2008-05-31
違和感
運動会の順位をなくし、意見を相対化し、皆がそれぞれオリジナルの花だと持て囃されてフラット化した途端にお互いを差別し始めた、という笑ける事実がここにある。いじめの構造も概ね同じであろう。
仲良しごっこの後は差別ですかいw - 消毒しましょ!
ああプライベートモードじゃなくなってる。
この間『世界に一つだけの花』の解釈について書いたのはここの記事がきっかけだったんだよね。
で、再びちょっと触れているので違和感を書いておこう。記事の内容には共感するところが多いのだけれど。
>運動会の順位をなくし、意見を相対化し、皆がそれぞれオリジナルの花だと持て囃されてフラット化した途端にお互いを差別し始めた
「運動会の順位をなくし、意見を相対化し」と「オリジナルの花だと持て囃された」が自分にはどうにも繋がらないのよねぇ…。
いや、私には二十歳と高校二年と中学一年の子どもがいるのだけど、ずばり、ゆとり世代と呼ばれる。
どっちかというと、オリジナルの花であることが斬り捨てられた感の方が強い。
その前の自分の若い頃の方がむしろ、個性重視、なんでもあり、「みんな違ってみんないい」という時代だった気がするのです。
実際そうであったかどうかは別として、そんなことが信じられていたような。ここけっこう重要。
だから、親世代はその名残りがあるかもしれない。
でも、子の世代はむしろ、個々の特性とか内的な評価はフラット化されて(運動会の順位をなくし、意見を相対化し)個人が外的価値に委ねられていた、ように私には見えた。
社会による大きな価値観や評価に個人が埋没されている、みたいな。
あらゆることの原因が「心」に求められ、心まで評価の対象になってしまって「やさしい」ことを最も高く評価している、と、だけどこれは表層的なもので、誰もがみなそうだと信じているように見えるけれど、実はそうじゃないことを知っている…
その二重構造というか、表と裏のギャップが子どもたちの不信感を育てているように見えて(現実にマイナス評価という損失を与えられる)、表向きは仲良くしようとするのが「正しいこと」で、現実にはそうしたくない自分がいて、それがいじめや過剰な自意識によるコミュニケーション不全と繋がっているんじゃないかと私は思った。
だからどっちかと言えば、オリジナルの花であること→自分が自分であること、外的評価に寄らない自分 というものを認識できないことに、むしろ問題点があるような気がするのよね。
で、この感じ方っていうのは、たぶん、外的評価に捉われている人にはされないんじゃないか、ともおもう。
まあ、「外的評価に寄らない自分」なんてものがあると信じているのが「世界に一つのだけの花」脳だと言われてしまえばそれまでだけれど。