動を実現。プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父と呼ばれている。

※3 吉田さん──吉田秀雄(1903−1963)。電通4代目社長。広告の鬼と呼ばれ、電通発展の基礎を築いた。「鬼十則」などで有名。

アメリカ時代の縁で
 

 当時はまだ日本にPR(パブリック・リレーション)という言葉や概念がない時代でした。でも私はNBCのプロデューサー時代に広告代理店やスポンサーと折衝を重ねた経験で、PRの知識や意義は十分に理解していました。だからこれからは日本でも「物を買ってください」という広告よりも、「企業の価値を知ってください」という企業のイメージアップに貢献するPRが重視されるはずだと予測していたのです。

 立ち上げたばかりのころはアメリカ時代に知り合った日本の大企業の社長さんたちにずいぶん助けられました。アメリカのNBCに勤めていたころ、日本からマスコミ業、製造業、建築業などいろんな業界の大企業の社長がNBCや他のアメリカ企業に視察にいらしていました。そのときNBCのトップから頼まれて、その方たちを案内していたんです。

 それで帰国してコスモPRを立ち上げた際、お知らせの葉書をみなさんに送ったんです。そしたら珍しい人間だから何かやってくれるんじゃないかと期待したのかどうかわかりませんが、竹中工務店や松下電器や日鉄などの名だたる大企業の社長さんが毎日のように来てくださって、いろんな仕事をどんどんくれたのです。業績は立ち上げから順調に伸びていきました。だから当時、私や会社があるのはその方たちのおかげだと思っていました。

世界的写真家と組んで日立のPRに成功
 

 私が手掛けた企業PRの仕事の中で、最も忘れられない仕事は日立製作所のPRの仕事でした。急成長する日立を目の当たりにして、戦後日本の成長の象徴だと感じ、ぜひアメリカに紹介したいと思ったんです。そこでアメリカの国民的雑誌『ライフ』で写真を撮っていた写真家のユージン・スミス(※4)に撮影を依頼したんです。ユージンに頼んだのはただ写真家として技術的に優れているというだけではなくて、人の心に訴えることができる作品が撮れる写真家だと思っていたからなんです。

 ユージンの粘り強さには参りましたよ。当初は3、4カ月の契約だったのに、2年も粘りましたからね(笑)。それで日立の人、機械、工場、すべてを撮りました。その写真と記事は『イエスタデイ・トゥデイ・トゥモロー』という一冊の写真集になったのですが、『ライフ』にも14ページに渡って特集記事として掲載されたんです。私がアメリカにいた頃は、どんな家にも必ず『ライフ』が1冊置いてありました。そんな国民的雑誌の14ページですから、広告費に換算したら莫大な額になります。それが編集部側で作る特集記事だから無料でできたんです。PRとしても大成功で、日立の株価が上がったんですよ。それほどの影響力でした。ユージンだからこそなしえたことだと思います。

※4 ユージン・スミス──アメリカ、カンザス州出身の写真家。戦争写真家としてキャリアをスタート、数々の印象的な作品を撮影する。特にサイパンで塹壕から外に出ていく二人の子供の後姿を撮影した「The Walk to Paradise Garden」は多くの人の心を打ち、世界から賞賛されている。戦争終了後は人間の営みや心情を表現することに転向。アメリカの国民的雑誌『ライフ』で、フォトエッセイという形で発表し続けた。日本では日立の撮影のほか、水俣病汚染の写真を撮り続け、世界に悲惨さを訴えかけた。

コスモPRの経営も軌道に乗り、このまま順風満帆の人生かと思われた矢先、松田氏はある疑問にぶつかる。その疑問はやがて義憤に変わり、松田氏の運命をも大きく変えていった。

全くの未経験で住宅会社を設立
 

 コスモPRの経営も軌道に乗ったし、二人の子供も大きくなったから、夫と相談してそろそろ家を買おうということになりました。ところが散々探したのですが、どれも価格がとてつもなく高く、しかも間取りや設備が不十分で買いたいと思える家が全くなかったんです。だから結局中古の家を買って、リフォームして住むことにしたのですが、普通の人が普通に家を買えないということに強い怒りを感じました。私たちはたまたま買えたけど、私と同年代の人や若い人はこれから住宅を買おうとするときに、とても困るのではないかと。現状の住宅メーカーでそれが不可能なら、自分で欧米に負けない、価値と価格の一致した住宅を供給しようと思って、『コスモPR』の経営から退いて、新たに住宅会社を作ることにしたんです。

 もちろんこれまで全く経験のない異業種への参入だったので、周りからは止められましたが、躊躇や不安はなかったですね。とにかく日本の劣悪な住宅事情をなんとかしたいという思いが強く、やればなんとかなると信じていましたから。その思いに共感してくださって、PR会社を立ち上げた際に助けてくれた竹中工務店や八幡製鉄所や日立などがこのときも資金面でサポートしてくれたんです。

 すごい行動力? それは私にはわかりません。行動力があるとかないとかは第三者が見て決めることですから。私はただ世の中をよりよく変えたいと思うから行動しているだけです。そういう思いを伝えると私の周りのみなさんが賛同してサポートしてくれるのです。それに対してはすごく感謝してます。

 

日本ホームズを設立した松田氏は「よりよい住宅をより安く」をモットーに、日本で初めてツーバイフォー方式を導入したり、通産省や建設省と協働し「ハウス55計画」を推進。その結果、一世帯一戸が急速に進み、日本ホームズも順調に成長した。しかしある少年との出会いで、松田氏はまたしても人生の進路を大きく転換する──。

次回は松田氏の人生を変えた一言、その後の獅子奮迅の働きを語っていただきます。乞う、ご期待!


 
第1回 2008.5.19リリース 現代日本への危機感で 大工育成塾を設立
第2回 2008.5.26リリース 家づくりは人づくり 日本建築の復権を目指す
第3回 2008.6.2リリース 仕事は世のため人のために 必要だと思うからやるだけ

プロフィール

まつだ・たえこ

工学博士・大工育成塾塾長、(財)住宅産業研修財団 理事長、(財)生涯学習開発財団 理事長

1927年10月、政治家で社会奉仕家の松田竹千代氏の次女として東京に生まれる。1945年空襲で家が消失し、政治家の父が公職追放になったことで18歳のときに歌手を目指し、イタリア人シンガーに弟子入り。進駐軍の将校クラブで歌手として働き始める。その後アメリカ行きを決意し、GHQ特別調達庁で事務員、タイピスト、通訳を経験したのち、ステーキハウスをオープンし大繁盛させる。貯めた資金で1954年、26歳のとき渡米。アメリカ南カリフォルニア大学テレビマスコミ科入学。1年後、NBCテレビに直談判して入社。事務職、プロモーションなどを経て、日本人女性として初のプロデューサー業に就く。
32歳のとき帰国。翌年、日本の実情を世界に紹介する日本初のPR会社のコスモ・ピーアールを夫と共同で設立。1964年、日本の遅れた住宅事情を変えようと建設会社の日本ホームズを設立し、2×4工法による経済的な住宅作りを手がけた。1975年、日本ホームズ経営を退き、「ハウス55計画」を通産省と建設省と共同で画策。国主導のマイホーム開発・持ち家政策と話題になった。
1992年、65歳から日本の住まいの研究を開始。5年かけて執筆した「日本近代住宅の社会史的研究」で71歳のときに東京大学の工学博士号を取得。2003年、大工を育成する大工育成塾を開塾。社会奉仕家としても、1994年には亡父の松田竹千代の遺志を継いでベトナムのビエンホア孤児職業訓練センター有隣園園長に就任。資金援助だけでなく、定期的に視察に訪れた。
建築審議会委員、東京都公安委員他多くの委員を務め、政策提言を行う。1987年、藍綬褒章受賞。主な著作:『一家一冊』、『私は後悔しない』、『家をつくって子を失う』、『親も子も後姿を見て育つ』など多数。

【関連リンク】
●大工育成塾
●(財)住宅産業研修財団

 
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『家をつくって子を失う―中流住宅の歴史 子供部屋を中心に』(住宅産業研修財団)

良い住まいとは何か。どんなに住宅のつくりや設備がよくてもそこに住む家族のコミュニケーションや家庭教育がなされていなければ意味がない。近代の中流住宅の歴史とその時代の家族のあり方を検証し真の日本の住まいを考えるための一冊。

 
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取材・構成/山下久猛
写真/キッチンミノル
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