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メモ

2008-05-31

違和感の元

違和感

ここら辺を読んで、今更やっと気がついた事があって、コメント欄に書こうと思ったけども長くなりそうなんで、こっちに書きますね。

どうしよう?

言及ありがとうございます。

痒いところにとっても手が届いてて、ワクワクしてしまいました(笑)

>今更やっと気がついた事があって

こういう反応をいただけるとうれしいです。書いた甲斐があったなあ…と。

ただ、この歌の歌詞は嫌いでした。

「ナンバーワンにならなくてもいい元々大切なオンリーワン」と言う言葉の用い方が嫌いだったのです。

で、どうして嫌いだったのかと言うと、ナンバーワンとオンリーワンを「ならなくてもいい」と言う形で並べてしまう事によって、レイヤーの違うものを同一の価値上で並列処理してしまっていると言う欺瞞が気に入らなかったのです。

「ナンバーワンになろうとなるまいと場合によっちゃワーストワンであろうとも、どうしようもなくオンリーワン」てのが事実だと考えます。

どうしよう?

そうですね…レイヤーの違うものを並列させてしまっているゆえに、大甘な自分探しゲームの一端を担っているように感じられてしまう、脇の甘さを感じます。

前の記事でuumin3さんへのコメントレスに書いたのですが、私はこの歌の使われ方が好きじゃありません。特に聞きたいとも歌いたいとも思いません。

外的評価が存在価値に直結する(追記)”と、考えてしまう”のはかなりまずい状態だな、とは思います。すごく生き難そう。

どうしよう?

そう思います。

そう言う風に考えると、是とする人と、非とする人が前提を共有していないようにも思えました。

(で、それは、前述の歌詞の欺瞞に原因があるようにも思えました)

どうしよう?

そうなんです<是とする人と、非とする人が前提を共有していない

この歌自体を是とする人の中には非とする人と同じ解釈をしている人もいると思うのです。でも、私は歌自体は是としないけど、解釈が違うのでそこをクリアにしておきたいなあという思いで書きました。

以後の

一方で、この意味をそのままベタに受け止めた人がどのぐらい居るのかと考えると、その空気がよく分らない事とあいまって、わかんねー、としか言いようが無く、害はないんだから別にどっちでもええのんちゃいます。とか思ってしまう。

あの曲って、どんな人にどんな形で受け入れられたんでしょう?そんなに大ヒットしたんですか?(中略失礼)

だけども、もうずっと社会人やって来てて、世界で一番の花を「絶賛」してるのを一度も見た事なかったりもする訳で、流行歌て、どのぐらい世相を反映してるのかなぁ?みたいな疑問も残ります。

どうしよう?

これはまさにそうで<この意味をそのままベタに受け止めた人がどのぐらい居るのか

あの歌詞から、レイヤーの違う「オンリーワンとナンバーワン」を並列させたままの、つまり、ナンバーワンよりオンリーワンなんだよ、みんな違ってみんないいんだよ、一番ダメでも一等賞なんだよ、というメッセージをベタに受け止めている人は実はそんなにいないんじゃないかと思うんですよね…。

違和感の元は実はここで、それで前回別の現象についてですが

『実際そうであったかどうかは別として、そんなことが信じられていたような。ここけっこう重要。』と書いたんですが、「そう見える」のは「そう見たい」からじゃないのかなあと思ってて、「そう見たい」ところには「自分とは違うその他の人々」という構図があって、それって「もともと特別なオンリーワン」を希求するのとそれほど違わないように感じるのです。

関係性にがんじがらめになっているような状態だと、オンリーワンである事が見えにくくなってて、だからこの歌詞の「元々大切なオンリーワン」て部分で、自分を大切にしようと思えるって部分があるだろうな、とか思えるねんけども、一方で、そんなの関係ねー、て人には甘言に見えてしまう、みたいな。

どうしよう?

私は「もともと特別なオンリーワン」は自分に向けて、というより、親が子に、私から好きな人に、私の大切な人に、贈るメッセージだと捉えています。

事実ってなに?

なんか支離滅裂じゃん。違和感を持つのは結構だけど、何が自分の考えと違っているのか、その原因となっているものは何かを整理して考えて行かないと、単なる相対化に終わっちゃうよ?

違和感を感じただけで終わりか? - 消毒しましょ!

おお、相対化(笑)

何が自分の考えと違っているのか、「その原因となっているもの」なんてそう簡単に突き止められないと思いますけど。

いかにもそれらしい理由ならあげられそうだけれど…。

逆に窺いたいんですが、『皆がそれぞれオリジナルの花だと持て囃されてフラット化した途端にお互いを差別し始めた、という笑ける事実』この『事実』はどこにありますか?

違和感

運動会の順位をなくし、意見を相対化し、皆がそれぞれオリジナルの花だと持て囃されてフラット化した途端にお互いを差別し始めた、という笑ける事実がここにある。いじめの構造も概ね同じであろう。

仲良しごっこの後は差別ですかいw - 消毒しましょ!

ああプライベートモードじゃなくなってる。

この間『世界に一つだけの花』の解釈について書いたのはここの記事がきっかけだったんだよね。

で、再びちょっと触れているので違和感を書いておこう。記事の内容には共感するところが多いのだけれど。

>運動会の順位をなくし、意見を相対化し、皆がそれぞれオリジナルの花だと持て囃されてフラット化した途端にお互いを差別し始めた


「運動会の順位をなくし、意見を相対化し」と「オリジナルの花だと持て囃された」が自分にはどうにも繋がらないのよねぇ…。

いや、私には二十歳と高校二年と中学一年の子どもがいるのだけど、ずばり、ゆとり世代と呼ばれる。

どっちかというと、オリジナルの花であることが斬り捨てられた感の方が強い。

その前の自分の若い頃の方がむしろ、個性重視、なんでもあり、「みんな違ってみんないい」という時代だった気がするのです。

実際そうであったかどうかは別として、そんなことが信じられていたような。ここけっこう重要。

だから、親世代はその名残りがあるかもしれない。

でも、子の世代はむしろ、個々の特性とか内的な評価はフラット化されて(運動会の順位をなくし、意見を相対化し)個人が外的価値に委ねられていた、ように私には見えた。

社会による大きな価値観や評価に個人が埋没されている、みたいな。

あらゆることの原因が「心」に求められ、心まで評価の対象になってしまって「やさしい」ことを最も高く評価している、と、だけどこれは表層的なもので、誰もがみなそうだと信じているように見えるけれど、実はそうじゃないことを知っている…

その二重構造というか、表と裏のギャップが子どもたちの不信感を育てているように見えて(現実にマイナス評価という損失を与えられる)、表向きは仲良くしようとするのが「正しいこと」で、現実にはそうしたくない自分がいて、それがいじめや過剰な自意識によるコミュニケーション不全と繋がっているんじゃないかと私は思った。

だからどっちかと言えば、オリジナルの花であること→自分が自分であること、外的評価に寄らない自分 というものを認識できないことに、むしろ問題点があるような気がするのよね。

で、この感じ方っていうのは、たぶん、外的評価に捉われている人にはされないんじゃないか、ともおもう。

まあ、「外的評価に寄らない自分」なんてものがあると信じているのが「世界に一つのだけの花」脳だと言われてしまえばそれまでだけれど。

結局何も言ってないと言われそうだけど

日常から何かを感じて伝えたいと思って文章にするのだけれど、細かい経緯や状況、その場の雰囲気など漏らさず書くことはできない。

読み手は同じ状況を体験していないから、分からない部分は想像で以って補完する。

その想像の源になるのは自分の体験や持っている思想なんだけど、引っかかる部分というのは大抵、自分とは異なる部分であるから、そこにある負の部分を増幅させてしまう。意識的にも無意識的にも。

日頃から好意的な感情を持っていたり共感を感じていれば、仮に不適切にも感じる表現が見受けられたとしても、そこは捨象して書き手の言わんとすることを読み取ろうとするだろう。

が、逆の感情・別の思想を持っていれば、不適切な部分は肥大化され変容されてしまう。これは書き手側の言い分で、不適切そのものが書き手の意志であり思想であるのかもしれない。

そうした、敵と味方という区分に支配されずに純粋に問題点について論じ合うことがWebでは不可能に見えるのだけれど、Webじゃなくてもそれはきっと困難なんだろう。

私はそういう機会がないので分からないのです。

問題点はいったいなんだろう?

議論に立ち入れない読み手としての私は、たぶん、そうした論争の中から自分なりの最適解を見出そうとすることが必要で、それは終わりない旅で、そうし続けることが大切でありそうしかできないのだろう。

不毛に見える論争も長い目で見ればすべて必要なことなのだろう、そう思いたいし、家にいながらこうした議論に触れることのできるインターネットに感謝します。