長沼健さん |
日本サッカー協会元会長で、1968年メキシコ五輪の監督として銅メダルを獲得した長沼健(ながぬま・けん)さんが2日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。77歳だった。親族のみで密葬を行うことにしており、葬儀日程は未定。
1930年、広島市生まれ。14歳だった45年8月、被爆した。関西学院大でフォワードとして活躍後、53年に中央大に学士入学。日本が初めてワールドカップ(W杯)の予選に参加した54年スイス大会の日本代表に選ばれ、韓国戦で日本選手初のゴールを決めた。
55年、古河電工に入社。メルボルン(56年)、ローマ(60年)両五輪に出場した後、62年に32歳の若さで日本代表監督に就任し、東京五輪(64年)でベスト8、メキシコ五輪(68年)では釜本邦茂選手らを擁して銅メダルを獲得した。ドイツ人のデッドマール・クラマー氏(83)をコーチとして招き、基本プレーを徹底的に鍛えた。
76年、2回目の代表監督を退任した後、日本サッカー協会の専務理事、副会長などを経て、94年第8代の会長に就任。日本と韓国の共同開催で行われた02年のW杯招致では日本組織委員会副会長を務めた。05年日本サッカー殿堂入りを果たし、現在、日本サッカー協会最高顧問、日本体育協会副会長。
▽川淵三郎キャプテンの話 急な知らせにショックを受けている。Jリーグ創設の際、陰になり日向となって全面的に支援していだたき、それが今日のJリーグの成功につながった、と心から感謝している。2002年ワールドカップ(W杯)招致活動の際は、地球を何周もするほど精力的に活動され、その功績が高く評価され、W杯の開催と成功に至ったと思う。ご冥福をお祈りします。
▽メキシコ五輪の代表チームのメンバーだった小城得達・広島県サッカー協会会長 試合では選手にあれこれ指示を出したりせず「お前らに全部任せる」というタイプだった。高地のメキシコでは寝冷えをしてはいけない、と夜中に選手に毛布をかけて回るような心やさしい人でした。昨年8月に知的障害者のサッカー大会を広島で開いた時にお会いし、とてもお元気だった。
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