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2008-05-29

大阪市生野区・画鋲混入女子高生逮捕

29日MBSは伝えている。

「整髪料に画びょうで女子高生逮捕〜大阪・生野区」

大阪市生野区のドラッグストアで、陳列されていた整髪料に画びょうを入れたとして、16歳の女子高校生が逮捕されました。

業務妨害の疑いで逮捕されたのは、大阪市の私立高校2年の女子高校生(16)です。

調べによりますとこの女子高校生は、今年2月から4月の間に大阪市生野区のドラッグストア「マツモトキヨシ」桃谷店で、商品の整髪料に画びょうを入れた疑いです。

先月25日、この整髪料を買った客から、画びょうが混入していて指に刺さったと申告があり、店が被害届を出していました。

女子高校生は、「友達とけんかしてむしゃくしゃしてやった」と、容疑を認めているということです。

また女子高校生のブログには、清涼飲料水のペットボトルに除光液を入れたなどの書き込みもあり、警察は余罪もあるとみて調べています。
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映像を見た。
二秒ほどだったが「桃谷商店街」が映っていた。
なつかしい風景だ。

二十年以上前のあの通りにはまだ「マツモトキヨシ」はなかった。
画鋲を入れた容疑の「女子高校生」も当然生まれてはいない頃だった。

「女子高校生のブログには、清涼飲料水のペットボトルに除光液を入れたなどの書き込み」

とある。
わずかだがテレビ画面でも流されていた。
文章やその内容あるいは用いられている色彩などのすべてが映し出されたわけではもちろんないので、内容の全体像はよく把握できない。

もっとも、犯罪行為そのものは昨今どこにでも多発しているケースの一つに思えるため、さして驚くに当たらない。
それよりも驚いたのは、女子高生のブログの体裁にである。
あんなふうに整っているのかと、妙に感心した。
工夫しようという意欲がダイレクトに伝わってきた。
しかし犯罪はどこまでいっても犯罪でしかない。

問題は、犯罪だから逮捕せよ、という短絡にあるのではない。
むしろ逮捕すれば何もかも済んでしまうという思い込みのほうがはるかに危険な素人的イデオロギーであることは今なお確かである。

そうした初歩的部分は治安に対する国民の考え方が変わっていかない限り、何をどう対策しようと、変わるわけがない。
治安とは何か。どうあるべきか。
日本国民は果たしてどこまで自信をもって即答できるだろうか。

他人に迷惑をかけないよう配慮を期した注意深い言葉遣いを用いて。
しかも言うまでもないことだが、さらりと自然に、である。

問題とはこうだ。
ひとりの女子高生のブログにあんなふうに丁寧な工夫まで軽くやらせてしまうと同時に実際の犯行へ及ばせてしまう周囲の環境とは、一体どういった環境だったのか、あるいは交友関係の持ち方なのか、という深い懐疑である。

「友達とけんかしてむしゃくしゃしてやった」

私立高校がどこかは差し当たり問題ではない。
そうではなく、「友達とけんかして」、が原因だったとしても、それがなぜ「商品の整髪料に画びょうを入れた」へとダイレクトにつながっていくのか。

「友達」は特定の人物だろう。
だがドラッグストアの消費者は不特定多数である。
この「あいだ」には明らかな距離を感じさせるが、感じさせるのは本当に「距離だけ」だろうか。

「友達」、とある。
「余罪」、ともある。
とすれば「反復」されていた可能性が出てくる。

「反復」は多くの場合「強迫的」である。
フロイトはいう。

「ここでまず問題となるのは、何を抑圧下にある代表と見るか、つまりリビドー的な力なのか敵意をもった力なのかということである。これがはっきりしないのは、強迫神経症が退行を前提にしているからで、この退行により、情愛的な力にかわってサディズム的な力が現われるのである。愛する人にたいする敵意に満ちたこの衝動が抑圧下にあるのである。その結果は、抑圧の仕事の初期と後期とではまったく違っている。まず抑圧の仕事は完全な成果をおさめ、表象内容は拒絶されて情緒は消失してしまう。代理形成として自我の変化、つまり、症状とはいえないような良心の高まりが現われる。ここで代理形成と症状形成は分解してしまう。さてここで、抑圧のメカニズムについて多少知ることができる。抑圧はほかのどんな場合とも同じようにリビドーの除去をもたらしたが、その目的のために、反対物の増強によって『反動形成』という方法を使った。つまりここでは代理形成が抑圧と同じメカニズムをもち、基本的には抑圧と一致するが、時間的にも概念的にも症状形成とは区別される。おそらく、抑圧されたサディズム的な衝動をふくむ両立的な関係が、こういう全過程を可能にしているのであろう」(「抑圧」)

「代理形成」されている限り、本当の攻撃対象は別の何かへと「置き換え」られてしまっている。
このケースでは学校での人間関係をめぐる「トラブル」が、「商品の整髪料に画びょうを入れた」へと、時間・場所・行為、いずれをとってもほとんどまったく変形された形としか考えにくい別の表現で「代理」されていることが見て取れよう。

さらにフロイトはこう述べている。

「しかし、初めはうまくゆく抑圧も長続きせず、経過が進むにつれて失敗が多くなってくる。反動形成によって抑圧を許した両立性は、抑圧されたものが再現できる場所でもある。消滅した情緒は、社会的不安、良心の不安、容赦ない批難などに変化してふたたび現われてくる。拒否された表象は、置き換えによる代理によって、つまりしばしばささいなことや無関係なことへの置き換えによって代理される。抑圧された表象を完全に回復しようとする傾向はたいていはっきりしている。量的な感情的因子の抑圧のさいの失敗は、われわれがヒステリー性恐怖症の形成で学んだ回避と禁止による逃避と同じメカニズムをもたらす。しかし表象は意識によって執拗に拒否されつづける。なぜなら、それによって行動の阻止、衝動の運動性の束縛が行なわれるからである。そこで強迫神経症の抑圧の仕事は、なんら効果のない、終わることのない輪を描くのである」(同)

「抑圧の仕事は、なんら効果のない、終わることのない輪を描く」、とある。

抑圧されてはいるけれども深層心理において保持されている限り、どれほど抑圧してしまおうとしても、むしろ抑圧すればするほど別の形へ「置き換え・加工」され、何度でも繰り返し「終わることのない輪を描く」ことで、逆に原因は生き延びようとするばかりでなく、実際に生き延びていくのである。

もし「余罪」やその類似行為があきらかとなってきた場合、個人的に特徴的な「反復性」が顕著に見いだせることと思う。
そのとき、本人をそうした反復行為へと駆り立てているものは本当は何なのか、精緻に見極める「対話=言葉の作業」に入っていかない限り、問題は永久に解決されないだろうと考える。
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「したがって、この過程で本質的な点は、目標は不変のままで対象が変更されることである」(フロイト)

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