「「「「「 「慶応大女子院生が7階から飛び降り」事件と七戸克彦教授(その1)う |
けだいが大学当局はひた隠しくいおい |
””「慶応医学部」がひた隠すセクハラ破廉恥事件””などという前回のページを書いたりしていますと、自然と、このHPの冒頭でご紹介しました「慶応大女子学生がエリート助教授の目前で飛び降り自殺」という週刊文春の記事を思い出さざるをえません。慶応義塾というところは、その頃から、少しも変わらないイカサマ大学です。
あの記事も「大学当局はひた隠し」という副題がついていました。
冒頭では、あえて詳しくは書きませんでしたが、今回ここに全文を手を入れることなくご紹介することとします。と言いますのは以前「キャンパスから最も近いのは東京都立三田病院だった・・・」と引用したら、どこかのサイトでそんな病院なんてないよ」などと書いているのを偶然目にしたことがあったりしたからです。私は地名からして当然本当にあるだろうと思っていましたし、また今でも実際にあると思っています。これは私が言っているのではなく、週刊誌に書いてあるままなのです。
また週刊誌は散逸し、図書館でも見るのが難しくなってきたと思いますので、この週刊文春の記事を資料として皆様の手元に置いておくのも、お役に立つものと確信するからです。慶応の先生がどういう人たちか、また慶応という所がどういう所なのかということが良く理解していただけると思うからです。
以下の文は週刊文春からの正確な引用です。「週刊文春」にはお礼申し上げます。
白昼、慶大キャンバスで、ひとりの女子大学院生が七階研究室から身を投げた。問題の研究室には数年にわたって彼女との恋愛関係を取り沙汰されていたエリート助教授がおり、しかもなぜか、大学側は、事実をひた隠しにしてきた。706号研究室で何が起きたのか!?
話は春休み中の三月十八日に溯る。午後三時頃、青色のワンピース姿の女性が研究室棟前にある植え込みに真っ逆さまに突っ込む”転落事故”が発生した。
その瞬間をたまたま目撃したある教授によると、
「表玄関まで客を送って戻ろうとしたら、パッと何かが落ちてきた。まるでスローモーションの映像を見ているような感じで、二本の脚がヌッと見えました。ショックでした」
前夜の雨で植え込みの土はやわらかかった。が、ドスンという不気味な音は研究棟にいた何人もが耳にし、やがて十数人の大学関係者が遠巻きにした。
大学からの通報で地元の芝消防署三田出張所の救急車と警察庁三田署のパトカーがほどなく駆けつける。救急車は女性を乗せ三時二十六分、大学を出た。
キャンバスから最も近いのは東京都立三田病院だった。ところが、同乗した大学関係者の指示で、救急車はわざわざ新宿区信濃町にある慶応義塾大学付属病院に運ばれ、三時四十二分、病院に到着したが、女性は助からなかった。
”転落死”したのは、慶応義塾大学大学院法学研究科一年の山田緑さん(仮名=23)だった。
山田さんの”転落死”は、しかし、その直後から、”交通事故死”として処理される。
<あの時、山田さんはルイ・ヴィトンのバッグをさげ、山ほどのコピー資料を抱かえていました。研究棟玄関から一気に敷地内の道路に飛び出したところへ車が通りかかり、ハイヒールをはいていた緑さんは仰天し、転倒して後頭部を強く打って死亡した>
大学側と緑さんの両親はこの説明で処理しようとした。二十日には、緑さんの葬儀が東京・信濃町の教会で執り行われたが、列席した学生や教職員はもちろん、緑さんの親族や近所の人たちも同じ説明を聞いている。
4月19日には、法学部の教授会で緘口令が敷かれた。
事実は、山田さんは覚悟の上の飛び降り自殺だったのである。それも研究棟七階706号室の窓から教官の目の前で飛び降りるという異常なものだった。それがなぜひた隠しにされ続けたのか。
机に残された二通の遺書 |
その謎を解く大きな鍵は、706号室にあった。
七畳ほどの広さしかないこの研究室は、大学学部時代に山田さんのゼミ指導をした七戸克彦助教授(31)=四月一日付けで昇格、当時は専任講師=と、もう一人のK専任講師が共同で使っていた。
山田さんが自殺した時、その狭い「密室」の中に七戸助教授とA子さん(法学研究科二年)、B子さん(同一年)の三人がいたことが確認されている。
関係者の証言を総合すると、七戸助教授が山田さんと一緒に706号室に入ったのは午後一時過ぎ。その日は週1回開かれるドイツ語原書講読の勉強会があり、A子さんとB子さんはすでに706号室で七戸助教授を待っていたという。
山田さんは、この勉強会のメンバーではなかったが、「コーヒーを飲んでいく」といって帰ろうとしなかった。入口ドア近くにあったテーブルを囲み、三人だけの勉強会が始まった。
706号室の間取りは、入口ドアを入った部屋の真ん中あたりに長机があり、南側の窓の方に隣り合わせで七戸助教授と、K専任講師の机がある。山田さんはK専任講師の椅子に坐り、しばらくコーヒーを飲んでいた。
山田さんが飛び降り自殺した後、机の上には三月十八日付けの遺書二通が残されていた。
この遺書が何時頃書かれたのかは分からないが、横書きのメモ用紙に黒色サインペンが使われていた。
「一通目は、"本は後輩に上げて下さい。・・・パパ、ママ、ごめんなさい。七戸先生ごめんなさい”という主旨の遺書で、メモ用紙をビリッと破って握りしめたのか、クシャクシャになっていた。もう一通は、”パパ、ママ、どうか許して下さい。・・・・何もかも疲れてしまいました・・・・七戸先生のところにいたかったのに”というようなことが書かれ、署名とともに真っ赤な拇印が押されていた。
そして、最後に”遺言”のような感じで本を後輩に譲ること、さらにパソコン(注・自宅にあるNECパソコン)を七戸先生へプレゼントしたいという但し書きがあった」(捜査関係者)
遺書を認めた後、山田さんは自殺の準備にとりかかる。
ある院生の証言
「緑さんは、はめていたネックレスと時計を外してK専任講師の机の上に置き、次に細いヒモで足首をしばり、スカートが開かないよう、すその辺りを結んだようです」
この後、山田さんは靴を脱ぎ、窓から飛び降りた。
多くの大学関係者が首をひねるのは、七戸助教授ら三人がこの時、どうして山田さんの不審な動きに気づかず、自殺を止められなかったのか、という一点である。
三田署の事情聴取に対し、三人は「ドスンという音がするまで緑さんの自殺には全く気づかなかった」と供述している。三人はテーブルを囲んで勉強会に夢中だった。七戸助教授はA子さんとB子さんに向い合い。。山田さんに背を向ける格好で坐っていた、というのだ。
三田署は、遺書もあり、飛び降りた状況から「いろいろ調べて犯罪につながるものは何もないから、自殺と断定した」(森田悦至三田署副署長)
しかし、大学関係者の間には三人の供述とは全く違う証言もあり、狭い「密室」内で何があったか、様々な噂が飛び交っている。
噂が入り乱れる理由は、七戸助教授と、山田さんのただならぬ関係にあった。七戸助教授は706号室から午後一時半頃、山田さんの母親に「お嬢さんは研究室にいます」と電話していた。その際、母親は「どうか緑の行動に注意をしてやって下さい」とわざわざ念を押したという。
母親がこの時「注意」してくれるように頼んだのは、以前から二人の間で結婚問題をめぐってゴタゴタが続いていたからだ。
そもそも二人が知り合ったのは、三年前のことである。
七戸助教授は国立大学教授の父を持ち、「将来は法学部を背負って立つ人材」と評され、学部内でも目立つ存在だった。異例の早さで専任講師となり、初めて自分のゼミを持つ。学部三年生となった山田さんは七戸ゼミの第一期生だった。
「七戸先生はゼミの皆の前で山田さんをひと一倍可愛がっていました。周りの人に冷やかされても全然二人の関係を否定しませんでした」(ゼミ仲間)
成績トップで大学院に進んだ山田さんは、七戸ゼミを卒業、勉学の上では七戸助教授の直接指導を受ける機会はなくなった。新しい指導教授の下で物件法(民法)の勉強に打ち込むのだが、そうなっても七戸助教授への思いは変わらない。
ところが、二人の関係は、山田さんが大学院に進んでからギクシャクし始めた。
「先生がワインを飲みながら指導するようなことがあり、それをいまどき珍しいぐらいに几帳面な性格の山田さんが注意したことがあった。
ささいなことでも、山田さんはきちんとケジメをつけないと気が済まない。そんなことが続いて七戸先生の気持ちが離れ、関係が次第に冷えていったんです」(山田さんの友人)
その頃、七戸助教授は山田さんの代わりに同じ大学院生のA子さんを可愛がるようになっていた、と三人を知る人たちは口をそろえる。
「七戸先生は山田さんの前で”俺はA子一本なんだ”と平気で言うこともありました。これは山田さんを遠ざけるための、一種のカモフラージュじゃなかったかとも思いますが、純粋で一途な山田さんは七戸先生のこういう一言一言を本気で受けとめるようなところがありました」(山田さんの知人)
昨年夏、山田さんはそれまで自慢にしていたロングヘアーをバッサリ切り、極端なショートカットに変えて周囲を驚かせた。本人はこの時”七戸先生に謝らせたい””七戸先生はジェントルマンとしてやるべきことをやっていない」と周囲に漏らしている。
すっかりこじれた二人の関係は、山田さんの死の直前までもつれにもつれていく。
自殺する二日前の三月十六日夜、山田さんは自宅から七戸助教授に電話をかけた。
「この時、山田さんは”この電話を一度切って、また私の方から電話をかけます、あなたが受話器をとってくれたら、それは結婚してくれるという合図よ”といって一度、電話を切ったそうです。
再び電話をかけると、七戸先生が電話を合図通りとってくれたから、山田さんはとても喜んだようでした」(山田さんの別の友人)
十八日深夜二時頃、山田さんはA子さんへ電話をかけた。ここでどんなやりとりがあったのかは不明だが、電話は明け方まで続き、山田さんは早朝、七戸助教授のマンションに足を運んだ・・・。
以上が自殺に至るプロセスの概要である。
息子は”交通事故だ”と |
なぜ七戸助教授が、山田さんの自殺を未然に喰い止められなかったかまでは問うまい。
問題なのは、この事件に対する七戸助教授と大学当局の姿勢である。
まず七戸助教授の事件後の行動はどうか。
大学関係者によれば、706号室はその後、閉鎖されることもなく、七戸助教授もこの研究室に出入りしているという。
三月二十八日からは、実家のある札幌市へ、通信教育のスクーリング講師として公務出張。
その際、札幌市内の実家にも立ち寄り、四月六日になって初めて山田さんの自宅へ出向く。法学部の米津昭子教授、内池慶四郎教授らが付き添っていた。
両親はこの時、七戸助教授の教育者としての責任を、問い質したという。
「母親が”七戸先生はこのことでどんな責任をお感じですか”と聞くと、七戸先生は”四月二日に辞表を提出しました”といって、米津先生の顔をジッと見た。すると、どういうわけか米津先生はうつむいてしまったといいます」(父親の知人)
何かおかしいと感じた父親は、本当に七戸助教授が辞表を提出したかどうか確かめようとしたが、結局分からなかったという。
七戸助教授の言い分を聞かねばなるまい。
”所在不明”の七戸助教授に代わって、北海道に住む父親(60)が語る。
「女子学生が亡くなったことは聞いてます。(息子に)しつこく電話をしてきたり、つきまとうようなことはあったようです。死んだあとも、(先方の)母親が半狂乱のような電話をかけてきましたよ。あれ(息子)ももう大人ですし、いちいち干渉しないようにしてます」
そこから先は母親が話を引き取った。
「結婚の約束?
とんでもない。”二人の仲”という言葉、気に入らないですね。そういう仲のはず、ありません。(息子が)付き合ってる女の子、いっぱいいますよ。学生時代から、女の子たくさん見ろ、一歩下がってよく見ろと育ててきたんです。深い関係の人はいませんよ」
「ノイローゼ気味だったんでしょ、その女の子。髪の毛切って振り乱してとか、半狂乱で、夜遅く電話してきたり、迷惑してるんです。だから息子は、”交通事故”だと思ってるかも」
死者を悼む気持などさらさらないらしい。
ならば学校側はどうか。慶大法学部長の堀江湛教授が、自宅で次のように答えた。
「七戸君によると、二人はいわゆる恋愛関係ではなかったし、肉体関係もないとのことです。七戸君は現在、”みなさんをお騒がせした”という理由で、自発的に休講している。
ただし、本人が辞表を提出したということも聞いていないし、口頭で辞意を表明したということも私の知る限りない」
・・・・706号室の三人が気づかなかったのは不可解ですが。
「勉強に夢中になれば、そういうことはあるんですよ。七戸君の報告を僕は不自然だとは思わなかった。ものの言い方もごく自然でした。事故直後の気の動転してる時に冷静にウソはつけないですよ。ウソなら僕にもわかるよ」
・・・・事態への対応が遅すぎませんか。
「学部でもできるだけ早く結論を出そうとしているが、個々人の授業などの予定があり、そんなに毎日は集まれませんよ。会社なら社長・役員・部長などと職制がハッキリしていますから結論も早いのでしょうが、私たちには時間がない。これでも優先してやっているんです」
・・・・学部内に真相糾明委員会が設置されたと聞いている。(山田さんの)両親はそれに期待をしているようだが。
「それはありません。おまわりさんの真似事はできませんよ。法学部は研究、教育の場。そのために研究室を学校から借りているのです」
大学側からも、悼む言葉はついに聞かれなかった。まさにその”研究・教育の場”で何が起こったのか、堀江学部長はお忘れなのだろうか。
最後にまったく正反対の発言を紹介しておこう。語るのは、内池慶四郎教授である。
「男女の問題はどこにでもある。永遠にある問題でしょう。どこまでが男の責任で、どこからが女の責任かというのは非常に難しい問題じゃないですか。教師といえども男だし、生徒といえども女なんですから。・・・・教師にとって生徒に死なれることほどの痛恨事はありません。やり切れない気持ちで一杯です。残念ながら私には、結局のところ原因はわかりません。第三者には誰もわからないでしょう。
しかし、生徒に救いの手を差し延べられなかったことは学校として深く反省すべきだと思います。学校の責任は重大です」
内池教授の言葉が慶応義塾大学の”良識”であることをただただ願うばかりだ。
以上が週刊文春の記事の全文です。
たしかに、この女子大学院生の態度は普通ではないようです。
しかし、この態度は単に、いわゆる一方的な片思い、恋煩いではないでしょう。
七戸氏がこの女性と何の関係も無いのなら、自分が履修していない授業に出て、「コーヒを飲んでいく」と言って帰ろうともしないなどという態度をとるということは考えられないことです。
「七戸先生はゼミのみんなの前で山田さんをひと一倍可愛がっていました。周りの人に冷やかされても全然二人の関係を否定しませんでした」(ゼミ仲間)というように、七戸氏は彼女に「おいしい話」をしてその気にさせておきながら、別の女性に乗り換えたわけです。教師が生徒とそのような、つまり他の学生にもわかるような関係になるのは好ましいことではないでしょう。しかし七戸氏が別の女性の方を好きになり、のめり込んだのも仕方がないといえば確かにそうでしょう。
とは言っても、この女子大学院生が失恋のため、別の場所で、つまり、船から飛び込んだり、清水寺の舞台から飛び降りたのなら、責任の一端はあるとは言うものの、仕方がないでしょうが、七戸氏の目の前で、たった七畳しかない部屋で、細いヒモで足首をしばり、スカートが乱れないようにと、すその辺りを結んで、飛び降りたのだということです。
これを七戸氏と新しい恋人のA子さんなど三人が全く気づかないなどというのは考えられません。次号で明らかになるように、この状態でヒータの上にのって飛び降りたのですから、ただびっくりというしかありません。
またこの女性の靴はヒータと壁のすきまに落ちていたため、なかなか見つからなかったというのです。
これは飛び降りる前にヒータの上に靴をはいたまま、登ったとしか考えられません。足を縛った状態で誰もに知られずに、ヒータに登れるでしょうか。窓を開けるにしても、ブラインドをあげるにしても、相当大きな音がするはずです。靴を落としたのならよけいに大きな音がしたでしょう。
もっとも自然に考えられるのは、この女子院生は「今から死ぬぞ」と言わんばかりに、先生に止めてもらうつもりで、遺書を書き、足を縛ったのでしょう。これを三人は止めもせず、「出来るものならやってみろ」とばかりに、冷ややかに見ていたものと思われます。
あるいは遺書を書き、足を縛ったのを良いことに、七戸氏は新しい恋人と協力して、投げ落としたのではないかと思われるぐらいです。靴はこの時脱げてヒータの裏に落ちたのかもしれません。
この事件が起こる前に、女子学生の母親は七戸氏に電話で「娘の行動にはくれぐれも注意してやって下さい」と念を押して頼んだのだと言います。勿論二人の間で結婚問題をめぐってゴタゴタが続いていたからだということです。
それだのに、この結果なのですから、七戸氏は、この女子学生を見殺しにしたと非難されても当然でしょう。
ところが七戸氏や慶応義塾当局が取った姿勢というのは、ご覧の通りの「むごいもの」です。女子学生を哀悼するような態度も見られず、言葉も聞けません。自分の息子を好きになったばかりに、亡くなってしまった院生のお嬢さんに対する情も七戸の両親の言葉からは一切聞くことができません。それどころか某国立大学の教授であるこの父親は「息子は交通事故と思っているだろう」という有様ですから驚いてしまいます。慶応義塾当局と同じなのですね。
現在この七戸克彦は慶應義塾で大学教授になり、研究会を持っています。URLは次の通りですが見に行くのも邪魔くさいでしょうから、以下に写しておきます。
http://www.zenjuku.net/souran.law.shitinohe.htm
七戸克彦研究会
<専攻分野>
民法特に財産法
<構成人数>
第12期生:15人
第13期生:11人
<活動状況>
1、本ゼミの日時・活動内容:出題された問題のレポートを作成のうえ、ディスカッション・解説。
2、サブゼミ:してもしなくてもよい
3、活動内容:ソフトボール大会参加、他大との合同ゼミ、インゼミ等各種
<ゼミ員からのコメント>
七戸ゼミの授業の方式はいたって簡単で、最初から最後までディスカッション形式で行います。今までの授業ではあまり行われることのなかった討論の練習を集中的に行うことで、社会に出たときにどの職業に就いたとしても必ず必要になる能力を向上させることができます。このような能力に自信のある人、もしくはこのような能力を身につけたいと考える人に、このゼミを特に強くお勧めします。このゼミの最大の長所は、なんと言っても先生自身です。自称”世の中のことを全て知っている”というくらい教養の幅が広く、面白い先生です。人間的にも個性豊かで面倒見のいい先生でもあり、学者としてだけでなく人間的にも、恩師として尊敬できること請け合いです。サブゼミ、飲み会等の課外活動はすべて自由で、サブゼミ・飲み会・各種大会等の拘束はありません。するもしないも全て自由、ということです。かといって全員がてんでバラバラというわけではなく、集まるときは集まるというメリハリのきいた雰囲気があります。その意味では、いい意味の“個人主義”が最も徹底されたゼミと言っていいでしょう。もちろん人並み以上の努力をすることが必要ですが、七戸ゼミでは全員が思い思いに充実した三田ライフをすごせること間違いなしなので、ぜひ七戸ゼミを検討してみてください。
これを見ると七戸先生なかなか評判がおよろしいようで結構なことです。
しかし「自称”世の中のことを全て知っている”というくらい教養の幅が広く、面白い先生です」というのはどうでしょうか。通常、教養のある人は「世の中のことをすべて知っている」とは自称しませんよ。
アメリカの子ども向けのフォークソングに「I Was Born About Ten Thousand Years Ago」つまり「俺らは一万年前から生きてんだぜ」とでも言う法螺唄(ヴァージョンによっては六千年前、になったり七千年前になったりしますが・・・)が有名ですが、この歌詞は「だから何でも知らないことは無いのさ」と主張するのです。
例えば「俺らはエデンの園をサタンが捜しているのも見たし、アダムとイヴが園を追われるのも見て知ってるぜ。繁みの後ろから、二人がリンゴを食べているのも見たんだ。何を隠そう、そのリンゴの芯は俺らが食べたのさ」
「エリザベス女王が俺らに惚れてしまったので、ミルウォーキでコッソリと結婚したんだよ」
「コロンブスにこの国を最初に教えてやったのも俺なのだ」
「ファラオの子どもたちのために、すべてのピラミッドをつくってやったのさ」
といったような内容の歌なのですが、他愛もないと言えば他愛ないですが、聖書や世界史を良く知らないと本当のユーモラスな歌詞の意味は良くわからないと思います。それゆえ私も、学がないので、いい加減な個所だけ引用しておきます。
この歌は坂本九の「幸せなら手をたたこう」のメロディと同じで、と言うよりメロディを提供した元歌なのですが、これはホラ話と皆知っているのですが、七戸先生は本気で言っているようですね。
何でも知っているかどうかは知りませんが、自分の教え子の女性、それも恋愛関係にあった女性が自殺して飛び降りるのを目撃して、知っている人はそれほど多くはいないでしょう。あるいは突き落としたというような体験を持つ人はそう多くはないでしょう。
それにしても、辞表を出した人がまだ教師をしているのですから、不祥事に巻き込まれるまでは授業料を払っていたのに、授業料を未払いという理由で除籍になった元学生から見れば、慶応というところは不可思議な所です。
それにしても堀江湛なる法学部長、人間性を疑いますね。こんな男が尚美学園大学の学長というんですから、学生もやる気をなくしますね。(ホームページは http://www.shobi-u.ac.jp )
そう言えば、辻村も七戸と同じく何でも知っていると思っていたのか、経済学は良くわからないという私に対して「俺様の本を読めばわかる」などとよく言っていましたが、その本が、あの「消費者行動の理論」だったのですから笑わせます