衆議院議員 河野太郎発行メルマガ「ごまめの歯ぎしり」ブログ版

戦う政治家! 国会議員 河野太郎が描く国会奮闘記

年金改革、教育改革を実現するために戦い抜きます!



太郎物語 第3章

太郎物語 第3章  
ジョージタウン大学・ポーランド央計画統計大学交換留学

そして1年後、アメリカの首都ワシントンにあるジョージタウン大学の国際学部に入学し、比較政治学を専攻します。このときにとったアメリカ外交のゼミの教授が、のちに女性で初めて国務長官になるマデリーン・オルブライト女史でした。

マイク・マンスフイールド駐日米国大使は日米関係ほど重要な二国間関係はないと盛んに発言していましたが、太郎は、英語の勉強のために毎日ワシントンポスト紙を読みながら、日米関係がそれだけ重要だというのにもかかわらず、アメリカの新聞にはまったく日本に関する記事が出ていないことに大いに不満を感じました。日本の日米関係に関する取り組みが何かおかしい、そうでなければこれほど情報が一方的なはずがないと日本政府の外交に不信の念を抱きました。この思いがやがて太郎が政治家を目指すことになるきっかけになっていきます。
アメリカ政治の中心であるワシントンにいることを最大限に利用しようと、1983年にはアメリカの大統領選挙に立候補したカリフォルニアのクランストン上院議員の選対本部の財務部門でボランティアをします。クランストン候補が敗北すると、アメリカ議会の中でアラバマ州選出のリチャード・シェルビー下院議員の下でインターンを始めます。
 
当時のアメリカは、共産党を悪魔の手先と呼んだレーガン政権。
太郎は共産主義とはどんなものか肌で感じようとジョージタウン大学の三年生の時に、共産圏に留学しようと試みます。

ポーランドのワルシャワにある中央計画統計大学に夏から冬にかけて交換留学し、学生寮に住み、配給切符を手にして物を買うために毎日行列に並ぶ生活をしながら共産主義とポーランドという国について学びました。
折から自宅軟禁状態にあった連帯のワレサ書記長をインタビューするために自宅に訪問し、ポーランド警察に逮捕され、留置所で一晩過ごすことにもなりました
。結局、共産主義というものは一部の特権階級をのぞいて国民が大変辛い思いをしなければならないシステムであり、これほど非人間的な社会はないとの思いを強く持ちました。
 ジョージタウン大学に復学後は、シェルビー下院議員の上院議員選挙を手伝ったりもして、1985年12月ジョージタウン大学を卒業しました。

太郎物語 第4章  
富士ゼロックス株式会社に入社・結婚・母の死へ

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