チベット | 東トルキスタン | 内モンゴル |
青海 | 寧夏 | チワン |
金正日の後継者争いは混迷を極め、北朝鮮内の民主勢力が徐々に台頭してくる。 民主勢力は日米に接近する動きを見せる。 北朝鮮の親日化を恐れた中国は、北朝鮮に侵攻して北部を占領する。 中国は韓国を取り込んで朝鮮半島の統合を計画するが、韓国が拒否、その間中国国内で中央政治指導部への批判が強まる。 中国は北朝鮮と交渉、北朝鮮国内からの撤退を決める。 |
台湾 | 朝鮮連邦 |
ユーラシア大陸東部に居住活動した民族は大きく分けて3つある。
一つは黄河文明の担い手となった殷族、周族などの中国系諸族、二つ目はモンゴル系諸族、三つ目はシベリア系諸族である。
漢族は中国系諸族を統合して黄河流域から南の地域で活動した農耕民族、モンゴル諸族は牧畜を生活の糧とする遊牧民族である。 シベリア諸族は2系統あり、一つは牧畜民、もう一つは漁労を含めた狩猟採集民である。 シベリア系民族としてよく知られたイヌイット(エスキモー)の場合でも、同種族の中でトナカイを家畜として遊牧するものと、鯨やアザラシを対象として狩猟するものに分かれる。
農耕民は定住耕作を生業とするため移動性が低い。 対して遊牧民は移動性が非常に高い。 狩猟採集民は遊牧民ほどではないものの、意外に移動性が高い。 モンゴロイドは獲物を追ってベーリング海峡を超え、南北米大陸に達したとされる。
農耕民である中国系諸族は、現代に至るまで万里の長城以南を主要な活動地域にしている。 歴史上中国系諸族が長城を超えて国家を建国したことはない。 長城の北に国家を建国したのは、全てトルコ系、モンゴル系、シベリア系の民族である。 このうち古くから満州、朝鮮に進出したのが、シベリア系諸族である。 韓国語は中国語、モンゴル語とも違い、シベリア諸族語に近い。 15世紀に作られたハングル文字は、女真文字を発展させて作られている。 女真族もシベリア系民族である。
朝鮮半島はユーラシア大陸の東の果てにあり、中国諸族、モンゴル諸族、シベリア諸族が接触する位置にある。 そのためこの地域には古くから様々な民族が侵入してきた。 地域の生業は農耕、牧畜、狩猟採集(漁労を含む)であり、それぞれの民族の生業混合が定着した。 現在まで血統が残る民族として朝鮮半島に最初に進出したのは、五千年ほど前のシベリア系狩猟採集民であろう。 彼らの血を受け継いでいると見られる民族の一つが韓族である。 その後もシベリア系民族の進出が続き、紀元前500年頃には?(わい)族及び沃沮(よくそ)族が進出する。 ?(わい)族、沃沮(よくそ)族の侵入により韓族は朝鮮半島の南部に押し込められ、満州南部から朝鮮半島北部にかけての一帯は?(わい)族と沃沮(よくそ)族が支配するようになる。 南部の韓族と中部の?(わい)族そして北部の沃沮(よくそ)族が朝鮮半島の最初の支配的土着民になったと考えられる。
紀元前300年頃、?(わい)族は王険城(平壌)を首都として箕子(きし)朝鮮を建国する。
紀元前195年、?(わい)族の衛満が箕子朝鮮に代わって衛氏朝鮮を建国する。
紀元前108年、漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして玄菟、楽浪、臨屯、真番の四郡を設置する。 楽浪郡は波の穏やかな渤海、黄海北部の海路でやって来た漢の橋頭堡であり、これによって中国系民族が始めて朝鮮半島に進出したことになる。 楽浪郡と真番郡の境界に流れる川は漢江と名づけられ、漢江の北に北漢山、南に南漢山の城が築かれる。 漢山城は統一新羅の漢州、高麗の京城、李氏朝鮮の漢城になり現在のソウルに受け継がれる。 漢はこの辺境の地に中国で征服した秦の遺民を移住させた。 中国系諸族のうち朝鮮半島に最初に土着したのは、漢族とともに秦族であった。
漢の支配した朝鮮四郡の中心は楽浪郡である。 王険城は楽浪と改称され、漢による朝鮮支配の中心地になった。 「漢書」地理志は記す、楽浪海上倭人あり。 日本は玄菟、臨屯、真番の海上の彼方にあり、楽浪ではない。 地域の情報は楽浪が管理していたのである。 楽浪郡は朝鮮縣(平壌)を中心にして、漢江にいたる黄海に面した地域である。 同時に中国文化の影響を最も大きく受けた地域でもあった。
?(わい)族の地は楽浪、臨屯、真番になり、沃沮(よくそ)族の地は玄菟郡となった。 沃沮(よくそ)族が建設した都市が沃沮縣(咸興)、玄菟郡の首都である。 しかし漢が四郡を設置した後も、朝鮮半島最南部には韓族の支配する土地が残っていた。
紀元前100年頃、満州からシベリア諸族の一つであるツングース系扶余族が南下、紀元前37年、朱蒙が高句麗を建国、高句麗縣(桓仁、ホワンレン)を首都に置いた。 高句麗は沿海州を南下してきた把婁(ゆうろう)族と共に玄菟郡を圧迫した。
漢が滅亡して後漢に代わった後、204年に公孫康が楽浪郡の南、開城に帯方郡を置く。 この頃、朝鮮半島最南部には馬韓、弁韓、辰韓の三韓が成立、臨屯郡はすでに漢族が撤退して、?(わい)族の支配するところとなっていた。
4世紀初め、高句麗の勢力が玄菟郡及び楽浪郡北部に及び、沃沮(よくそ)、把婁(ゆうろう)を吸収した。
313年、漢江の帯方郡は土着の?(わい)族と馬韓の韓族に圧迫されて滅亡した。
346年、帯方郡の地に?(わい)族の勢力が馬韓を吸収して百済を建国する。
356年、辰韓の韓族が新羅を建国、弁韓の地には伽耶諸国が成立した後、倭の勢力が海を越えて任那行政府を置いた。
このとき朝鮮半島は、南東部に激情型で不屈、知略に富んだ新羅系韓族、南西部に柔軟で温厚、文芸に秀でた百済系?(わい)族、北部に質実剛健、勇猛果敢な高句麗系扶余族が土着民としてほぼ確定することになる。
楽浪郡、帯方郡が滅んだ後、その地に残された中国系秦族、漢族の遺民は母国へ返ることもできず、朝鮮系土着民からも圧迫されて一部は日本へやって来た。 養蚕、機織を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)は秦氏を名乗り、文筆を伝え史部(ふひとべ)を管理した阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあやうじ)を名乗った。 東漢とは楽浪郡のことである。
宇宙旅行をしている人がどこかで宇宙人に遭遇した場合、彼は宇宙人に対して「私は山田です」とは言わない。 「私は地球人です。 地球から来ました」と言うだろう。 これには歴史的傍証がある。 17世紀初頭、仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、海を越えてヨーロッパに到着した。 いわゆる慶長遣欧使節である。 徳川幕府のキリスト教の禁教と鎖国によって、日本に帰れなくなった一行の一部はスペインに留まり、彼の地で生涯を終えた。 彼らの子孫は現在スペインに健在で、全て「ハポン」姓を名乗っている。 遥か遠くの地で見知らぬ人に会ったとき、人は名前を名乗らない、人は故郷を名乗るのだ。
応神天皇のとき百済から渡来して「論語」「千字分」を伝えた王仁(わに)は、西文氏(かわちのふみうじ)を名乗った。 西の文字の国つまり日の没する所の国、漢である。 「東漢氏」は「やまとのあやうじ」と読んだ。 「漢」は「あや」と読む。 「あや」は「文」に通じる。 つまり「漢」と「文」は同義であり、文字を表わすと同時に国を表わす。 伝えられた文字は漢字という。
継体天皇のとき百済から渡来した五経博士は、「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」を伝えた。 彼らが伝えたのは中国文化であり朝鮮文化ではない。 日本にはこの頃伝わったと考えられる言語表現が数多くある。 故事成語、四文字熟語、ことわざなどで中国起源のものは多い。 一方朝鮮起源のものは皆無である。 日本にやって来て中国文明を伝えた帰化人の多くは、楽浪、帯方に残された秦漢の遺民であった。
文字の伝来は同時に発音を伝える。 漢字の中国語的発音を音読みという。中国語も地方によって発音が違うため、音読みにも幾つかのバリエーションがあるが、どれも中国語的発音である。 「日本」は「にっぽん」と読む。 「日本」を「本日」にすると「ほんじつ」と読む。 これをもう一度「日本」として音読みで発音すると「じつぽん」となる。 中国人は跳ねる音便を発音しない。 「あさって、さそってください」を中国人的に言うと「あさて、さそてください」になる。 中国では「日本」を「じぽん」と発音し、マルコポーロはこれを「Gepang」と記述した。 これらのことからも日本に漢字を伝えたのが朝鮮系の人々ではなく、中国系の人々であったことが分かる。 因みに漢字の朝鮮語的発音は日本に伝わっていない。
391年、倭の勢力が一時、新羅、百済を征服して高句麗と戦う。(高句麗好太王碑文)
400年、倭の勢力が高句麗に追われて新羅、百済から退く。(高句麗好太王碑文)
512年、大連(おおむらじ)大伴金村は伽耶4国(任那4県)を百済に割譲する。
562年、日本は任那を百済に引き渡して朝鮮半島から撤退する。 このとき百済と交戦した記録はなく、日本と百済の関係は良好であったと考えられる。
660年、新羅が百済を滅ぼし、668年には唐と結んで高句麗を滅ぼす。
662年、百済王の要請により日本は百済復興軍を朝鮮半島に送るが、663年白村江で唐、新羅の連合軍に破れる。 このとき日本は数千人の百済遺民を受け入れる。 滅亡する百済に日本が援軍を出したことは、百済の友好的資質によるところが大きい。 戦略的見地を離れて国家が編成した友好援軍は、百済に対する日本軍を除いて世界史に例がない。
665年、日本において百済人400余人を近江国神前郡に移住させる。
666年、日本において百済人2000余人を東国に移住させる。
669年、日本において百済人700余人を近江国蒲生郡に移住させる。
676年、新羅は朝鮮半島から唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一する。 首都は慶州である。 新羅が唐と結んで百済、高句麗を滅ぼしたことを朝鮮民族に対する裏切りとする批判は当たらない。 このとき朝鮮民族は未だ存在せず、韓族の国新羅が?(わい)族、扶余族の国を打倒吸収したに過ぎない。
892年、?(わい)族は朝鮮半島南端に武州を首都とする後百済を起こす。
901年、漢州の泰村王が新羅から自立、918年には王建が高麗を建国する。 高麗が高句麗の後継を明確に示した名称であることから、王建は扶余系であったと推測される。 高麗は後百済、新羅を滅ぼし935年朝鮮半島を統一する。
698年、朝鮮半島北部ではシベリア系末靺鞨(まっかつ)族の大祚栄が震国を建国、713年渤海と改称する。
926年、渤海はモンゴル系契丹族により滅亡、さらにシベリア系女真族の金が、契丹族の遼を駆逐して朝鮮北部にまで勢力を広げ、高麗を圧迫する。 古代玄菟郡の地は扶余、沃沮、把婁、扶余、靺鞨、契丹、女真、モンゴルと、シベリア系満州族とモンゴル系遊牧民の行き交う土地になった。 このことは咸興を中心にした北朝鮮地域より北部の人々は、中国東北部の人々と民族的に共通するところが多いことを示している。
963年、高麗は北宋に服属、994年、契丹に服属、1126年、金に服属、1259年、モンゴルに服属する。 強いものには服従する、それが朝鮮の歴史である。 当時東アジアから中央アジアの民族で、形式的とはいえモンゴルの支配から独立を維持したのは吐蕃(チベット)と高麗だけである。 地勢条件を考えれば高麗が独立を保ったことは奇跡に近い。 高麗は独立を維持しただけではなく、モンゴルを利用して勢力の拡大も図っている。 高麗王はモンゴルに対して日本の攻略を強く進言している。
1274年、文永の役、1281年、弘安の役は共に失敗した。 元船には農耕具が積まれていたことからも分かるように、侵略軍は日本に上陸定着する意図があった。 モンゴル人は農耕をしないので、高麗に日本攻略の意図があったことは明らかである。 高麗の計算違いはモンゴル軍が思いのほか弱かったことだ。 馬を降りたモンゴル兵は海辺での戦いに慣れていなかった。 高麗のもう一つの過ちは日本進攻のための造船が、森林伐採により国土の自然を荒廃させたことである。 自然破壊がその後の朝鮮半島の繁栄に負の影響を与えたことは想像に難くない。
高麗の日本侵略を現在の日本が非難するのは不当である。 当時のモンゴルの侵略をもって現在のモンゴルを非難する国がないように、当時は侵略、被侵略の関係は世界史において普通のことだからだ。 既述したように満州から朝鮮北部にかけての歴史は、狩猟採集系、遊牧系諸民族の興亡の歴史であり、数多くの民族が侵入、興隆、滅亡していった。
狩猟採集民が牧畜、農耕民に比べて経済的、文化的に劣っているのではないかとする見方は正しくない。 当時はまだ自然が豊かで、自然の中に富があった。 清を建国した満州女真族は、動物の毛皮(クロテン、カザンリス)を富として力を蓄えていた。 その後シベリアを東進してきたロシアも、これらの富の獲得を目指していたのである。
14世紀後半の元朝末期には中国各地に群雄が割拠する。
1368年、群雄の一人、朱元璋が金陵(南京)を首都に明を建国、北上して北元を圧迫する。 高麗の将、李成桂は明討伐を命じられるが、明討伐軍はきびすを返して高麗を攻略、1392年李氏朝鮮を建国する。
李成桂は女直の人、つまり女真人である。 このとき明は宗主国として李成桂に朝鮮の国号を与える。
李氏朝鮮は1592年、壬辰の乱(文禄の役)、1597年、丁酉の乱(慶長の役)を戦い、明軍の救援を得て豊臣秀吉の侵略軍を追い返した。 このとき明軍の将、陳隣と和睦して日本へ帰る途中の小西行長軍を包囲した李舜臣は、救援に駆けつけた島津義弘軍と戦い、命を落としている。 和睦後に追い討ちをかけて相手を滅ぼすという戦術は、歴史において珍しくない。 日本では一向宗と戦った織田信長軍が、和睦後城を出た一揆軍を襲った例がある。 1615年、徳川が豊臣氏を滅ぼした大阪夏の陣も、前年の冬の陣和睦後の出来事である。 中国では漢の劉邦が項羽と和睦した後、楚に帰った項羽を垓下に追って攻め滅ぼした。
壬申、丁酉の乱で朝鮮半島が戦場になったことだけが朝鮮半島荒廃の原因ではない。 日本軍は兵糧を日本から持ち込んだが、明軍は「用を国に取り、糧を敵に因る」という孫子の兵法に従い兵糧を現地で調達した。 日本軍の数倍に及ぶ兵力を出した明軍兵糧の現地調達は、現地経済と住民の生活を破壊して、その後に大きな後遺症を残したのである。
このとき日本軍が持ち込んだ兵糧の漬物と唐辛子がキムチ文化の元となり、日本にはキヨマサニンジン(セロリ)が伝わった。
1616年、シベリアツングース系女真族(満州女真族)の太祖ヌルハチが後金を建国、1636年国号を清と改称する。 同年李氏朝鮮は清に服属、国内から明の勢力を徹底的に駆逐する。 このとき以来朝鮮半島に華人(華僑)は存在せず、中華街もない。
1884年、甲申の政変で親日改革派のクーデタが失敗する。 当時の朝鮮半島の様子は「朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期 イザベラ・L・バード」(“Korea and Her Neighbors” by Isabella Lucy Bird)に詳しい。
1897年、国号を大韓とする。
大韓首相、李完用は日本との合併を画策、合併に反対した伊藤博文は1909年、朝鮮人に暗殺される。
1910年、朝鮮半島は日本に併合されて李氏朝鮮の歴史は終わる。
1945年、日本が第二次世界大戦に敗れると、朝鮮人は日本人に対して徹底的な弾圧と排斥を行い、日本の勢力を朝鮮半島から駆逐する。 さらに李承晩は竹島を占領、対馬を要求した。 一方で朝鮮半島の統合は実現せず、1948年、北部に朝鮮民主主義人民共和国、南部に大韓民国が成立する。
1950年、朝鮮戦争勃発、1953年、休戦協定が成立して現在に至る。
第二次大戦の終結と朝鮮戦争までの時期は朝鮮半島の混乱期で、大勢の朝鮮人が災いを逃れるため日本にやって来た。 当時は難民、不法移民という言葉はなく、日本はアメリカの占領下にあったため、何も対処することができなかった。 入国者数は100万から200万に上ると推測される。 現在日本にいる在日朝鮮人のルーツの9割以上が、この時期の密入国者である。
朝鮮には「溺れた犬は棒で叩け」という諺がある。 敗者は徹底的に攻撃して利権、財産を奪い取るという意味である。 日本海の名称を“東海”に改めろという要求も同じ脈絡にある。 従来朝鮮では日本海を東海、黄海を西海と呼んでいた。 しかし名称変更要求は日本海だけで、黄海(Yellow Sea)を西海に変えろという要求はない。
敗戦後の日本に対する朝鮮の仕打ちは特別なものではなく、清に敗れた明に対する仕打ちと共通するものがある。 壬辰丁酉の乱に明から援軍を受けた恩は考慮されていない。 日本人から見れば非常に違和感を覚える行動であるが、これは孫子の兵法に由来するもので、世界的に見ればむしろ普遍性がある。 孫子は言う、「敵が退くなら、我々は前進せよ」。 ロシアは敗戦間近い日本を攻撃して、千島列島、南樺太を奪っただけでなく、いわゆる留萌釧路線以東の北海道を要求している。 争い事では勝ち馬に乗ることが基本で、滅亡する国家に同情して強敵と戦ったのは、世界史において古代の日本だけである。
北朝鮮のテレビから政治報道が減少していた。 金正日の健康不安説が真実味を帯び、その後継問題が注目を集めるようになっていた。
後継者と目されるのは3人の息子たちである。 長男の正男(ジョンナム)、二男の正哲(ジョンチョル)、三男の正雲(ジョンウン)だ。 彼らはそれぞれに支持勢力を持ち、個別に権力掌握の可能性を探っていた。
北朝鮮は軍事国家である。 先軍政治により軍人は優遇され、政治的発言力も大きい。 正統な後継者として認知されるためには、軍部の支持が得られるかどうかが鍵になる。 後継勢力は軍部に接触していたが、どの勢力も権力に至る決定的な関係を築いてはいなかった。
後継問題は軍部にとっても重大である。 政治的判断が変われば軍部の地位も変わる。 幹部軍人は物資の配給が優遇され、豊かな生活水準を保証されている。 軍部に既得権を放棄する意思はない。 後継者は軍部の利益を保守してくれる者でなければならない。 だれが軍部にとって最適な後継者なのか。 それは軍部にも分からなかった。
軍部は国家の中で最も大きく堅固な官僚組織である。 この中でどのような地位を占めるかは個人の利益に多大な影響を与える。 官僚組織では人事権が最も大きな力を持ち、それは政治権力と経済的利権に直接係わることになる。
この構造は古典的な王政と同じである。 軍部は金王朝の宮廷貴族であり、王朝と同じ船に乗っている。 軍部が王朝を支え、王朝が軍部を支えている。
北朝鮮は過去何度となく食糧支援などの人道援助を受けている。 しかし援助物資が庶民に支給されることはあり得ない。 王朝は自らを支える軍部を何よりも優先する。
全ての国家に共通することは、増税は人気がないということだ。 徴税は簡単なことではなく、その多寡に係わらず徴税コストがかかる。 これには徴税作業という行政コストだけではなく、庶民の不満に根ざす社会不安を生じさせる可能性を含む。 従ってどのような政府でも税収に相当する援助収入を庶民に配分することはない。 仮に庶民を援助するとすれば、それは援助収入を確保した上での税の減免という手法を取る。 それによって必要な徴税コストまで軽減ないし消滅させることができるからだ。 金王朝は庶民によって支えられているのではない。 従って多くの庶民が食糧不足で餓死していることは、王朝の存続に影響を与えない。 人気取りを目的とした援助のばら撒きは必要ないのである。
北朝鮮王朝は慢性的に収入不足でありながら、総員数108万人を超える世界第四位の軍隊を保有する。 援助物資は全て王朝の近親と軍部にわたる。 古典的王政が王室と宮廷貴族の利益しか考えていなかったように、北朝鮮王朝も庶民の生活状況は考えていない。 過去の援助は全て金正日体制を支えることに使われたのだ。 人道援助が庶民に配分された事実を証明するものは何もない。
金王朝の維持は軍部にとっても重要な問題である。 だが北朝鮮の軍部は一枚岩ではなかった。 全ての権力組織がそうであるように、軍部も幾つかの派閥に別れていた。 金正日が健在のときは、派閥間の軋轢が顕在化することはなかった。 だが、今、状況は変わりつつある。
派閥は大きく分けて二つあった。 正規軍と特殊部隊である。 正規軍は予算、構成員数において最も大きな組織である。 しかし朝鮮戦争後は平和が続き、その後正規軍が大規模に運用されたことはない。 一方特殊部隊は平時においても国際法上合法非合法の様々な活動を行っていて、常時実戦的な組織としてその存在を誇示していた。
この二つの派閥はさらに複数の派閥に分かれ、それぞれ別の後継者を支持していた。 後継者と支持勢力、軍部の支持派閥は錯綜して、権力の行方を占うことは困難を極めた。 共通することは基本的に世襲を支持するというだけである。 しかしこれまで表面には出なかったものの、軍部内にも権力の世襲に疑問を持つ勢力があった。 彼らは共和制を支持し、それゆえ民主制を志向した。 現状では北朝鮮に民主的な選挙を実施することは不可能である。 そうした中で世襲を阻止する唯一の方法は軍事クーデターだ。 民主制を実現するために一時的な軍事独裁の道を選ぶ、それも選択肢の一つだった。
権力が沈黙を続ける中で、軍部の大部分は中枢部を含めて中立を装っていた。 権力の趨勢が明らかになるまで立場を明確にしないことは、朝鮮民族の歴史的性向である。 イデオロギーや信念は行動の基準にならない。 大事なことは生存である。 破滅したくなければ何としても勝ち馬に乗ることだ。 溺れた犬になるわけにはいかないのである。 民族そのものがそのようにして、数千年間ユーラシア大陸の東の果てで生き延びてきた。
金正日の死亡が発表され、葬儀が盛大に行われた。 喪主は長男の金正雄である。 世界は一斉に彼が後継者であることを伝えたが、事実はそう単純ではない。 長男が父親の喪主になることは、儒教の倫理が残る北朝鮮では当然である。 喪主イコール後継者とは限らない。 他のライバルが行動を起こす可能性が消えたわけでもなく、軍の一部が権力の掌握を強行する懸念もある。
北朝鮮の権力後継問題に最も注意を寄せていた国が中国である。 北朝鮮の権力の行方は、中国の将来についてチャンスと失望の可能性をはらんでいる。 北朝鮮は中国の野心を満足させることもできれば挫折させることもできた。
中国は早い時期から人民解放軍を中朝国境に集結させていた。 鴨緑江下流の丹東郊外には10万の機甲師団が待機していた。 臨江には5万の機甲師団、長白には4万の歩兵師団である。 豆満江左岸では琿春郊外に5万の機甲師団、図們郊外にも5万の機甲師団と10万の歩兵師団が展開されていた。 さらに龍井南の山岳地帯にも総勢2万5千の特殊歩兵部隊が待機していた。
韓国も38度線近くに臨戦態勢を整えていた。 既に在韓米軍はなく、軍の統帥権は韓国政府にある。 北朝鮮が南進する懸念は小さいものの、北朝鮮内部で混乱が起きた場合、難民が殺到する可能性があった。 板門店は情報の最前線として期待されたが、北朝鮮軍部の情報は伝わってこなかった。
韓国は外交部を通じて北朝鮮政治局と接触を図っていた。 北朝鮮政治局も韓国からの情報を期待していた。 北朝鮮内部でさえ権力の動向が分からなかったのである。 誰も動けない状況は混迷の証である。 誰もが疑心暗鬼に陥り、思いがけない原因が大きな混乱を呼び起こす恐れがあった。
暗澹とした空気の中で、権力の世襲を嫌う勢力が徐々に浮上してきた。 軍部内の共和主義者だけでなく、民間の有識者や活動家の中にも民主化の可能性を模索する者が出てきた。
金正日の息子たちは権力の掌握に積極的ではなかった。 もし権力の奪取に乗り出して失敗すれば、命はないだろう。 確固たる政治的環境が整わない限り、権力者として名乗り出るわけには行かない。 むしろ権力掌握の可能性を持つ分だけ、反対勢力に命を狙われる可能性がある。 十分な財力を確保して国外に逃れる術を考える方が現実的であった。
誰も積極的に権力の後継に名乗り出ない中で、次第に共和主義者が力を持ち始めていた。 軍部内の共和主義者も幾つかの分派に別れていたが、どの派も行動の決め手を欠いていた。 軍部共和主義者も軍事クーデターには踏み切れない。 共和主義者が軍部を掌握しているわけではなく、仮に失敗すれば命がないことは明らかだった。 軍部の中には民間の共和主義勢力すなわち民主化勢力と意を通じるグループもあった。
民主主義者には少数ながら生存よりも正義を優先する者がいた。 民主主義は正義である。 北朝鮮を何としても民主国家にしなければならない。 そういった信念が少数の民主主義者を動かしていた。 一部は積極的に日米と接触を図ろうとしていた。 民主主義へのプロセスがどのようなものになるとしても、日米の同意と協力が欠かせないと考えたからである。
中国は朝鮮半島の統一に反対していない。 平和的統一は中国に有利である。 韓国、北朝鮮は共に反日国家だ。 韓国は中国の反日政策に常に同調している。 統一韓国が親日になる可能性はない。 中国にとって当面の戦略的目標は、東アジアにおける指導的地位の確立である。 アメリカは外来者だから、どんなに強力であろうとも地域国家としての存在感はない。 実際、東アジア共同体構想の中にアメリカは存在しない。 中国の戦略に立ちはだかる障害は日本だけだ。 統一韓国が反日である限り、親米は一向に構わない。 対日政策において中国に従ってくれればそれで十分だった。
しかし新たな北朝鮮政府が日本に接近すれば話は変わる。 北朝鮮の民主勢力が韓国と袂を分かち、日米を後ろ盾にした新国家が成立した場合、それは反日国家でなくなる可能性が高い。 北朝鮮の親米は許せるものの、親日は許せない。 朝鮮半島が統一しないまま、北に親日民主主義国家が成立すること、これが中国にとって最悪のシナリオだった。
中国は朝鮮国境に大軍を張り付けたまま、北朝鮮の親中国勢力を結集しようとしていた。 親中国家であるならば権力は誰の手にあってもよく、どのような政治体制でもよかった。 同時に中国は韓国とも接触していた。 韓国の朝鮮半島統一を支援する。 中国の後ろ盾によって統一韓国を作ることにより、韓国を永久に中国の衛星国として囲い込む戦略であった。 統一するのかしないのか、どちらに転んでもいいように準備していたのである。
北朝鮮の民主勢力が日米に接近を図っているという情報は中国にも伝わった。 それは中国にとって最悪の事態が起こるかもしれない可能性を示していた。 北朝鮮情勢は日米有利に傾きつつあるのではないか、中国中枢部の戦略に破綻の可能性が見られるようになった。 中国の現状の戦略は機能していない。 戦略の見直しが必要である。 場合によっては強硬手段も排除すべきではない。 そうした考え方が生まれていたのである。
中国海軍には野心があった。 西太平洋の支配である。 そのためにはまずユーラシアの東の海(マージナル・シー)を支配しなければならない。 東の海とは、北からベーリング海、オホーツク海、日本海、東シナ海、南シナ海である。 ベーリング海とオホーツク海は地政学的に見て戦略上重要ではない。 東シナ海と南シナ海は事実上中国の掌中にある。 問題は日本海だ。 今のところ中国海軍は日本海から締め出されている。 もし北朝鮮の港を中国海軍が自由に利用できることになれば、日本海をも勢力下に治めることができる。 そうなれば日本に対して戦略上決定的に有利な立場を確保することが可能になり、日本の戦略的地位を大幅に弱体化することができる。
北朝鮮に親日民主国家ができれば全ては夢に終わる。 そうなってはならない。 中国は疑心暗鬼に陥り、北朝鮮情勢に焦りを覚えていた。
ある日突然、中国が動き出した。
北朝鮮情勢に日米の陰がちらつき始めた。 北朝鮮は中国の庭先である。 そこに日米が無断で踏み込むようなことは許さない。 それが中国の考えである。 特に反米、反日主義者にとってそれはドグマであった。
一向に進展しない後継問題と忍び寄る日米の陰は、中国を不安にさせた。 中国は結論を急いだ。 琿春、図們、龍井に展開していた中国軍が豆満江を超えたのである。 機甲師団は一気に先峰(ソンボン)、羅津(ラジン)を占領、そのまま進軍して清津(チョンジン)を攻略した。 機動部隊はさらに南下して、漁大津(オデジン)、吉州(キルジュ)を占領、金策(キムチェク)を包囲攻略して止まった。
最北部の穏城(オンソン)、鍾城(チョンソン)では、中国侵入軍は北朝鮮軍の激しい抵抗にあったが、まもなく抵抗軍は物量に勝る中国軍に圧倒されて壊滅した。 中国特殊部隊は二手に分かれて山岳部から侵入、会寧(フェリョン)、茂山(ムサン)を占領、両軍は北と西から富寧(プリョン)を攻略した。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)は完全に中国軍の手に落ちたのである。
北朝鮮軍は中国軍の動向を注視していなかったわけではない。 しかし軍中枢部にとっては、中国の侵略よりも中央の権力争いのほうが重要であった。 中国の侵略は彼らの地位を脅かすものではない。 中央権力のほうが怖いのである。 中央からの命令は混乱し、前線の軍は矛盾する命令の判断に苦しんだ。 北朝鮮の軍は独自の判断で行動するように訓練されていない。 前線兵士はどうしていいか分からないまま戦闘に巻き込まれ、中国軍の前に壊滅していった。
中国軍の北朝鮮侵入はすぐに国際的な大事件として報じられた。 主要国のメディアは中国の暴挙を非難する記事で溢れた。 日本でも朝日、毎日、NHKを除くメディアが中国非難の論陣を張った。 中国は国際的な非難には慣れている。 核実験、人工衛星の破壊、チベット・ウイグルでの住民虐殺、新興宗教に対する弾圧、スーダン・ダルフールでの住民虐殺支援、西沙諸島、南沙諸島に対する領有権の主張、尖閣諸島に対する領有権の主張、東シナ海ガス田における日本の利権侵害など、これまで中国が国際的摩擦を起こした事例は枚挙に暇がない。 そしてこれらの問題で中国は一切譲歩したことがないのである。 国際的非難を受けながらも、結局、中国は自分の行動を押し通してきた。 国際的非難は一時的な突風に過ぎない。 やり過ごせばやがて収まる。
すでに超大国になった中国に実力行使できる国はない。 これは軍事力に限らない。 中国経済はすでに世界経済のメインプレイヤーである。 中国を排除して世界経済は成り立たない。 中国に対するいかなる経済制裁も機能しないだろう。 中国との経済戦争で痛手を負うのは相手国のほうだ。 中国は経済においてもすでに超大国なのである。
事は中国の思惑通りに進んだ。 世界中で中国批判の声が高まりを見せながら、具体的な制裁論議は起きなかった。 ASEANは形式的な中国非難をしただけで、中国との政治的摩擦を避けることに気を配った。 インドは中国の行動を厳しく批判、責任ある大国としての資質を問題にした。 しかしながら中印国境を閉鎖することもなく、具体的な制裁措置を取ることもなかった。
ロシアは事実上沈黙していた。 中国は上海協力機構(SCO)の盟友である。 アメリカに対抗するために中国の存在は欠かせない。 それでも中国の軍事行動は、国境を接するロシアにとって大きな関心事である。 ロシアはロ朝国境のハサンに防衛軍を集結、クラスキノに予備軍を置いてウスリースクに対策司令部を設置した。
EUは最も激しく中国を非難したが、具体的な中国制裁策を講じることはできなかった。
国連では安全保障理事会が招集され、中国の北朝鮮侵入問題が議論された。 米英仏露は中国に説明を求めた。 中国が安全保障理事会常任理事国として拒否権を持つ以上、理事会は中国に不利ないかなる決定もできない。 安全保障理事会は中国の弁明の場になりスポークスマンになった。 中国の北朝鮮侵入は中国の安全保障上必要だった。 北朝鮮の混乱は国境を接する中国への大量難民の侵入という事態を生じさせるかもしれない。 これは中国を混乱させる。 北朝鮮の混乱を避けるためには、軍事力を行使してでも北朝鮮の政治を安定させる。 これはイラクの政治状況を変革安定させるため、2003年以降にアメリカが行ったことと変わりがない。 中国も北朝鮮の政治が安定すれば軍隊を撤収する。 誰も中国を止めることはできない。 世界は中国の説明を受け入れざるを得なかった。
日米の対応は意外と冷静なものだった。 日本は中国軍の速やかな撤退を促したが、制裁については検討していないという立場だった。 アメリカは日本と共に中国軍の撤退を促すという声明を出した。 アメリカが極東で軍事行動を起こす場合、在日米軍司令部がその任を負うことになる。 在日米軍を動かすならば日本の支援は欠かせない。 幸い日本は中国に対してそれほど強硬に反応していない。 アメリカは日本に同調する。
アメリカは対中政策において独自の戦略を用意していたわけではない。 特別な戦略は必要ないと考えていたからである。 中国が北朝鮮に対して軍事行動を起こす可能性についても、複数のシナリオを考え検討分析していた。 分析の結果は中国の行動は結局失敗するということだ。 アメリカのベトナム支援、ソ連のアフガン侵攻、イラクのクウェート侵略、アメリカのアフガニスタン戦争及びイラク戦争、どれも成功しているとは言えない。
その逆はどうであろうか。 ベトナムでアメリカに対抗したソ連、中国はその思惑通りの結果を得たのであろうか。 アフガンでソ連に対抗したイスラム戦士を支援したアメリカは、望みどおりの結果を得たのか。 イラクをクウェートから追い出したアメリカは、その後の中東世界秩序形成に成功したのか。 アフガニスタン、イラクでアメリカと戦った勢力は、アメリカに勝利しているのか。 どちらの勢力にも成功はない。 それが歴史の教訓だった。 アメリカは中国の北朝鮮支配は一時的なものに終わると予想していた。 そのためアメリカは中国に具体的な制裁を課すことはなかった。
中国の北朝鮮侵入に対して最も激しく反応したのが韓国である。 韓国のマスコミは揃って中国非難のキャンペーンを張り、街頭では反中デモが繰り返された。 在韓中国大使館前には連日抗議の人々が集まった。 それでも中国が韓国の動きに動揺することはなかった。 韓国の反応は中国の予想したとおりのもので、特に変わったものではない。
中国は韓国に特使を送り、北朝鮮の取り扱いについて協議を申し入れてきた。 韓国は中国の申し入れを受け入れた。 北朝鮮問題で中国と協議できるのは、今のところ国連安全保障理事会だけである。 しかし理事会が機能しているとは言えない。 中国が北朝鮮問題を単独で協議している国はない。 そうした中で中国の方から単独協議を申し入れてきたのだ。 これはこの問題で韓国が特別の地位にあることを示すだけでなく、韓国の存在を中国が無視できないことを示している。 韓国が中国を拒否する理由はない。 韓国の存在感を周辺諸国に対してだけではなく、世界に示すことができる。
中国が韓国に示したシナリオは朝鮮半島の統一だった。 中国は韓国主導の朝鮮半島統一を支持する。 そのための支援を惜しまない。 もし韓国軍が北朝鮮に侵攻しても中国は反対しない。 ただし咸鏡北道(ハムギョンブクド)は中国に帰属する。
韓国は中国の提案を拒否した。 韓国の主張は中国の無条件撤退である。 韓国は憲法に規定のある韓国領土の如何なる部分も放棄する意思はない。 交渉はすぐに行き詰まった。
中国は次に占領地の有償割譲を提案してきた。 世界一の外貨保有量を誇る中国である。 金銭の支払いは問題にならない。 しかし韓国は応じなかった。
中国は韓国主導における朝鮮半島の統一について様々な提案をしてきたが、咸鏡北道(ハムギョンブクド)の中国領有については譲歩しなかった。 中国の立場からは、自国の領土ではない咸鏡北道(ハムギョンブクド)に対して、韓国がこれほどの執着を見せるとは思っていなかった。
交渉は長引き、解決の目途は立たない。 交渉の内容は極秘で、中韓ともに交渉の成果を明らかにしなかった。 それでも韓国が唯一の交渉窓口として中国と交渉している限り、何らかの解決の可能性がある。 日米を始めとする周辺諸国はこの交渉に注目し、その間中国に対して特別な対策をとることはなかった。
中韓の交渉が行われている間、北朝鮮の国内は混乱を続けていた。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)を占領する中国軍を追い出すためには、まず軍を一元化しなくてはならない。 軍を統合し命令系統を整理して、統一された戦略戦術の下で軍を運用する。 そのためには軍の内部権力争いを解決する必要がある。 軍が各派閥に分かれている現状は速やかに解消されなければならない。 しかし軍指導部は動かなかった。 軍部内の派閥は一向に解消する気配を見せず、中国に対する反撃プランは宙に浮いたままであった。
何故中国に反撃しないのか。 それは軍の上層部が蒋介石の失敗を繰り返すことを恐れたからである。 1926年、蒋介石は広州を起点として北伐を開始した。 群雄割拠する中国を統一するため、各地の軍事勢力を攻撃統合していったのである。 この間日本軍が満州に進出、侵略軍として満州を支配していた。 蒋介石は日本軍を無視して北伐を続行、毛沢東率いる共産党を追っていた。 1936年、西安事件を経て1937年に国共合作、不本意にも毛沢東と共同で日本軍と戦うことになった。
蒋介石は日本軍の駆逐よりも共産軍の駆逐を重視していた。 日本軍は外来者である。 例え一時的に中国の多くを占領しても、やがて去っていくだろう。 共産軍は違う。 共産党に中国を奪われたら、中国は取り返しが付かないことになる。 蒋介石の懸念は現実のものになり、それは現在に及んでいる。
北朝鮮軍部の派閥争いは深刻なものであった。 負ければ排除されるという恐怖が、軍の上層部に蔓延していた。 この恐怖がある限り、派閥の解消は困難であった。 カリスマ的独裁者が存在する間は、派閥争いは表面に出てこない。 独裁は統合された命令系統を持ち、軍のような官僚組織を動かすときには有利に働くこともある。 だが独裁者はすでにいない。 後継者も不在である。 誰かが代わりをする必要があった。
共和主義者が力を持ち始めていた。 共和主義者は必ずしも民主勢力ではなかったが、権力の世襲を否定するところでは一致していた。 臨時中央委員会が組織され、この委員会が国家の全ての権限と軍隊の指揮権を継承することを宣言した。
中央委員会が組織されると、国家のあり方をどうするかがまず議論された。 中国に対する軍事行動は最優先事項ではなかったのである。
権力世襲の可能性がなくなると、金正日の息子たちを支持していた勢力が、急速に方向転換を始めた。 後継者候補は見捨てられ、むしろ邪魔な存在と見られるようになった。 危険を察した金正男は国外に亡命、中国国内に保護を求めた。 中国は彼の亡命を歓迎した。 仮に北朝鮮に対して新たな軍事行動を起こす場合、彼の存在がその正当性を補強する道具になると考えたからだ。
北朝鮮の臨時中央委員会は幾つかの決定をしていた。
北朝鮮の独立を守ること。
北朝鮮の領土を守ること。
北朝鮮に新しい民主国家を築くこと、である。
北朝鮮は韓国に吸収されない。 朝鮮半島の統一を否定するものではないが、それは北朝鮮の独立と尊厳を確保してから後の話である。
侵略軍とは断固として戦い、一切妥協することはない。 朝鮮の領土は守り抜く。
新しい政府は民主国家の名にふさわしいものとする。 権力の世襲は認めない。 権力者は公正かつ民主的な方法で選ぶ。
ここに前体制とは全く異なる北朝鮮国家が生まれつつあった。
北朝鮮に臨時中央委員会が発足し、事実上新しい政権が誕生した。 その間も、韓国と中国の交渉は続いていた。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)をめぐる中韓の対立はより険しいものになっていた。 韓国はこの問題について一切妥協するつもりがない。
韓国との交渉が進展しない中で、中国内部では次第に路線の違いが表面化してきた。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)の領有にこだわるのは、海軍を中心とする一部の強硬論者である。 彼らは大中国主義者であり、領土拡張主義を標榜する一派だ。 現在までこうした政策は全て成功しており、東シナ海、南シナ海における中国の権益は大いに拡大している。 日本海への権益拡大と日本に対する戦略的利益を考えるならば、咸鏡北道(ハムギョンブクド)の確保は譲れないという立場である。
一方中国の現在の強硬政策に懸念を示す勢力もいた。 中国はすでに十分な権益を抑えている。 これ以上の権益を望む必要はない。 中国はすでに超大国であり、これからも成長を続ける。 長い目で見ればアメリカをも凌駕するだろう。 何故ここで国際社会と軋轢を起こしてまで権益の拡大を図るのか。 引き際というものも考えなければいけない。
これに対して強硬論者はこう反論する。 不断の戦略的行動があったからこそ、中国は超大国になれたのだ。 外国は常に戦略的に動いている。 ロシアも、アメリカも、日本もそうだ。 もし中国がおう揚に構えていれば、それはいつか来た道になる。 列強によって中国の領土が侵食された19世紀を忘れてはならない。 しかし現状が好転しない中で、強硬論に反対する声が次第に高くなっていった。
中国指導部ではこれまで強硬派が力を持っていた。 中国政治指導部は軍部と密接に繋がっていた。 中国軍司令部でも戦略については幾つかの路線の違いがあった。 その中でも政治局中枢部の強硬派と結びついていたナショナリストのグループが、北朝鮮戦略の具体的政策立案の主導権を握ったのである。 他のグループは有効な代替策を示せないまま強硬路線に引きずられていった。 ナショナリストグループは大きな抵抗に直面することなく、自ら戦略を立案、作成、そして実行した。 彼らの戦略は完璧であり、中国の戦略目標は間違いなく達成されるはずであった。
北朝鮮に臨時政府が発足したという情報が入ってきた。 北朝鮮は政府を建て直し、戦争の準備を進めている。 日米と連携してその支援を仰ぐつもりでいる。 さらにロシアとも接触を図っているという情報もある。 ロシアは介入しないことを表明しているが、状況が変わればどう出るか分からない。 ロシアがどの程度信用できるかは定かではない。 もし日米が本格的に北朝鮮を支援することになれば、中国は泥沼の戦いを強いられることになるだろう。 さらにロシアが日米側に付くということも起こり得る。 国際的非難を浴びている中国の立場を考えれば、ロシアは中国に付くより日米に付いたほうが得策だと考えるかもしれない。 中国の懸念は広がる一方であった。
中国指導部には即時撤退論を唱える者も出てきた。 北朝鮮が軍事行動を起こす前に全軍を撤退させるべきという主張だ。 もはや面子に構ってはいられない。 撤退のタイミングを逃せば、取り返しの付かない事態になるかもしれないのである。 最悪のシナリオは日米露を敵に回した戦争である。 中国政治指導部の不安の中で、強硬論はもはや唯一の選択肢ではなくなっていた。
朝鮮半島の統一は韓国の悲願であり最大の国家目標である。
北朝鮮の未来については従来から四つのパターンが考えられていた。
第一のパターンはドイツ型の統一である。 具体的には韓国が北朝鮮を吸収して統一することである。
第二のパターンは韓国と北朝鮮が対等な立場で統一することである。 統一国家は連邦制をとる。 南北に独立国家を維持しながら連邦政府を持つことになる。
第三のパターンは北朝鮮地域が政治的に混乱して無政府状態になった場合、周辺大国が介入して治安を回復した後、1か2のパターンに従って朝鮮半島の統一を進めるものである。 言い換えればイラクに介入したアメリカ型の政策であり、周辺大国とは事実上中国のことである。
第四のパターンは混乱した北朝鮮をいったん国連のような国際機関に管理させるものである。 この場合北朝鮮の無政府状態を解消するために、国連軍、あるいは国際合同軍(多国籍軍)を介入させることになる。 中国は当然介入軍に参加することになるであろう。
中国は韓国との交渉に自信を持っていた。 韓国は、できれば北朝鮮を吸収してドイツ型の統一を果たしたいと考えているはずだ。 韓国の懸念は北朝鮮吸収のコストに耐えられない可能性が高いことである。 吸収統一すれば韓国の社会制度、雇用、治安の維持、外貨保有高などを適正な水準に維持し続けることは不可能だろう。 そこでこれらのコストを全て中国が補償することにすればよい。 経済的なコストについては中国が韓国に無制限の補償を行う。 その上で韓国に北朝鮮を吸収させる。 韓国にとっては中国の全面的な支援の下で朝鮮半島の統一ができる。 韓国がそれを望まないわけがない。 ただし中国側にも条件がある。 それは北朝鮮最北部を中国の管理下におくことだ。 つまり北朝鮮を事実上中国と韓国とで分け合うことであり、中国は1割の土地を自国の管理下におき、残り9割の土地を全て韓国領土として認めるということである。 しかも統一に伴う経済的コストは全て中国が負担するのだから、韓国にとって悪い条件ではないはずだ。
中国の北朝鮮侵入は、朝鮮半島の安定と統一に向けた第三のパターンに沿ったものであり、侵略と言われるようなものではない。 北朝鮮に対する中国軍介入の可能性はロシア、アメリカに伝達済みである。 それに対して両国から抗議を受けていない。 つまり中国の行動は米ロの承認するところである。 事実中国が北朝鮮に侵入した後も、米ロから正式な抗議は受けていないし、両国も目だった軍事的行動を起こしていない。 全ては予定調和の行動であり、世界が承認する筋書き通りの行動である。 中国に失策はないはずだった。
しかし事態は中国が予想したとおりには運ばなかった。 まず北朝鮮政府が中国の予想したとおりには崩壊しなかったことである。 北朝鮮は後継者問題で内部分裂を起こし、場合によっては内戦状態になって収拾が付かなくなる。 これはイラク戦争後のイラク情勢から類推すれば、当然予想される結末である。 しかしそうはならなかった。 北朝鮮の後継者争いは三竦みの状態で、結局共和主義者のグループが漁夫の利をさらっていったのである。 共和制民主主義勢力は対立する勢力を均衡させる形で、臨時政府を作ることに成功した。 そのため北朝鮮の治安を回復させるはずの中国介入軍が、北朝鮮軍の反撃体勢に直面することになったのである。
中国の予想が外れたもう一つの要素が韓国の反応である。 韓国は中国の提案をことごとく拒否してきた。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)は韓民族にとっては歴史的に重要な土地ではない。 統一新羅も高麗もこの土地を支配したことはなく、歴史的に韓族系朝鮮民族が過去に一度も支配したことがない土地である。 咸鏡北道(ハムギョンブクド)は古来沃沮(よくそ)、把婁(ゆうろう)、扶余(ふよ)、靺鞨(まっかつ)、契丹、女真、モンゴルなどの満州、モンゴル系民族が支配してきた土地だ。 李氏朝鮮の祖、李成桂もその名前と出所を考えれば、楽浪、帯方に起源を持つ漢民族の出身である可能性が高い。 韓国が咸鏡北道(ハムギョンブクド)に固執する理由はないはずである。
中国の提示した条件は韓国にとって決して悪いものではない。 中国はこのまま北朝鮮を占領管理して、韓国とは全く別のもう一つの国家として独立させることもできるのだ。 その場合朝鮮半島は従来どおり分裂したままであり、韓国は現在の領土の中に閉じ込められたまま、永遠に統一を夢見るだけの国家に終わってしまうだろう。
そもそも韓国に朝鮮半島を吸収統一する権利があると言えるのか。 現在の韓国政府は朝鮮半島に存在する唯一の合法政府ではない。 北朝鮮政府は国際社会に認められたもう一つの正統政権であり、たとえ北朝鮮政府が消滅したとしても、その領土を韓国が継承すべき必然性はない。 統一ドイツは東ドイツの民衆が西ドイツとの統一を積極的に望んだ結果として生まれた。 これに対して北朝鮮の民衆が韓国との統一を積極的に望んでいるとは言えない。 北朝鮮の民衆はなお沈黙したままであり、仮に民主主義政府が生まれたとしても、彼らが韓国との統一を望むとは限らないのである。 だから中国が韓国に提示した条件は破格のものだ。 中国のコストで北朝鮮の大部分を韓国が吸収することを容認すると言っているのだ。
韓国は中国が提示した如何なる提案も拒否した。 中国は妥協を重ね、咸鏡北道(ハムギョンブクド)の港湾、羅津、清津、金策を中国海軍が使用できる権利だけでも確保しようと韓国との話し合いを重ねた。 大国が外国に自国の軍事基地を置くことは珍しいことではない。 アメリカは日本を始め世界各地に軍事基地を持っている。 ロシアもアルメニアや中央アジア諸国に軍事基地を置いている。 中国が在外中国軍基地を置くことに何の不思議もない。 韓国は長い間在韓米軍基地を置いてきた実績がある。 中国軍の基地があってもそれほど抵抗はないはずだ。
ところが、韓国はこれにも同意しなかったのである。
中国は韓国の交渉態度にうんざりしていた。 北朝鮮に対して何も影響力を持たない韓国が、中国に対してこれほどまで提案に応じない姿勢を見せるのは不遜であるとさえ思われた。 中国は長引く韓国との交渉を打ち切り、北朝鮮に独自の国家を建設することに心を奪われ始めていた。 それは中国軍撤退と正反対の行動である。 しかしそれが実現する可能性は低くなっていた。 このとき中国政治指導部の強硬論者は、内側からの批判で身動きの取れない状況に陥りつつあった。
中国は朝鮮半島の将来について韓国と話し合いを始めた。 ここで中国は基本戦略を変えたのではない。 中国軍は来るべき北朝鮮攻略に向けて、必要な準備を怠らなかった。 中国各地から予備軍が集められ、100万を超える大軍団が鴨緑江を超える準備をしていた。 中国軍が占領している咸鏡北道(ハムギョンブクド)でも、軍備は着々と増強されていた。
咸鏡北道(ハムギョンブクド)の中国軍司令官は、北朝鮮全土の攻略に自信を深めていた。 北朝鮮の空軍基地は全てミサイルと空爆の標的に入っている。 北朝鮮空軍は中国軍の最初の一撃で壊滅できる。 北朝鮮の機甲師団も同様である。 中国空軍は北朝鮮機甲師団の位置と動きを把握しており、短期間で敵機甲師団を無力化できるだろう。 北朝鮮歩兵の抵抗とゲリラ戦はしばらく続くかもしれないが、沈黙は時間の問題である。 北朝鮮の軍事幹線は全て把握している。 ロジスティクス(兵站)を失った孤立部隊はすぐに息を潜めることになる。 後は速やかに平壌を陥落させるだけだ。 その後は政治日程に従い北朝鮮を処理することになるだろう。
北朝鮮臨時政府でも中国軍増強の情報を入手していた。 この後中国軍は平壌を目指して進撃してくるはずだ。 それを断固として阻止しなければならない。 中国軍を退却させることは不可能に近いが、戦う以外に道はない。 後は中国軍の不当性を世界に訴えて、国際社会が中国軍を追い出してくれることに望みを繋ぐしかない。
北朝鮮軍に幸いしたことは、中国軍の侵入が思いがけず北朝鮮の政治的混乱を収拾したことである。 権力闘争は休止して臨時政府ができ、期せずして政治的意思統一のコンセンサスが出来上がった。 この臨時政府の成立では、共和主義者、特に進歩的民主主義者が中心的役割を担った。 民主主義者が前面に出てきたことは北朝鮮に有利に働いた。 民主主義臨時政府は国際社会に正義の政府という印象を与え、日米欧などの民主主義国家に対して、その正当性を強くアピールすることができたからである。 北朝鮮臨時政府はあらゆる手段を使って日米欧各国政府と接触を図り、特に近隣の日本と米国に対して強く支援を要請してきたのである。
北朝鮮臨時政府は日本が何を望んでいて何ができるかを知っていた。 拉致問題に係わる全ての問題の解決を約束、平和条約締結に向けてあらゆる障害を取り除く積極的な意志を示した。 同時に戦後賠償の話し合いと経済支援についての約束を取り付けた。 これらの情報が国民に伝わると、日本の世論は一気に北朝鮮臨時政府の擁護、北朝鮮からの中国軍撤退要求へと動き出したのである。
北朝鮮に事実上の民主政府ができたことは、国際世論を味方につけただけでなく、北朝鮮自身の対外政策を変えた。 北朝鮮臨時政府はこれまでの閉鎖的な外交姿勢から一変して、世界の民主主義国家と積極的に連携する姿勢を示した。 臨時政府は日本に続いてアメリカへの働きかけを強めた。 同時に国連を通して中国による侵略の不当性を訴えた。
日米欧が北朝鮮臨時政府を事実上正統政府として承認したことは、国際社会そのものに大きく影響を与えることになった。 従来親中国家が多かったアフリカ諸国でも中国に同調する声は少なくなっていた。 シリア、イラン、ベネズエラなどの反米国家も中国を擁護しなくなった。 ロシアや中央アジア諸国も国際情勢が変化していることを認識していた。 ロシアは中国と接触し、北朝鮮からの速やかな撤退を勧めていた。
北朝鮮攻略の準備を完了していた中国軍司令部は当惑した。 中韓交渉が不調のまま、北朝鮮攻略作戦も停滞を強いられることになった。 これは作戦本部の重大な失敗ではないのか。 まず韓国の動向を伺いながら行動したことが誤りである。 北朝鮮に中国の戦略拠点を確保することの見返りとして、金正日後の朝鮮半島を韓国に任せようとしたことが誤りだった。 韓国が親中国家であることは、国際政治において必ずしも中国に従うことを意味しない。 中国は韓国の反応を完全に見誤ったのである。
軍事作戦も中途半端だったと言わざるを得ない。 中国軍が朝鮮半島に侵入したとき、一気に全土を掌握すべきだった。 あのタイミングでの軍事行動ならば、国際世論は現在ほど反中国に傾くことはなかったはずだ。 何故あの時中国軍は北朝鮮の一地方だけの占領で満足して軍を止めたのか。 それは韓国の反応に気を遣いすぎたからだ。 北朝鮮の制圧は、韓国に中国に対する不安と疑念を呼び起こす。 韓国にそのような感情が生まれれば、その後の朝鮮半島国家は中国を信頼しなくなるかもしれない。 それを恐れたのである。 政治局中枢部がこれほどまでに韓国に気を遣った理由は分からない。 分かったことはそれが結果的に失敗だったということだ。 中国軍司令部は政治局と作戦本部の判断に対して強い不満を持つようになった。
中国は北朝鮮の攻略について政治的判断を迫られることになった。 軍事行動を起こすとすれば今以外にない。 仮に軍を撤収した場合、軍事行動を起こす機会は二度と来ないだろう。 中国軍が撤退した後は北朝鮮臨時政府が北朝鮮の正統政府になる。 その政府は親米親日政府になる可能性が高い。 それは明らかに中国にとって望ましくない事態に違いない。 しかしその政府が必然的に反中になるわけではない。 将来に向けて政治的努力を重ねることにより、中国の影響力を維持することは難しくないだろう。 新しい政府と共存して地域の安定を維持することは可能である。
それでは軍事的解決によるシナリオはどうか。 北朝鮮臨時政府を排除して親中勢力による新しい国家を作ることは出来るかもしれない。 その場合韓国との関係は悪化する。 さらに国際社会と中国は敵対することになるかもしれず、国際的な中国の威信の低下と影響力の低下を招くことになる。 中国の軍事力が日本海に拡大することに関しては、ロシアも警戒を強めるはずだ。 中長期的に考えれば軍事的選択が中国に利益をもたらすとは思えない。 国際情勢を考えれば、中国は北朝鮮から撤退する以外に選択肢はないだろう。
中国指導部は戦略の失敗を認めない。 認めれば政治責任は免れず、全ての栄光はそこで終わる。 時勢が中国に不利に傾きつつあるにも拘らず、中国指導部は軍の即時撤退を決断できないでいた。 その中で代替案が浮上した。 それは攻略でも撤退でもない別の選択肢である。 提示したのは意外にもこれまでの強硬論者である。 北朝鮮攻略作戦を立案、作成、指導、実行したグループだ。 彼らは韓国政府との話し合いに見切りをつけ、北朝鮮臨時政府と直接交渉することを提案した。
彼らはまだ中国の戦略的目標を実現する夢を見ていた。 中国軍が確保している北朝鮮北部は簡単に手放していい場所ではない。 北朝鮮臨時政府を承認支持することと引き換えに、今の占領地に中国の利権を確保することはできるはずである。 北朝鮮軍に中国軍を撃退する力はない。 もし戦争になれば彼らの損害は非常に大きなものになる。 それを完全に回避できるならば、中国の軍事的利権をある程度認めても彼らの利益になるはずだ。
中国は軍事的占領と威圧を維持したままで、北朝鮮臨時政府との交渉の道を探った。
中国と北朝鮮臨時政府が話し合いをすることになった。 場所は韓国である。 同時に中国と韓国との交渉は打ち切られた。 このことは朝鮮半島の韓国による吸収統一の可能性がなくなったことを意味していた。
北朝鮮は韓国の交渉態度を高く評価していた。 韓国は統一に固執せず、朝鮮に不利な条件を決して受け入れなかった。 韓国の姿勢は北朝鮮臨時政府も継承しなければならない。 つまり北朝鮮国内における中国の利権は決して認めないということだ。 臨時政府の立場ははっきりしている。 交渉の内容は中国軍がいつ北朝鮮国内から撤退するのかということに尽きる。 この交渉の目的を北朝鮮国内における利権の確保とする中国とは、当初から対立する構図である。
果たして交渉は行き詰った。 埒の明かない交渉が延々と続き、結論は一向に得られなかった。 核問題で北朝鮮との六カ国会議を経験していた中国も、この問題で交渉を長引かせることはできなかった。 軍事作戦を準備している大軍団を長期間待機させておくことは、非常に大きなコストがかかる。 さすがの中国もこのときは時間に限りがあったのである。
軍の現場は不満が溜まっていた。 軍事行動を起こすのか撤退するのか、なるべく早い決定を求めていた。 当初の作戦に失敗しただけでなく、その後の判断についても速やかな決定ができない。 政治指導部に対する不満は増すばかりであった。
時間だけが過ぎていった。 そして時間がたつほどに中国を取り巻く環境は厳しさを増していった。 中国政治指導部もそのことを理解していた。 主戦論はすでに息を潜めている。 政治指導部の空気は軍指導部にも伝わっていた。 軍を後押ししていた勢力が中枢部で力を失っている。 政治的状況からもはや北朝鮮攻略はないだろう。 そうした情報は軍の士気を著しく低下させることになった。 すでに多くの兵士は戦争をする気分ではなく、いつ撤退するか命令を待つだけになっていた。
中国が朝鮮半島に実力行使したことは、中国国内にも大きな緊張を与えた。 中国国内は無条件に安定しているわけではない。 辺境少数民族には中国政府に不満を持っている者が少なくなく、不断の治安出動が必要な地域もある。 一部の中国地方政府は朝鮮情勢の行方と共に、地域内の住民の動きに警戒を強めていた。
中国辺境地域の不安は中国の北朝鮮侵入前から始まっていた。 中国軍の戦時動員のため、地域の治安を預かっていた治安維持部隊の多くが、北朝鮮国境前線に駆り出されたのである。
中国軍は総員数225万人で世界一の軍隊を保有する。 中国の軍隊が自由民主主義諸国の軍隊と違うのは、その銃口が外敵に向いているだけではないことである。
ミャンマーのような軍事政権では、軍事力が政権を保証している。 それは軍事力が政治的反対勢力の封じ込めに使われているということだ。 そこでは必然的に反対勢力の活動を阻止するための軍事力の行使、つまり弾圧が行なわれる。 軍事力が支配、被支配の構造を決定する限り、弾圧は避けられない。
中国の場合も同じ状況がある。 中国辺境地区の支配は軍事力の裏付けをもって行なわれている。 辺境の軍事力は国境警備だけではなく、地域の支配のために存在する。 この軍隊が手薄になったということは、支配の構造を保証する力の裏付けが脆弱になったことを意味する。
中国中央政府の関心が朝鮮半島に集まり、中国の軍事力が朝鮮国境に向けられている。 北朝鮮情報は中国辺境にも刻々と入ってきている。 中国の北朝鮮政策が順調であるとは言えず、国際社会の中国に対する見方が厳しくなっていることも伝えられている。 それは中国の支配に不満を持つ少数民族を活気付かせることになり、辺境の治安はにわかに不安定さを増してきていた。
新疆ウイグル自治区で独立派の行動が活発化しているという情報があった。 外部からムジャヒディン(イスラム戦士)が多数入国して、現地の過激派と連携を深めていると言うのである。 中国情勢の情報はネットを通じて世界中に伝えられている。 その中で中国辺境の情報も日に日に増えていった。 中国辺境に不穏な動きがあることは誰の目にも明らかだった。
世界が注目している以上に、中国政府当局はネットの情報を監視、分析している。 ウイグル行政当局は北朝鮮に派遣しているウイグル軍管区の兵力を、急いで現地に戻すように中央政府に要請した。 中央政府はこれを聞き入れ、兵力をウイグルへ戻すことに同意したのである。
北朝鮮国境と北朝鮮国内咸鏡北道(ハムギョンブクド)に駐屯していたウイグル軍管区軍は、急遽撤退を始めた。 前線司令部は中央からの突然の一部部隊撤退命令に当惑した。 すでに作戦は準備が完了しており、全ての部隊は必要な配置の中にある。 部隊の削減による作戦の変更は容易ではない。 現地司令部は中央作戦本部に命令の撤回を求めたが了承されることはなかった。 このため前線では軍の再編成が行われ、急遽作戦の見直しを図らなければならなかった。
ウイグル方面軍が何故撤退したのか、その理由が公にされることはなかった。 撤退理由は前線司令部にも明かされることはなく、そのことが前線司令部の中央作戦本部に対する不満を増幅させた。
ウイグル地方に不穏な動きがあることは中国内部でも広く知られている。 しかしその具体的な内容は最高度の国家機密である。 ウイグル方面軍が現地に帰った理由が秘密にされたのは当然のことだった。 しかしこのときは少し事情が違っていた。 中国国家指導部内部に不協和音が聞こえる中での出来事だったからだ。 ウイグル方面軍の突然の撤退は、前線司令部だけでなく、各地から集められた地方軍管区軍兵士の間に様々な思惑を抱かせることになった。
ウイグル方面軍が撤退してもそれに続く撤退命令は来なかった。 前線兵士に厭戦気分が蔓延する中で、ウイグル方面軍だけが撤退したのだ。 撤退の理由は様々に推測され、中央司令部における統制の混乱を指摘する声が出てきたのである。 中央司令部が分裂しているのではないか、そのため軍の統制が必ずしも十分でなく、地方軍管区軍が中央軍司令部と独立に命令を出して、郷里の軍隊を撤退させたのではないかという噂が広まっていた。
ウイグル方面軍撤退の情報は各地方方面軍司令部及び地方行政府にもすぐに伝わった。 新疆ウイグル自治区の情勢はつぶさには伝えられていなかったが、情勢が必ずしも安定していないことは認識されていた。 情報統制の厳しい中国にあっても、内外からの情報源は豊富にあり、地方政府は独自に情報を収集することを怠らなかった。
上海や重慶などの経済的に成功繁栄している地方政府は、当初から中国が北朝鮮問題に深く係わることに懐疑的だった。 上海のような沿岸主要地域は国際経済との結びつきが強く、国際社会との共存を重要視している。 そのため過激な拡張主義や軍事主導の国家運営には消極的であった。 しかし熾烈な権力闘争社会の中で、中央実権力との衝突を避けることが、中国社会の中で生き残る道であることも知っていた。 物言えば唇寒しという政治環境の中で、政治的な問題に極力口を出さないことが最良の選択であった。 地方政府は中央覇権主義者が作る潮流の中で、ただ流されるままになっていた。
国際社会が中国に対して厳しい見方をしている。 このことは世界経済の主要プレイヤーである中国諸都市の経済活動に直接跳ね返ってきた。 貿易、投資共に減少し始めたのである。 外資による中国への投資は手控えられ、中国国内から資本を引き上げる動きさえ出てきた。 そうした経済環境の変化の中で、これまで沈黙していた地方政府も徐々に声を上げるようになった。 地方政府、地方都市は連携しながら、中国のあるべき姿と、地方と中央の関係について将来の理想を考え始めていた。 政治的問題に関しても沈黙を破る動きが出てきた。 地方政府が地元のメディアやネットを介して、中国軍の北朝鮮即時撤退に賛同する意見を公表するようになった。
中国軍は本来地方政府と何の関係もない。 軍は中央軍司令部の命令によってのみ動くもので、地方政府からは独立している。 しかし北京政府のやり方に不満を持つ地方政府と地方軍管区軍司令部は、共同して北京政府への批判を強めていた。
ウイグル方面軍前線離脱の情報は、地方政府と地方軍司令部に少なからぬ影響をもたらした。 ここでも地方軍司令部が中央軍司令部からの独立を強めているのではないかという疑惑が生じていた。 これは根拠のないことではなかった。 実際南方方面軍の一部が広東省政府と連携して、中央軍司令部から離反する傾向を見せていた。
北京の方針に不満を持っていた上海が動き出した。 上海は南京や杭州などの周辺都市をまとめ、さらに重慶と連携して政治的意見を表明するようになった。 上海と重慶の思惑は天下三分の計である。 中国を、北京を中心とした北部、上海を中心とした沿岸部、重慶を中心とした内陸部に分け、それぞれの地域が平等の立場で中央連合政府を形成、運営するという考え方である。 北京は上海の提案を当然のごとく無視し、共産党指導部による一党独裁の立場を変えようとはしなかった。
地方政府は北京を説得できるとは思っていない。 しかし国際世論の厳しい批判に晒される中で、中央政府の路線に動揺があり、中央軍司令部の中にも作戦の変更を考える動きがあることを知っていた。 情勢から考えればもはや軍事選択の道はない。 それならばできるだけ速やかに北朝鮮から軍を撤退させるべきである。 中朝国境にいつまでも大軍を張り付けておくべきではない。 駐留コストが増大するだけでなく、国際世論に攻撃材料を与えるだけで、中国にとって何のメリットもないからである。 ウイグル方面軍の撤退はそうした中での突然の出来事だった。
ウイグル方面軍の撤退後しばらくして鴨緑江右岸に展開していた広東省南方方面軍が撤退を開始した。 上海、重慶が北京に対して権力の独裁に対する抗議の姿勢を示した勢いを借りて、広東省南方方面軍司令部が独自に撤退命令を出したのである。 それは中央軍司令部が地方軍管区軍を統制できていないことを示しているだけではなく、北京政府の国家統制力が十分に機能していないのではないかという疑念を生じさせる事件だった。 表面上は広東省が上海、重慶の北京批判に呼応した形である。 しかしこの広東省の行動は上海、重慶にも予想外の出来事だった。 それは上海、重慶だけでなく中国全土に大きな衝撃を与えた。
上海、重慶の地方政府は北京を否定したわけではない。 独裁政治をもう少しリベラルなものするための政治改革を促しただけである。 広東省の考え方は上海、重慶よりも急進的で、予想を超えてそれを実行したのだ。 しかしこのことは傍から見れば上海、重慶の発言が、他の地方政府に大きな影響力を持ったように見える。 少なくともこれまで絶対であった独裁権力がほころびを見せたことは明らかだった。
上海と重慶が力を持ち始めている。 地方政府は上海と重慶の動きや、北京との力関係を見極めようと注意を払うようになった。 新たな権力闘争が始まる兆候を見せていた。 北朝鮮政策の失敗は明らかで、中央政府の発言力は低下している。 上海、重慶グループには勢いがあり、江蘇省、安徽省、浙江省、四川省などの周辺地方がこのグループを支持し始めていた。 ほどなく福建省、江西省、湖北省、湖南省が呼応して、上海、重慶グループが目論む中央政府の改革はいよいよ現実味を帯びてきたのである。
上海、重慶グループは早々と改革の具体的な内容を公開していた。 まず中国を三つの大地域に分ける。
第一が北京の管轄する東北三省(黒龍江、吉林、遼寧)及び内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、北京市、天津市、河北省、山西省、寧夏回族自治区、甘粛省からなる地域。
第二が上海の管轄する山東省、江蘇省、安徽省、河南省、浙江省、福建省、江西省、広東省、海南省、広西壮族自治区そして台湾省からなる地域。
第三が重慶を中心とする四川省、陝西省、湖北省、湖南省、貴州賞、雲南省、青海省、西蔵(チベット)自治区からなる地域である。 この案の中で台湾は上海の管轄下に入っているが、もちろんこのとき中国の行政権は台湾に及んでいない。
次にそれぞれの大地域は独自に内政を行う権利を持つが、これは行使されることなくそのまま中央政府に預けられる。 それに伴い各地域は平等な数の政治局委員を中央政府に送ることができる。 中国はこの政治局委員によって運営される。
同様に中国軍も再編される。 軍は大地域を単位として三つの軍管区に分けられ、それぞれの軍管区司令部はその大地域の地方政府に従属する。 しかし地方政府は軍の統帥権を行使せず、中央の政治局委員に預ける形で軍司令部が中央に統合される。 こうして中央軍司令部は中央政府に従属することになる。 各地方政府は形式的にはその軍管区軍の統率者である。 これは軍部を掌握したものが内政を支配するという、中国の政治状況を回避するための仕組みである。
北京政府は公にされた政治改革案を馬鹿げたものとして取り合おうとはしなかった。 しかし北朝鮮攻略軍はなし崩し的に撤退準備を始めていて、北京政府の軍司令部に対する支配力が低下していることは明らかであった。 政治改革は早晩実現する。 地方政府の関心はもはや政治改革の是非ではなく、その具体的な内容に移っていた。
北朝鮮情勢に解決の糸口が見えない中で、北京の発言力はいよいよ弱くなっていった。 隣接する天津市が改革に支持を表明すると、これまで様子を見ていた東北三省や河北省、山西省などが改革に前向きな姿勢をとり始めた。 一旦改革の流れが出来上がると、もう止めることはできない。 改革は自明のこととなり、議論はそれをどう実現するのかという具体的なプロセスへと移っていった。
上海、重慶連合が提唱した中国の政治改革は、地方政府からも広範な支持を取り付けていた。 大勢はすでに決している。 改革は次第に上海、重慶連合の思惑通り進んでいくものと予想された。 そうした流れの中で、これまで改革に沈黙してきた北京政府が、条件闘争を示唆するようになっていた。
北京は上海の示した提案に疑念を感じていた。 結局のところ上海は中国全体を支配しようとしているのではないか。 提案によれば上海の管理地域には主要な港湾が多く含まれている。 辺境はなく砂漠もない。 世界経済に深く組み込まれた中国にとって、港湾のインフラは何よりも重要である。 中国経済は上海の管理する沿岸部を窓口として形成される。 今後とも上海地域の経済発展は他地域を凌駕して進むだろう。 経済格差は広がり、中国は結局上海に支配されることになる。
これに対して北京、重慶の管理地域には辺境が含まれ、政治的、経済的に膨大な管理コストが予想される。 また長大な国境ラインを抱え、防衛上のリスクも負わなければならない。 外資は辺境には来ない。 外国からの投資は上海地域に集中し、対外的な上海の発言力も大きなものになる。
北京は密かに条件闘争の戦略を練っていた。 その内容の骨子は山東省、河南省、陝西省の三省を、上海の管轄地域から北京の管轄地域に組み入れることである。 山東省には煙台、青島の港湾がある。 河南省は洛陽、鄭州を抱える中原であり、陝西省の西安と共に古くから中国の中心地であった。 陝西省は甘粛省を抜けて西域に通ずる要衝である。 ここ無くして西域辺境の管理はできない。 北京は上海との条件闘争の中で、この三省の管轄地域変更を主張したのである。
北京の主張は重慶に対しても説得力を持った。 重慶も管轄地域の中にチベットの辺境を抱え、治安に関するリスクも大きい。 不毛の土地も多く、管轄費用だけがかさみ経済的メリットは少ない。 ただ古都西安のある陝西省を北京の管轄地域に移すことには反対である。 西安は内陸発展の核都市のひとつとして重慶の管轄下におくべきだ。 経済発展は沿岸部で速く内陸部で遅い。 この傾向は将来にわたって変わらないだろう。 重慶は優遇されて当然である。 特に国境防衛の任を負わない上海は大幅に譲歩してもいいはずだ。
重慶が北京に同調する場面も出てきて、交渉は三竦みの様相を呈してきた。 上海が譲歩しなければ、北京、重慶の連携ができて上海が孤立する可能性もあった。 三者の交渉は長引きそうな気配であった。
北京、上海、重慶が公式、非公式に交渉を続ける中、その動きを鼻白む思いで見ている地方政府があった。 広東省である。
広東省は20世紀後半にケ小平が改革開放政策を始めたとき、先頭を切って経済改革に取り組んだ地域である。 香港に隣接する深?(しんせん)には実験的な経済特別区域が設けられ、未知のリスクに向き合いながらパイオニアとして経済改革を実践してきた。 深?(しんせん)の努力は広州に受け継がれ、広東省は中国の経済成長の牽引役として、長い間中国に貢献してきたはずであった。
ところがケ小平の後は状況が一変する。 江沢民は広州が努力して築いてきた改革の果実を、全て上海に持ち去ったのだ。 上海は改革に伴うリスクを負うことなく、政府による優遇策とインフラの投資を受けて、中国最大にして近代的な都市へと生まれ変わったのである。 広州、深?(しんせん)は見捨てられ、中国のありふれた地方都市のひとつになってしまった。
政治改革案では広東省は上海に支配される一地域である。 しかし広州が上海の後塵を拝する言われはない。 広州は上海と同等の都市であり、広東省は自立した一地域である。 中国は広東省のような自立した地域によって構成されるべき国で、それぞれの地域は全て平等の政治的権利を有していなければならない。 広東省は上海に支配されない。 独自に中央政府に参加する。 これが広東省の立場であった。
すでに自治政府を持つ香港も上海の動きを警戒していた。 香港の特別な立場が承認されるならば、香港は中央政府に関与しなくてもよい。 特別な立場とは暗に独立を示唆したものだ。 しかし香港はそれを明言することを避けた。 上海の改革内容は、香港を含む沿岸地域を支配しようとする意図を感じさせる。 香港は各地方政府の自主独立性を重んじる広東省の提案を支持した。
広東省の主張は北京、上海、重慶による中央政府独占の傾向に違和感を持つ地方政府の目を覚まさせた。 四川省は重慶の支配的立場に不満を持っていた。 重慶はもともと四川省の一部であった。 四川省の省都は成都である。 四川盆地の経済開発は本来成都を中心に進められるべきであった。 それが北京政府の二つの都合によって重慶が経済開発の中心地になった。 以前の四川省は事実上中国最大の地方政府だった。 四川盆地は中国史上地政学的に独立した地域であり、時として中国中央権力に敵対する存在であった。 そのため北京は四川省の力を恐れ、1997年、四川省を分割したのである。 さらに四川盆地の中心都市を成都ではなく重慶とする開発政策によって、政治経済の中心を成都から奪い去った。 四川省政府は中央集権政府のなすがままにその決定を受け入れざるを得なかった。
これまで地方政府は中央政府に無批判に従うことに慣れてしまっていた。 中央政府の政策に違和感があっても、それに従うことに何の疑問も感じていなかった。 しかし中央政府の急速な権威の低下は、地方政府に自主独立の自覚を促すことになった。 四川省は広東省に追随する形で、地方の権利を主張するようになる。
四川省が重慶に従わないことを表明したことは、重慶中心の大地域を形成することができなくなったことを意味する。 上海、重慶連合は崩れ、同時に三大都市による三頭政治の思惑も崩壊することになった。
広東省、四川省の反乱はまもなく他の地方政府にも波及することになった。 各地方政府は独立色を強め、地方権力の自主性を尊重することに加え、中央政治への関与も要求するようになっていた。 モデルはアメリカ合州国(合衆国は誤りThe United States of Americaで stateは「州」と訳す)である。 中国は各省からなる連合国家になるべきだという考え方が、地方政府の間で囁かれるようになった。
中国はこれまでにアメリカへ大量の留学生を送り出している。 彼らは自国の経済発展のために勉強することを期待されていた。 しかし彼らのアメリカでの生活は、当然自由や民主主義に触れることになる。 中国政治指導層の中にも留学経験者が少なくない。 彼らはアメリカ的な政治に違和感を持たないだけでなく、密かにに中央政治の民主化を期待した。 彼らは中国の政治改革を支持した。 理念は中華合省国である。
天下三分の計はもはや省みられなかった。 広東省、四川省から辺境の黒龍江省、雲南省、海南省まで、大勢は各省連合による新しい中国の誕生を模索するようになっていた。
中華合省国構想が浮上して、それに対するコンセンサスがほぼ出来上がってきた。 それに伴い各省の思惑の食い違いも明らかになってきた。 問題の一つは中央政府に対する参政権のあり方である。 四川省、広東省のような有力省は、派遣する中央政府代議員の人数を人口に応じて決定する加重割り当て方式を主張した。 これは言うなればアメリカ大統領選挙における選挙人制度のようなものである。 一方、海南省、黒龍江省、雲南省、貴州省などは、各省の権利の平等を主張して、全省一律同人数の中央政府代議員を派遣できることを主張した。 有力な省政府が他の省を実質支配するような制度を作ってはならないと考えたのである。 すでに省政府間の戦略提携、再編成の動きが活発化していて、こうした動きに警戒感を抱いていたこともある。
四川省は重慶市を本来自省の一部として、これを統合すべきことを要求した。 強大な重慶はすでになく、改革の主導権は四川省に移っていた。
改革の急先鋒広東省は海南省を自省に統合することを目論んでいた。 広東省は本来海南島を含む。 それが中央政府の都合と独断によって1988年に分割されたのだ。 海南島を取り戻すことは本来の秩序を回復することに他ならない。 この広東省の動きに対する海南省の反発は強く、弱小省は有力省の動きを警戒するようになっていた。
中国の地方省政府が自主性を強めて中央政治改革の議論に没頭していた頃、チベットや新疆ウイグル自治区の情勢も予断を許さないものになっていた。 ウイグルではウイグル人が独立傾向を強めている。 しかし自治政府を支配しているのは中央から派遣された漢族系中国人である。 ウイグル民衆に政治的権利はなく、中央政府は独立を断固として阻止するつもりでいた。
この地域では1950年以来中国からの独立を求めるウイグル人と、同化政策を推し進める中国政府との間でしばしば衝突が起きている。 治安部隊は民衆に対する武器の使用を躊躇しない。 独立運動の加速はよりいっそうの弾圧を呼び、近年その動きはさらに激しくなっていた。 中国政府による巧妙な隠蔽工作にもかかわらず、中国政府の暴挙はすでに世界の知るところとなっている。 厳重な情報規制も功を奏さず、情報はネットを通じて世界に配信された。
新疆ウイグル自治区は1950年まで「東トルキスタン共和国」という名の実質的な独立国家であった。 国家を形成していたのはトルコ系遊牧民のウイグル人である。 1950年中国を支配した共産軍は突如この地方に進撃を開始、東トルキスタン全土を制圧併合したのである。 以来中国政府は人口まばらなこの地域に多数の中国人を入植させてきた。 この地域における漢族系中国人の人口はすでにウイグル人を上回っている。 自治政府は共産党政府に忠実で、強力に漢族系中国人の移住とウイグル人の中国同化政策を実行してきた。 抵抗する者には暴力による容赦のない弾圧を加え、犠牲になった者の数は計り知れない。
1991年のソ連の崩壊により、西方にはトルコ系遊牧民の国カザフスタンができた。 カザフスタンの独立はウイグル人を刺激した。 以来ウイグル人の独立志向は顕著になり、時として過激化し、治安に問題が生じていた。 北朝鮮問題以降、新疆ウイグル自治区には外部から過激派侵入の情報もあった。
ウイグル自治政府は当初からウイグル方面軍を北朝鮮へ移動させることに反対だった。 しかし当時は北京政府に対して反対意志を示せるような政治環境ではない。 中央からの支持には黙って従うしかなかった。 状況が変わり、治安問題が深刻さを増していた。 北京の顔色を気にしている余裕はない。 ウイグル自治政府は慌ててウイグル方面軍全軍を北朝鮮前線から引き上げさせた。
そうした状況で中国中央政治機構が混乱し始めたのだ。 仮にウイグル域内で大規模な暴動が起きた場合、今の自治政府にそれを止める力があるかどうか疑わしい。 中央からの支援も期待したとおり行われるとは限らない。 自治政府の統治に不安定な要素が生まれていた。
地方省政府が独立色を強めている。 そのことはウイグル自治政府にも影響を与えた。 新疆ウイグル自治区も地域政府として自立しなければならない。 これまでウイグル政府は自治政府とは名ばかりの中央政府の傀儡であった。 地方政府が自立した政府であるためには、現地住民の支持が欠かせない。 地方によっては民主化を求める住民の動きも目立ち始めている。 省政府の民主化が進み、ウイグル地域も民主化に抗いきれなくなったとき、地域政府は現地ウイグル人と対立し続けることはできない。 ウイグル独立勢力とも妥協することが必要になる。 ウイグル政府の不安は大きくなり、ウイグル人の求める独立も視野の中に入ってきた。
状況はチベットも同じであった。 東トルキスタンを侵略した同じ年、中国共産軍はチベットを侵略併合した。 それまでチベットはイギリスの管理地域で事実上の保護国であった。 第二次世界大戦後、イギリスの影響力が低下、その虚をついて中国がチベットを自国領としたのである。 中国軍の東トルキスタン及びチベットへの電撃侵略は断固としたもので、作戦に何の迷いも感じられない。 国際情勢を睨みながら結果的に中途半端な侵略となった北朝鮮侵攻とは全く別のものであった。 チベットの指導者ダライラマはインドに亡命、以来チベットの独立運動は、中国政府の同化政策の中で激しい弾圧を受けながらも続けられてきた。
2006年青海チベット鉄道がラサに開通すると状況が一変する。 チベットへの漢族系移民が激増して中国人の人口が急激に増えているのだ。 チベット人はチベットにおいても少数民族になり、経済発展の恩恵を受けたチベット人の中には、実際に同化されていく者が多くなっていたのである。
それでもチベットの独立勢力が消えたわけではない。 世界的な民主化の流れは、チベット人の独立意識を高める方向に作用している。 彼らは地下に潜伏し、機会が訪れるのをじっと待っていた。
中央政府の混乱で地方への関与が弱まっている。 地方政府は武力を背景にした統治を、これまでのようには行えなくなるだろう。 他の地方政府が自主性を強める中で、チベット自治政府もまた地域の自主管理を迫られていた。 自治政府の軍事的威圧が薄れるに伴い、独立勢力が活動を始めたという情報もある。 治安はいつ崩れるかもしれない砂の城になった。 自治政府の対応はより困難を増してきていた。
最も複雑な域内事情を抱えていたのが内モンゴル自治区である。 漢族に支配されているとはいえ、まだ多くの住民がモンゴル人であった。 しかし伝統的な遊牧を含む牧畜で生計を立てている者は少なくなっている。 多くのモンゴル人はモンゴル人の自覚を持ちながら漢族に同化され、中国人と同じ生活を営んでいた。
内モンゴルにおいて独立運動が先鋭化しない理由はその成立過程にある。 17世紀始めに成立した清帝国は、康熙帝の時代にモンゴルに遠征、チャハル部(内モンゴル)及びガルダン・ハンの支配するハルハ部(外モンゴル)を攻略した。 その後乾隆帝の時代、ジュンガル部(ジュンガル盆地)、ワラ部(青海省チャイダム盆地)、チベットが清の領土になる。 チャハル部、ハルハ部、ワラ部はモンゴル人の居住地域である。 このときモンゴル人は国を失う。
1924年、ソ連の支援を受けたモンゴル人は、ハルハ部にモンゴル人民共和国を建国する。 ワラ部はチベットの一部として残り、チャハル部のモンゴル人も国家を建設することなく、地域は中国領土の一部として残ることになる。 チャハル部とハルハ部の間にはゴビ砂漠があり、チャハル部とワラ部の間にはチーリエン山脈がある。 モンゴル人の居住地域は地勢的に三つの地域に分けられていて、統一することは難しかった。
チャハル部、ワラ部は独自の国家を建設した歴史がなく、独立運動も過激化することはなかった。 またハルハ部のモンゴル国家もソ連の援助なしには存立が難しく、他地域に住むモンゴル人に独立の強い誘引を与えることはなかった。 モンゴル人は、独立にはそれを許容する環境が必要であることを認識していた。 今、内モンゴル自治区を取り巻く政治環境は急速に変化している。
1992年、モンゴル人民共和国はモンゴル国(Mongolia)と改称して社会主義国家から民主主義国家になった。 近年では豊富な資源を武器に国家の発言力が増している。 資源を目的としたロシア、中国からのアプローチも多い。 日本はモンゴルの戦略的位置を重視して、政治経済関係の強化を図っている。 日本の後にはアメリカがいる。 モンゴルは独立国家として枢要な地位を占めるようになっていた。
内モンゴルの地方政府も中国人の力が強い。 中華合省国構想において、内モンゴルは他の省と同等に中央政治に参加するのか、中央政治への参加よりも自治独立権を重視するのか、それとも独立国家としての色彩を強めるのか。 内モンゴルもまた将来の選択を迫られていた。
共産主義中央集権政治が事実上消滅した場合、政権を保証するものは民主主義しかない。 民衆の指示がなければ政権が持たず、その民衆は隣国モンゴルを見ている。 ハルハ部との統合を目指す勢力も勢いを増してきている。 ウイグルやチベットとは違い、内モンゴルには強力な隣人がいる。 その隣人の後ろには日本そしてアメリカがいる。 内モンゴルは独立してもモンゴル、日本、アメリカと連携することが可能で、政治経済におけるリスクを最小限に抑えることができる。 独立の環境は整っていた。 内モンゴルの内政はかってないほどに不安定さを増してきていた。
新疆ウイグル自治区では中国ウイグル方面軍が最高度の警戒態勢をとっていた。 自治区内の緊張は極度に高まっていて、いつ何が起きるか分からない空気が充満していた。 しかし情勢は不気味なほど静かである。 イスラム過激派の集結が伝えられたものの、目だった事件は起きていなかった。
ウイグル独立勢力は慎重だった。 もし中朝戦争が起きていたら、その動向にかかわらず行動を起こしていただろう。 しかし中朝国境は動きを止め、地方権力が勢いを増し、中国の関心は政治改革に集中している。 ここで行動を起こせば政治改革は棚上げになり、中国の関心はウイグルの独立阻止へと一気に動くかも知れない。 それは歴史上日本が犯した誤りと同じものだ。
辛亥革命後の中国は各地に軍閥が割拠する分裂状態にあった。 満州の張作霖、北京の袁世凱だけでなく、山東省の張宗昌(ちょうそうしょう)、山西省の閻錫山(えんしゃくさん)、河南省の呉佩孚(ごはいふ)、江蘇省の馮国璋(ふうこくしょう)、安徽省の倪嗣冲(げいしちゅう)と孫伝芳(そんでんほう)、湖北省の段祺瑞(だんきずい)、浙江省の朱瑞(しゅずい)、福建省の劉冠雄(りゅうかんゆう)と周蔭人(しゅういんじん)、江西省の李純(りじゅん)、湖南省の湯?銘(とうきょうめい)、広東省の龍済光(りゅうせいこう)、広西省の陸栄廷(りくえいてい)、雲南省の唐継堯(とうけいぎょう)などの名前が挙げられる。 当時の状況はアメリカ映画「将軍暁に死す」(1936年、主演ゲーリー・クーパー)に見ることができる。 日本の侵略はこうした中国の混乱に乗じる形で始められた。 その結果は外敵日本に対する中国の結束を促し、毛沢東による中国統一が成し遂げられたのである。 毛沢東は後に皮肉を込めて日本の中国侵略に感謝すると述べている。
ウイグルは日本の轍を踏まない。 いたずらに中国を刺激しない。 民衆の意識を高め、民主化を進め、そして独立する。 ウイグル独立勢力はあらゆるメディアを使って独立の気運を高め、民主選挙による新しいウイグル政府を樹立することを目指した。 独立はその後でもよい。
ウイグル自治政府は自身の生き残りを考えなければならなかった。 独立勢力とも接触を始め、秘密のうちに話し合いが進められた。 独立勢力の目標は完全な独立国家の建設である。 一方自治政府の立場は中国の一地方として留まることである。 立場の違いは明らかだった。 しかし何らかの形で合意を得ることは、流血の混乱を避けるためにも必要なことだ。
両者は合意に達した。 合意は将来に対する思惑の違いをはらんだ危ういものであったが、両者とも問題点に敢えて触れることをしなかった。 合意の内容は中国の勢力範囲から離脱せずに独立を志向するというものである。 つまり独立を果たす。 ただし当面中国から離れない。 その構造は連邦制に他ならない。 中華連邦の構想である。
中華人民共和国は社会体制の異なる香港の存立を認めた。 中華連邦の実験はすでに存在する。 ウイグルが独立しても中国の不利益になることはない。 ウイグルの主張は問題の本質を敢えて曖昧にすることによって、中国の反発を回避しようとしたものだ。 本質とは国連加盟の是非である。 香港はAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の正式加盟国としてAPECに発言権を持ち、APECの下で国旗を掲げることが認められている。 しかし香港は国連加盟国ではない。 ウイグルは香港の特殊な立場を引き合いに出して、ウイグルの独立問題を眩惑させる作戦に出たのである。
中華連邦構想が公になると、これまで中華合省国構想の門外漢だった地方の中に、連邦を志向するところが現れた。 チベットはウイグルを支持した。 チベットも中国からの離脱を棚上げにする。 その上で完全な自治を達成する。 完全な自治とは独立と同義である。 独立という用語を敢えて避けたのは、ウイグルの場合と同様に中国を刺激しないためだ。 チベットはウイグルと微妙に状況が違う。 チベットが独立するためには地政学的にもインドの支持が必要である。 独立後もインドとの経済的つながりがなければ国家を維持できないだろう。 しかし事はそう単純ではない。 インドとチベットの関係は良好とは言えなかったからだ。
インドは中国との関係でチベットを裏切っていた。 中印の国境問題である。 1974年、インドはネパールとブータンの間、シッキム王国を準州としてインドに併合した。 中国は当初これを非難したが、後にインドのシッキム併合を認める代わりに、チベットを中国領としてインドに認めさせた。 さらにこのとき以来中国は、マクマホンライン南、アッサムにおけるインドの実効支配を事実上黙認している。 チベット中国領承認というインドの決定を、中国が如何に重視していたかが分かる。
チベットの見方は違う。 インドはシッキム領有と引き換えに、チベットを中国に売ったのだ。 チベットのインドに対する不信は小さくなかった。 孤立したチベットには周辺に頼れる大国がない。 インドを頼れないとしたら頼れる国はアメリカである。 どのようにすればアメリカとのパイプが作れるのか、これがチベット独立の鍵であった。
扉は意外なところから開かれた。 中華連邦構想に青海省が賛意を示したのである。 青海省はもともとチベット人とモンゴル人の居住地域である。 中国に侵略される以前はチベットの一部であった。 西部チャイダム盆地にはモンゴル人が多く、青海湖を囲む東部にはチベット人が多い。 宗教はチベット仏教に近い。 青海省が連邦を支持するということは、ウイグルやチベットの独立を支持するというだけではなく、自身が独立志向を持つことを示していた。
青海省を刺激したのは内モンゴルである。 内モンゴルはウイグルの考え方に呼応した。 内モンゴル自治政府は内部の親モンゴル勢力と親中国勢力の間で具体的な意志統一に苦しんでいた。 中華連邦構想は政治思想の違うグループに、お互い妥協の余地を与えることになった。 中国に残ることが独立を否定しない可能性を示したのである。 EUのように完全な独立国家群が統合されている例もある。 中華連邦はいろいろな形の地方政府を統合できる。 その中には完全な独立国があってもいいのではないか。 それが内モンゴルの考え方であった。 いろいろな形の地方政府、それが可能ならば青海省も独立できる可能性があった。
チベットが青海省と連携すれば、モンゴル人のネットワークを介して内モンゴルに通じることができる。 内モンゴルはモンゴルに繋がり、日本、アメリカに通じる。
青海省が中華連邦構想に賛同したことは各地方政府にも衝撃を与えた。 中国各省は地域の自立と中央政治の改革に大きな関心を持っている。 しかし独立まで考えている省は存在しなかった。 青海省は中国の省の中で始めて独立に言及したのだ。 中国分裂の兆しが出てきた。 改革を急がなければならなかった。
台湾は中国情勢を常時注視している。 北朝鮮の後継者問題が浮上し始めた頃から、中国情勢に大きな変化があることを予想していた。 中国が北朝鮮情勢を成り行きに任せることはあり得ない。 従って朝鮮情勢は中国を動かす。 つまり中国情勢に影響する。 台湾は独自に対策本部を設置して、中国情勢の分析を始めていた。
中国が北朝鮮政策にてこずった場合、それは必ず内政に影響する。 軍事力の行使があるとすれば、中国の対北朝鮮政策が完全に失敗したときだ。 金正日の後継者候補で明確に親中国と目される人物はいない。 彼らは中国を利用しようとするだろうが、中国の思惑通りには動かないだろう。 いずれにしても中国は台湾の問題にエネルギーを集中できなくなる。 台湾には大きなチャンスになるかもしれない。
台湾の情報分析は正確だった。 その後中国はこの問題に足を取られ、内政の不安定化を引き起こしていた。 台湾は中国情勢の変化に敏感に反応した。 台湾は独立志向を強め、理念を越えて具体的なシナリオ作成に取り掛かった。 まず独立のための内外環境を整えなければならない。 国内法の整備と近隣主要国との調整に乗り出した。
台湾は「中華民国」英名「Chinese Taipei」の名称を破棄、正式名称をそれぞれ「台湾」「Taiwan」とすることに決定した。 公的書類から中華民国の名称が消え、全て台湾に変更された。 国家の名称の変更は国交のあった少数の国々から承認を受けた。 続いて日米の他主要国に通知して、国名の承認と「台湾」名義による国連加盟の支時を求めた。
台湾は再三にわたる国連加盟申請を拒否されていたが、それでも国連加盟を諦めなかった。 このとき台湾という国は存在しない。 ごく少数の国に認められた中華民国という国があった。 中華民国は英名を「Chinese Taipei」という。 「中国の台北」である。 自ら中国の一部であるかのような名前を名乗るのは馬鹿げていた。 国連や多くの外国が台湾の独立を認めないのは、超大国中国の圧力だけが原因なのではない。 台湾自らが独立に迷いがあったことも原因の一つであった。
名称の変更は日本で直ちに了承され、中南米、アフリカの一部の国が日本に続いてこれを承認した。 EUの中でも台湾の名称変更を承認する国が出てきた。 アメリカはこの問題について敢えて沈黙したままで、中国の反応を見守っていた。 名称変更の了承が国家の承認を意味するわけではないものの、北朝鮮問題で壁にぶつかっている中国を、これ以上刺激することは好ましくないと考えていた。
台湾独立の迷いとは何か。 それが中華民国である。 中華民国は辛亥革命の結果、1912年1月1日に孫文が建国したとされる。 しかし実体に乏しく、1927年、蒋介石が上海、南京を支配した後、ようやく国家らしい姿が見えてきたのである。 しかしその後も毛沢東との確執が続き、1946年、南京に遷都、1949年、蒋介石は中国共産党に追われて台湾に逃げ延びることになった。 同年中国大陸に中華人民共和国が成立、台湾は中華民国を名乗ることになる。
1895年、日清戦争の結末として、下関条約により台湾は清国から日本に割譲された。 以後1945年まで台湾は日本領であり、中華民国であったことはない。 台湾が日本から中華民国に引き渡されたこともなく、台湾にやってきた蒋介石が勝手に名乗った国名である。 建前によれば中華民国の正式な首都は南京である。 台北はいわば旧西ドイツのボンのような仮の首都だ。 中華民国は長い間大陸反攻の幻想の中で存在していた。 その思いは近年まで続く。
中華民国を標榜している限り中国は一つである。 中華人民共和国は異端の政府であり、正式な国家ではない。 それが建前だ。 どちらの政府を選ぶかは諸外国の自由である。 中華人民共和国を選べば、台湾はその一部になり、中華民国を選べば中国大陸がその一部になる。 多くの国が中華人民共和国を承認するならば、台湾は否応なくその一部になる。 それが中華人民共和国と中華民国の関係である。 お互い相手の国家を認めていないからだ。
台湾が1945年に新しい国家の樹立を表明していれば、独立問題は起きなかった。 中華人民共和国が台湾の併合を主張することもできなかっただろう。 独立国家として承認された国を併合しようとすれば、歴史的経緯に係わらずそれは侵略になる。
台湾の不幸は大陸からやってきた中国人(外省人)に台湾を支配されたことに起因する。 台湾は台湾でありながら台湾になれず、中華民国の幻想を背負わされることになった。 20世紀を通して台湾は中華民国の幻想を捨てることができず、その名称にしがみついた。 その異様さは常識的な理解を超える。 21世紀になって台湾に民主主義が定着してくると、台湾にも常識が理解できるようになる。 台湾は台湾でありそれ以上でもそれ以下でもない。 中華人民共和国と台湾はそれぞれ別の行政主体により運営されている。 台湾が国家なら、中華人民共和国も国家である。 台湾はそれが長いこと分からなかった。 中華人民共和国は今でも分からない。
台湾は常識を理解するのが遅すぎたのだ。 国家でありながら国家であることを宣言できない。 国連や主要国から国家として扱ってもらえない。 その原因が中華民国にあることに気づいたのは21世紀になってからだ。 「中華民国」、この名称が台湾の不幸の全てである。
台湾の独立とは何か。 台湾はすでに独立国家であることを主張する。 その理由はすでに実質的に独立しているからだと言う。 実質的な独立とは何か。 台湾によればそれは中国の行政権が及んでいないことを言う。 しかし自国領内に行政権が及ばない地域を抱える国家は少なくない。 国家内国家の存在は国際社会の普通の現象である。 敵対する武装勢力が存在する国だけではない。 中国と香港もそうだ。 反対に行政機構が不十分であり治安の維持が満足にできない国家が、国家として認められている例も多い。 つまり台湾が他国の支配を受けない独立した行政機構を有していることは、国家として必須の要件ではないということだ。
台湾の独立宣言とは何か。 何処から独立するのか。 何を宣言するのか。 それは独立国家であることを宣言するのである。 領土と国旗と元首を宣言するのだ。 自らが自らを独立国家であると宣誓すること。 自らが国際社会に対して責任ある国家であることを断固として宣誓すること。 それは国際社会に参加するための手続きであり、国連加盟を申請できる権利を得ることでもある。 国連は独立国家でなければ加盟資格がない。 自らの独立と責任を断固として守ることを約束できないならば、国連は国家として認めない。 申請は門前払いである。
台湾の致命的とも言える戦略的失敗は1971年に国連から除名されたことである。 しかしこれも台湾が「中華民国」に固執する限り、国連側に選択肢はなかった。 このとき即座に台湾が「中華民国」を放棄して、独立国であることを宣言し、国連加盟国としての立場を守ろうとしていれば、結果は違っていたかもしれない。 台湾は台湾になるための最後のチャンスを自ら葬り去ったのである。
台湾は国家であるのか。 もし国家なら国名はなんと言うのか。 台湾は自国に関する最も基本的な問題を長い間解決できないでいた。 中華民国なのか、台湾なのか、それとも他に何かあるのか。 独立国家は国名を持つ。 中華民国が認められなければ台湾ではどうだという話ではない。 国名は自分で決めるのだ。 他国が認めるかどうかは問題にならない。 国名はすなわちアイデンティティを示す。 民族はアイデンティティと直接の関係はない。 ロシア人、ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人はスラブ民族である。 フランス人、イタリア人、スペイン人はラテン民族だ。 しかし彼らのアイデンティティは民族ではなく国家にある。
台湾が国家としての断固とした決意を持たないことは、台湾人のアイデンティティに由来する。 彼らは台湾人を名乗り、同一人物が中国人を名乗る。 都合に応じてアイデンティティを名乗り分けることは、しばしば日本人を困惑させ、信頼に不安を抱かせる。 彼らが中国人を名乗るとき、時として大陸と同じ中国人であると主張しているように聞こえる。 このとき彼らは台湾が大陸の一部であると主張しているのだろうか。
日本は中国、アメリカと二正面戦争を行うほど愚かな国家であった。 当時の中国が現在のような超大国ではないことを勘案しても、対米中二正面戦争の決断は正気の沙汰とは思えない。 小国には小国の生き方があり、時には屈辱に甘んじなければならないこともある。 それは不名誉ではない。 ソ連時代のフィンランドがそうだった。 それでもフィンランドは断固としたアイデンティティを持っていた。 一寸の虫にも五分の魂がある。 それがアイデンティティだ。 自国のアイデンティティをご都合主義と日和見主義で曖昧にする台湾は小国ですらない。
21世紀になり中国は超大国として姿を変えた。 中国の覇権主義的傾向は続き、もはや誰にも止めることはできない。
中国はこのときまで台湾問題で諸外国に圧力をかけ続けた。 その圧力は日本、ロシア、ヨーロッパ、アメリカに及んだ。 主要国はことごとく中国との対立を恐れ、中国の意に従った。 アメリカも例外ではない。
イランの核開発に伴うミサイル防衛問題で、アメリカはロシアに全く配慮を見せなかった。 核超大国ロシアとの対立を躊躇しない。 イギリスも同様である。 リトビネンコ暗殺問題に端を発するロシアとの摩擦を回避しようとはしていない。
相手が中国となると話は別である。 誰も台湾問題に口を出さない。 イギリスもアメリカもロシアとの対立は構わないが、中国は違う。 両国とも中国は怖いのだ。 ロシアは謎の中の謎である。 しかし中国は不気味の中の不気味である。
日本は中国との戦いを経験した。 戦争は8年間続き、結局負けた。 アメリカは泥沼のベトナム戦争を経験したが、日本は底なし沼の日中戦争を戦った。 中国との戦いで日本は勝利を続けた。 北京を落とし南京を落とし、数々の戦略拠点を陥落させ、兵站線も確保した。 都市と鉄道の確保はわずかに点と線の確保に過ぎなかった。 百戦百勝の勝利も、計画通りの戦略目標の達成も、戦局に影響しない。 それは埒の明かない底なし沼の戦争だった。
アメリカは日本の二の舞を演じない。 朝鮮もベトナムもその後には中国がいた。 今後中国との衝突は絶対に避ける。 そのためには民主主義の理念を犠牲にすることもいとわない。 中国辺境における少数民族弾圧も黙認する。 民主主義国家の成立となる台湾独立にも反対する。 それがアメリカの基本戦略だった。
台湾の独立宣言は中国によるのではなく、アメリカによって阻止された。 台湾は自国を取り巻く障害と闘うことを避け、今日まで理不尽な国際的地位に甘んじてきたのである。
北朝鮮絶対王政の崩壊は、台湾を取り巻く環境を大きく変えることになった。
中国の北朝鮮問題の躓き、共産党政権の威信低下、中央集権政治の終焉と政治改革の動きは、台湾に新たな独立のチャンスをもたらすことになった。
台湾は緻密な独立スケジュールを作成して、秘密裏に主要国に通知した。 日本、アメリカ、ヨーロッパ主要国がこの通知を受け取った。 日本は内諾、ヨーロッパ主要国も黙認する意向を示した。 問題はアメリカである。 アメリカは即座に台湾との接触を図った。 アメリカと台湾の秘密会談は物別れに終わった。 しかし台湾はアメリカが明白な反対の意志を示さなかったことに希望を見出していた。 台湾はアメリカの対応を予想して、それに応じた計画の作成も完了していた。
台湾は国民投票法案を可決、国民投票を実施して「台湾(Taiwan)」の国名に民主主義の裏付けを与えた。 国旗、国歌を独自に作成、作曲して過去と決別した。 しかしここで独立宣言はしない。 台湾は中国の国内改革に対して中華連邦を支持、台湾独立承認を条件として中華連邦に参加することを表明したのである。
台湾の計画は巧妙であった。 過去台湾が中国に対して独立の意志を表明したことはない。 台湾は世界に対して何となく台湾が独立していることを示唆してきただけである。 台湾は常に政治的ごまかしの中にあった。 台湾は始めて政治的立場を明確にして中国に対峙したのだ。 中国がすぐに台湾独立を認めるとは思っていない。 しかしここで条件付ではあっても独立を表明することは、台湾独立の意志を中国に対して明確に示すことになる。 それは中国の台湾独立アレルギーを徐々に弱める効果があるはずだ。 台湾は直接中国に揺さぶりをかけることに成功したのである。
中国は台湾の提案を拒否した。 しかし台湾が支持し参加の意向を示した中華連邦の構想は、このときからにわかに現実味を帯び始める。 それは中華連邦構想が、中華合省国構想に加えてEUのような完全独立国家連合まで含めることができる具体的なイメージを示したからだ。
中華連邦は地方省政府と独立国家からなる。 しかし軍事と外交は中央連邦政府が担当する。 連邦内国家は立法、行政、司法、教育、警察、徴税、通貨発行の権利及び中央連邦政府への参画が認められるが、外交権はない。 中華連邦政府が国連の代表権と常任理事国の地位を受け継ぐことになるため、中華連邦内国家が国連加盟国になることもあり得ない。 もし台湾が参加すれば、軍事と外交に独立した権利を持つ国家が中華連邦に加わることになる。 台湾が意味する独立とは国連加盟国になることを承認しろということだ。 つまり完全な独立国家が中華連邦に参加できることになる。
台湾の主張は独立志向の強い内モンゴル、ウイグル、チベットを刺激した。 台湾が完全独立国として中華連邦に参加するなら、自分たちも同じ地位を得たいと考えたのである。 北京、天津、上海などの中国主要都市は台湾の策謀に反対した。 これに対して香港が強い支持を表明した。 香港は国家内国家としての現状に満足していなかった。 建前上自治独立しているものの、自由な空気は失われ香港独特の自由闊達な雰囲気は消失していた。 中国の経済発展により港湾、空港の機能が充実したが、それに特化させられたという思いがある。 まさに中国の経済発展のために利用されたのである。 それなのに香港はその業績に値する待遇を受けていない。 住民の生活水準向上はシンガポールに遅れをとった。 香港は軍事的に中国に支配されてもいい。 ただし外交権のある独立国家の地位が認められるならばそれを望む。
中華連邦構想はEU型の独立国家連合を内包するという考え方が、主流になりつつあった。
中国が政治改革の渦中にある間も、中国と北朝鮮臨時政府との話し合いが続いていた。 中朝国境には中国軍の大部隊が展開して久しい。 しかしウイグル方面軍はすでに引き上げ、広東省南方方面軍が撤退して、士気は著しく低下していた。 地方からの召集軍は前線司令部の指揮下にありながら、地方方面軍司令部とも接触していた。 軍の命令系統に乱れが生じていたのである。 この後各部隊はばらばらに撤収の準備を始めることになる。
北朝鮮国内では権力の世襲は完全に見送られることになった。 金正日の後継者と目された人物達は密かに国外脱出を始めていた。 北朝鮮臨時政府は彼らの動きに目をつぶっていた。 金正日の関係者が権力の場から静かに消えてくれるなら、それに越したことはない。 金正日政権の後始末に構っている余裕はない。 彼らの過去、彼らの処遇を議論することは建設的ではなく、国家の未来にとって肝要な問題ではない。 臨時政府は彼らの国外脱出も、多少の国家資産の持ち出しも黙認した。 彼らの亡命先は中国とロシアである。
権力の後継候補者の取り巻き達は彼らを見捨て、すぐに民主共和主義者に共鳴した。 古典的な権力世襲を支持した者達は、その可能性が消滅したとき、民主主義者に豹変したのである。
権力闘争に敗れた者はその後の不遇を覚悟しなければならない。 権力中枢から追い出されるだけでなく、身の安全が保障されないこともある。 金日成から金正日の権力委譲は周到な準備の下に行われた。 後継者は一人だけでライバルはいなかった。 政敵は世襲を嫌う共和主義者だけだったが、彼らが一致して支持できる後継者候補は存在しなかった。 権力は滞りなく受け継がれ、その後の混乱も見られなかった。
複数の後継者候補が存在するとき、権力の世襲は熾烈な権力争いを引き起こすことがある。 権力闘争に敗れた者の末路は悲惨である。 金正日の息子たちの場合、形式的な世襲権力是認を前提にしても、権力掌握の可能性は不安定なものであった。 三人の候補、共和主義者、民主社会主義者、潜在的自由民主主義者そして有力軍人がいた。 権力の行方は予想が難しく、多くの者が自己の立場を明確にすることを避け、いつでも権力に擦り寄る準備をしていた。 世襲候補者とその身内たちが国外に脱出したとき、彼らを支持する勢力は雲散霧消していた。
世襲候補が消滅しても権力の行き先が決まったわけではない。 その中で徐々に勢力を拡大してきたのが、それまで殆ど表に出なかった潜在的自由民主主義者であった。 それには三つの理由がある。
まず民主主義では当面の権力者を必要としない。 権力の行使は議会を開き話し合いで決めればよい。 これに対して共和主義、民主社会主義ではとりあえずリーダーを必要とする。 強力なリーダーが存在すれば何も問題はないが、そうでない場合行動指針を作ることさえ難しい。
二つ目は権力闘争に敗れた場合でも、自由民主主義者が政権を掌握するならば、敗者に対してそれほど過酷な措置を取ることはないと期待されたことである。 暴力を伴う権力闘争によって権力の座に付いた場合なら、同時に権力の座を脅かすライバルを徹底的に排除する。 豊臣に対する徳川の仕打ち、ロシア革命後の皇帝一家惨殺、オスマン帝国のフラトリサイド(兄弟殺し)などがそうだ。 しかし民主主義ではそうしたことは起きそうもない。
三つ目は自由民主主義者だけが外国からの支持を期待できたことだ。 日米欧は民主主義政府を支持している。 特に日本からは拉致問題の全面解決を約束するだけで、経済援助を含む包括的な支持を得ることができるだろう。 実際民主主義勢力は日米欧に急激に接近し始めたのである。 日米欧に近づく民主勢力に対抗するためには中国、ロシアに接近する以外にない。 しかし中国は現在交戦中の敵である。 ロシアはなぜか沈黙している。
ロシアはこの問題に係わりたくない。 中国ともアメリカとも対立することを望んでいない。 そもそもロシアは北朝鮮に深入りすることを避けていた。 ソ連時代を通し、北朝鮮は常にソ連にとってお荷物でしかなかった。 「結局あの国とは係わり合いにならないのが一番いい」とソ連高官に言わしめるほど扱いにくい存在であった。 中国が北朝鮮を併合するならそれもいい。 中国は少数民族問題を一つ増やすだけだ。 韓国によって統一されるのもいいだろう。 しかし韓国が北朝鮮をうまく統治できるだろうか。 彼らは自分たちを韓民族だとは思っていない。 彼らのアイデンティティは高麗であり朝鮮である。 韓民族として統合することは不可能だ。 ロシアは過去の経験から朝鮮問題を看過するつもりでいた。
ロシアは豆満江左岸ハサンに軍隊を展開していたが、もちろん侵攻する意図はなく、ただ難民の流入を恐れていただけである。 中国の内政の混乱が伝えられると、ロシアはこの後ハンカ湖以南、ウスリー、黒龍江の国境警備を厳重にした。 中国からの難民流入の可能性が出てきたからである。
北朝鮮臨時政府は中国の国内事情についても注意深く情報を集めていた。 中国軍侵攻に備えて迎撃準備も進めている。 しかし話し合いを続けている間は、中国が軍事発動することはないだろう。 中国の内政の混乱が伝えられ、中国による総攻撃の可能性は次第に小さくなっている。 中国軍撤退の情報も聞かれる。
日本の支持は事実上取り付けた。 米欧も好意的に反応している。 このまま事態が進めば、状況は北朝鮮に益々有利に動いていくはずだ。 臨時政府は結論を急がなかった。 ただし情勢が変化する可能性もある。 交渉をいつまで続けられるかは、情勢次第であった。
中国と北朝鮮の話し合いの場を提供したのは韓国である。 しかし韓国はこの話し合いからは完全に閉め出された。 外国の好感を得るために日米欧と積極的な話し合いに臨んだ北朝鮮臨時政府も、韓国とは敢えて接触しようとはしなかった。
中国の内政事情から、もはや中国に軍事的選択肢はないことが明らかになってきた。 中国内部からも中国の北朝鮮侵攻を非難する声が上がっている。 朝鮮族、満州族系の人々が多く住む東北三省では、中国軍の退却を求めるデモが行われるようになった。 吉林省延吉では中国軍の展開を非難する大規模なデモが行われ、治安部隊と衝突して多数の逮捕者と死傷者が出た。 こうした中で中央政府の独裁支配を嫌っていた最もリベラルな地方である広東省が、自省軍管区司令部と共同して、前線派遣軍に対して独自に撤退を指令するに至った。 鴨緑江右岸の広東省南方方面軍は撤退を開始、軍司令部の命令系統が分裂したことを暴露したのである。
北朝鮮臨時政府も、中国軍の撤退を一方的に要求するだけでは、話し合いが進まないことを承知していた。 中国に不利な情勢は続く。 このままだらだらと話し合いを長引かせるだけでもよい。 しかし臨時政府側も臨時政府に過ぎないのである。 成果の上がらない話し合いで臨時政府の交渉能力が疑われれば、臨時政府内で権力闘争が起きないとも限らない。 早急に正統政府を樹立する準備を始める必要がある。 北朝鮮臨時政府側も安穏とはしていられなかった。
中国と北朝鮮臨時政府はそれぞれの内政事情を抱え、お互い妥協することで合意に成功した。 中国は現在の臨時政府を北朝鮮の正統政府として承認する。 北朝鮮政府は咸鏡北道(ハムギョンブクド)を占領した中国軍が、一ヶ月以内に撤退することを了承し、侵略に当たって北朝鮮が受けた損害の賠償を求めない。 中国と北朝鮮はお互いの政治体制の変化に係わりなく、友好関係を維持する。 これが交渉結果の骨子であった。
中国が北朝鮮臨時政府を承認したことは、北朝鮮に正式な新政権が樹立されたことを意味した。 北朝鮮と国交を持っていた諸国家は、直ちに北朝鮮新政府を承認した。 臨時政府はこの交渉で中国軍撤退に成功した。 それによって臨時政府は北朝鮮軍部から決定的な信頼を得ることになった。 軍部は臨時政府の権威を認め、その意に従うことを表明した。 軍幹部が臨時政府支持に大きく傾き、一部で囁かれていたクーデターの可能性が消えた。
日本は拉致問題の全面解決を見た後、国交正常化交渉及び経済協力を始める用意があることを表明した。 関係者が北朝鮮国内に入り、拉致問題は解決に向けて劇的に動き出した。 結果は悲喜こもごもであったが、北朝鮮と日本の間に横たわる大きな障害が一つ取り除かれたのである。
アメリカは北朝鮮問題が事実上解決を見たことに安堵していた。 なぜなら台湾が独立の意向をアメリカに示していたからだ。 それだけではなく中国西部辺境が独立の動きを強めている。 中国動乱がいよいよ差し迫っている中で、アメリカはその対策を考えなければならなかった。
アメリカは台湾の独立にも中国辺境の独立にも、積極的にこれを支持するつもりはない。 しかし米国内には中国辺境の民主化に積極的に関与すべきだという声もある。 現実には地政学的な制約も多く、アメリカが容易に動けるような状況ではない。 幸いロシアの関与は薄い。 中国辺境も過激な活動は控えているように見える。 アメリカはまず台湾問題に焦点を当てることにした。 辺境の問題は日本に期待する。 日本、モンゴルの友好ラインが、辺境の独立に適切に関与することを期待したのである。
アメリカは日本に続き北朝鮮臨時政府と国交に関する交渉に入った。 アメリカの関心は核である。 臨時政府が核の全面放棄を認めるならば、いつでも国交を樹立する用意があった。 まもなく臨時政府はアメリカと交渉を開始、核の全面放棄と引き換えに多額の経済支援を取り付けることに成功した。
北朝鮮臨時政府は日米の承認を取り付け、事実上新国家として国際社会に登場することになった。 国名を朝鮮民主共和国という。
朝鮮民主共和国の成立に伴い、北朝鮮臨時政府は正統政府になった。 憲法の制定、選挙制度の確立、行政システムの見直しなど、今後数年にわたってやるべきことが山積していた。 新しい国家制度が完成した後、その制度の下で作られる政府が真の正統政府になる。 しかし今は臨時政府が正統政府である。 政治制度の樹立は時間をかけて行えばよい。 それよりも経済の建て直しが先決である。 民衆の生活は理想を待っていられない。
韓国は朝鮮民主共和国を即座に承認すると同時に、朝鮮半島統一に向けた話し合いを始めるように申し入れた。 臨時政府はこれを承諾、引き続きソウルにおいて朝韓の話し合いが始められることになった。 韓国の理想は韓国による臨時政府の吸収である。 しかしそれがかなり難しいことは韓国も認識していた。 韓国が朝鮮民主共和国を承認した以上、吸収統合の可能性は消えた。 独立国家がお互い対等の立場で統一を話し合う。 北朝鮮臨時政府の立場も対等な立場での統合である。
臨時政府は強気であった。 すでに日米の経済援助が約束されている。 韓国との交渉で韓国に譲歩しなければならないことは何もない。 しかし韓国からの投資と技術は欲しい。 統合は明らかに北朝鮮に有利に働く。 臨時政府は韓国に対しても投資と技術の提供という経済支援を迫ったのである。
朝鮮政府が韓国に提示した条件は、108万人に上る北朝鮮の総兵力を半減させる代わりに、韓国から投資を呼び込み雇用を創出するというものだった。 北朝鮮の総兵力108万人は世界4位である。 北朝鮮の国家規模からして異常に多い。 韓国が68万人で世界6位、両国合わせて176万人の総兵力はアメリカを上回って世界2位となる。 ちなみに中国が総兵力225万人で世界1位、アメリカが142万人で世界2位、インドが132万人で世界3位、ロシアが96万人で世界5位、以下パキスタン62万人(7位)、イラン54万人(8位)、トルコ51万人(9位)、ミャンマー48万人(10位)と続く(2006年資料)。
北朝鮮の大幅な兵力削減の条件は、ロシアを含めた周辺大国の全てに支持される内容である。 北朝鮮はすでに日米との支援交渉において兵力の削減を強く要求されていた。 だから韓国に示した条件は目新しいものではなく、対日米交渉で突きつけられた要求を逆手にとって、韓国との交渉に利用したのである。 韓国はそれを飲まざるを得なかった。 周辺大国が注視する中、韓国独自の判断によって半島の統合を進めることは難しかったのである。 結局韓国は大幅な経済的譲歩を続けたまま、統合は北朝鮮ペースで進められていった。
統合の内容は次のようなものである。
1. 韓国と朝鮮民主共和国は対等な国家として連邦を形成する。
2. 両国とも国連加盟国としての立場を堅持する。
3. 新しく連邦憲章を制定する。
4. 連邦政府は独自の外交権を持つ。
5. 軍事力は統合しないが、同盟関係を結び連邦内に統合参謀本部を設置する。
6. 経済の自由化を進め、両国市場の一体化を図る。
7. 連邦中央銀行を創設、共通通貨を韓国ウォンとする。
8. 人の往来の自由化は当面見送る。
これはEUの内実に近いものである。 ただ人の自由化が制限されているところがEUと違う。
韓国が大幅な譲歩をした後に合意したものであったが、結果は韓国も満足できるものになった。 特に7番目の通貨統合の成功は、交渉の最大の成果であった。 新しい連邦中央銀行は事実上韓国中央銀行が名前を変更するだけのものになる。
北朝鮮にとって経済の安定は最優先事項である。 経済が不安定化すれば政治の安定はない。 順調な経済が健全な民主政権の樹立を保証する。 経済が破綻すれば民主政権の信頼が揺らぎ、独裁を容認する空気が生まれるかもしれない。 順調な経済発展のためには安定した通貨を持つことが不可欠だ。 しかし現在北朝鮮には満足な金融制度が存在しない。 自立した通貨の登場を待ってはいられない。 韓国と共通通貨を持つことはそれらの問題の解決に繋がり、その通貨が韓国ウォンになることはやむを得ないことであった。
8番目の人の自由化制限条項を加えることができたことも、韓国側の成功と言える。 韓国にとって最大の懸念は、統合によって生じる難民流民などの人の動きであったからだ。 人の動きを制限できたことは、当面考えられる混乱の多くが抑制できたことを意味する。 経済的な譲歩はしたものの、所詮金の問題である。 北朝鮮が崩壊して生じ得る戦争や難民、治安の悪化、社会秩序の混乱などを考えれば、それらを全て回避できたことの意義は大きい。
朝鮮半島の統合は、しかし一つの問題を残した。 それは名称である。 北朝鮮側は朝鮮ないし高麗の名称を主張した。 韓国は韓の名称に固執した。 両者ともこの点について譲歩する余地はない。 朝鮮、韓の併用は半島に2つの民族を認めることに繋がる。 両国ともそれはできない。
歴史的に見れば、朝鮮半島の国家が複合民族国家であることに疑いの余地はない。 半島は満州系諸民族がたどり着いた行き止まりの土地で、多くの民族がそこに滞り融合したのである。
連邦の名称は遂に定まらなかった。 連邦の内容はEUに似ている。 とりあえず重要なことは経済的な統合で、政治的統合は後回しでもよい。 幸いKOREAという英名については両国とも異論がない。 そのためこの連邦は俗称KU(Korea Union)と呼ばれるようになり、それが両国だけでなく世界的な通称として定着することになった。
KU(ケーユー)の誕生である。
中国の内政改革はなかなか進展しなかった。 北京、上海などによる歴史的な権力争いの構図は残り、弱小地方政府の意向は軽視されがちであった。 この間、不満を募らせた有力地方は独自の行動を起こした。 それが広東省による広東省南方方面軍の中朝国境支援軍からの離脱である。 結果として中央軍司令部の統制権が揺らいでいることが明白になり、中国は朝鮮臨時政府との交渉の結果、全軍を朝鮮国内から撤退させることに合意したのである。 中国軍の撤退は、これまで中国内部で勢力を誇った覇権主義者の発言力が、最終的に地に落ちたことを意味する。 中国ナショナリズムは健在であったが、拡張主義は鳴りを潜めた。
ウイグル、チベット、内モンゴル、青海省が独立の意欲を強めている。 それに刺激されて東北三省、広西壮族自治区などでも独立の気運が出てきている。 内政の混乱をこれ以上続けることはできない。 中国中央政府でも改革を早期に実現させなければならないという機運が生まれていた。
辺境地域の離反を食い止める方法はもはや連邦制しかあり得なかった。 連邦構成地域の地位は一律ではない。 まず各地方省は全て平等の政治的地位を持つことで合意した。 中華合省国の基礎である。 続いて内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、寧夏回族自治区、青海省、広西壮族自治区、香港、マカオには過去の香港と同様の内政の自治が与えられる。 民主選挙の実施など内政のあり方については、中央政府の干渉を受けない。
連邦政府は各省から選ばれた代議員によって構成される。 代議員の数は各省の人口に応じて加重配分され、人口の多い省が多くの代議員を送り出すことができる。 代議員の選出方法は各省に任され、共産党が独自に選ぶことも、民主的選挙によって選ぶことも自由である。 これが中華連邦の草案であった。
ここで四つの問題が持ち上がった。
一つ目は軍事、警察権についての内容が不明瞭なことである。 中央政府が引き続き軍事、警察権を独占して、力によって地方を支配する余地を残したと言える。
二つ目は連邦政府を預かる代議員数の決め方が、有力省に有利であることだ。 人口の少ない弱小省の意向は中央政治に反映されない可能性があり、地方弱小省の不満は残ったままである。
三つ目の問題は連邦自治区に中央政府への参加権限が与えられていないことである。 連邦自治区は香港の立場に準ずる。 香港は北京の政治には一切係わっていない。 これは独立した政府であるという建前のためだ。 結果として連邦自治区は中央政治から締め出されることになる。
四つ目は三つ目の問題に関連している。 連邦自治区が中央政治に参加できないのならば、完全な独立国家としての立場を承認すべきと言うものである。 つまり自治政府が独立した軍事力と外交権を持つことを認めろと言うことだ。 通貨と経済環境のみ中央政府が管理する。 それはまさにEUと同じ形態である。
もとより軍事は中央政府が持つ機能の代表的なものだ。 各省もこれについては問題にしていない。 しかし自治政府の立場は違う。 最初に異議を唱えたのは新疆ウイグル自治区である。 ウイグル政府は現地の独立勢力と接触していた。 すでに大方の合意を得ている。 ウイグル政府の主張はその合意に基づくものだ。 新疆ウイグル自治区は完全な独立国家として中華連邦に残ることを表明した。 これは台湾の主張に準じるものである。
台湾の主張と新疆ウイグル自治区の主張は、結果は同じように見えてその方向性はかなり違う。 台湾は完全な独立国であることを前提として中華連邦に参加する意向を示した。 完全な独立国つまり国連加盟国として中国政府が承認することを前提にしている。 始めに独立国ありきというのが台湾の立場である。 ウイグルの立場は少し異なり、中華連邦の一員であることを前提にして、その中で独立国の地位を要求する。 独立国の地位とはすなわち外交権の独立である。 できれば国連加盟国として認められることが望ましい。
ウイグル独立派にも幾つかの路線の違いがある。 中国とは無関係な完全な独立国家を志向するもの。 独立国家として認められるならば中華連邦に残ってもいいと考えるもの。 そして独立国としての独自外交が認められるならば、中国の軍事支配化に治まるというものだ。 どれも将来的に国連加盟国を目指すことは共通している。
ウイグルの状況は切迫していた。 自治区内部では独立の声が日増しに高くなっている。 独立を叫ぶ民衆のデモが頻発している。 治安当局との衝突によってけが人が大勢出ている。 テロも発生した。 ウイグルにおけるテロはイラクのものよりもはるかに巧妙であった。 ウイグル過激派は情報を駆使した。 治安部隊や警察の構成員を個別に洗い出し、彼らの家族、親戚、支持者をピンポイントで狙うのである。 家族は誘拐拉致され、治安部隊から身を引くことを条件に開放された。 身代金の要求はない。
治安部隊に動揺が走る中、ウイグル政府は独立革命を恐れた。 幸いウイグル独立勢力の主流は穏健的であった。 ウイグル政府は独立勢力と交渉を進め、何とか合意にこぎつけていた。 ウイグル政府の構成員は多くが中国人である。 中国政府の移住政策によって、多くの漢族系中国人が数十年前からこの地に住みついている。 すっかりウイグルの地に溶け込んでいるつもりではあったが、先住民であるウイグル人がどのように考えているかは分からない。 中国への反感が強まれば、この土地から排除されることもあり得る。 自治政府の危機感は現地独立勢力との妥協を後押しした。
中国の分裂傾向がはっきりしてくると、これまで沈黙していたロシアが動き出した。 ロシアは中国と共に上海協力機構(SCO)を構成する国である。 そのためこれまでは中国に敵対するような行動は避けてきた。 新疆ウイグル自治区の独立に関しても、ウイグルのテロを伴う独立運動を支持することはなかった。 イスラム過激勢力はロシア国内にも存在する。 テロとの戦いは中国との共通の利益であった。
状況は大きく変わってきた。 ウイグルの独立問題は独立するか否かではなく、いつどうやって独立するのかという問題になっていた。 独立はもはや避けられない。 もしウイグルが独立するならば、ロシアは何らかの形でそれに関与すべきである。 ロシアの関与なしでウイグルが独立した場合、その後ウイグルに対してロシアの影響力を行使するのは難しくなる。 ウイグルはロシアの影響の下で独立しなければならない。 ロシアはウイグルの独立勢力と接触し、独立の支持と独立後の関係強化についても話し合いを始めていた。
ウイグル側の問題は独立が現実味を帯びるに連れて、方法論の違いが表面化してきたことである。 一言で言えばテロを容認するのかしないのかということだ。 すでに局所的とはいえテロが頻発している。 テロを抑え切れていないことも確かである。 穏健勢力は急進派に自粛を求め、独立勢力の分裂回避に努めた。 同時に彼らはチベット、青海、内モンゴルなどの独立勢力と連携を取り、独立のタイミングを伺っていた。 隣国のカザフスタンとも接触があり、続いてロシアからも支援の打診を受けることになった。
ロシアは武力による独立を支持していない。 しかしその可能性を否定してもいない。 ロシアに近い勢力に対してはどんな支援も行う用意がある。 親ロシア勢力に対してはカザフスタンを通じて武器の供給も開始していた。
穏健勢力はロシアの介入を歓迎しないものの、ロシアの支持は欲しい。 隣国カザフスタンの支持も必要である。 しかしロシアの影響下に入ることには消極的であった。 独立後は完全な民主主義政府を樹立するつもりでいる。 理想を言えば中国やロシアの覇権下には入りたくない。 そのためには民主勢力との連携を深めたい。 チベット、青海、内モンゴルの民主勢力はモンゴルと連携している。 モンゴルの後には日本そしてアメリカがいる。 モンゴルとの連携は欠かせない。 ウイグル独立勢力もモンゴルを頼ったのである。
独立を主導してきた穏健勢力も事を急いだ。 事態は独立に向かって順調に進んでいるように見える。 しかしデモやテロが収まっているわけではない。 外部から過激派や武器の流入があることも承知している。 急進派が軍事行動を起こすかもしれない。 ロシアが黒幕として動いている可能性もある。 独立勢力が決定的に分裂しないうちに独立の大勢を決めたい。
ウイグル独立勢力は公式に自治政府と話し合いを開始した。 独立勢力が表に出てきたこと自体が、独立が間近に迫っていることを告げていた。 独立勢力がまず要求したことは、公正な選挙による民主政権の樹立である。 独立政府は正統政府でなければならない。 選挙によって民衆に選ばれた政権だけが、新しい国家を作れるのだ。
自治政府は大勢を理解していた。 中国中央政権は事実上機能していない。 ウイグルで武力革命が起きても対処しきれないだろう。 自治政府だけの治安維持能力には限界がある。 ロシアやカザフスタンが介入してくる可能性も否定できない。 自治政府は条件付きで独立勢力の要求を呑み、民主的な選挙の実施を約束した。 条件とは中華連邦から離脱しないということである。 中国からの完全独立を宣言することは、中央政府の予期せぬ反応を引き起こすかもしれなかった。 そうなれば内戦である。 その結果は誰にも分からない。
自治政府はまず議員の定数を決めた。 選ばれた議員が臨時大統領を選出する。 臨時大統領は臨時政府を作り、改めて国家の枠組みを構築する。 憲法を作り、選挙制度を作り、行政機構を作る。 新しい憲法の下で選挙によって選ばれた大統領が国を統治する。 そのための最初の選挙であった。
選挙の実施と日程が公表されると、ウイグル社会全体が独立国家建設に向けた期待に活気付いた。 デモが収まり、テロも行われなくなった。 次々と新しい政党が作られ、独立勢力各派、旧支配勢力、共産党勢力などが入り乱れて立候補者を選出した。 国際的な選挙監視団が組織され、国連及び日米欧のNGOが加わった。 選挙は滞りなく行われ、権力の配分が決まった。
かくして中央政府の監視を受けない中国で最初の民主政府が誕生した。 ウイグル新政府は国名をウイグルスタンと命名、国際社会に独立を宣言した。 ロシア、カザフスタンが直ちに承認、続いて中央アジア諸国が承認した。 中国政府の干渉はなく、中華連邦国家であることを確認するメッセージが発表された。
日米欧がウイグルスタンを承認したのは中国政府が声明を出した後のことだ。 日米共に中国政府の反応を確認したかったのである。 このとき確かにロシアの態度がウイグルスタンの独立に大きな役割を果たした。 独立について煮え切らない態度を取り続ける日米を尻目に、ロシアは明確に独立を支持したからである。 ロシアがウイグルに独立の確信を与えたのだ。
ウイグルスタンは独立国家であることを宣言したが、中国が国連常任理事国として拒否権を持っている限り、国連に加盟することはできない。 ウイグルが希求する完全独立とは違う。 国内にはいまだ中国軍が駐屯していて、軍事的に独立しているとは言えない。 政治的には中華連邦の構成国である。 それでも独立したのだ。 国家を運営する自由を得たのである。 言論統制も人権侵害も反政府勢力に対する弾圧もなくなった。 これからは国内資源を中央政府に奪われることもない。 東トルキスタンの地に再び国家が誕生したのである。
中国中央政府の混乱はチベット自治政府にも不安をもたらしていた。 1950年のチベット併合以来、自治政府は中央政府の手先となって、現地人の管理と漢族系中国人の入植を行ってきた。 独立運動に対しては容赦のない弾圧も辞さなかった。 中央政府の力が及ぶ限り、自治政府には現行の政策に対する何の疑問も躊躇もなかった。
チベットを巡る環境が変化していた。 地方政府が力を増している。 中央政府の威信が低下して事実上機能していない。 連邦制に向けた動きがあり、大都市や有力省の確執も伝えられる。 隣接する新疆ウイグル自治区ではデモやテロの情報もある。 中央、地方を問わず中国全土で混乱が生じている。
何よりも中国政府が朝鮮半島から撤退を決めたことは衝撃だった。 中国は対外的には常に断固とした行動を取る。 中国が国際世論にひるんだことはない。 南沙諸島、西沙諸島の領有も、核実験も、人工衛星破壊も、海底ガス田掘削も、スーダンのダルフール虐殺支援も、ミャンマーの軍事政権支持も全て近隣諸国や国際社会の非難を無視して行ってきたのである。 しかし朝鮮半島では違った。 中国軍が撤退して朝鮮半島が統一に向けて動き出した。 近代史上初めて中国が政治目標を撤回したのだ。
中国中央政府は巨大な中央集権官僚組織である。 官僚組織が自らの間違いを認めることはあり得ない。 その中で政策は変更された。 中央集権が崩壊して官僚組織が機能していない。 それは中国政府の内紛がただならぬところまで来ていることを物語っていた。
当初チベットの独立勢力は孤立していた。 チベットの地政学的な不利は如何ともしがたく、周辺諸国からの支援も期待できなかった。 インドはチベットの思惑とは裏腹に、中国との関係を深めていた。 新疆ウイグル自治区独立勢力とは連携していたが、彼らもチベットを支援する余裕はなかった。
そこに登場したのが青海省の独立問題である。 青海は東にチベット民族を抱え、西にモンゴル民族(ワラモンゴル)を抱える。 ワラモンゴルは内モンゴル自治区のモンゴル民族(チャハルモンゴル)と連携を強めている。 チベットは青海を介して内モンゴルと連携することができるようになった。 内モンゴルは隣国モンゴルと密接な関係を持ち始めている。 モンゴルを支援しているのは日本である。 日本を通じてアメリカがモンゴルへの関与を強めている。 チベットはワラモンゴル(青海省)、チャハルモンゴル(内モンゴル)、ハルハモンゴル(モンゴル国)、日本と繋いでアメリカと接触することに成功したのである。
チベットはアメリカに対して独立の意志を明確に示した。 アメリカは明確な支援の表明を避けたが、チベットの意志を尊重することを約束した。 アメリカはチベット問題においても中国と衝突することを避けたのである。 しかしアメリカ国内のチベット独立援助団体は支援に積極的で、その後頻繁にチベット独立勢力と接触するようになる。
チベットの国内事情は近年大きく変化していた。 青海チベット鉄道は観光地としてのチベットを際立たせ、多くの人と投資を呼び込んでいた。 チベット自治政府は漢族系中国人の入植に熱心で、彼らはチベット経済の主要な担い手になっていた。 チベット人は中国人に政治的に支配されるだけでなく、経済的にも支配されるようになった。 中国によるチベット支配は、日常生活における中国人によるチベット人の支配という形で深く浸透していた。 独立勢力の活動は益々難しくなり、治安維持部隊による弾圧も過酷さを増していた。
中国の内政の混乱が伝えられ、中国軍が北朝鮮から撤退したことはチベット人を勇気付けた。 独立の気運が盛り上がり、小規模ながらデモが起きるようになった。 これまで目だった政治活動をしたことがない仏教僧侶までも、デモに参加するようになった。 ただテロ行為は起きていない。 チベット人は武力闘争に慣れていない上、イスラム過激勢力も侵入していなかった。
まもなくウイグルが独立した。 これが中国そして世界に与えた衝撃は大きい。 チベットの独立機運はこれまでになく高まったが、独立に向けた具体的な動きには乏しかった。
新疆ウイグル自治区の独立勢力は、過激派を含めて独立にいたる具体的なビジョンを持っていた。 独立を現実的な目標と考え、組織作りから活動の内容まで周到に準備していた。 独立勢力は地下組織ではあったものの、いつでも自治政府に取って代わることができる政治組織を作っていた。 これに対してチベットの独立勢力の組織化は十分なものではなかった。 自治政府に代わる行政能力を持つ組織はなく、インドにある支援組織との連携も統制が取れていない。 原因の多くは地政学的な要因であるが、独立に対する民衆の意欲がウイグルに比べて薄弱であったことも影響している。
ウイグルの独立を受けて、チベット独立勢力も具体的な行政組織の構築を模索した。 ダライラマを政治指導者として仰ぐのは時代錯誤である。 独立勢力はこれまでダライラマの権威に頼りすぎ、独立に向けた行動組織を建設してこなかった。 ダライラマをチベットの象徴として扱うことには、特に問題はない。 しかし具体的な政府の建設は、ダライラマの存在と無関係に進めなければならない。 それは独立に向けた初歩である。 独立勢力はこの場に及んでも自治政府と交渉できる組織を持っていなかった。
情勢は意外な展開を見た。 内モンゴルと甘粛省に挟まれた寧夏回族自治区が独立を宣言したのである。 この自治区を統治する自治政府の中国人は、回族に同情的であった。 自治政府は回族の立場を尊重して、そのまま独立政府であることを宣言したのである。 従来ならば、自治政府の宣言は無視され、中国に対する反乱として即座に鎮圧されたかもしれない。 しかしこのとき中国治安軍は動かなかった。 すでに独裁政権は消滅し、中央政府は改革のさなかにある。 地方政府自立の動きは盛り上がっている。 寧夏の独立阻止のために軍事力を発動できる気運ではない。 寧夏は辺境の小地域である。 寧夏の独立は現状を大きく変えるものではないという判断もあった。
中国には辺境に五つの自治区があった。 内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、広西壮族自治区、寧夏回族自治区である。 自治区の地位は中国の各地方省の地位と基本的に変わりがない。 名目上の自治を認められているが、その長は中央政府から派遣された知事である。 実質的な自治とは程遠い。 中央政府と接触できるのは知事だけである。 知事を総督と言い換えればそれは植民地に他ならない。 自治政府のスタッフも、その多くが北京の意向を受けた中国人であった。
自治政府には独自の軍隊がなく、外交権がなく、経済開発権がなかった。 経済開発権には経済開発を抑止する権利を含む。 例えばタクラマカン砂漠で石油が見つかった場合でも、中央政府による石油開発が進められるのを止めることができない。 石油収入は全て中央政府の金庫に入り、地方にはわずかな雇用機会が与えられる。 つまり自治政府は自治区内の資源を独自管理することができず、中央政府がそれを持ち去るのを見ていることしかできない。 これは事実上植民地の搾取と同じことで、自治区内住民の不満の種でもあった。
寧夏回族自治区は自治区の中でも最も資源が乏しい地域であり、その独立は中国の実体に殆ど影響を与えないと考えられた。 すでに各地方の独立傾向は周知のこととなっている。 寧夏回族自治区の独立宣言はその流れに沿ったものだ。 このとき中国は中華連邦の名の下に中国の軍事的支配下に留まるならば、独立の形態にこだわらなくなっていたのである。 これはある意味で地方自治政府の香港化を意味している。 香港の一国二制度の実験は、確かに中国政府の地方独立に対する免疫を作る作用も果たしていた。
ウイグルに続く寧夏の独立はチベットに早期の独立を促した。 中華連邦に留まるならば、中国は独立を阻止しない方針らしいことも明らかになった。 チベットはウイグルの方法を踏襲することにした。 独立勢力は結集し、具体的な行動計画を策定した。 計画は秘密のうちにウイグルスタン、ロシア、カザフスタン、インド、青海、内モンゴル、モンゴル、日本、アメリカに知らされた。 各国から独立に反対する反応は示されなかった。 つまり黙認である。 これは支持に他ならない。 問題は青海省である。 青海はチベットと共に独立を達成することを望んでいた。 青海と共に歩むのか、それとも個別に独立の道を行くのか、チベットの路線は二つに割れた。
青海省は自治区ではない。 青海の独立は中国に強烈な拒否反応を引き起こすかもしれない。 もしそうなればチベットに対しても中国の行動が連鎖するだろう。 チベットの独立は簡単ではないかもしれない。 しかし青海はチベットと共に独立に向けて連携してきた仲間である。 青海を見捨てて単独で独立を進めることは、その後の信頼関係を損なうことになる。
結局チベットは青海と共に歩むことを選択した。 独立計画は見直され、改めて周辺国に計画の概要が示された。 青海省と共に独立を模索する道である。 しかしそれは周辺国の予想するシナリオからかけ離れたものではなかった。 チベットの計画は暗黙の了解を得たのである。
周辺国の支持が得られれば、後は行動するだけだ。 チベット独立勢力は自治政府に対して民主政府の樹立と独立宣言の採択を要求した。 これはウイグルのやり方に習ったものである。 青海省でも同様の動きがあった。 チベット、青海の連携は順調だった。
チベット、青海とウイグルの違いは独立宣言のタイミングである。 ウイグルは民主的選挙の後で成立した新しい政府が独立を宣言した。 しかしチベット、青海は独立を宣言した後、新しい政府を作ることに決めた。 これは自治政府が独立に積極的に対処する方針を示した結果である。 自治政府も独立の流れは止められないと認識していた。 中国政府がウイグル独立を事実上容認したことは決定的であった。 それならば自治政府が自ら独立を行うという選択肢もある。 旧ウイグル自治政府は独立勢力と妥協し、中央政府と交渉して独立に大きく貢献した。 それにも拘らず新しい自治政府に参加できた者は少ない。 旧自治政府は結局敗北者としてウイグルを去った。 自分達はその立場になりたくない。 独立勢力に協力して政権の一角に残る方法を模索したのである。
話し合いが行われ、双方共に妥協を重ねて合意に至った。 事情は青海も同じである。 チベット、青海は同日同時間に連名で独立を宣言した。 中華連邦チベット国及び中華連邦青海国である。
青海省の独立には中国中央政府が強烈な反対を表明した。 しかし広東省、香港などが軍事行動に反対し、黒龍江、吉林、遼寧、貴州、雲南、海南などの地方省がこれに同調した。 中華連邦に留まる限り、地方の内政には干渉すべきでないという立場であった。 これらの省は中国から独立する意思はない。 しかし内政、特に経済活動に対して中央政府からの干渉を受けたくないということで一致していた。
ウイグルスタンが真っ先にチベット、青海の独立を承認、ロシア、インド、カザフスタンが後を追った。 日米欧も承認の意向を示した。
ウイグル、寧夏に続き、チベット、青海が独立した。 中国の地方自治の傾向はさらに強まり、同時に新しい中国、中華連邦が具体的な姿を現し始めた。
中国が内政の混乱を向かえ、朝鮮半島から撤退を開始した頃、内モンゴル自治区でも内政を見直す動きが加速していた。 それには独立も含まれる。
中国の経済発展は大規模な大気汚染と環境破壊を伴うものだった。 その最も大きな影響を受けた地域の一つが内モンゴル自治区である。 草原は砂漠化して、黄砂は年を追ってひどくなっていた。 過放牧、草原の農地化、放牧の禁止と、中国の経済政策は二転三転して遊牧民の生活を破壊した。 現地遊牧民の中では、自治政府及び北京政府への不満を募らせる者が増えていた。
内モンゴルは北京に近く、中国中央政府の動向が直接影響をもたらす地域である。 北京政府は内モンゴルの内政に敏感で、独立勢力が活動できる余地は少ない。 ただし内モンゴルの北にはモンゴルという独立国家がある。 モンゴルの存在は内モンゴルのモンゴル民族に確かな希望を与えていた。
チベット、ウイグルでは独立の気運が高まり、青海省までも独立に向けて動き出している。 彼らが頼ったのが内モンゴルの独立勢力であり、その北にあるモンゴルであった。 内モンゴルは各地独立勢力の結節点としての役割を果たすだけでなく、北京の動向に関する情報収集に力を注いだ。 情報はチベット、ウイグル、青海から集められ、それは内モンゴルから各地の独立勢力にも伝えられた。 内モンゴルは隣接するモンゴルとも密接に連携していた。 ウランバートルには極秘裏に日米の情報基地が設置され、内モンゴルからの情報を始めとして各地から集められた中国情報について、詳細な分析が続けられていた。
内モンゴルが持っていた秘密情報が、寧夏回族自治区の独立の動きである。 寧夏の独立は唐突に行われたものではなかった。 チベット、ウイグルの動きは内モンゴルを通して寧夏に伝えられ、寧夏の情報は内モンゴルに伝えられた。 寧夏独立のタイミングは、内モンゴルとの緻密な連携によって計算されたものであった。
内モンゴル自体の独立はどうであったのか。 内モンゴル独立勢力は独立後の国家の建設に自信を持っていた。 モンゴルの支持、その後ろにいる日本とアメリカが新国家の経済的安定を保証していた。 しかし内モンゴルは北京に近く、中国政府がやすやすと独立を認めるとは思えなかった。
もし中朝戦争があれば、中国は苦戦するだろう。 近代装備は中国軍のほうがはるかに勝り、北朝鮮軍の装備は貧弱である。 特に航空兵力に差があり、装甲機動車両も中国軍が勝る。 北朝鮮に勝ち目はない。 しかし軍事国家北朝鮮の百万を超える総兵力が、そう簡単に瓦解することもないだろう。 北朝鮮の山岳地形は歩兵に有利で、航空兵力も装甲車両の威力も減殺する。 戦争は長引くことになる。 中国軍に厭戦気分が広まってきたとき、周辺自治区が一気に独立する。 これが内モンゴル独立に関する一つのシナリオだった。
中朝戦争は起きなかった。 中国軍は撤退し、軍事力は無傷のまま残った。 しかし中国の独裁政治機構は崩壊した。 内モンゴルは辺境自治政府の独立を支援して、その独立を手助けした。 いよいよ自ら独立する番である。 そのシナリオを考えなければならなかった。
これまでの中国の動きを見ると、中華連邦内における独立に関してなら、独立を容認する方向にある。 これまで独立を達成した国は、どれも自前の軍隊を持つ意志を示していない。 引き続き中国軍を駐屯させておくことを約束していて、それが中国を安心させている。 この延長で考えれば中華連邦内での内モンゴルの独立も可能かもしれない。 問題はむしろ内モンゴル内部にある。 内モンゴル独立勢力が中華連邦に留まることに納得するだろうか。 独立勢力の主流派はモンゴルとの統合を考えているからだ。 それは中国からの完全な独立を意味する。 統合モンゴルは完全な独立国家として国連に議席を持ち、独自の軍事力を持つことになる。 それは北京の北部一帯が中国の軍事支配下から外国の軍事支配下に入ることを意味する。 中国がそれを認めるとは思えない。
内モンゴルの独立勢力は、独立後のビジョンについて統一した見解を持っていなかった。 民族主義者は統合モンゴルを目指すべきとしている。 モンゴルとの連携は極めて良好であり、統合に関して両国の間に障害はない。 中国の状況を考えれば時間はあまり残されていない。 中国の内政が安定したとき、内モンゴル独立の夢は潰える。 今は冒険してでも完全独立を目指すべきである。
民族主義者のこうした考えは、ウランバートルにある日本の情報分析本部には受け入れられなかった。 アメリカも同じである。 モンゴル政府も統合には慎重だった。 中国は中華連邦に留まる限り、そして中国の軍事支配下に治まる限り、地方政府の内情には関知しないという方針を採ったように見える。 つまり中国はこれまでの一党独裁国家から地方政府の自由を認める連邦制国家へと移行することを決断した。 地方政府の自主性を認めることの中には、実質的な独立国家を認めることも含まれる。 これは香港の立場に似ている。 ただし1997年、香港がイギリスから中国に返還されたとき、中国政府が香港に対して取った最初の行動が、人民解放軍による香港侵入であったように、中国の軍事支配下に置くことに対しては断固として妥協しない。 逆に言えば中国の軍事支配下に留まるならば、独立に対する妨害はない可能性が高い。
情報分析本部の見解ははっきりしていた。 内モンゴルは中華連邦に留まることを確約して独立する。 モンゴルとの政治的統合は当面考えない。 独立した民主主義国家であれば、例え中国の軍事支配下にあっても政治的、経済的にモンゴルと連携することは可能である。
モンゴルもこの方針に賛成した。 中国は内モンゴルの中華連邦からの離脱は許さないだろう。 それはかなり大きな確率で戦争を引き起こす。 戦争になれば中国軍は分離策謀の共謀者として、内モンゴルだけでなくモンゴルを一気に蹂躙するかもしれない。 内モンゴル民族主義者は冒険する覚悟があるかもしれないが、モンゴル政府にはない。
内モンゴルの独立指針は決まった。 内モンゴル独立勢力は一つに統合して、自治政府との話し合いを始めた。 自治政府は辺境の独立を見て、独立の波がいずれ内モンゴルにも打ち寄せることを理解していた。 独立計画は着々と進められ、予定通り独立宣言が採択された。 自治政府はそのまま独立政府となり、国内の民主化と選挙による新政府の樹立を約束した。 同時に中華連邦の一国であることを宣言して、中国の連邦構想を強く支持したのである。 中華連邦チャハルモンゴルの誕生である。
中国辺境地域独立の振動は、南部の広西壮族自治区にも伝わっていた。 中国南方の少数民族で自治区を持つのはチワン族(壮族)だけである。 チワン族は歴史的に中国と友好な関係を築いていて、独立志向は強くない。 しかし地方政府の自立の動きと辺境各地域の独立は、チワン族にも自主独立の自覚を与えることになった。
中国には漢族以外に政府公認の少数民族が55族存在する。
アチャン族 雲南
イ族 雲南、四川、貴州
ウイグル族 新疆
ウズベク族 新疆
エヴェンキ族 内モンゴル、黒龍江
オロチョン族 内モンゴル、黒龍江
回族 寧夏
カオシャン族 台湾、福建
カザフ族 新疆
キルギス族 新疆
コーラオ族 貴州
サラ族 青海、甘粛
ジーヌオ族 雲南
シェ族 福建、浙江
シボ族 遼寧、新疆、黒龍江
シュイ族 貴州
ジンポー族 雲南
ジン族 広西
タイ族 雲南
タジク族 新疆
タタール族 新疆
ダフール族 内モンゴル、黒龍江
チベット族 チベット、青海、甘粛、四川、雲南
チャン族 四川
朝鮮族 遼寧、吉林、黒龍江
チワン族 広西、雲南、貴州、湖南、広東
トウチャ族 湖北、湖南、四川
トウ族 青海
トーアン族 雲南
トールン族 雲南
トンシャン族 甘粛
トン族 貴州、広西、湖南
ナシ族 雲南
ヌー族 雲南
パオアン族 甘粛
ハニ族 雲南
プイ族 貴州
ブーラン族 雲南
プミ族 雲南
ペー族 雲南
ホジェン族 黒龍江
マオナン族 広西
満州族 遼寧、吉林、黒龍江、内モンゴル、河北、北京
ミャオ族 雲南、貴州、広西、四川、湖北、湖南
メンパ族 チベット
モンゴル族 内モンゴル、新疆、青海、黒龍江、吉林、遼寧、河北、河南
モーラオ族 広西
ヤオ族 広西、雲南、貴州、湖南、広東
ユイグー族 甘粛
ラフ族 雲南
リス族 雲南
リー族 海南
ローバ族 チベット
ロシア族 新疆
ワ族 雲南
中国には本来100近い少数民族がいると言われている。 中国政府はそれらを整理して55の民族に統合した。 中国南部に少数民族が多く、その中で最大の民族がチワン族である。 人口は2千万人と言われるが、詳細は不明である。
広西壮族自治区自治政府は緊張を募らせていた。 中国西北部辺境地域独立の動きは中国南部にも伝わっている。 それは中国南部少数民族にも当然影響を与えているはずだ。 中国の政治状況は様変わりしている。 中央からの締め付けが解かれ、地方政府の裁量の自由度が増している。 それは同時に中央政府の保護が、これまでのようには得られなくなっていることを意味していた。
自治政府は中国人による少数民族の管理機構である。 職員も大部分が中国人で少数民族は殆どいない。 チワン族が多いとはいえ、この地区において最大の人口を持つ民族は漢族の3千万人である。 近年では漢族系中国人の増加が著しい。 これまでのところチワン族に不穏な動きは見られない。 外部から急進勢力が入っているという情報もない。 自治政府は安泰のように見える。 しかし自治政府の不安は消えなかった。 支配を保証する中央の力がなければ、何が地方政府を保証するのか。 現地住民が政治権力を要求するようになれば、いずれ現在の地方政府を排除しようという動きが起こるかもしれない。 それにどう対処するのか。 結論は出ていなかった。
広西壮族自治区にはチワン族のほかにも少数民族がいる。 ジン族、トン族、マオナン族、ミャオ族、モーラオ族、ヤオ族などだ。 隣接する雲南省にはさらに多くの少数民族がいる。 辺境の独立が伝えられる中で、少数民族の中に独立国家の建設に積極的な関心を示す者達が増えていた。 彼らは自身の民族が国家を建設できるほどの力がないことを知っている。 その中で少数民族の政治的権利と経済的自立を守るためにはどうしたらいいか。 答えの一つが広西壮族自治区を拠点として利用することである。 少数民族独立勢力はチワン族独立勢力を支援する形で、自治区の独立運動を煽った。 自治区を独立させてチワン族の国家を作り、少数民族の権利と生活を重視した民主的な国家モデルの構築を目指したのである。
広西壮族自治区の独立運動は静かに始まった。 ネット上では少数民族の権利と政治への参加が議論された。 中国南部の少数民族は先住民である。 この土地は本来少数民族のものだ。 土地に対する権利が認められなければならない。 中国人は後からやって来た外来者である。 この土地の支配を自分たちの手に取り戻すべきだ。 ネット上の論議は理想論と急進論を誘い、架空のシナリオは知らぬ間に現実と交錯するようになっていた。 世論はいつしか独立を期待するようになり、自治政府の動向が注目を集めるようになった。
独立の議論が行動に転化するのに時間はかからなかった。 自治政府には独立を求める署名が集まった。 政府庁舎の前ではデモが行われるようになり、その映像は世界に配信された。 これまで平穏だった自治区が騒然としてきた。 それに伴い中国南部少数民族の政治的自立を求める声が大きくなり、それは広西壮族自治区のチワン族の独立を後押しした。 チワン族は周辺の少数民族の期待を背負うように、多くの一般市民も独立を志向するようになっていた。
広西壮族自治区が他の中国辺境と違っていたのはその地政学的環境である。 周辺に大国はなく、チワン族を支援する国家は存在しない。 ベトナム、ラオス、ビルマはASEANの構成国で、ASEANは内政不干渉を原則としている。 ベトナムは中国と共通する社会主義国家であり、民主化への抵抗も根強い。 ラオスも社会主義国家である。 ミャンマーは軍政が敷かれ、民主政府とは程遠い状態にある。 三国とも民主国家とは言えず、改革に興味はない。 当然中国の民主勢力を支持しない。 それどころか自国への波及を恐れて民主勢力を拒否している。 何よりも中国と摩擦を起こしたくない。 中国の政治問題には一切係わらないことが国境を接する小国の国是である。 それは中国と国境を接する三国だけでなく、ASEAN自身の方針であった。
少数民族の活動は日を追って活発になっていった。 独立支援勢力が貴州、雲南、広東省から広西に集結していた。 国境を接する東南アジア諸国は相次いで国境を閉鎖して、混乱が自国に及ぶことを警戒した。 ASEANは声明を発表してチワン族の独立を支持しないことを明言、中国動乱から距離を置く姿勢を示した。
孤立するチワン族に支持を表明したのが、すでに独立した中国辺境国家である。 ウイグルスタン、チベット、チャハルモンゴル、寧夏、青海は共同声明の形でチワンの独立を支持したのである。 彼らは非公式に連合を結び、本部をウランバートルに置いていた。 陰の主役はモンゴルである。 モンゴルが結節点になり、日米の情報網と繋がっていた。
独立を確信したチワン族の行動は、次第に過激化してデモの規模も大きくなっていった。 少数民族の中に急進派が存在するように、漢族系中国人の保守派の中にも強硬派がいる。 彼らは支配階級として自らの地位と利益を守るためには手段を選ばない。 自治政府は彼らの立場を代弁する役割も負っていた。 自治政府は遂に治安部隊の投入に踏み切った。 民衆を鎮圧する治安部隊の映像は、世界の目からは治安部隊の少数民族弾圧と映った。 自治政府に対する非難の声が高まり、これ以上の治安出動が困難な状況に追い込まれていった。
広西壮族自治区は、中国人の定住状況についても他の辺境地域と違っていた。 チベットやウイグルでは漢族は明らかによそ者だった。 広西はそうではない。 すでに数百年にわたる共存の歴史がある。 自治政府は両者の利益に配慮して治世を行なってきている。 自治政府の何が不満なのか。 このとき自治政府は、民衆の不満の原因がその政治内容にあるのではなく、政治権力から遠ざけられているという政治体制にあることが理解できなかった。
自治政府は事態の収拾に乗り出した。 チワン族独立勢力と交渉することを決断したのである。 自治政府と独立勢力の話し合いは、中国国内の少数民族だけでなく、世界から注目されることになった。 話し合いの内容は双方にとっても簡単なものではない。 独立勢力は政治の民主化を求めただけでなく、少数民族の先住権を認めるよう要求した。 それは少数民族に土地の所有を認めろということだ。 中国はこれまで共産主義体制をとってきた。 そのため土地の私有は認めない。 それは経済システムの基本にかかわる問題だった。
独立勢力にしてもただ民主選挙を求めるだけなら、自分たちの権利が守られるかどうか不安があった。 自治区内の人口は漢族系中国人が圧倒的に多い。 民主選挙による多数決では、少数民族に十分な政治的権力が確保できない可能性があった。
交渉の焦点は自治政府の制度改革である。 これまで広西壮族自治区知事の地位は中央政府の選任によるものだった。 これからは自治区内の住民が知事を選ぶ。 そのためには公正な選挙制度が必要だ。 自治政府は独立を宣言し、他の辺境国家と同様に、独立国としての立場で民主的な社会を作るべきである。 すでにウイグル、寧夏、青海、チベット、内モンゴルが独立している。 南の辺境である広西も独立を求める。 その上でチワン族その他の少数民族に十分な政治的権利と先住民としての財産権を認める社会を作る。 これが独立勢力の考え方であった。
自治政府は、政治の流れが地方の自立と民主政府樹立に向かっていることを認識していた。 もはやその流れを阻止するための実力行使はできない。 周辺自治国家が次々と独立する中で、広西だけがその動きを止めることはできないだろう。 広西が独立した場合、問題は漢族とチワン族の関係がどうなるのかということだ。 漢族系中国人の中には、この地に確固とした利権や経済的地位を築いている者も多い。 これまでのように平和的共存が可能なのか、それとも旧ユーゴスラビアのように民族対立が顕在化するのか。 イラクでは国際社会の予想に反し、宗教や石油利権をめぐって民衆同士の争いが起きた。 広西でも何が起きるかは誰にも予想できない。 しかし政府の改革は不可避であった。 前例があるならばそれに従うのが、無益な争いを避ける最良の策と思われた。
自治政府は広西の立場が他の連邦内独立国家と同等であることに同意した。 民主的選挙によって新しい政府を作ることも約束した。 ただしその場合、チワン族を始めとする少数民族を優遇することはできない。 少数民族に特別の政治的権利が認められることはない。 先住民としての土地の財産権も認めない。 それらの問題は新しい政府によって議論されるべきであるとした。
独立勢力と自治政府は他の独立国家と同等というところで意見の一致を見た。 未解決の問題は全て新しい政府に委ねる。 とりあえず現在の自治政府が独立国家を宣言して、民主的な選挙の準備をすることで合意した。 少数民族には新しい政府議会に特別枠を設け、得票数が足りなくても最低一人の議席が認められることになった。 如何なる場合でも少数民族が政治に参加できる仕組みを作ったのである。 政府議会における少数民族枠の獲得は、チワン族だけでなく他の少数民族にとっても大きな成果として受け止められた。
広西壮族自治区は国名を「チワン共和国」として独立国家になり、中華連邦の一国になった。
ウイグル、寧夏、チベット、青海、内モンゴルそして広西チワンと中国国内の辺境が次々と独立した。 中国政府は国内地方政府の自由を認めるという立場から、それを容認した。 中国政府の立場がはっきりと独裁制から連邦制に変わったのである。
台湾は中国の動向を注視していた。 マスコミは途切れることなく中国関連の情報を伝え、テレビニュースは中国一色であった。 特別番組が組まれ、専門家と称する論者たちが、中国分析の花を咲かせていた。
台湾の独立意欲は高まるばかりであった。 独立スケジュールはすでに日米に通知している。 後はスケジュールに従って粛々と行動するだけである。 こうした空気の中で、最初にウイグルが独立したことは台湾国内で歓声を持って迎えられた。 マスコミの熱気は凄まじく、その熱気に浮かれた民衆の興奮も大きかった。 新聞はウイグル独立の記事で埋め尽くされ、テレビは連日ウイグルの様子を放映し続けた。 独立を喜ぶウイグル民衆の映像は、台湾の民衆が夢見るものに違いなかった。
その中にわずかではあるが、ウイグル独立を台湾の現状と比較して冷静に分析した記事もあった。 それは次のようなものである。
ウイグルは独立を宣言して、中国もそれを黙認した。 日米欧露の主要国が独立を承認、ウイグルスタンは名実共に独立国家となった。 果たしてそうであろうか。 中国が国連常任理事国として拒否権を持っている限り、ウイグルスタンは国連に加盟できない。 つまり正式な国際社会の一員になったとは言えない。 これは台湾の現状と同じである。 加えてウイグルスタンは中華連邦の構成国であるばかりか、中国の軍事支配を受け続けている。 ウイグルスタンには中華連邦から離脱する自由はない。 台湾はどうか。 台湾は自由な民主国家である。 何処の国の軍事支配も受けていない。 台湾の外交権は承認している国の少なさから有効に働いていないものの、その自由は厳然と確保されている。 軍事にいたっては完全に独立している。 台湾軍は完全に台湾政府の指揮下にある。 独立宣言をして世界に承認されたウイグルスタン、一方独立宣言もできずに主要国から独立を承認されていない台湾。 どちらが真の独立国家であるのか。
分析はさらに続く。 中華連邦が真に自由な連邦であるならば、完全独立国家がその構成国であってもいい。 EUがそうである。 EUには加盟する自由も離脱する自由もある。 もし中華連邦がそうした自由を認めるならば、台湾がその自由の恩恵を受ける最初の国家になるかもしれない。
台湾は新しい中国に大きな期待を寄せていたのである。
ウイグルの独立に続き、寧夏、チベット、青海、そして内モンゴルまでも独立宣言をした。 さらに広西チワンまで独立を果たしたのである。 台湾の独立は、外から入ってくるニュースによってもたらされた国民の熱狂の中で、確固とした既定路線になっていた。
台湾はこのときまでに国民投票法案を可決、「台湾」の国名も国民投票によって信任を得ていた。 国内法の整備が終わり、新しい台湾国家に装いを変えた。 後は独立宣言を待つだけになっている。 中国辺境が独立した今こそ独立宣言の好機に思えた。
台湾は日米欧の主要各国に台湾独立宣言の日程を通知した。 これはいわば最後通牒である。 アメリカがどんなに反対しても、日程の遅延、変更はあり得なかった。 ウランバートルの情報分析本部は、台湾に対しても情報を提供していた。 独立宣言の日程もこの情報に基づいて作成された。 つまり日米は台湾の独立宣言に消極的な反応を示しながらも、その日程をコントロールしていたのである。 中国辺境が次々と独立を果たす中で、台湾の独立はもはや不可避である。 それならば最適なタイミングで独立するのがよい。 そのタイミングとは中国の内政の混乱に乗じたものではなく、中国連合政府が安定し、中華連邦がほぼ完成したときである。 内政の混乱や辺境の独立を利用したどさくさ紛れの独立は望ましくない。 中国が落ち着いて冷静な判断が下せるときでなければならない。 ウランバートルはそのタイミングを指示していたのである。
チワン共和国が独立してまもなく、台湾独立が日程に上った。 独立宣言はメディアを通じて国民に予告され、予告どおりに独立宣言が表明された。 同時に中国を含む主要各国に独立が告げられた。 中国は黙殺、日米欧は承認した。 独立に伴う行事は何もなかった。 メディアも淡々と事実を伝えただけである。 これまでの熱狂が嘘のように、独立は静かであった。
台湾は中国地方政府にも自国の立場を説明していた。 台湾はすでに独立国家であり、今後正式に独立する。 台湾のこの立場が尊重されるならば、台湾は中華連邦に参加する用意がある。 これは台湾の基本方針であり、同時に中国との関係を正常化する切り札であった。
新しい中国は地方省による連合国家になる。 中華連邦は各省で選出された代議員によって運営される。 従って各地方政府の多くが台湾の立場を理解してくれるならば、結果として連邦政府も台湾の立場を理解するようになるだろう。 すでに台湾の立場を強く支持しているのが香港と広東省である。 香港は経済的に台湾との関係が深く、自由民主主義の経験もある。 広東省は伝統的に自主独立の気風が強く、華僑も多く輩出している。 両地方とも経済活動の自由を重視して政治権力の介入を嫌う。
台湾の政治的意見は、経済開発を優先する省政府から次第に理解されるようになった。 雲南、貴州、海南の各省が台湾を支持、四川などの有力省も台湾の立場に理解を示すようになった。 ウイグルスタン、チベット、青海、寧夏、チャハルモンゴル、チワン共和国は台湾を支持した。 自らも台湾のような独立国家を目指していたからである。
中国中央政府は台湾を警戒していた。 台湾をすんなりと中華連邦へ迎え入れるわけにはいかない。 もし台湾が国連加盟国として中華連邦国家になれば、独立国を自称する他の地域も台湾と同じ待遇を要求するだろう。 つまり軍事の独立と国連加盟国としての地位だ。 それは中国の覇権に影響するもので、中国の大国としての地位を危うくする。 中国はいまだ覇権主義の亡霊に取り付かれていた。
台湾は独立を宣言した。 日米欧の主要国がそれを承認した。 日米とは正式に国交回復の交渉を始めている。 台湾は独立目的を事実上達成した。 中国に対しては国連加盟承認を条件に中華連邦への参加を求めている。 しかしこれは形である。 実際に中華連邦に加わるかどうかは重要な問題ではない。 中国が台湾の国連加盟を認めなくてもよい。 台湾の独立は主要国に承認されたのだ。 中国と台湾の外交交渉は明らかに台湾が攻勢に出ている。 現在の台湾の立場はもう十分に台湾側の満足するものであった。
北京における中央政治改革は、混乱の中にも熱気を帯びていた。 拡張主義者と中央軍司令部による北朝鮮政策の失敗は、彼らを退陣に追い込み、これまで出番のなかったリベラルなグループを主役の座に押し上げていた。 中国のような官僚主義政治では、失策が命取りになる。 権力闘争の中で足を引っ張られる口実を与えることになるからだ。
これまで独裁政治を担ってきた勢力が政治の表舞台を去ると、中央の政治に対する地方政府の発言が目立つようになってきた。 もとより中国の政治制度では、地方政府が直接中央政治に介入することはできない。 地方政府はネットを通じて民衆に直接自己の主張を表明し、時にはダミーを使って政治的意見を表明した。 これまでタブーだった政治サイトが増加し、中央政治局もこうした地方政府や民衆の声を無視できなくなっていた。
政治の中心が自由主義的な勢力に移ると、中央政治指導部の中でも地方の意見を中央政治に反映させるべきだという声が高まった。 中国の民衆に直接触れているのは北京ではない。 中国人民の生活の実情を理解しているのは地方政府である。 その政治判断は尊重されなければならない。 中央政府は地方政府の意見を統合勘案して政策を決定すべきである。 独断による強権政治は許されない。 それはこれまでの中央集権政治に対する批判であった。
独裁政治に対する反動は、中央集権政治の否定にまで及んでいた。 それは必然的に地方政府による連合国家の構想に向かう。 そのイメージは具体的にはアメリカ合州国(合衆国は誤り)である。 国家指導部の官僚や、枢要な地位を占める学者の中にもアメリカ留学の経験者が増えていた。 アメリカの民主主義思想を理解する者も多く、具体的な連合国家のイメージに抵抗は少なかった。
地方の自主独立の尊重と中華合省国構想の議論が俎上にのぼり始めた頃、中国辺境でも独立の気運が盛り上がっていた。 時の流れは止めることができず、ウイグルが独立し、続いて寧夏、チベット、青海、内モンゴル、広西チワンが独立した。 中央政治改革が地方重視を論点とする中で、武力による独立阻止の動きは遂に主流になることがなかった。 独立は事実上容認され、中華合省国構想は辺境独立国を内包した中華連邦構想へと進んでいく。
中国の中央政治指導部は、リベラル勢力も含めて、辺境の独立には基本的に反対していた。 独立を容認したのはいくつかの理由による。
まず地方政府の自主独立を尊重するという建前を否定することが難しかったこと。
一国二制度の香港の例がすでにあったこと。
中国が国連常任理事国で拒否権を持ち、連邦内国家の国連加盟を拒否できること。
そして中国の軍事支配に影響を及ぼしていないことである。
決定的だったのはやはり辺境国家が中華連邦に留まることを表明したことである。 このことが最終的にナショナリスト、大国主義者、覇権主義者を納得させることになった。
かくして中華連邦は中華合省国を核として、自治国家を内包した連合国家になった。 自治国家とは中国側の用語である。 独立を尊重し、独自外交まで認めるものの、軍事力の独立は認めない。 国連加盟国になることも認めない。 中国の立場は、始めに中華連邦があり、ウイグルスタン、寧夏、チベット、青海、チャハルモンゴル、チワン共和国は、中華連邦の権限によって認められた独立国家に過ぎないということである。
一方辺境独立国家の思惑はこれと違っている。 彼らは国際的に認められた独立国家である。 今後は国連加盟国になることを準備している。 中華連邦に属しているのはEU構成国の立場と同じだ。 中国軍を国内に置いているのは自国政府の決定による。 軍事力の保持を放棄したとは一言も言っていない。 中国は速やかに国連加盟を承認すべきである。
しかしこうした対立点はお互い自粛したまま、中華連邦は事実上発足したのである。
中華連邦は二つの議会を持つ。 まず中華連邦議会がある。 これは各地方省から選出された代議員によって運営される。 中華連邦の政治はこの中華連邦議会が中心となる。 代議員の数は地方省の人口に応じて加重配分によって決められ、人口の多い地方省がそれだけ多くの代議員を選出することができる。 結果的に地方有力省が中央政治においても大きな影響力を持つことになる。 これは民主主義の考え方からして当然のことと言える。 議席数の加重配分制に対しては雲南、貴州、海南省などで反対の声が強かった。 これらの地域は各省同人数の代議員選出を主張したが、結局認められなかった。
次に中華連邦総会がある。 これは中国地方各省だけでなく、ウイグルスタン、寧夏、チベット、青海、チャハルモンゴル、チワン共和国の各自治独立国及び香港、マカオから選出された連邦議員によって運営される。 連邦議員の数は各地方の人口にかかわらず同数である。 連邦議会の代議員と連邦議員の兼任は許されない。 つまり別人である。 連邦総会はいわばEU委員会のようなもので、定期総会の他に必要に応じて開かれることになる。
中華連邦は連邦議会によって運営される。 従って辺境自治国家と香港、マカオは中央政治から締め出されている。 辺境自治国家は独自外交権を持つので、中国中央政治に関与しなくてもいい。 しかし香港とマカオは一方的に支配されるだけだ。 これは不公平である。 ここに来て両地域とも自治国家と同等の地位を認められるべきことを主張した。 つまり独立を主張したのである。
香港はこれまでも特別行政区であり、一国二制度の下で完全な自治が認められてきた。 しかし完全な自治は独立を意味しない。 外交権がないからだ。 一国二制度の美名の下に中央政治に関与することができず、対外交渉権も持たない香港の立場は、実際には中国の隔離された異端児に過ぎない。 香港の不満は辺境独立国家の成立を目にして一気に表面化した。 香港が理想とするのは台湾と同じ方向である。 中華連邦離脱の意思はないものの、完全独立国として独自の外交権と国連の議席を望んだ。
マカオは少し違う。 マカオは独立国家としての地位に固執しない。 ただし経済政策の自由は認められなければならない。 経済政策には対外政策が含まれる。 それは独自外交を認めろと言うことだ。 経済政策の自由が保証されるならば、その他の政治的権利を保留してもよい。
辺境独立国家群は香港を支持した。 香港はこれまでの実績からすでに独立国家である。 独自外交権を認めても現状を大きく変えるものではない。 香港は広東省政府に強く働きかけ、その支持を取り付けた。 ここで香港は国連加盟問題などの論点を曖昧にしたまま独立宣言を行ない、中央政府と辺境自治国家の承認を求めた。 ウイグルスタンがこれを承認、中央政府の干渉がないことを確認した他の自治国家が続いた。
香港が特殊だったのは、その独立宣言が他国へ向けられたものではなく、中華連邦内に向けられたことだ。 香港は連邦内での自国の立場を何よりも優先した。 国家の承認にかかわる外国との積極的な交渉は行なわなかった。 そのため日米モンゴルは香港独立を黙殺、国家の承認は時間をかけて判断する戦略に出た。 この時点で香港の独立を承認したのは台湾だけである。
一方マカオの地位は連邦直轄の特別行政区として承認され、経済政策の自由が保証された。
中華連邦は成立した。 国名は「中華人民共和国」から「中華連邦共和国」になった。 しかし内部にはまだ様々な混乱が残っていた。 連邦議会が発足すると、議会を舞台にした権力争いが表面化した。 北京と上海の確執は続き、お互い勢力を広げようとして、周辺地方省を自陣に引き入れる工作に熱を上げた。
地方政府の自主独立権限の拡大は、思わぬところで影響を見せ始めた。 北京、上海などの大都市の武器は経済力である。 周辺地方省を味方につけるにはこの経済力が大いに役に立つ。 中央政府の経済政策の実態に関係なく、地方政府が直接他の地方政府に経済的援助、あるいは自省内企業による投資などを餌に、駆け引きを行うようになったのである。 投資が欲しい東北三省、南方の雲南、貴州、海南省などはこうした動きに困惑したが、経済的利益の誘惑には勝てず、地方政府間の駆け引きに翻弄されるようになった。
中華連邦内における北京の影響力は著しく低下していた。 これまでは共産党一党独裁政治の下で圧倒的な力を誇っていたのである。 旧勢力にはそのことを嘆くだけでなく、ノスタルジーから開放されない人々もいた。 北京はこれまで培ってきた人脈と経済力を駆使して、周辺地方を味方につけて自身の影響力を確保しようと図った。 天津市、河北省、山西省は北京の支配の下にある。 東北三省は地政学的要因から歴史的に北京に従属すべきである。 北京の工作は周辺地方省、満州、山東省、甘粛省、チャハルモンゴル(旧内モンゴル自治区)に重点を置いて進められた。
チャハルモンゴルは独立国である。 中華連邦に属するが、連邦総会では独自の判断で行動する。 北京に同調することもあればそうでないこともある。 北京派に加わるつもりはない。 それがチャハルモンゴルの基本姿勢だ。
チャハルモンゴルは活気に溢れていた。 北京の意向は怖くない。 中央からの援助は要らない。 自国の力だけで十分に経済開発を行うことができる。
この自信の裏付けには隣国モンゴルの存在がある。 モンゴルは人口希薄な小国であるが、豊富な天然資源をバックに経済開発に成功している。 それを保証しているのが日本との連携だ。 アメリカからの投資も増えている。 ロシアと中国に挟まれて地政学的に不利な位置にあるという事実が、今では有利に働いている。 モンゴルの地政学的位置を日本、アメリカが重視して、関係の強化を図っているからだ。 このモンゴルと連携そして経済的統合を図ることで、チャハルモンゴルは経済的に自立できる。 北京はもはや必要な存在ではない。 北京の工作が実を結ぶ可能性は低かった。
チャハルモンゴルが経済を楽観している以上に、モンゴルは自信を深めていた。 モンゴルはウイグルスタン、寧夏、青海、チベットと連携を進め、チャハルモンゴルを含めて経済統合を図る方針を示した。 チャハルモンゴルとの経済統合は順調に進んでいる。 寧夏、チベット、青海も経済統合に積極的だ。 ウイグルスタンも基本的にモンゴルを支持している。 経済連携の動きを止めるものはない。 モンゴルを核に内陸アジアに新しい経済圏が生まれつつあった。
モンゴルの政治経済力の向上はロシアの警戒を呼び起こした。 ロシア国内にはモンゴル系諸民族が数多く存在する。 モンゴルの発展は彼らの自立心を刺激し、モンゴルへの回帰を意識させるのではないか。 実際ロシア国内のモンゴル人居住地域にはそうした兆候が見られる。 ロシア、モンゴル国境はロシア側にこれまで以上の緊張をもたらすことになった。
ロシアはモンゴルを警戒したが、同時に内陸アジアにできつつある経済圏に関心を持った。 ロシアはカザフスタンと共にウイグルスタンへの接近を強めていた。 資源開発についての経済支援を梃子にして、ロシア企業のウイグルスタンへの投資が盛んに行われた。 ロシアはウイグルスタンにアメリカの影響力が及ぶことを懸念していた。 しかしアメリカはいずれやって来る。 それまでにロシアの存在感を確立しておきたい。 ロシアの戦略は明白であった。
ウイグルスタンには沢山の選択肢がある。 中華連邦の一員として中国と関係を深めること。 隣国カザフスタンと連携すること。 ロシアの誘惑に応えること。 モンゴルと連携することである。
中国はいまだ警戒の対象である。 ウイグルスタン国内に移住してきた中国人の数は、現地住民であるウイグル人の数を上回っている。 政府が民主化してもウイグル人の権利が十分に保証されるとは限らない。
中国からの独立はウイグルスタンの悲願であった。 中国から独立するということは、完全に縁を切る覚悟があったということだ。 当然経済制裁や通商停止、国交断絶などを想定している。 ウイグルスタンとしてはむしろその方が望むところであった。 諸々の事情により中華連邦に留まることになったが、完全独立の志向を捨てたわけではない。 今後も中国とは接近しすぎないようにする。 だからといってロシアに接近するつもりはない。 ロシアの存在は利用できるかもしれないが、露骨な戦略的野心を持って近づいて来るロシアはやはり警戒対象である。
隣国のカザフスタンとは友好関係を維持したい。 同じイスラム教徒のトルコ系牧畜民として親近感もある。 ただ経済連携の相手としては不十分だ。 やはり日米という大資本主義国家へ繋がる隣国モンゴルとの関係が重要である。 モンゴルを中心とした経済連合に加わるのが当面最良の選択であった。
中華連邦の外郭を構成するチベット、寧夏、青海も基本的なスタンスはウイグルスタンと同じであった。 この三国はウイグルスタンよりも選択肢が少ない。 チャハルモンゴルを通じてモンゴルと連携する以外に、これと言った策はない。 モンゴルへの期待は大きかった。 中華連邦北西部外郭国は当初からお互いの経済連携を模索し、北京の意向とは異なる道を選んでいたのである。
中華連邦が発足した後も、北京は自らの政治的力の維持に奔走していた。 経済発展を続ける上海派閥に対抗するためである。 しかし地方省の意向は北京の思惑とは違っていた。
いまや独裁政治は消滅し、地方政治の自主独立が可能になったのである。 地方省には経済発展に向けた独自の判断がある。 経済政策の自由は保証されなければならない。 遼寧、吉林、黒龍江各省もこうした考え方を持っていた。 北京は政治にこだわりすぎる。 東北三省を当然のことのように自分の裏庭と考えていることも納得できない。 北京は地方省の自由な意志を尊重していない。 東北三省は北京に従属しているのではない。 満州族には独立を望む声すらあるのだ。 三省は経済政策の自由をめぐって北京と対立するようになっていた。
北京は経済協力の停止や北京企業の投資の制限などの脅しを加えて、遼寧、吉林、黒龍江各省に影響力を行使しようとした。 三省はこれに反発、北京の政治意志との乖離がはっきりしてきたのである。
北京が自由で対等な経済連携を受容しないならば、東北三省は北京との関係を諦めて別の道を探さなければならない。 近隣で必要十分な経済情報を持つ経済地域は北京だけではない。 それがKU(Korea Union)であった。 韓国は経済力ではるかに劣る北朝鮮(朝鮮民主共和国)を経済支配しようとはせず、対等な立場で接している。 KU域内の経済活動は完全に自由である。 この経済連合に東北三省が関心を示すのは当然であった。
遼寧、吉林、黒龍江各省は満州族の地である。 清代になって女真族が北京に移動するのと同時に、満州にも漢族が多く移住した。 満州族と漢族の混合が進んだ現在にあっても、満州族のアイデンティティを捨てない人々がいる。 朝鮮族は満州族に近く、満州には朝鮮族も多く暮らしている。 東北三省がKUに親近感を持つことは不自然ではなく、経済交流に障害となる要素はなかった。
隣国モンゴルとの連携はどうか。 満州族とモンゴル族は歴史的に仲がいいとは言えない。 かつてのモンゴル帝国は女真族の国、金を滅ぼしている。 現在のモンゴルとの間にこれと言った反目はないが、その後ろにいる日本とは歴史的因縁が大きすぎる。 どちらの国に対しても親近感を感じることはできない。
この時点で東北三省は中華連邦から離脱するつもりはない。 しかし中国が連邦国家になったにも拘らず、北京はその意味を理解していないように見える。 北京市は中央政府ではなく、もはや中国の一地方に過ぎない。 東北三省の主人でもない。 いつまでも指導者然として振舞う北京の態度には呆れるばかりである。
三省はKUと極秘に接触を始めていた。 KU側も満州地域の接近を歓迎した。 両者の意見に対立点は少なく、正式に交渉を始めたときにはその内容は大筋合意済みであった。 KUの実体は経済連合である。 EUに準じるが人の移動を制限しているところが違う。 交渉の論点は二つあった。 一つは安全保障問題を絡めないこと。 二つ目は共通通貨として中国元を認めることである。
共通通貨はKUの核である。 韓国ウォン以外に中国元を認めたらKUの根幹が成り立たない。 KU中央銀行は中国元の流通量をコントロールできない。 そのため中央銀行による金融政策が効果的に機能しなくなる恐れがある。 中国三省の基本通貨は中国元である。 これを変えることはできない。 従って問題はもっぱら韓国側による中国元の扱いである。 韓国は強力な中国元によって韓国ウォンの存在価値が低下することを懸念した。 しかし英ポンドの例もある。 英ポンドはユーロ(欧州共通通貨)が一般化した後も存在価値を下げていない。
韓国は決断した。 KU内取引における中国元の使用を認める。 しかし正式な決済通貨は韓国ウォンとする。 これは多分に形式的な意味合いが強いが、経済計算を統一するという政治的メリットはある。
中国連邦政府はKUと東北三省の交渉を見守っていた。 最終的に妨害も反対もしていない。 それは、KUが軍事的性格を持たない、中国元が認められたことにより、中国元の有効領域が拡大する、実質的にKUが中華連邦経済の一角を担うことになり、中華経済圏の拡大に繋がるという理由による。
韓国側の妥協によってKUは満州に拡大することになった。 遼寧、吉林、黒龍江各省の経済は中国経済の一部を担うだけでなく、朝鮮半島の経済と深く結びつくようになったのである。
韓国がKUの実効通貨として中国元を認めたことは、中国地方省のKUへの関心をにわかに高めることになった。 中華連邦が成立した後も、北京や上海の大都市が、政治力、経済力を駆使して連邦の主導権を握ろうとする動きは収まることがなかった。 情勢は上海に有利であったが、栄光の時を忘れられない北京は、そのことを素直に受け入れるわけにはいかなかった。 北京と上海の影響力争いは、中間に位置する山東省をめぐって顕在化した。
山東省は人口1億を超え、経済的にも発展した一大地方省である。 山東省が北京派閥に入るのか、上海派閥に入るのかは両都市の影響力に大きく関係する。 北京、上海両派閥とも山東省の取り込みに懸命になっていた。
山東省はどちらの派閥にも属するつもりはない。 一省として十分な経済力を備えており、政治的発言は是々非々で行なう。 中華連邦は北京の指導力も上海の指導力も必要としていない。 平等に権力を有する地方省の連合によって運営されるのだ。 山東省が大都市の政治行動に抱く違和感は、東北三省が感じていたものと同じであった。
KUに中国東北三省が加わり、中国元による取引が公認されたことは、山東省の注目を引いた。 経済圏を中国国内に限定する必要はない。 山東省の選択肢は北京や上海だけではないのだ。 政治的な関わりにうるさい中華連邦内グループにくみするよりは、政治的しがらみから自由な経済圏に属した方がよい。 経済発展には何よりも経済活動の自由が保証されなければならない。 これは過去の経験から学んだ真実である。
山東省が日本と手を結ぶことは難しい。 中国人の感情がそれを許さない。 選択肢は自ずと決まる。 KUである。 山東省は韓国及びKU委員会と交渉に入り、既定の条件に従ってKUに参加することを決断した。 KUは黄海を挟んで拡大したのである。
山東省の離反は北京にとっても上海にとっても意外であった。 両都市ともその理由は承知している。 しかしどちらも国内の指導権争いを止めることはなかった。 中国の政治は伝統的に官僚政治である。 官僚制は独裁制の統治機構として極めて有効に働く。 中華連邦政府も強固な官僚制を引き継いでいて、その力は無視できない。 地方政府の自由度が増大したとしても、連邦政府の影響力は結果的に地方省の盛衰を左右する。 もし中央の主導権争いから手を引けば、相手方が一方的に中央政治を支配することになる。 その不利益は計り知れない。 それは民主的政党政治が未発達な中国にとって、十分に予想される結果であった。
大都市及び有力地方省が自らの派閥を作ろうとする動きは、中国南部にも広まっていた。 四川省は重慶が自省の一部であることにこだわった。 重慶はこれを認めず、両者の反目は続いた。 四川省と重慶はお互いの主導権を争うと同時に、貴州、雲南の取り込みに力を注いでいた。 広東省は自由な気風を持ちながらも、海南省を自らの勢力圏と見做し、台湾をも経済圏に取り込もうとしていた。 これに対して同じく台湾との経済圏構築を目論む福建省が反発していた。 福建は上海派閥に入るつもりはなく、広東省に従属するつもりもない。 福建は自由である。 対岸の台湾の独立国家としての立場は、自由な経済連携を模索する福建省にも魅力的に映った。 台湾との経済連携を深めることが、福建省の経済的自由と発展を促すという考えであった。
台湾は福建より広東省に惹かれた。 台湾の自由と独立を支持し、国連加盟に賛成してくれる広東省は、台湾にとって格好の友人であった。 台湾が広東省、香港、マカオと共に経済圏の構築を図ったのは当然の結果と言える。 福建省は台湾との連携に出遅れ、上海と広東省の狭間で孤立していた。
広東省と海南省の間にも摩擦があった。 広東省は自省の行政管理区域に海南省を含めるべきだと考えていた。 海南省は広東省から分離した省である。 海南島の分離は中央政府の独断で行われたもので、広東省の意志ではない。 中央独裁政権が消滅したのであるから、その独裁政治によって生じたゆがみを正さなければいけない。 広東省は海南島の復帰を強く求めていたのである。
海南省は違う。 過去は過去である。 現在の海南島は独立した省であり、その権利は当然尊重されるはずである。 広東省に復帰すべき、あるいは広東省の勢力下に治まるべきという考え方には同意できない。
海南省の目は当初南を向いていた。 ASEAN(東南アジア諸国連合)との経済連携を伺っていたのである。 しかしASEANは独立国家の連合体であり、中国(中華連邦)を一国として捉え、個々の地方と個別に交渉することはなかった。 ASEANは中国中央政府との起こり得る摩擦を避けていたのだ。
ASEANの消極的な姿勢は、海南省に経済戦略の見直しを迫った。 海南省に近接する経済地域はASEANを除けば広東省と台湾である。 台湾は広東省と連携し、広東省は海南省の復帰を目論んでいる。 海南省は広東省に支配されるつもりはない。 海南省は広東省よりもチワン共和国と連携する道を選んだ。
海南省とチワン共和国との連携は弱者連合である。 核になる経済的力はない。 ASEANはいまだに中国を警戒して連携に消極的だ。 台湾は広東省に寄り添っている。 日本との連携も難しいだろう。 連邦政府の反発を招く可能性が高いからだ。 残った選択肢は何か。 それがKUへの参加である。
KUは北東アジアに位置し、海南省とは地理的に遠い。 しかしKUのオープンな性格は海南省を引き付けた。 政治に煩わされない経済圏への参加は、政治に振り回されてきた中国各地方にとって魅力的に映った。 すでに東北三省と山東省が参加している。 海南省が参加することに不都合はないはずだ。 地理的な距離は問題ではない。 参加の条件に地理に関する規定はない。
KU側も海南省の参加に問題がないことを確認した。 かくして海南省のKUへの参加が決まった。
海南省の参加によってKUは必ずしも地域主義の経済連合ではないことが判明した。 海南省と経済連携を強めていたチワン共和国が参加を申し入れてきた。 海南省が参加可能であるならば、チワン共和国が拒絶される理由はない。 チワン共和国のKUへの参加に時間はかからなかった。
中国に及ぼしたKUの影響はこれに留まらなかった。 四川、重慶への従属を嫌う貴州、雲南両省が参加を打診してきた。 地理的な要素にこだわらなければ、交渉には何の障害もなかった。 KUは中国内陸部へ進出したのである。
中国連邦政府はこうした地方政府の動きと、予想を超えたKUの拡大に戸惑いを見せ始めた。 当初中国は東北三省のKUへの参加は中華経済圏の拡大と見ていた。 KUの急激な拡大はこうした見方に疑問を生じさせた。 しかしそれでも中国がKUに干渉することはなかった。
中国はKUの影響を冷静に分析していた。
まず中国の各地方政府には基本法による自治の権利が認められている。 通貨発行権を除く経済事項は、主に地方省政府の権限である。 通商品目に武器や麻薬などの政府管理品目を含まない限り、地方省政府のKUへの参加は、基本法に定められた地方政府の権限を越えているとは見做されなかった。
次にKUはパワーポリティクスの産物ではない。 朝鮮半島が完全に統合されなかったことによる副産物である。 KUの政治的性格は経済事項を超えるものではなく、軍事的性格もない。 韓国の現状はアメリカの軍事支配から独立している。 韓国の軍事力は中国ではなく日本に向けられている。 KUは中国の軍事戦略にとって脅威ではない。
もしこれが日米の策謀による結果であれば、中国が看過することはなかっただろう。 KUに日米の陰はなく、むしろ日米に対抗する経済連合という性格を持つ。 朝鮮半島が日米の影響を排除して安定することは、中国にとっても望むところであった。
中国連邦政府にも韓国の動きを警戒する声がなかったわけではない。 中国と韓国の経済力を考えれば、中国が韓国に吸収されることなどあり得ない。 果たして本当にそうであろうか。 韓国の力を過小評価しているのではないか。
しかしリベラリズムが力を増す中で、下手な干渉は反動と見做され、地方政府の中央からの離反を刺激する恐れがあった。 中国のこれ以上の分裂は避けなければならない。 軍事的統一が保たれる限り、中国の国際的地位も影響力も低下しない。 中国は結果的にKUを容認したのである。
貴州、雲南両省がKUに参加したことは、福建省の決断を促した。 福建省は上海派閥にも、広東省勢力にも属するつもりはない。 独自の判断で経済政策を行なう。 しかし台湾との経済連携では広東省に後れを取った。 福建省は台湾の独立について広東省ほど強く支持しなかった。 それは台湾独立に対する中央政府の目を気にしていたからだ。 自主独立を貫くつもりでいながら、政治的判断では中央政府の目を恐れた。 実際の決断にはためらいがあった。 上海にも広東省にも従属したくないならば決断しなければならない。 福建省はKUとの交渉を開始した。 KU側の条件は周知されている。 結論が出るのに時間はかからなかった。 福建省はKUのメンバーになった。
中国は安定を取り戻し、中華連邦は新しい中国として世界に認知された。 中華連邦共和国(Federal Republic of China)は中華人民共和国(People’s Republic of China)に比べてはるかに自由で民主的な国家になった。 覇権主義、拡張主義の傾向は穏やかになり、近隣諸国に与える脅威は減少した。
しかし中華連邦が成立した後も、中国の旧勢力が一掃されたわけではなく、中国共産党も健在であった。 中国の長い政治の季節はようやく秋を迎えたに過ぎない。 数千年にわたる官僚主義の伝統は消えるわけもなく、政争は中国文化の一部になっていた。
中華連邦の構造は複雑である。 核になるのは中国の4大都市と21の省である。 4大都市とは、北京、天津、上海、重慶、21省とは黒龍江、吉林、遼寧、山東、河北、河南、山西、陝西、甘粛、江蘇、浙江、安徽、福建、江西、湖北、湖南、四川、広東、貴州、雲南、海南の各省である。 これらの地方が人口によって加重配分された定数の代議員を連邦政府に送り出し、彼らが構成する連邦議会が国家を運営する。 ここまでが中華合省国の構図である。
連邦首都は北京が受け継ぐ。 この点について北京が妥協することはあり得なかった。 中国史において北京は常に政治の中心であった。 その地位は歴史に裏付けされたもので、今後とも変わらない。 上海も陝西省も北京の主張を認めた。 どの地方政府も首都の選定で無意味な政争をしたくなかった。
中華連邦はさらにチャハルモンゴル(旧内モンゴル自治区)、寧夏(旧寧夏回族自治区)、ウイグルスタン(旧新疆ウイグル自治区)、青海(旧青海省)、チベット(旧チベット自治区)、チワン共和国(旧広西壮族自治区)、香港の7つの国家とマカオ特別区を内包して中華連邦の全体を構成する。 7つの国家と1つの特別区は連邦内で平等の地位を有し、連邦総会に代表を送ることができる。 総会における議決権は人口にかかわりなく各地域1議席1票を持つ。
議決は多数決である。 こうした制度から必然的に合従連衡の政治的駆け引きが生じる。 自由民主主義国家では、この駆け引きは政党政治の仕組みの中に取り込まれる。 しかし中華連邦の政党には共産党しかないため、政争が表面化しやすい。 今後は新しい政党も生まれるはずだ。 政争については議会運営の経験を重ねて、徐々に解決の道を探るしかない。
一方、経済事項の大半は地方政府が決定権を持っているため、各地方政府は独自に経済連携を考えることができる。 この経済連携に割って入ってきた国がモンゴルと台湾そして韓国である。 結果として中華連邦は内外に錯綜した5つの経済グループに分かれることになった。 見方を変えれば、この5つのグループを総合して中華経済圏が成立しているとも言える。
一つ目は北京、天津を核とする河北グループである。 構成するのは北京、天津市の他、河北、河南、山西、陝西、甘粛の5つの省である。
二つ目が上海を中心とした江南部である。 ここには上海、重慶の都市と、江蘇、浙江、安徽、江西、湖北、湖南、四川の各省がある。 四川、重慶は南部辺境地域の取り込みに失敗して、結局両者とも上海グループに合流することになった。 四川省は重慶の自省への復帰を求めているが重慶は応じていない。 両省の反目は将来に持ち越されたままである。
三つ目は広東省を中心とするグループだ。 広東省は香港とマカオ特別区を取り込み、台湾と連携する道を選んだ。 台湾の独立と国連加盟を強く支持していることが台湾の信頼を得ている。 台湾は中華連邦の構成国ではないが、国連加盟が実現したそのとき、中華連邦に加わることを明言している。 中国はもちろん承認していない。 独自の軍事力を持った国連加盟国を中華連邦内に認めないというのが原則だ。 将来のことは不明であるとしても、中国の原則は当分変化がなさそうである。 台湾は独立国として引き続き中国に対して国連加盟承認の要求を続けることになるだろう。 台湾の後には日米の陰もちらつく。
四つ目はモンゴルを中心としたチャハルモンゴル、寧夏、ウイグルスタン、青海、チベットの内陸アジア連合である。 モンゴルの後には日本そしてアメリカがある。 ウイグルスタンにはカザフスタンとロシアも接近している。
5つ目がKUである。 韓国を中心とした経済連合だ。 構成するのは韓国、北朝鮮(朝鮮民主共和国)の他に、黒龍江、吉林、遼寧、山東、福建、海南、貴州、雲南の各省とチワン共和国である。 KUは日米中の大国の政治的影響下にない独立した経済連合であり、最も有力な経済共同体の一つになっている。
中華連邦は成立した。 しかし構成国、構成地域の全てが満足した結果を得たわけではない。 独立国の多くは国連加盟を求めている。 中国は安全保障理事会常任理事国の拒否権をもってこれを阻止している。 この構図は当分変わらないだろう。
兎にも角にも東アジアに新しい秩序が誕生した。 政治的理想はその姿を垣間見せて、新しい東アジア発展の基礎が築かれることになったのである。