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2006年 6月分 放送リスト
6月7日 (水) 放送 アンコール
日本サッカー ベルリン・オリンピックの奇跡 〜世界を驚かせた逆転勝利〜

6月21日 (水) 放送 第255回
幻の大艦隊  〜イギリスから見た薩英戦争〜


アンコール
日本サッカー ベルリン・オリンピックの奇跡
〜世界を驚かせた逆転勝利〜

放送日
(本放送) 平成18年6月7日 (水)
  22:00〜22:43 総合 全国
(再放送) 平成18年6月13日 (火)
  16:05〜16:48 総合 全国
平成18年6月23日 (金)
  0:00〜0:43 (※木曜深夜) 総合 近畿地方のみ
平成18年6月23日 (金)
  1:10〜1:53 (※木曜深夜) 総合 全国 (近畿のぞく)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
松平 定知 (まつだいら・さだとも) アナウンサー
玉木 正之 (たまき・まさゆき) さん (スポーツライター)
番組概要
その時:昭和11 (1936) 年8月4日 午後5時45分
出来事:ベルリン・オリンピックで、日本サッカーが金メダル候補・スウェーデンに逆転勝利
ヒトラー政権下で開催されたベルリン・オリンピック。この大会で、世界を驚かせた日本の奇跡の勝利があった。オリンピック初出場の日本サッカー代表が、金メダル候補・スウェーデンと戦い、大逆転劇を演じた。
70年前の日本サッカーは、世界のレベルに大きく後れをとっていた。それでも、選手たちは数々の難関を乗り越え、勝利を手に。その決死の戦いは世界の人々に感動を与えた。
2006年ワールドカップ・ドイツ大会の直前、番組では、日本サッカーの出発点ともいえる“奇跡の勝利”をつかむまでの日本選手の奮闘を描く。
[番組は、平成16年5月12日 (水) に放送した内容を一部変更して放送]
番組の内容について
「その時」の時刻 (昭和11年8月4日午後5時45分) について
時刻については、ヨーロッパの新聞では試合開始を5時半としたり5時としたり、日本のスコアボードには6時となっていたりしますが、日本蹴球協会の機関誌「蹴球 (しゅうきゅう) 」に記載されている工藤コーチの手記によれば4時にキックオフとなっています。
よって今回は、試合時間とハーフタイムの15分をあわせて、試合がおわった時刻を5時45分としました。

番組冒頭の日本代表の試合映像について
ワールドカップ・ドイツ大会への出場を決めたアジア最終予選・北朝鮮戦の試合映像を中心に紹介しています。この試合は観客が入場できなかったため、観客の映像は国立競技場でモニター観戦していたサポーターです。

「秩父宮記念スポーツ博物館」について (松平キャスターが冒頭でレポートしていた場所)
サッカーだけでなく、スポーツ全般にわたる資料が展示されています。
場所:東京都新宿区霞ヶ丘町10−2 国立競技場内
Tel:03−3403−1159
(休日、開館時間などは博物館にお問い合わせください)

代表選抜、日時について
機関誌「蹴球」によれば、3月から4月に選抜チームが発表されていますが、堀江忠男選手の手記「わが青春のサッカー」によれば、1月から2月には知らされていたとの記述があります。
また、この時の選抜チームは早稲田大学が中心だったため冒頭は大学への知らせとしました。

当時の日本サッカーのレベルについて
1917年に初めてアジアの国際試合に参加しますが、その時に初めてヘディングを見たとの記述があります。
(後藤健生「日本サッカー史 代表編」より)

堀江選手の読んでいた本
チャールズバカン「フットボールアソシエーション」他数冊の本がありましたが、堀江選手が主に読み込んでいたであろうと思われる本を撮影、引用しました。

ショートパス戦法について
この時に初めて生まれたわけではなく、もともとはヨーロッパで生まれた戦法です。これをビルマ人留学生が大正時代に日本に伝えたのが始まりとされています。体格に劣るチームには都合の良い戦法とされます。

練習方法について
選手の倍の数のボールをパスしあうという練習法は、代表選手の加茂健さんより教えていただきました。これ以外にも浅間山の溶岩の上を走り込んだという話もあります。

鈴木監督の言葉
「蹴球の本場の欧州列強と、この乏しい国際試合の経験でどこまで対抗してゆけるか全く検討がつかない。しかし、とにかく日本の実力のありのままを出して戦い抜く。」
(「蹴球」に掲載されている鈴木重義監督の出発に際しての言葉より)

機関誌「蹴球」について
神戸の田辺文庫、東京の秩父宮記念図書館にて閲覧可能です。

練習試合の堀江選手の言葉
「これはたいしたチームではない。落ち着いてやればたいして苦労なく勝てると思う」 (「蹴球」より)

ヨーロッパのメディアについて
「日本人には失望させられた」 (ドイツの「フッスバル」より)
「日本人選手には印象付けられるものは何もない。学生たちにはヨーロッパ旅行がいい卒業の記念となるだろう」 (スウェーデン「SVT」より)

堀江選手の言葉
「オリンピックに出場するどのチームとも対等に戦えるはずのないチームに負けたのは相当な痛手でした。不安と混乱とか皆を灰色に押し包んでしまうのをどうすることもできませんでした。」

2バックと3バックの違い
後藤健生「日本サッカー史代表編」、堀江忠男「わが青春のサッカー」を参考にしました。
ただ、3バックはこれ以後主流となりますが、この大会で優勝したイタリア (日本が2回戦で戦い8-0で敗退した) は2バックで優勝しました。

工藤コーチの回想
「キムが激しい闘志と頑強なるキープ力で守備陣を落ち着かせると、日本のマークは緊密さを加えていった」
(「蹴球」より)

日本、スウェーデン両国の入場の際のエピソードについて
スウェーデン
「万雷のような拍手がわきおこり、たくましいスウェーデンチームを迎えた。」
日本
「日本選手は礼儀正しく無言で観衆に向かっておじぎをしたが、観衆には殆ど注目されたなかった」
この2点とも「蹴球」に掲載されている言葉です。

日本選手の言葉について
「ただ勝ちたいという思いだけでいっぱいになっていました。そして冷静に敵の顔を見る余裕すら失っていました」
(「蹴球」より) 「堀江選手の言葉」

試合経過の様子について
「蹴球」掲載の記事を中心に、関係者の取材によって構成しました。

スウェーデンの得点について
後藤健夫氏の「日本サッカー史」によりました。

川本選手の言葉
「まるで女郎ぐものアミのようだった」 (川本泰三「わだち」より)

鈴木監督の言葉
「皆 調子がいいぞ うまくなってる。後半頑張れば、今日は勝てる。きっと勝て」
(堀江忠男著「わが青春のサッカー」より)

川本選手の言葉
「気後れも幸運を頼む甘さも、もう捨てないわけにはゆかなかった。そして、監督の言葉に、我々は忘れ物のありかをふっと思い出した」
(川本泰三「わだち」より)

キム選手の言葉
「今からでも遅くはない。後悔は決してしたくない。後は死にもの狂いで戦うだけだ」
(金容植の自伝の言葉より、韓国で出版されたものを翻訳)

ポジションの名称について
「インナー」、「ウイング」などの名称は当時のポジションに従いました。

川本選手の言葉
「今にも体がバラバラになりそうだ。もう駄目だ。ぶっ倒れる」
(川本泰三「わだち」より)

ヨーロッパに伝えられた新聞
「不可能なことがおきた」
「こんなことを誰が想像できたろうか」
「美しく、堂々とした戦いだった。日本の戦いぶりが、歓喜を呼んだのだ」


スタジオでの金容植さんの写真について
モニターに映されている画面 (金選手の後年) は、1961年に行われた日韓戦の時の写真です。

釜本選手の言葉について
「川本さんは同じストライカーとして最も私の立場を理解し、その時々にあった指導をしてくれました。そして『ストライカーは点を決めろ、それはどんな形でもいい、勇気を持て』と励ましてくれたのです」
ジャーナリストの賀川浩氏との釜本さんの対談から引用しました。(FCジャパン)

最後の言葉
「何事にもアグレッシブであれ。」
「絶え間なき斬新」
…川本泰三さんの言葉 (「わだち」より)
「強くなろうとすることは、常に苦しいことです。しかし、苦しさに耐え、一歩一歩踏みしめていく、その過程こそが、喜びに変わっていくのです」…堀江忠男さんの言葉
参考文献
○堀江忠男著「わが青春のサッカー」 (岩波ジュニア新書)
○「サッカー日本代表 世界への挑戦」 (株式会社新紀元社)
○後藤健生著「日本サッカー史 代表編」 (双葉社)
○「わだちー川本泰三遺稿集」 (川惣電機工業株式会社)
○カン・ヒボン著「日韓サッカー激闘史」
○「月刊グランストーリーズ」
○大日本体育協会「大日本体育協会50年史」
○橋本一夫「幻の東京オリンピック」 (NHK出版)
○「日本サッカーの歩み」日本蹴球協会編 (講談社)
など
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。



第255回
幻の大艦隊
〜イギリスから見た薩英戦争〜

放送日
(本放送) 平成18年6月21日 (水)
  22:00〜22:43 総合 全国
(再放送) 平成18年6月27日 (火)
  16:05〜16:48 総合 全国 (福岡県のぞく)
※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
出演者
松平 定知 (まつだいら・さだとも) アナウンサー
小川 和久 (おがわ・かずひさ) さん (軍事アナリスト)
番組概要
その時:文久3 (1863) 年7月2日
出来事:薩摩藩とイギリスによる戦争、いわゆる“薩英戦争”が起こる
幕末の文久3年、日本が英国と互角に渡り合った薩英戦争。侍たちは何故、世界最強の艦隊と対等に戦うことができたのか。そこには、英国側のある実情が隠されていた。
日本中が怯えた大英帝国の強大な軍事力は、「張り子の虎」つまり虚像だった。当時英国は、中国大陸 (清朝) での植民地戦争に手一杯だった。軍艦や兵士も十分に派遣されず、見放されたにも等しい環境の中で、駐日英国公使たちは必死に虚勢を張っていた。彼らは自分たちを狙う攘夷活動の嵐に怯えながらも、ギリギリの駆け引きで日本との外交を乗り切ろうとしていた。
一方の薩摩藩も英国に対して現実を超える恐怖つまり虚像を抱き、誤解を募らせていた。
しかし、戦争が終わると、薩摩は実は英国が理想のパートナーであることを見いだす。そして逆に結びつきを深め、倒幕運動の一大勢力として生まれ変わり、その後の歴史を大きく動かしていった。
番組では、英国の視点を軸に、外交戦略の誤算が招いた薩英戦争の実相を描く。
番組の内容について
幕末時のイギリスの対日外交について
幕末にイギリスが日本への進出を目指した主な理由として、番組では対日通商の推進を挙げています。これに加え、当時の世界情勢を見た場合、イギリスの「対ロシア政策」上、日本への進出は不可避だったという見解もあります。
当時イギリスはロシアの南下政策の阻止に力を注いでおり、クリミア戦争を始め世界各地でロシアと衝突していました。ロシアの東アジアにおける南下を阻止するためにも、イギリスは自ら積極的に日本での存在感を誇示する必要があったと考えられます。

薩摩藩の軍備近代化について
番組では、イギリスへの対抗勢力として薩摩藩の島津久光を中心人物として描きました。薩摩藩では、久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、久光が国防強化の先鞭をつけたわけでありません。しかし、兄・斉彬の死後頓挫していたその事業を、積極的に復活・推進させたのが久光であり、その意味で久光に焦点を当てました。

イギリス側の抗議文「島津久光の首を差し出せ」の誤解について
抗議文への誤解が生じた背景には、薩摩とイギリスの間に立って抗議文の引き渡しを行った幕府担当者の思いこみがあったのではないかといわれています。イギリスからの原文を翻訳したり受け渡したりする中で、伝言ゲームのような形で誤解が生まれていったのではないかと考えられています。
詳しくは萩原延壽氏の「遠い崖  アーネスト・サトウ日記抄2〜薩英戦争〜」 (朝日新聞社) に説明されています。

薩英戦争で双方が受けた被害について
番組では基本的文献資料とされる「薩藩海軍史」に基づき、イギリス側の死者を13人・薩摩側の死者を5人としました。

ハリスが幕府に対して述べた言葉について
「イギリスが、日本に戦争をしかけようとしている」
「亜墨利加使節申立趣第33条」より

当時の幕府や学者たちのイギリスへの恐れを語った文書について
「恐るべきはイギリス」
大槻玄沢著「補影問答」より

来日した当時のオールコックの思いを語った書簡について
「私は日本人に強い印象を与えようと考えた。最高の華々しさを演出し、民衆の注目を集めようとしたのだ」
NATIONAL ARCHIVES所蔵「オールコック書簡」より

オールコックが英国宛に救いを求めた書簡について
「たとえ一隻でも、軍艦を日本に常備してください」
NATIONAL ARCHIVES所蔵「オールコック書簡」より

日本に取り残されたオールコックが語った不安について
「多くの敵と未知の環境に囲まれながら一隻の軍艦もない。 我々は完全に孤立してしまった。」
オールコック著「大君の都」より

オールコックが自らが置かれた特殊な立場を語った言葉について
「兵士には剣という武器があるが、イギリスの権益を守るこの戦いで私に残されているのは、虚勢を張り続けることだけだ。」
オールコック著「大君の都」より

オールコック一行が富士登山を行った際の手記について
「我々は山頂にて『祝砲』として火口に向けピストルを5発放った。さらにイギリス国歌を歌い、気勢を上げ、女王の健康を祝して富士の雪で冷やしたシャンパンで乾杯した。」
「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」より

島津久光が外国人に対する不快感を語った言葉について
「最近、外国人どもは府内のあちらこちらを勝手気ままに馬で乗り回し無作法だ。もし無礼があったら、それなりの考えがある。」
東京大学史料編纂所蔵「忠義公史料」より

オールコックが身の危険を感じて語った言葉について
「イギリスの艦隊さえあれば、私の命は助かるだろう。もし将軍や大名や役人が私の暗殺を決心しても、近くに艦隊さえあれば防ぐことができる。」
NATIONAL ARCHIVES所蔵「オールコック書簡」より

アーネスト・サトウが日本の侍を恐れて語った言葉について
「私たちは、侍さえ見れば刺客ではないかとおそれ、往来で侍に出会うものなら、やり過ごしたあとで、神様に感謝したものだ。」
アーネスト・サトウ著「一外交官が見た明治維新」より

生麦事件の賠償請求を求めてニールが語った言葉について
「充分な返答がなければ、女王陛下の艦隊が日本を総攻撃する。」
田辺太一著「幕末外交談」より

島津久光がイギリスの薩摩来航を前に語った言葉について
「生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと。」
「島津忠義 達書」より

生麦事件に対するイギリス側からの賠償請求文書翻訳文について
「襲い懸かりし諸人 (しょにん) 中の長立 (おさだち) たるもの等を速に捕らへ吟味して、女王陛下の海軍士官の眼前にて其首 (そのくび) を刎ぬべし。」
「福沢諭吉全集第20巻」より

島津久光がイギリスの薩摩来航を前に語った言葉について
「粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ」
「島津忠義 達書」より

薩摩に向かうイギリス艦隊の中の様子を記した乗組員の手記について
「快適な航海に必要な物の全てが、船には備わっていた。他では滅多に味わえない上等なワインもあり、毎日の夕食会はいつも大好評だった」
鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「ウィリアム・ウィリス文書」より

薩英戦争の後、島津久光が語った言葉について
「無謀の攘夷は不可」
東京大学史料編纂所蔵「忠義公史料」より

薩英戦争を回想して元薩摩藩士が語った言葉について
「イギリスの砲弾を見て、驚かない者は誰もいなかった。生まれてこの方、一度も見たことのない砲弾だった。」
「薩藩海軍史」より

オールコックが日本の風土を語った言葉について
「横浜まで散歩してみよう。策略から離れて日本の風景に目を転じると、身も心も爽やかだ。その自然は世界のどんな土地よりも、神聖である」
オールコック著「大君の都」より

再来日したオールコックの様子を伝えた記事について
「横浜で彼を護衛していたのは、わずかな兵士だけだった。そしてその兵士たちもすぐに日本を去っていった。ラザフォード・オールコック卿はこう語る。『日本の政府と人民の尊敬を得るためには、何ら武力を示す必要はない』」
「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」より

異人館
鹿児島市吉野町磯9685−15
《問い合わせ先》
鹿児島市教育委員会 管理部文化課  Tel.099-227-1962

銅像「若き薩摩の群像」の場所について
鹿児島県鹿児島市中央町37 (鹿児島中央駅前すぐ)
番組で登場した資料について
島津久光肖像 尚古集成館
古い世界地図 尚古集成館
福澤諭吉写真 慶應義塾図書館・貴重書室
イギリスからの抗議文 福澤研究センター (マイクロ所蔵)
オールコック写真 コービス ジャパン
ニール中佐写真 生麦事件参考館 所蔵
薩摩軍・イギリス軍の砲弾 (レプリカ)  照国神社 所蔵
ハリス肖像 玉泉寺
薩摩藩の反射炉跡 仙巌園
オールコックの富士登山記事 (イラストレイテッド・ロンドン・ニュース)  近畿大学中央図書館
アーネスト・サトウ写真 鹿児島県歴史資料センター黎明館
150ポンド砲 仙巌園
薩英戦争絵巻 尚古集成館
森有礼肖像 国立国会図書館
寺島宗則肖像 鹿児島県歴史資料センター黎明館
五代友厚肖像 鹿児島県歴史資料センター黎明館
著書「大君の都」 神戸大学附属図書館
オールコック再来日の記事 (イラストレイテッド・ロンドン・ニュース)  近畿大学中央図書館
参考文献
○「薩藩海軍史」 (原書房)
○「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争」萩原延壽 (朝日新聞社)
○「幕末期の英国人」増田毅 (有斐閣)
○「オールコックの江戸」佐野真由子 (中公新書)
○「大君の都」オールコック著・山口光朔訳 (岩波新書)
○「幕末外交談」田辺太一著・安田精一訳 (平凡社)
○「島津久光と明治維新」芳即正 (新人物往来社)
○「薩摩英国留学生」犬塚孝明 (中公新書)
○「黒船富士山に登る!」谷有二 (角川書店)
○「明治維新と自由民権」石井孝 (有斐閣)
○「幕末異人殺傷録」宮永孝 (角川書店)
○「島津久光公実記」 (日本史籍協会)
○「鹿児島県史料」 (鹿児島県)
○「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 (岩波文庫)
○「黒船前後の世界」加藤祐三 (岩波書店)
○「描かれた幕末明治〜イラストレイテッド・ロンドン・ニュース〜」金井圓訳 (雄松堂書店)
○「開国」井上勝生編 (吉川弘文館)
○「幕末維新期の外交と貿易」鵜飼政志 (校倉書房)
○「『幕末』に殺された男〜生麦事件のリチャードソン〜」宮澤眞一 (新潮選書)
○「尚古集成館」田村省三 (春苑堂出版)
○「図説 西郷隆盛と大久保利通」芳即正・毛利敏彦 (河出書房新社)
○「増訂 明治維新の国際的環境」石井孝 (吉川弘文館)
○「かごしま近代化遺産」 (南日本新聞社)
○「イギリス紳士の幕末」山田勝 (NHKブックス)
○論文「幕末における外国軍隊日本駐留の端緒」広瀬靖子
○論文「幕末の鎖港問題と英国の軍事戦略〜1864の対日戦争計画について〜」熊澤徹
○論文「19世紀近代化過程における『外圧』と国家〜従属か自立か〜」杉山伸也
ほか
※絶版になっているものもありますので、出版社にお問い合わせください。



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