1,尼 港(にこう) 事 件
1920年(大正9年3月−5月)、ロシア人、中国人、朝鮮人からなる約4千人
の共産党ゲリラの襲撃により、日本の領事館員、領事夫妻を含めて5人、軍人 351人、居留民384人(そのうち女子供は184人)が、陵辱的暴行を受けたう え虐殺、掠奪された。
(後の1937年に起きた「通州事件」は、第二の尼港事件と言われた)
第一次大戦の末期、ロシアに大革命が起こり、1918年(大正7年)の3月、
帝政が滅ぼされ、11月に社会主義共和国が建設されることになっていた。
日本は、米英仏と連合してシベリアに出兵して、イルクーツク付近以東の治安
維持に任じていた。
尼港(にこう)=ニコラエフスク=現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)は、間宮
海峡を挟んで、樺太(サハリン)と向かい合った大陸の、黒竜江(アムール河) の河口にある最果ての小市街である。
人口は、約1万5千人。この方面の漁業の中心地であり、サハリン州庁、領事
館などもあり、政治の中心地でもあった。夏季間は相当活気に満ちているが、 冬季になると、河が凍り、雪が降り始めると外部との交通が遮断されて、孤島 のような状態になる。
ここに居留する日本人は、約440名いた。ロシア人の他に、中国人、朝鮮人、
英国人など約4500人が住んでいた。
日本軍は、大正7年9月、海軍陸戦隊が尼港に入り、この地域の治安と守備
にあたった。日本軍に協力する反共産、反過激派軍が500名、反革命政府の 訓令により編成された自治会もあった。しかし、例によって素質が悪く、まるで 過激派のシンパのような者も含まれていた。
日本軍が、尼港の治安の維持を開始してから丁度1年経った大正8年夏頃、
ウラジオストク付近から逃げてきた共産党ゲリラと過激派十数名が尼港に潜入 して工作を開始した。
彼らは勢力を急速に拡大した。ハバロフスクと尼港間の電線が切断され、討伐
隊が被害を受けるようにもなった。情勢は漸次切迫して、過激派が、いつ来襲 するか分からない有り様となっていた。
年が明けて大正9年正月、守備隊は、戦備を固め、数回の討伐を実施した。
市内で共産過激派に味方する労働者の指導者十数名を検挙した。
ロシア人による反過激派自衛団も組織された。
大正9年2月5日、赤軍共産過激派は、要塞などを奇襲占領し、海軍無線所を
破戒した。このため、守備隊と外部との通信が遮断された。
一方、日本国内では、以前から、現地の情勢を石田領事から受けていたので、
2月13日、尼港救援隊の派遣を決定をした。
しかし、国際的立場を配慮し、出来るだけ円満に解決して、民衆の感情の融和
を考慮しなければならないと思ってか、3月6日、援軍の派遣を一時中止した。 冬季的困難な事もあつたと思われるが、大した事は無い、などの偽の情報に 接したのか、援軍派遣を阻止する敵の策略に嵌ったのか、日本は、援軍派遣を 一旦中止し、待機させたのである。
その後、尼港の情報は入らなかった。ここが日本の一番悪いところである。
連絡が途絶えれば、何かがあったと解釈するのが当たり前で、国益、国民の安
全を第一と考えれば、国際世論など気にせず、すぐ駆けつけ、国民の生命と財 産を護り、救助するのが当たり前である。
一方、尼港では、情勢が激変した。何しろ相手は、赤軍過激派、共産ゲリラ、
ロ・中・朝の騙し屋グループである。
2月24日、過激派軍から、休戦を提議してきた。守備隊長がこれを受け入れ、
28日交渉がまとまった。
ところが尼港に入った過激派は、協約を全く無視して、反過激派を投獄、虐殺し
始めた。そして、労働者を集めて強制的に軍隊を編成して勢力を拡大した。
虐殺を恐れた者は、共産・過激派に取り込まれていった。
敵は、一転して日本軍撃滅の準備を進めたのである。
3月11日、赤軍・共産・過激派は、逆に守備隊の武装解除を要求してきた。
守備隊長は、機先を制して、過激派の企図を粉砕する決心をして、12日午前
2時、過激派の主要拠点を急襲した。しかし、敵の共産過激派勢力は、いつの 間にか遙かに多勢、優勢となっていて、激烈な市街戦となり、戦況は逐次不利 となり、大隊長以下殆どが戦死した。日本の石田領事一家は全員自決した。
市内の日本居住民は、老若男女、老幼婦女の殆どが虐殺された。
兵営では、傷病者及び非戦闘員47名を含めて、約百名が防御配備につき、過
激派の猛攻を阻止して、交戦すること四昼夜、見事兵営を死守した。
正面からは勝てないと思った共産ゲリラ過激派は、守備隊に休戦を申し出た。
守備隊は、それを受け入れて戦闘行動を停止した。すると、卑怯にも赤軍過激 派は、直ちに守備隊を取り囲み、守備隊の武装を解除して兵営に居た者全員を 監獄に監禁した。
時は3月15日、ここに尼港は完全に共産喜劇ゲリラに占領された。
そして虐殺と掠奪が続いた。
4月13日、旭川弟27聯隊の多聞大佐は、尼港への出動命令を受けた。
4月16日、派遣隊は、小樽港を出発、北樺太西岸のアレクサンドロフに上陸、
前進の機を待った。
5月7日、津野一輔少将の指揮する「北部沿海州派遣隊」が編成され、尼港派
遣隊は、「多聞支隊」と改称した。
5月12日、「多聞支隊」は、アレクサンドロフスクを出帆、樺太対岸のデカストウ
リに上陸、峻難な悪路を踏破して北上した。
同時に、ハバロフスクから弟14師団の国分支隊が黒竜江を下航した。
5月25日、両隊は、尼港南方約130キロのキジ部落で合流、寡少の過激派
軍を撃破しつつ、進軍した。
6月3日、多聞支隊がついに尼港に進入した。
6月4日、津野少将の派遣隊も海路を北上して、尼港に上陸した。
日本の救援隊が尼港に辿り着く、その10日前、尼港を占領した過激派軍は、
日本軍の来襲にたいする準備をしていたが、もとより彼らは、信念の無い烏合 の衆、ついに彼らは尼港を放棄して逃げ出す事を決定した。
そして、日本の救援隊が尼港に入る10日前の5月25日、それまで監禁して
生き残っていた日本軍人、そして、反過激派の人民達を全て惨殺、掠奪して、 市内の建物全部を焼き払い、西方のアムグン河谷の森林地帯に逃走したので ある。
6月3日、日本軍が尼港に進入した時、全市は満目荒涼とした焼け野原と化し
惨憺たる光景を呈していた。
日本軍は、折角救援に向かったのであるが、ただの一人も救出出来ず、恨みを
呑んで虐殺された屍体を見出すのみであった。
尼港に入った救援隊は、先ず同地の警備、遺棄屍体の供養、兵器弾薬の押収
そして、山奥に逃げていた帰来住民の処理をなすとともに、破戒された尼港付
近の諸調査、整理などの対策を講じた。
7月末、派遣隊は、命により、アレクサンドロフスクに退却、新たにサガレン州
派遣隊が編成された。司令官に児島惣次郎中将、参謀長に津野少将、多聞大 将は高級参謀となった。
尼港事件、及びにその救出作戦は、外地に於ける居留民保護が、国際的に、
地理的に、作戦的に最も困難であることを示すものであることを知らせている。
尚、過激派は、赤軍系パルチザンと韓人牧師朴エルリアが組織した「サハ
リン部隊」とが連合したものであった。日本人7百数十名の他、裕福な善良 なロシア人5千人以上が虐殺され、掠奪され、街は素経て焼き払われた。
いつの時代にも、憎っくき過激派・共産党の通った跡には、虐殺と掠奪が
続き、その後、市街が焼き払われ、荒涼荒野と化すのである。
2,南 京 事 件
1927年(昭和2年)、約2百人の中国人兵士と、女子供を含む数百人の中国
人の一般人暴徒により、各国の領事館が襲撃され、暴行、銃撃を受けた。
この襲撃により、日本人、米人、イタリヤ人、フランス人、デンマーク人が各1人
イギリス人2人が死亡した。
暴行、掠奪は、悲惨を極めた。掠奪は、床板(ゆかいた)、便器、空瓶にま
で至り、中国人たちは、跡形もなく、持てる物全てを持ち去った。
この時、日本は完全無抵抗を貫いたが、米英は、軍艦から砲撃した。
この事件は、コミュンテルンの陰謀であったことは国際的に認知されてい
る。
北京のソ連大使館を捜索したところ、クレムレンからの「指令」文書が発見
されたのである。
それ故、この「南京事件」で、イギリスは、ソ連と断交した。
この事件について、中国が刊行する歴史書では、「・・・・・米、英、日などの
帝国主義は、狂ったように南京城を砲撃し、中国軍・民二千人余りを死傷さ た・・・」となる。これが、騙しの国家中国の実体である。
3,済 南 事 件
1928年(昭和3年)、中国兵による掠奪陵辱暴行殺人事件。
掠奪被害戸数136戸。被害人員約400人。
尚、済南病院での日本人被害者の検死結果の一部は次の通りである。
但し、余りにも悲惨な状況なので、被害者の姓名は分かっているが、明かさな
いこととする。
F氏・・頭と顔の皮を剥がされ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除。
S氏・・顔面に刺創、地上を引きずられ全身に擦創。
T氏・・両手を縛られて地上を引きずられた形跡があり、頭骨破砕、小脳露出、
眼球突出。
T嬢(24歳)・・全顔面及び腹部にかけて、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に約2センチ平方の木片が深さ27センチ突刺てあり。
両腕を帯びで後手に縛られて、顔面、胸部、乳房に刺傷、助骨折損。
N氏・・左脇腹から右脇にかけて貫通銃創。
I 氏・・顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
M氏・・胸部貫通銃創。肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。陰茎切除。
T氏・・頭部にトビロ様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて
小腸露出。
N氏・・顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。
T女・・助骨折創。右眼球突出。全身火傷。左脚の脛から下が脱落。右脚の白
足袋で婦人と判明した。
この他、二体は人定不可能・・顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断されてい
て、人定は不可能であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シナ人による虐殺は、何処で起きた事件も悲惨極まりない。
日本人なら考えられない奇怪無惨な殺し方をする。戦争であるから、武器を持
っの戦いはある。しかし、日本人は、武器を捨てた者や一般人は、理由がなけ れば殺さない。
ゲリラは軍服を脱ぎ、便衣服に着替えて、軍人、一般人に拘わらず、寝込み、
または、後ろから襲ってくるのである。卑怯きわまりない。
また我が皇軍は、虐殺や掠奪は禁じられているので行わないが、彼らはむしろ
掠奪が目当てで虐殺するのである。
弱い者、傷ついた者、そして手薄の時を狙い、襲い、掠奪のために虐殺するの
である。
優勢者にはペコペコするが、一旦劣勢に転じると真っ先に裏切り、襲いかかり、
掠奪を始める。
敗戦時、満州などで、それまで日本の会社で働いていたシナ人などが、日本の
敗戦を知った途端、棒などを持って会社や日本人の家を襲い、虐殺、掠奪を繰 り返したことと全く同じである。
「南京事件」では、軍人、ゲリラだけでなく、一般人から、女、子供まで掠奪を始
めたのである。
他の者が掠奪する前に、少しでも早く良い物を手に入れようと掠奪を始めるの
が彼らの考え方である。
中国人、朝鮮人による掠奪は、敗戦時、日本国内でも起きたのである。
終戦間際、米国の卑怯極まりない、日本縦断、無差別、爆弾投下により、日本
の主要都市は全て焼け野原とされた。
一瞬にして、駅前や市街、繁華街が焼かれ、一家が全滅した。そんな焼け跡に
住み着き、その土地をそのまま自分のものにしたのが在日の連中である。
それで、彼らは戦後、駅前、市街地、繁華街などの一等地に住み着き、そんな
者が多くいたのである。
4,通 州 事 件
1937年(昭和12年7月29日)、通州で日本人が大虐殺された。
蘆溝橋事件から三週間後の7月29日の未明、北京から東12キロの通州で、
中国兵による日本人大虐殺事件が発生し、二百数十名の日本人、婦女子が見 るも無惨に虐殺された。
通州は、親日的な冀東(きとう)防共自治政府が置かれ、長官は殷汝耕と言い
彼の妻は日本人だった。通州は、非武装地帯境界線上にあり、当時は通州は 日本人にとって最も安全な街だと思われていた。
日本軍は通州を兵站(へいたん)中継地として利用、居留民と共に滞在してい
た。
冀東政府は、冀東保安隊(約9000人)を持ち、雑軍の集まりであった。
その保安隊の一部が敵軍の蒋介石軍と通じていた。蒋介石軍は、負けて北京
から既に逃走していたのだが、偽の煽動放送を盛んに放送していた。
その偽の情報を聞いて、勝ち馬に乗ろうとした保安隊が、突如反乱を引き起こ
し、冀東政府要人、並びに日本人顧問を殺害、そして、約260人の日本人居 留民に襲いかかり惨殺した。当時の通州には日本兵の殆どは出動して居なく、 留守をあずかる110人の守備隊兵力しかいなかった。
日本は、友軍の保安隊に裏切られたのである。見るも聞くも野蛮極まりない。
シナ人独特の奇怪な惨殺により、一般人を含む日本人が虐殺されたのである。
正に誠意もクソも無い、騙しの中国、騙しのシナ人に相応しい裏切りの虐殺事
件であった。
それ故、通州事件は、弟二の尼港事件と言われている。
保安隊の反乱は、未明の3時頃に起こった。
急襲された特務機関は全滅した。
特務機関には、軍人2人、機関員が9人、給仕が2人、客が1人いた。
保安隊は、小銃、軽機を乱射し、青竜刀を振り回し、次々と日本人の寝込みを
襲った。
異変に気づいた機関長の細木中佐は、すぐに冀東防共自治政府に駆けつけた
が、しかし、政府庁舎は既に保安隊に制圧され、日本人4人が惨殺されてい た。
細木中佐は、門前で阻止され、車を降りたところで保安隊に胸部を拳銃で撃た
れ、頭上に青竜刀が振り降ろされた。
その頃、警察分署では、5人の巡査と一緒に住んでいたその家族がほぼ全員
殺された。浜田巡査の夫人だけが生き残った。
彼女は、向かいの家の火災で目が覚め、異変に気づき、5歳の長男と2歳の長
女を抱き抱え、押し入れに隠れた。乱入してくる保安隊の銃声や怒号を聞きな がら、布団をかぶっていたが、突然2歳の長女が泣き出し、気づいた保安隊員 に手榴弾を投げこまれた。
轟音と共に長女は吹き飛び、長男は、大腿部の肉をえぐられた。
保安隊員は、泣き叫ぶ長男を引き離し、夫人を銃剣で刺し、室内を掠奪した後
彼女を北門内の女子師範学堂に引き立てた。
彼女は、隙を見て逃げ出し、何とか自宅に戻ると、長男は、母のあとを追おうと
したらしく、床に血の跡を引いて絶命していた。
旭食堂では、女性5人が射殺、または刺し殺され、男の子一人が足をつかま
れ、壁に打ちつけられ、頭骨を粉砕され殺された。
午前4時頃、敵の保安隊は、日本の守備隊を攻撃した。
日本の守備隊と自動車隊は、南から営庭に入ってくる保安隊に応戦した。
午前9時頃、保安隊は、東北2百メートル離れた満州電電から野砲4門で砲撃
を開始した。守備隊には火砲が無かった。反乱軍の保安隊の為すがままに、 日本の守備隊の兵舎は、次々と破壊された。守備隊は、30人余りの戦死者を 出すが辛うじて守り抜いた。
午前9時頃、旅館兼料亭・近水楼が襲撃された。
当時19人の宿泊客がいた。
そのうちの一人である同盟通信の特派員安藤利男氏が手記を残している。
襲撃は、最初黒服の学生らしき集団で、女中4人を拳銃で射殺し、掠奪の後
引きあげた。
次に保安隊が現れ、掠奪を始め、天井裏に隠れていた男女11人の宿泊客を
発見、金品を奪った後、数珠つなぎにして北門付近の銃殺場に連れ出した。
そこには、80名から100名の日本人が連行されていた。
城壁の前に並ばされ、処刑される寸前、安藤氏は、崩れた城壁を駆け登り、城
外に転がり落ちた。後方では残りの人達を射殺する銃声が響いた。
安藤氏は必死で逃げ、8月1日に北京にたどり着いた。
午前11頃、敵の保安隊の砲弾が、守備隊の営庭・東南角に積み上げていた
ガソリン缶2500個に命中、大爆発を起こし、火柱と黒煙を噴き上げた。
この黒煙に気づいた日本軍の連絡機が飛来し、確認の後、北に飛び去っ
た。
12時頃、今度は弾薬を満載していたトラックに砲弾が当たり、17台のトラック
が誘爆し続けた。
午後4時頃、連絡機の知らせで、河省承徳から日本軍機10機が駆けつけ、
保安隊を空爆した。
これにより、反乱を起こした保安隊は、攻撃を止めて、冀東防共政府長官
の殷汝耕を拉致し、ラジオで聞いた情報をもとに、勝利しているという北京 に向かって移動した。
トラックの弾薬の爆発に驚き、日本軍の援軍が来たと勘違いして逃げ出し
たという説もある。
無抵抗の日本人居留地の一般民は悲惨であった。
日本人104人(うち政府関係者80人)、朝鮮人(当時は日本人であった)108
人(朝鮮人は殆どが醜業婦、アヘン密売人)が惨殺された。
翌日の30日、寝返り、通州の日本人を虐殺した保安隊が、北京に着いた。
しかし、ラジオの情報は嘘で、シナ軍は実は敗北して逃げたことを知る。
慌てた彼らは、シナ軍の後を追って移動する。その途中、日本軍と遭遇すると、
謀反の張本人であり、指揮官である張慶余、張硯田の二人は、軍服を脱 ぎ、便衣服に着替えて、部下を捨てて逃亡してしまったのである。
弱み、寝込みを多勢で襲い、考えもつかない虐殺、掠奪を繰り返し、いざ
正々堂々の戦いになると、軍服を便衣に着替えて、部下を放り出して逃げ 出す。これが彼らの常套手段である。
30日の朝、ようやく日本の第二聯隊が通州に到着した。しかし、その余り
にも惨い惨状に唖然とした。
当時の新聞などのキジを見ると、状況がよく分かる。
保安隊は、在留日本人に対して、掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽
くした。シナ兵特有の猟奇的な殺害、処刑が白昼堂々と各所で展開された。
その凄惨さは、かって南京・済南両事件を上回り、尼港事件の再現となったの
である。
事件を伝える新聞は、「比類なき鬼畜行動 ・恨みは深し!・世紀の残虐・呪い
の通州」などと強烈な言葉を用いたが、いささかの拡張もないものであった。
四日後の8月2日、外務省の情報部長の公式声明
事件が起きたのは7月29日午前4時頃、3千人ほどの通州保安隊が110名程
の日本軍守備隊兵営を包囲し、日本人の商店、旅館、民家を急襲した。
通州の日本人380名の内、約200名が惨殺された。漸く難を免れた者は、日
本軍の兵営に逃げ込んだ120名だけであった。
8月4日の外務省情報部長談話
「シナ人は、婦女、子供をも共に全日本人を虐殺せんと企てた。夫人の多くは
掻きさらはれて、24時間虐待酷使された後、東門の外で殺されたが、そこまで 連れて行かれるには手足を縛られ、或いは鼻や喉を針金で突き通されて、引き ずられたのであった。
死骸は、近くの池にぶち込まれ、或る者は、強力な毒物を塗りつけられて、顔が
づたづたになっていた」
これは、戦時国際法に対する重大な違法行為であった。
外務省情報部長は、事件から四日を経て、公式にシナ兵の日本人虐殺・強姦・
掠奪を批判したのである。
(戦後の東京裁判において、日本の弁護団は、通州事件について、外務省の
公式声明を証拠として提出しようとした。が、ウエッブ裁判長によって、その申し 出は却下された。この事件に触れると、日本悪しの裁判が成り立たなくなってし まうという判断からである。
外務省の公式声明は、却下されたが、虐殺現場を目撃した証人の宣言口述書
は受理された。
証人とは、事件の翌日、7月30日に通州に急行したシナ駐屯歩兵第二聯隊長
などであった)
では、その口述書の一部を紹介する。
「旭軒では、40歳から17、8歳までの女7,8名がみな強姦され、裸体で陰部
を露出したまま射殺されていて、そのうち4,5名は陰部を銃剣で突き刺されて いた。
商館や役所に残された日本人男子の屍体は、殆どすべてが、首に縄をつけて
引き廻された跡があり、血潮は、壁に散布し言語に絶したものだった」
「近水楼入り口で女将らしき人の屍体を見た。足を入り口に向け、顔だけに新
聞紙がかけてあった。本人は相当抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされた らしく、上半身も下半身も露出し、4,5カ所銃剣で突き刺した跡があった。
陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は、足の踏み場もないほど散乱し、掠奪の跡を様々と示してい
た。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの屍体があり、全員もがいて死んだ ようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは、局部を露出し、上向きに なっていた。
帳場配膳室では、男1人、女2人が横倒れ、或いはうつ伏し、或いは上向いて
死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣のよう だった。
女二人は、何れも背部から銃剣を刺されていた。
階下座敷に女の屍体2つ、素っ裸で殺され、局部を始め、各部分に刺突の跡を
見た。
カフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。
カフェーの裏の日本人の家では、親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を
揃えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあった。
その胸部の骨が露出して、内臓が散乱していた」
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の屍体が横たわっていた。
ある飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は、14,5歳以上は
全部強姦されていた」
「旭軒という飲食店に入ると、7,8名の女が全部裸にされ、強姦、射刺殺され、
陰部に箒を押し込んで、ある者は口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割 られた者など、見るに堪えなかった」
「東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通
し、一家六名数珠つなぎにして、引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんでい た。その池の水は真っ赤に染まっていた」
「夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか?』と、叫んで各戸ごと
に調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部 を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこらの塵箱の中やら、塀の陰から出て来 た」
シナでは、生きたまま人の皮を剥ぐとか、あるいは手足を切り落とす、または、
腹を割いて石ころを詰める、というようなことが言われている。
日本人からすると到底考えられない猟奇的な話しであるが、この証言を読むと
納得せざるを得ない。
この「通州事件」は、全く狂気にみちている。組織的、計画的に民間人を虐殺し
た。中国には日本を責める何ものもない。
この事件の背後には蒋介石の特務機関「軍統局」と共産党の策謀があったとさ
れる。
こうした虐殺は、現地の日本兵を始め、全日本人を激怒させた。
日本では、これまでも戦いを仕掛けられても不拡大の意思を貫いてきた。が、
「通州事件」は、膺懲支那(ようちょう=外敵を討伐する)の機運を盛り上げ、漸 次、全面戦争への誘因にもなったと云える。
事件当時、通州は、日本人にとって最も安全な街であった。
冀東(きとう)防共自治政府の長官の殷汝耕は、日支提携協力論者として強い
信念を持ち、冀東政府は親日性格が強かった。従って、日本政府も冀東政府 の保安隊を信頼していたのであった。
しかし、日本人襲撃は、前々から計画されていたようである。
7月の16,17日ころ戸籍調査のようなことを行い、日本人の動向を調べていた
のである。
また襲撃に先立ち口実を設けて日本人を城内に集め、門を閉ざし虐殺におよん
だ。電話線は切断されていた。
また、保安隊が掠奪した後、一般シナ人も掠奪を始めるというお約束どおりの
展開となった。
30日、保安隊の手から日本軍に身柄が移った殷汝耕は、天津の憲兵隊本部
に送られ尋問を受け、責任の所在を問われた。
約半年の訊問の結果、彼は無罪放免となった。
反乱を起こした兵隊が日本人を虐殺した、というが、その兵は彼の配下の部下
である。本来は、罪を受けるところであるが、日本の偏らない裁判は、彼を無罪 としたのである。
その後、冀東政府は、犠牲者に慰籍金と日本側に損害賠償金を交付すること
として、正式に解決した。
また、霊を慰めるため、長官の殷汝耕と冀東政府は、大慰霊塔を建立した。
殷長官は、この事件を機に政界を引退した。
しかし、日本の敗戦後、支那の国民党は、彼を捕らえ、処刑した。
中国らしいやり方である。
この事件を中国の国民は全く教えられていない。
中国抗日戦争図詩という本には、「通州保安隊長率いる2万人の兵士が寝返り
漢奸・殷汝耕を捕虜にして傀儡組織を破壊し、日本軍守備隊及び浪人を500 人殺す」とある。
勿論、日本の民間人の寝込みを襲い、虐殺した事など微塵も書かれていない。
謀反を起こした兵隊は、3千人なのに、2万人とし、虐殺した人数も2倍にして
いる。
また、平成13年8月に「通州事件」の慰霊碑と見られる石碑が発見されている
が、「北京日報」の伝え方は、次のようなものである。
「またも日本軍の中国侵略の鉄の証を発見」
「我が抗戦の軍民により、日本の侵略者を打ち倒した」と説明している。
つまり一般居留民の大量虐殺、掠奪には一切触れず、日本傀儡部隊に対する
正義の反乱としている。
この慰霊碑は、日本軍の侵略の証ではなく、シナ軍・シナ人による日本人
虐殺の鉄の証なのである。「北京日報」は見事にすり替えたのである。
これを見た中国人も日本人も真相を知ることなく、中国の騙しのテクニックに見
事にひっかかっているのである。
歴史の認識どころか、全くの歴史の歪曲である。
こうして日本の自虐史観は、中国・韓国の嘘の反日史観によって作られて
きたのである。
現在、日本の企業は、中国に進出し、中国経済に大きな貢献をしている。
このことは、今も昔も同じである。中国が発展しているうちはよいが、何かが狂
い、日本人が虐待されたとき、どうするのであろうか。
例えば、当時の中国の日本に対する一連の挑発は、米国の鉄道王ハリソンが
満鉄が欲しくて、日本を中国から閉め出す意図からの策応が始まりである。
当時日本は、戦争を拡大しない努力をしていた。その日本に向かって、中国が
戦いを仕掛け、そのやり方が、蚊やハエのようにしつこいので、それをはらう程 度であったのである。それなのに、米国は、更にハルノートなるものを突きつけ 一切の財産を放棄して、日本人は、中国から即く立ち去れと言って期限を切っ てきた、今の状態と全く同じである。企業も人も中国に根付いているのである。 そう言われたら、日本はどうするのであろうか。
当時の日本は、一生懸命外交努力をした。しかし、相手が戦争を最初から望ん
でいるので、どうしても解決出来ない。そのとき、日本は、全財産、全企業、そ の他全ての財産を放棄して、中国から逃げ帰るのであろうか。東南アジアから 資源を輸入しなくてもやっていけるのであろうか。
そんなことは出来るはずがない。資源の無い日本は、資源を禁輸されたら、沈
むしかないのである。
日本は、沈む前に真珠湾を攻撃するしか道はなかったのである。
ルーズベルトは友人との夕食時に、明日日本が攻めてくると言っていた。真珠
湾には、爆撃を受けても良いオンボロ船艦を集めていたのである。
そして、日本が真珠湾を攻撃せざるを得ない状態に追い込み、攻撃することを
解っていて準備をし、実際に攻撃すると、米国は、日本に攻めてくるのでなく、 ルーズベルトは、即、ヨーロッパ戦線に向けて戦闘機を発進したのである。
ルーズベルトは、自国民の米国人をも騙し、イギリスのチャーチルの要請に応え
たのである。日本はスケープゴートされたのである。
そんなことも知らず、日本人でありながら、日本人を責める自虐史観は、戦後六
十年にして未だ、敵の策略の中にいるに等しいのである。
実は、この「通州事件」には、知る人が少ない、興味深い話しがある。
日本の居留民に対して、シナ人たちは、自分の娘たちを働かせて金を稼がせて
いたという。最初は簡単な手伝いの様なことをして、文房具を買うくらいの小銭 を稼いでいたようだ。しかし、シナ人が望んでいたのは、そんなことではない。
身を売る商売を望んでいたという。しかし、日本人は誰も相手にしなかったので
現地のシナ人ともめていた。シナ人の要望でしかたなく、居住区の外にそういう 店を出すことを許可したのだが、日本人は、誰も近づかなかったという。
シナ人は怒り出して、日本人を陥れるために、ある策を考え実行したのである。
即ち、日本人が近づかないことを腹いせに、「日本人が、その店(売春宿)に鍵
をかけ、女たちを一人占めしている」というデマを流し、それを保安隊(シナ人) に訴えたのである。
これを真に受けた保安隊が銃を取ったのが始まりであるという。
蒋介石が勝利したという、頻繁なラジオ放送による蜂起の煽動指令に、シナ人
(保安隊)は、デマとも知らずに、それに乗る気でいたのである。
勝ち馬になびくのが彼らのあり方であり、簡単に寝返り、裏切るのである。
その上、留守をあずかる日本の守備隊は今は手薄である。
そんなところに、日本人が店に鍵を掛けて、女を独り占めにしているという陥れ
のデマの情報が加わり、掠奪のチャンスと思い、一部の保安隊が裏切り、暴徒 と化したのである。
こうなれば、掠奪は早い者勝ちである。
掠奪するために虐殺するのである。
これは、過去に彼らが行ったどの「日本人虐殺事件」にも共通して見られること
である。否、日本人に対する虐殺に限ったことではなく、彼等は、掠奪となると 何でもする民族といえる。
続く
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