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[ 9 May | 2008 ]

三つのベクトル

--立ち行かなくなった時に、本田技研が継続する、という考えはありましたか?
大島 それはありません。独立したプライベート・チームとして、日本人ドライバーにシートのチャンスを与えるという亜久里さんの夢であったスーパーアグリF1チームをサポートしていましたから。

--ホンダF1チームのBチームという見方がありますが。
大島 そう考えたことはありません。

--栃木研究所のスタッフなどは現場ではそう見えませんが、参戦表明の時から同じスタンスですか?
大島 研究所のスタッフは、一生懸命やっているのでそう見えるかもしれません。参戦に当たっての準備金などは亜久里さんが集めたのですが、その保証人の役目はしました。

--そもそもスーパーアグリF1チームは、2005年8月に、バリチェロにシートを奪われた佐藤琢磨のために本田技研が立ち上げた、という見方がありますが。
大島 そうではありません。亜久里さんとか琢磨選手というよりきちんと亜久里さんの夢を応援しました。

--亜久里たんはその前からF1チームをやりたいと言っていました。
大島 2005年の5月くらいに、なんらかの形でホンダF1チームに関わりたいというような希望を聞いていました。

--琢磨がシートを失ったタイミングと、それをなんとかしてあげたいと思った本田技研と、亜久里さんの思いの三つのベクトルが合致したような形だと。しかし、資金が集まらなかった。
大島 (日本を意識して)“Born in Japan”をうたっていたこともあって、スポンサー候補がどうしても日本に限られた。F1は、海外を転戦するけれど、海外で名を売ろうという企業がなかなかいなかったのだと思います。
(MYS/Yamaguchi Masami)