◎四高交流館1カ月 「名称変更」の威力まざまざ
今春オープンした「石川四高記念文化交流館」の入場者が、一カ月で石川近代文学館時
代の年間入場者数を超える約一万七千人に達したのは、四高という存在が格別だったことの証しだろう。「名称変更」の威力は予想以上ともいえ、学都金沢のシンボルが正当な評価を得て、魅力がさらに増した印象を受ける。
金沢経済同友会が二年前、石川近代文学館の名称変更を提言したのは、全国津々浦々に
ある「文学館」より、創立時には全国に五カ所しかなかった「ナンバースクール」の希少性に着目したからである。四高を差し置いて文学館を冠するのは「主客転倒」とした指摘は正しかった。私たちは、四高跡地の県中央公園の名称変更を提案しているが、金沢を特徴付ける「学都」というキーワードを大切にして、戦略的に使っていきたい。
装いを一新した交流館は、無料の四高記念館と有料の石川近代文学館に分かれており、
オープンした先月二十六日からの一カ月間で、来館者が一日平均五百六十五人に達した。黄金週間の期間中とはいえ、年間目標の六万人を軽々とクリアしそうな勢いである。
旧制高校は最終的に三十九校できたが、最も早い明治十九年開設(当時高等中学校)は
、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)しかない。このうち、赤レンガのノスタルジックな校舎が残っているのは金沢と熊本だけであり、両市はナンバースクールの伝統を最も濃厚に受け継いだ都市といえるだろう。
そんな貴重な建物が六八年に石川近代文学館として開館したのは、当時の文芸ブームを
背景に、三文豪など地元作家を紹介する必要性に迫られてのことだったが、三文豪にそれぞれ記念館ができて以降、状況は大きく変わった。
四高校舎から「四高」の名が消えると、ナンバースクールの歴史まで埋没していくのは
、避けがたいことだったのかもしれない。名称変更は、そうした記憶の風化を食い止めるきっかけになった。卒業生たちが次々と鬼籍に入るなか、四高の記憶を語り継ぎ、学都の誇りとしていくのは私たち地元の役目である。
◎アフリカ援助 自助努力を引き出さねば
日本が主導して横浜市で二十八日から始まった第四回アフリカ開発会議(TICAD)
の冒頭で、福田康夫首相は二十一世紀をアフリカの世紀としてアフリカへの思い切った援助を表明した。日本の援助は工場や農村で現地の人々と一緒になって汗を流す点で、マネジメント中心の欧米などと非常に違うといわれる。
国際協力機構(JICA)のメンバーらが、それこそ手取り足取りして人材を育成し、
自助努力を引き出そうとしているのだ。今後も自立心を育むことを目指して援助を進めてほしい。
福田首相が打ち出した援助構想もそれに沿っている。▽道路や港湾など交通インフラ整
備を目的に向こう五年間で最大四十億ドル(約四千百六十億円)の円借款供与▽成長のエンジンとなる日本からの民間投資を促進するために国際協力銀行に「投資倍増基金」を新設して行う二十五億ドル規模の金融支援▽医療・保健分野で十万人の人材育成や母子手帳の普及、水確保への援助―等々だ。
最終日の三十日には「横浜宣言」が採択される予定だが、これにはすでに一部の国で日
本の援助で進められ、成果を挙げている貧困撲滅の「一村一品運動」による地域おこしを有効とするなど、開発の基本方針が盛り込まれているという。
アフリカでは今も紛争がある。スーダンのダルフール紛争やエチオピアとエリトリアの
紛争だが、全体としては近年、紛争が減っている。豊富な金属、石油などの資源高騰が追い風となって経済成長が始まっており、「人口九億人のアフリカは歩き始めた」との評価もある。
折しもアフリカ内陸部のジンバブエ行きの中国の武器を満載した船が南アフリカの港で
荷降ろしを拒否されている。背後に米国の要請があるようだが、武器で釣るなどという手法は通らなくなってきたともいえる。
日本が呼び掛けた横浜市での会議にはアフリカ五十三カ国が代表を送り込み、うち四十
カ国以上は首脳の参加である。日本への、この期待を裏切ってはなるまい。