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朝鮮最後の皇太子が寂しい死 東京のホテルで心臓麻痺で

 東京・赤坂プリンスホテルの一室で、一人の男がこの世を去った。後継ぎもなく、夫人とも離婚した彼の最後を看取った者は誰もいなかった。

 死亡時刻(16日)も、死亡要因(心臓麻痺)も今となっては推定に過ぎない。“変死”に当たるため、彼の遺体は19日午前、日本の警察で司法解剖された。

 彼の名は李玖(イ・ク/1931~2005)氏。朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897~1970)と日本の皇族、李方子(イ・パンジャ/りまさこ) 女史(1901~1989)の息子だ。

 朝鮮王室の最後の皇世孫(王族の子孫)だった彼の死は、18日午後遅くに全州(チョンジュ)李氏・大同宗約院に伝えられた。

 従兄弟で、日頃、身の回りの世話をしていた梨本さんが18日に訪ねたところ、洗面所で李玖氏の遺体を発見し、宗親会に知らせたのだ。

 李玖氏の人生は激動の韓国近現代史と紆余曲折を共にした。

 1931年、東京で李玖氏が生まれた時、父は亡国の名前だけの王だった。生まれてすぐに、日本の皇室から“世子(世継ぎ)”と冊封(公式に認知すること)され、宗親会も李玖氏を「皇世孫(=皇太子)と認めた。しかし、これは李玖氏の人生に永遠に足かせとなる称号となった。

 日本で近代教育を受けた李玖氏は14歳で光復(韓国の独立)を迎えたが、帰国することはできなかった。執権者たちは、皇世孫の帰国を喜ばなかったからだ。

 李玖氏に手を差し伸べたのは、日本占領軍司令部のマッカーサー司令部だった。1950年、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)建築科に留学し、卒業後ニューヨークの建築設計事務所に勤務した李氏は、5年年上のジュリア女史と出会い、1958年10月、ニューヨークの教会で結婚した。

 李承晩(イ・スンマン)政権が崩壊した後、1963年に朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の助けで帰国した李玖氏は、母の李方子女史と一緒に昌徳宮(チャンドククン)・楽善斎(ナクソンジェ)に住んだ。ソウル大や延世大などで建築工学を講義をし、会社を経営したりもした。

 1979年に経営する会社が倒産し、李玖氏は「金を工面しに行く」と故国を離れ、日本に留まった。その渦中でジュリア女史との離婚(1982年)や、母の李方子女史の死(1989年)を経験し、その後は日本の女占い師と暮らした。

 そして李玖氏は1996年11月、「永久帰国」した。宗親会(一族の会)の総裁として実務も行い、宗廟(朝鮮王朝時代の歴代の王や、王妃の位牌を祭るところ)で開かれる大祭も主管した。当時、李玖氏は「私はもはや、王家と関係がない、個人、李玖に過ぎない」と常に語っていた。

 だが、李玖氏の「永久帰国」は長く続かなかった。神経衰弱も患っていた李玖氏は、故国の地に完全に適応することができず、日本と韓国を行き来して、日本の地で最期を迎えた。

 葬儀は9日葬で行われ、24日に出棺の予定だ。埋葬地は京幾(キョンギ)道・南揚州(ナムヤンジュ)市・洪陵(ホンヌン/高宗(コジョン)皇帝陵)後方にある英親王墓地(霊園)となる。

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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