2006年 06月 09日
◆【政治】青山昌史の目 山口多聞海軍中将の死生観 (世界日報 06/6/5)

ミッドウェー海戦の勇将に学ぶ

政財界は潔い責任の取り方を

 昭和十六年十二月八日の太平洋(大東亜)戦争開始から約半年後、山口多聞海軍中将は、戦局を分けたミッドウェー海戦で勇戦及ばず、艦と運命を共にした。六月五日はそれからちょうど六十四周年、靖国に眠る山口は旧海軍関係者や戦史研究家それに事情を知る国民から広く尊敬されている。


≪豪気果断の提督≫

 山口は本来、好戦的ではない。海軍では対米英と対立した伏見宮博恭王、加藤寛治、晩年の東郷平八郎ら艦隊派でなく、国際条約を守る条約派として斎藤実、岡田啓介、米内光政、鈴木貫太郎ら元首相や山本五十六連合艦隊司令長官らの系列に属した。

 が、開戦に決した以上、山本と行を共にし、ミッドウェー海戦では第二航空戦隊司令官として、味方の主力空母四隻が次々に沈められ、艦載機の大半を失う敗戦の中で、ようやく敵空母一隻を沈め、艦長でもないのに責めを負って戦死したのである。

 被災してもはやこれまでと、味方の魚雷で沈む「飛龍」で山口は「まもなくお別れするが、諸子は今回の尊い体験を生かしてきっと勝ち抜いてほしい。諸子は私の志をついで生還し、一層自愛して奉公に励むよう」と幕僚全員と固い握手をかわした。

 今、政財界トップの間では事件のたびに「自分は知らない。直接の責任はない」と部下のせいにする例が多い。政界でも橋本龍太郎元首相のように、自分が受領した巨額献金を人のせいにして知らぬ、存ぜぬで通す。リクルート事件でも今も威張っている政治家の多くは秘書に押しつけて逃げまくった。

 これらにくらべ、山口は部下を駆逐艦へ退避させ、自分は沈む。今の一部政財界人と正反対である。生死いずれをとるかの時、死をとるのが山口の信念であった。

 されば今も健在の山口の三男、宗敏氏(73歳、第一銀行=現みずほ銀行=を定年退職、現水交会常務理事)は自らの著書「父、山口多聞」の中で、「リーダーよ。父たちの如く責任をとって立派に務めを果たせ」と呼びかけている。

 山口と海軍兵学校同期で終戦時、特攻機で沖縄へ出陣して死んだ宇垣纏中将の山口評は「豪気果断、識見高く、よく人の世話をした」。また終戦時、海軍軍務局長を務めた、一年後輩の保科善四郎中将も「山口を連合艦隊参謀長に据えていたら、戦争の様相は変わっていた」と評する。

 戦史評論家の三村文男氏は「かつて日露戦争で東郷平八郎を抜擢した山本権兵衛のような海軍大臣がいたら、山口連合艦隊司令長官が生まれていたろう。そしてニミッツを二十六番目の順位から太平洋艦隊司令長官に抜擢した米海軍と互角の戦いができていたに違いない」とまで言う。

 海軍で勇将、猛将、智将と呼ばれた山口は東京都出身。海兵四十期。さきの宇垣や、特攻機の生みの親で、終戦翌日自決した大西瀧治郎中将らと同期。戦死の時、五十歳。


≪却けられた具申≫

 ミッドウェー海戦は、緒戦のハワイ奇襲で意気上がるわが機動部隊が、ミッドウェー島攻略と、米機動部隊の封殺を目指して出撃する。

 わが方は空母八(三百七十二機)、後方部隊も含め戦艦十一、重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻で、当時は世界最強の連合艦隊であった。

 相手のニミッツは空母三(二百二十一機)、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻程度の太平洋艦隊であった。だから普通の陣形で戦えば、日本が勝つのが当然という圧倒的な勢力差だった。

 ところが結果は、日本の正式空母六のうち四(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)、それに飛行機三百二十二機を、より抜きの搭乗員と共に失う大敗北だった。

 事前の情報漏洩と緒戦の勝利で気がゆるみ、それに決定的だったのは索敵攻撃の失敗や、陸爆装から雷撃への変更命令の遅れと失敗、敵の急降下爆撃に対する警戒不十分など実戦面の大失態だった。

 山口が提案した、空母を基幹とし、連合艦隊の全戦艦、巡洋艦、駆逐艦らで輪型陣を作って進む案は無視され、山本長官の乗る旗艦大和は後方三百カイリにあり、前線には的確な情報も指揮命令も伝わっていない。

 実戦でも山口の「直ちに陸爆撃から雷装へ」の進言実施は遅れてしまった。さきの戦史家三村氏も「開戦以来、山口の合理的意見具申は上司に却けられ、山口の戦略戦術が生かされないため、勝つべき戦さを失うばかり。

 彼我の形勢は逆転する所か、国力から見てその差は開くばかり。日本は米海軍を撃破する力を失うと、山口が認識するのは当然であった」と推察し「山口はわがこと終わると考えたのでは」と指摘する。


≪艦と運命を共に≫

 付言すれば、山口は飛龍から敵空母攻撃隊指揮官への最後の訓示として「攻撃隊はご苦労だが、身体を張ってやってこい。司令官も後から行くぞ」――こう言明した以上、艦と運命を共にするほかはなかったと、山口の息子、宗敏は述べ、さらに「若者たちだけを戦死させてはすまないとの気持ちから退艦を拒否して死んだのだと思う」と控えめに語る。

 山口は航空機による敵制圧を考え、これは真珠湾でもマレー沖でも実現された。しかし海軍主流(山本も黙認)は航空戦のあと依然として従来の艦隊決戦を考え、これがミッドウェーでの旗艦らの後方配置となり、実戦面の失敗も重なって山口の提案無視、敗戦へとつながった。それでも山口は敗軍の中で敢闘し、死によって責任をとった。

 いずれにせよ、自分の出世や延命ばかりを考え、確たる識見もなく、処世術、錬金術に明け暮れる一部政財界人は、務めを果たして率先、責任をとった山口の爪のアカでも煎じて飲んでほしい。

 何も今の無責任な連中に自決を促しているわけではない。戦争中の軍人と、民主政治の今の世の中では身の処し方、責任の取り方も違おう。

 が、出世主義、利権あさり、政官業癒着といった失態ばかりで無策、無責任なリーダーたちには恥を知れ、と言いたい。今の政財界にも旧弊を排し、新陳代謝、大改革を目指す清新な発想が必要だろう。

 もう一つ、ミッドウェー敗戦について当時の海軍は、これを完全に黙秘し、逆に勝利したような発表までした。

 「大本営発表」の良い例だが、こうした意識的誤報が敗戦への方向を決定づけた。事実をありのままに伝え、そこから的確な対策を導き出すべきで、今の報道機関はこのことを銘記すべきだ。



by sakura4987 | 2006-06-09 11:45 | ■感動の話・誇れる話


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